遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

ctrlキーが壊れた。

 久しぶりにctrlキーを使おうとした。けど反応しなかった。何か変なコマンドでも入れてしまったかと思い、ググってみたが、どれにも該当しなかった。そもそもキーが壊れているのかもしれないと思い、右下のctrlキーを押すと反応した。純粋に壊れているのだった。
 ここ最近、というより就職してからパソコンを開く機会はめっきり減った。僕がパソコンを使うようになったのは大学生になった時からで、大抵開くのはレポートや卒論を書く時か、サークル活動をするときぐらいなので、その機会が減れば、当然パソコンを開かない。だから自然と言えば自然ではある。

 【八月に入ってから僕は朝五時に起きるようになった。ほとんど毎朝、この時間に起きる。それは二十二年と数か月しか経っていない僕の人生の中で最も大きな変化であると言っても過言ではない。
 まだ目覚め切っていない頭のまま、僕が最初に行うのはCBDオイルを使ったヴェイプで遊ぶことだった。寝転がったまま煙を吐いていると、少し気分が落ち着く。今日も頑張ろうという気持ちが湧いてくる。そしてベッドから這い出て、外に出てから煙草を吸う。大抵いつもここで気持ちが悪くなる。それが終わるとパンを焼き、コーヒーを淹れる。コーヒーで無理やり流し込み、あっけない朝食を終えると髭を剃り、髪の毛を整えて着替える。カバンの中身を確認して外に出る。そして憂鬱な一日が始まる。
 会社に着くまでマスクをつけているせいで汗が止まらない。会社に着くころには汗は止まっている。そして上司と煙草を吸う。そこで会社の愚痴を聞かされる。自分が「さしすせそ」を使っていることに気が付く。吐き気がする。
 営業に同行する。車内であの人は使えない、とか馬鹿だとか、でも人はいいとか、そういうことを聞かされる。でも下手にノリに加わると、そういうことは言わない方がいいと釘を刺される。気持ちが悪くなる。きっと、自分もそうなってしまう。
 帰宅すると飯を食べて一時間ぐらいyoutubeを見て眠る。そして朝五時に起きる】


 とまあ脚色をしたが、おおむねこんな感じで一週間が過ぎた。電車内では寝ているし、小説を読むことが難しい。そこまでの気力が残っていないのだ。工場に居た時は何も考えていないし、なにかを書こうとはしていたが書けなかった。本は読めたが。
 前置きが長すぎた。とにかく何かを書かないといけないなと思った直接的な理由は、日誌の文章が日記みたいだと言われたことだ。僕が大学時代にお粗末な物語(w)を書いていたことは会社の人にバレているので、それなりに期待していたのだろう。彼はどんな文章を想像していたのだろう。内容は同期と似たり寄ったりらしいが、文章が日記みたいなのは、どうやら僕だけだったようだ。それで、自分の文章は変なんじゃないかということを考えて、そうすると思い当たる節が出てくるもので(小学生の日記みたいだ)、でもそれが確かだとは言えないので、宙ぶらりんの状態であると認めたうえで、ならいっそ書けば、それが地になっていくんじゃないかと思ったので、こうして思った事を適当に書いている。
 そもそも文章を書いてきた人間の文章がどういった文章なのか僕も分からない。もし他人と比べての相対評価だとしたら、確かに小学生のような文章を書いている気がする。基本的に文章がうまいとは自分では思っていない。だから誰にでもわかるような小学生の日記みたいな文章だと、こっちが勝手に過剰に解釈することができる。というか日誌で誰にもわからない文章を書いてもしょうがないだろう。とてもモヤモヤする。もっとわかるように教えてもらえばよかった。「なんか日記みたいなんだよな」で終わったので、こっちとしても、どういうことか噛み砕きたいが、情報量がなさすぎる。
 小説を読んだり、下手でも小説をしようとしてきた身としては、やっぱり、そのように期待されて、そしてその期待にこたえられなかったことで、少しは凹むものなのでしょう。別に小説を読むことが特別な事ではないとは思うが、世の中には小説を読めない人間がいるらしい。本当はそんなことはないとは思うが。
 いわゆる(大江健三郎が言うように)ジャストミートする小説と出会っていないだけだろうと思う。ただ人が小説を必要としているかは分からない、物語であれば小説と限定しなくてもよいのかもしれないと思う。物語は求められていると思うし。こういう事を考えていると、社会学を思い出すし、引っ張りだそうとする。ちゃんと学びなおしたいという気持ちが湧いてくる。それを実行に移せるかは別として。人は良く勘違いするが、行動がその人の意識や意思や人柄を表すわけではない。行動したのちに、その行動の意味を各々自分で考えるし、そもそも行動するときに、自分がどのような理由で、その行動をするのか事前に考えている人は少ないように思うし、もし理由がある場合には、それは作られたものであるように思う。だから、他人を見るときに、一つの行動を取って、この人はこんな人なのだと考えることは、つまらないことのように思う。これは自論なので、そうじゃないと思う人もいるとは思うが、自分にとってはそれが本当。勝手に期待して、それを裏切られるのが嫌なのかもしれない。相手をちゃんと見てなかったと理解してしまうから。話が逸れたが、社会学を学びなおしたいという思いには、やっぱり実際にいわゆる社会人になったことが関係している。資本主義が自己増殖するシステムであるとか、不断の努力を要請してくるだとか、リキッド・モダニティやら、そういった抽象的だった語句が、実際に抽出された社会の中に身を置いているせいで、観察することが容易になっている。つまりはそういった兆候を見ることができるから、正直ちょっと楽しい。それと単純に卒業論文がうまく書けなかった後悔がある。だからちゃんと勉強し続けていきたいという気もする。まあ独学でやるのは難しいと感じるが。
 最近はコロナ関係で監視社会が面白いのかなと思っている。「監視すること」の意味は何だろうとか考えると、他人の自由を制限することだと思う。デイヴィット・ライアンの『監視文化の誕生―社会に監視される時代から、人々が進んで監視する時代へ』を読みたいと思っている。人びとが相互監視している( ^ω^)・・・。( ^ω^)・・・( ^ω^)・・・。しているのか? 多分、しているし、されているって状態だろうな。書名だとわかりやすくするために、そう書いているだけで。
 そういう分割不可能な状態は諦めの永続化をもたらす。そしてまた、諦めが永続化するという考えから解放されなければならない。まず、諦めが永続化するとはどういったことか。諦めが永続化することは、何に起因するか。分割不可能な状態ではない。諦めを永続させる要素は、無力さにつきる。抵抗できないということ。たぶん僕は諦めを服従することのように考えている。「社会問題 日本」で検索すると色々出てくる。環境破壊・格差社会・まあいろいろある。コロナも社会問題と言っちゃあそうだろう。そして自分たちが生活する限りは無意識的にそういったシステムに加担しているのではないかという疑念があり、そしてたいていの場合は、加担している。だから、服従しないで対等なまま、自分で考えることが重要なのだろうと思う。これはある意味でスローガンだ。ちゃんと考えることをやめないでいようという。
 また話が逸れた。監視という語句が他者をコントロールしなければならないと思わせてくる。新しいキーボードをパソコンにつないだ。これでしばらく困ることはないだろう。