遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

スカスカのごみ(これで最後になるだろう)

細かいレベルの文章が拙いという事は確かに全体のレベルが杜撰であることを証明してしまう。テーマや全体像の把握、それと同時に多くの概念を巻き込んで現実を反射させようとする試みはやっぱりめちゃムズ委員長(ちゃお)

 

「彼になった男」    DJロープ前島

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1

 

 地下にある小さな映画館を出ると、昼間の日差しにやられて、視界が怪しい青色になり、目を細めながら歩き出した。平日の池袋は土日と比べると人通りが少ないが、それでも自分が住んでるところよりかは遥かに多い。髪型がツーブロックでおでこを出しているサラリーマンとすれ違うたびに、仕事をしていない自分を不思議に思った。労働は自分がやるべきことをそれなりに教えてはいた。外回りをし、発注元の会社に赴きサンプルを渡し、互いの要求をすり合わせて、会社に戻れば、パソコンを開いてメールチェックや次のタスクの整理をする毎日は、確かにかつてあったものだった。

それを自覚すると数日前までこの時間も仕事をしていたことが、急に遠くに感じられ、その距離によって全てが新鮮で、歩幅が大胆になっていった。

 昼飯がまだだったので、適当に歩いてハンバーガーチェーン店に入った。注文したチーズバーガーセットの乗ったトレーを店員から手渡された後、喫煙可能の三階まで登り、喫煙席の入り口にある黒いプラスチック製の灰皿を新しくトレーに乗せ、窓際の席を選んで座った。日差しを身体に受けて自分の腕の影がこぼれないように、テーブルのギリギリの崖にしがみついている様に、退屈とよく似た穏やかさを感じる。包装紙を剥いてチーズバーガーを一口かじると、ジャンクな味が口の中に広がった。それを美味いと感じると、自分のお腹が減っていたことに気が付く。特にすべきことがなく、視線は自然と眼下の街を歩く人々の方へと向いた。

乗換駅の流れ続ける人波の中、多くの人間が進む道をのろのろと歩いていた社会人時代、今のように間を贅沢に使ってみたいと願っていたが、それがいざ叶ったら、据わりの悪さがそこにある。眼下にスーツ姿の人やら学生グループが歩いているのを眺めると、自分も何かするべきことがあるような気がしてくるが、何をするべきかわからない。ただ、転職することだけは決まっている。だが、どこに転職するかは決まっていない。

チーズバーガーを食べ終わったのでポテトをつまみ始める。何かが足りないと思った。煙草に火を点けた。吸って、煙を吐いた。イルカの真似をして煙で輪っかをつくった。だんだんと煙がほつれて、空間に溶けていった。二つ三つ、煙で輪をつくって遊んで、息が切れて、自然と大きく息が吸えた。その分の息を吐くと身体がほぐれた感じがする。安心した。煙草の煙は陽の光に照らされてプラチナ色に輝いていたが、影自体は黒色で、影は等しく黒色であることが、妙につまらなく感じられた。

 食事を終え、ゴミを分別して捨てる。ごみにも種類がある。行く当てもなく外に出た。大きい本屋があることを思い出し、そこには没入できる物語があるかもしれないと期待して、道沿いを歩いた。とりあえず、物語に熱中したかった。うまくいけば、不安は忘れられるし、他人の物語が自分の物語でもあるという実感が得られる。自分が感じていることを、他人が言葉の枠の中に入れてくれる。これが自分の物語で、自分が考えていたことで、自分がこれから感じることで、それがフィクションでであっても自分が逸脱していないことを確かめられる。

サッカーショップKAMOには日本代表の選手がドリブルしている写真が貼ってある。信号が青だったので渡ろうとしたら、点滅し始めた。次また青になったら渡ろうと思い、立ち止まった。目の前を車が通り抜け、やがて信号が青に変わった。歩道を渡る最中、ジュンク堂の窓にカラオケ会館と雑居ビルが反射されて映っていたので、きっとカメラを持ち始めたばかりの大学生だったら思わず写真を撮ってしまうのだろうなと考えた。

 エスカレーターに乗って三階まで登る。前に居るのは長い髪の女の人で、薄手のコートを着て片手に紙袋を提げていた。一人用なので追い抜くことはできず、ぼーっと突っ立って後ろ姿を眺めていると、パンの匂いがした。二階のフロアについて、次のエスカレーターに乗り換える間、光が遮られて暗い顔になるけれど、また勝手に進む階段に乗ったら斜光がその顔を赤く染める。その女の人も三階で降りた。平積みにされている海外文学の新刊を眺めて、何も買わず降りていった。それを横目に見届けてから、文庫の棚の方へ向かうと、棚のすぐ下に平積みされている小説が置いてあった。帯には百万部突破! という値下げシールみたいな主張の強い文字が印刷されている。それを手に取る。そのまま下りのエスカレーターに乗る。百万部突破した物語なら、誰もが楽しめるものだろう。一階に着いて、レジへ向かう前に、自分も新しいものに触れようと思い、話題の新刊の方へ立ち寄ると、また百万部突破の帯が見つかる。だから、三階に戻って、本を元あった場所に戻す。そして本屋を出る。

信号が赤だったので、立ち止まり、たかだか数分の手持ち無沙汰に耐えかねて、また本屋に戻り、不眠を解消する本を探す。最近、寝つきが良くないので、専門的な知識が必要になってくる。幼い頃に母親から教えられた入眠のススメよりも、こうした知識の方が実際に効くはずだ。それに良質な睡眠を取らなかった場合を考えると、自己管理はしなければならない。それは失敗や後悔を生むかもしれないからだ。

本棚に向かうと健康法のうちに睡眠と分類された箇所があり、そこには質の良い睡眠に関する本がそれなりに並んでいた。薄い本から分厚い本まで並んでいて、平積みされているのは超一流の睡眠法や、快眠のツボという本。どれを選べばいいのだろうか。とりあえず、一番わかりやすそうな本を買った。

来た道を戻って、買ったばかりの「サルでも分かる快眠法」を読みながら電車にゆられていると、家の最寄り駅に着いた。そこから近くのアリオの一階にあるイトーヨーカドーに寄って値下げされた総菜ひとつと、菓子パンを買ってアリオを出る。川沿いの遊歩道を歩いていく。公園を抜ける途中、梅の花が咲いているのに気が付く。ポップコーンみたいだった。そこから道路沿いの歩道に出る。歩道を歩くにも気を遣う。ここは東京のベットタウンだからか、今はちょうど帰宅時間と被っていて、人が多い。早朝と昼と深夜は人が少ないのに、朝と夕方だけは異様なまでに人であふれかえる。帰ってくる時間をずらせばよかったと少し後悔する。

横断歩道の連続しているものの繋がっていない白線に足を乗せようとした時、信号が点滅し始めた。一歩引いて立ち止まり、小さい頃の遊びで、白線だけを飛んで行く楽しさがあったことを思い出す。黒い部分に落ちると死んでしまうらしい。白線だけが安全地帯で、黒い部分は奈落。だから黒い部分に落ちるのは二回までというルールだった。ただ、それを思い出しても、特に意味はないが。

視線を上げると、まだ青信号は点滅していた。青信号は永く点滅している。赤になかなかならない。止まれとは言わない。もうすぐ赤になると知らせるだけ。走って渡ってしまおうかと迷って、周りを眺めるとスーツ姿の数人が駆けて渡ろうとしていた。それを見て迷っていると、横を一人、また一人とすり抜けて、赤信号になった。しくじったと感じる。選べないことは停滞になるのかもしれない。まあしょーがないと思い、前を向いたが、足音がまだ聞こえるので、振り返って、でもその動作とすれ違うように、一人の男が赤信号に突っ込もうとして横を通った。とっさに、その男の服の裾を掴んだ。自分の身体が一瞬浮いて、もって行かれそうになったが、地面に一歩、足を着いた時に、しっかりと踏ん張り腕を自分の身体に引き寄せ、男にしりもちをつかせた。男は首を回してこちらを見た。

「ちょっと何してくれてんの?」とやや語気を荒げながら立ち上がった。「彼が覚悟を決めたって言うのに、その邪魔をしないでくれ」

「え」

「彼だよ、彼。彼が折角、死ぬって決めて、途中まで足を緩めずにいられたのに、どうして君はそれを邪魔するんだ」

「いや、えっと」

人命を助けたのにもかかわらず、お叱りを受けたので困惑した。助けを求めようと、鶏みたいに首を振る。だが周囲の人たちはこちらを見ているだけで、特に会話に介入することもなく、数秒も経てば自分のスマホとにらめっこを再開する。

「どうしたんですか?」

 物腰の柔らかい紫の上着を着たおばさんが声をかけてくれた。手にクリアファイルと書類の束をもっていた。自動車はさっきの事故未遂がなかったかのように、走っている。

「いやね、この男がさ、彼が死のうとしたのを止めたんだよ」男がこっちを指さしてそう言った。

「え? なんですか?」

「だから、この男が彼を止めたんだって」

「すみませんね、耳が遠くて。もう一度、お願いしますね」

「彼がこいつに死ぬのを止められたんだよ」

 信号が青に変わった。それでも途中で退席することができない。完全に巻き込まれた。

「あら、あら、まぁ。驚いた」おばさんは口に手を当てて、後ずさった。「あなた、そんなに思い詰めているのね。可哀そうに。でも大丈夫。われわれの仲間になれば、その辛い思いも、みんなで共有できるようになるわ」

 そして差し出されたのはカラフルなパンフレット。男はそれを受け取って肩を落とした。信号はまた点滅し始める。いそいで渡ろうとしたが、今度は自分が男に引っ張られ、結局信号は赤になってしまった。

 耳の遠い神の守護者は近くのファミレスに行きたがったが、男はそれを断り、こっちを見て何かを示し合わせようと、浅くうなずいた。そして、一緒に飲みに行くんですよと言って、勧誘を振り切って、横断歩道を渡った。振り返ると、おばさんは信号待ちをしている人に声をかけて回っているようだった。

 男はもう文句を言うだけの活力が残っていないのか、黙って後ろを付いてきた。信号を渡っても、付いてきた。ヒヨコじゃないんだから。

「なんで付いてくるんですか。あなたはあなたの家に帰ればいいじゃないですか」

 男は大きなため息をついて

「もうなくなった。だから、泊めてくれませんか。お金も渡します」

と言った。因縁をつけられたのかと思っていたが、違うようだった。

「どういうことですか?」

 

 2

 

 彼は自分のことを「彼」と呼んでいる。彼と共同生活をし始めて数日が経ち、何度かそのことについて尋ねてみたが、いつも言葉に詰まってだんまりだった。もしかしたら彼自身、自分がなぜそう呼んでいるのかわからないのかもしれない。

 朝食の前にインスタントコーヒーをつくる。無印良品のマグカップネスカフェのカフェインレスコーヒーを、裏に書いてあるつくり方を参照しながらスプーン三杯分いれて、お湯を注ぐ。そして昨日イトーヨーカドーで買った値下げ品の菓子パンを食べる。

 久しぶりにスッキリした朝だ。彼に対しての警戒心は薄くなっていて、むしろ親密に感じ始めていた。それというのも、彼は他人のことを考えられるような状況ではないようだったからだ。出会った時点で取り乱していたし、それが落ち着いてこの家にやってきても、疲弊したままだった。彼はつい最近、離婚したらしく、それが相当キているらしかった。彼のことはほとんど知らないが(名前も勤め先も出身地も)唯一、彼が自分から漏らしたのは年齢だった。「三十九歳になって、離婚というものは、今までサンキューみたいな別れの言葉として響いてしまうもんだね」と自虐をしていた。

 机の上には書置きがあり、その横に灰皿がある。吸殻が二本あった。片方はフィルターのギリギリまで吸ってあるのに、もう一本は三口ぐらい吸ってもみ消されていた。書置きを読み終えて玄関に向かい、郵便受けの中の鍵を取り出す。それから、ファブリーズを部屋に振りまいて、トイレに行ってご飯を食べて着替えて、ハローワークに行く。電車はお金がかかるので、歩くことにした。

 家を出て小名木川の遊歩道を歩きながら音楽を流した。Spotifyで誰かが作ったプレイリストを再生する。自分でCDを買っていた時期よりも、ストリーミングサービスを使うようになってから、自分の気分に合わせて音楽を聴くようになっていった。それこそエピソードみたいに、その日の気分が流れる。そのせいか、かえって音楽に興味をもてなくなっている。木場公園を抜けてハローワークに着く。そして受付を済ませ、とりあえず求人情報を眺めてみる。悪い会社か、悪くない会社ばかりだった。一応、正社員で検索をかけてみるが、特段、目を引く企業はなかった。少し休憩と思い、スマホでWEB小説を読むことにした。

 しばらくしてジュースを買いに自販機に向かった。もう二時間は経っていた。今日は特に混んでいた。自分の番がやってきて、五十過ぎの佐藤さんに相談することになった。佐藤さんは綺麗な白髪を手櫛で整えながら、出ている求人情報について話し始めた。でも佐藤さんがもってきた求人も、検索機と同じでどれも悪くはないものばかりだった。

「もっと条件の良い会社はないんですか?」

「あなたは中小企業を辞めたんで、たぶん同じような中小企業にしか行けませんよ」

 なんというか窓ガラスを湿らせて文字を書いて、それで会話しているみたいに、言葉が反転しているみたいだ。一応理解はできるものの、時間がかかって理解した割に、まったく内容の薄く、全然先に進まないあの感じ。

「それ、なんでわかるんですか?」

「そりゃあ、経験則ですよ」

 反論しようとしたが、経験則ならもう反論のしようがない。ここで経験則に頼ることを批判したってしょうがない。佐藤さんは間違いなく多くの経験を積んでいるようだし、本人がそれを疑わないのなら、もう何も話すことはできないだろうし、言う気にもならなかった。それに、佐藤さんの言っていることは一理あった。これといった努力をせず、とりあえず仕事をしてきた身としては、自身のアピールポイントが他人と被った時、自分の良さは他の人の良さに劣ってしまうだろうことがわかってしまうのだ。

一応、提案された求人には応募してみることにした。佐藤さんはほっとしたように、それじゃあよろしくお願いしますね、と言った。これで相談は終わり。二時間待った割には、すぐに終わった。

 

 部屋に着き、テレビをつけた。味の薄いパスタをつくり、きっかり十九時に夕食を取り始める。久しぶりにゴールデンタイムのバラエティーを観た。人格に問題がありそうな感じにデフォルメされた人間が痛い目を見るエピソードが流れて、それをみんなで見て、一緒にスッキリする番組だった。その番組が終わると風呂に入って、スマホを開いてYouTubeで暇をつぶす。

 二十二時を過ぎた頃、家のインターホンが鳴り、出ると彼がいた。夕食と風呂は会員になっているジムで済ませてきたらしい。また寝間着はユニクロで新しく買ったらしく、それを着て、すぐにソファにねころがった。自分の部屋に誰とも知らない人間がいることがおかしかった。

「残業だったんですか?」

 声をかけてみたが、返事は「そう」だけ。彼は眠りたいようだったので布団を敷いて電気を消した。今日も特に何もなく、平和な一日だった。

 

 3

 

 ある程度、年齢を重ねていくにつれて意思決定をしなければならない領域が拡大する。そのため、意思決定に付随する責任も、もちろん背負うことになる。それなりに昔の時代だったら規範によって意思決定をした、という意識は薄かっただろうが、今はどういった選択をするべきかという規範は共有されていないために、物事を認識しなければならない。人それぞれってやつかもしれない。自分の好きなように選んでいくしかない。しかし、それはみんながみんな共有できるものではないだろう。「~しなければならない」という形から「~してはならない」のリスク回避のための認識に変化したのである。また、それは常に否定的な文法で現れる、「~しなければ悪いことが起こる、あるいは今よりも悪いことになる」という。まるで妖怪のような得体の知れない怖さがある。

 目の前にいる面接官はずっとこちらを見ていて、少し怖い。なぜなら目が合う人間かどうか試しているように、まっすぐこちらを見続けていたからだ。

「なぜ弊社を受けようと決めましたか?」

「ハイっ! 経営理念に共感したからです。特にゴミ回収を通じて、地球に対しての配慮、共に生きる人々の生活をクリーンにしていく点です。ごみ収集という仕事は、なくてはならない仕事です。そこから人々の暮らしを支えていく点に惹かれました」

 事前に考えていたことを一字一句間違えずに発音していくと、うまくいっていると実感が湧いて安心する。ほとんど機械的に応答を繰り返すと、最後の質問になっていた。

「なるほど。ところで、弊社の会社案内のパンフレットはご覧になっていただけましたか?」

「ハイっ!」

「それは良かったです。それなら、パンフレットに書いてある現場の人たちの声って部分についてですが、何か感想とかありますか?」

「そうですね」頭が真っ白になった。ちゃんと資料を読んでくればよかった。ここで正直に言わなければならないだろうか。それともそれっぽいことを言わなければならないだろうか。「とても勉強になりました」

「ええっと、そういうことではなくてですね」二人いる面接官の内、片方が時計を指さした。「あ、大丈夫です。最後になりますが、何か質問などあれば」

 少し悩んだふりをする。二秒か三秒だけ右斜め上を見つめる。

「ありません」

「それでは、本日は足元が悪い中、面接に来てくださってありがとうございました」

 退室前にもう一度礼をする。たくさん感謝する。「ありがとうございました」

 

 近くのベローチェに入って遅めの昼飯を食べる。珍しく喫煙席のある店だった。ホットドックブレンドコーヒーだけで昼を過ごす。そして、さっきの面接を思い返しながらメモ帳に何がいけなかったのかを書いていく。良いところよりも、悪いところの方がたくさん出て来る。

 煙草をぼんやり吸っているとサラリーマン二人組がガラスの向こうに見えた。片方は彼だった。もう一人は後輩だろうか。二人は一緒に喫煙席に入ってきた。つい顔を逸らして気付いていないふりをする。

「千石さん、もういい加減にしてくださいよ。アイスブレイクのつもりなのかもしれませんけど、ああやって場を変な空気にさせるの。逆にキンキンに冷えたじゃないですか」

「うん。ごめんね」

「あー、またそれですか。本当に反省してますか? ここ最近いつも謝るだけじゃないですか。そりゃあプライベートがごちゃごちゃしてるのは分かりますけど、いくらなんでも適当すぎますよ。今日のプレゼンだって本当は千石さんが資料担当だったでしょう。それをちんたらやってるから、僕が手伝うことになって、発表の準備が足りないなんてことになるんですよ」

 スマホでソシャゲを開いて、周回クエストを淡々とこなす。頭を使わないから楽だ。素材と経験値が貯まっていく。

「でも」

「いや、でもじゃないですよ本当に」わざとらしいため息が聞こえる。「まあここんとこ千石さんが有能なのは喫煙室のある飲食店を探すことだけですね。それは誇って良いと思います。けど、間違いなく昇進はなくなりましたね。一生、平社員ですよ」

「本当にご迷惑をおかけします」

 その後も説教は続き、やがて彼自身の問題へと話題が変わっていった。「離婚ってそんなに大きなことですか。人なんだから離婚しても、良い相手とまた出会うかもしれませんよ」

「うん。そうかもしれない。けど、やっぱり精神にクる」

「そりゃそうでしょうけど、それだけじゃ仕事が立ち行かなくなりますよ。それはそれ。思考の分け方を学んだ方が良いと思います。おすすめのビジネス書を教えるので、読んでおいてくださいね」

「はい」

 椅子が引かれる音がした。自分も画面上での戦闘が終わり、キャラクターのレベルがアップした。顔を上げると、二人の後ろ姿と「あーまた俺、怒られちゃいますよ」という大きめの独り言が聞こえた。二人はタバコを吸いにきただけだったらしい。ばったり彼と出くわさないように、もう一周だけクエストをやってから店を出ようと思ったが、スタミナが切れてしまったので、煙草をチェーンスモーキングすることにした。頭がくらくらした。

 

 彼は家に帰ってくると、いつものように寝ようとした。彼とはほとんど会話をしていないし、ラインもツイッターも電話番号もメールアドレスも交換していない。でも、今日の彼の姿を見たら、どうも他人事のようには思えなかった。

「すみません。今日、新宿のベローチェにいましたよね」

 彼は横になりながらこっちを無表情に見つめた。掛布団は一時的に彼の胸元を隠していたが、「見ちゃいました」と声をかけると、宙に浮いて、ひざ元でブランケットのように収まった。彼の上半身が起き上がった。

「聞いてたの?」

 彼の表情はピクリとも動かなかった。

「はい」

「そうなんだ」観念したように彼が自分について語り始めた。「彼はね、勤めていた会社が合併という名分で吸収されて、それで自分より若い上司とタッグを組んで仕事をしていたんだけど、ここ一番っていうコンペでミスしちゃったんだよね。本当、彼はどうしようもないやつだよ」

「仕事するの辛くないんですかね?」

 彼は横になって掛布団を引き寄せながら答える。

「そりゃあ彼だって辛い。けど、自分で自分をコントロールしないと、もっと最悪な状態に陥ってしまうから、やめることはできないんだろうね。彼もあんな状態だから仕事も全部、放り出したいけれど、もし、本当に放り投げてしまったらと思うとね……。それを選択した際のリスクは計り知れない。これは彼が置かれている環境での最善策なんだ。彼が働いている職場は福利厚生がしっかりしている。残業代もちゃんと出るし、給料もそこそこ良い。だから彼は働きがいを失っても、働かなきゃいけないんだ。他に選択肢はないんだ」

 言葉は力強いが、自分に言い聞かせるように饒舌になっていることが少し痛ましく感じられた。もしかしたら、彼はもう諦めたいのかもしれない。

「そういうもんなんですかね」

「考えたら、知らず知らずのうちに後退していくからね。明日も仕事なんだ。彼は最近、疲れが取れないらしいよ。自分の体調管理もできないなんて、本当にどうしようもないやつだね」

 

 4

 

 一昨日ぐらいから雨が降っていた。台風が接近しているらしい。もう一つのトピックは彼が有休を使って、五連休をつくったことだった。なんでも職場の人に一度、気分転換に好きなことを思う存分楽しんだ方がいいとアドバイスされたらしく、休みを取った。それが台風の季節と重なった。それで彼は部屋の中にいる。

 ハローワークから部屋に帰ってくると彼はテレビを見ていた。自分が好きなことをやればいいのに、もったいない時間の使い方をしていると思った。いや、そもそも彼に、したいことはないのかもしれない。

「川の水量が増してますよ。明日は耐えられるんですかね」

 そう言いながらカッパを脱ぎ、玄関のドアノブに引っかける。江東区は開発のために埋立てられた土地が多く、そもそもの地盤が低いので、いくらスーパー堤防をつくったところで、早い段階で避難しないと被害にあってしまうかもしれない。

「さあ」

 彼は興味がなさそうに、そう言いながらテレビから目を離した。そして思い出したように、立ち上がって自分の鞄の中を漁り始めて、中から武蔵野銀行の封筒を取り出し、それを手渡してきた。

「え、なんですか」慌ててタオルをタンスから取り出して手と髪の毛を拭いた。「どういうことですか?」

「うん、明日、きっと川が増水して良い具合に条件がそろいそうだから、彼になろうと思って」

 いまいち彼になるという意味がわからないけれど、とりあえず受け取っておく。封筒に目を落としながら確認を取る。

「それとこれって何か関係あります?」

「いや、これといって関係はないかも。それは家賃」

「ああ」

「避難勧告が出たら君は避難していいよ。彼はこの部屋にいるから」

 彼になることっていうのは自殺するっていうことなんですか、そういう質問が頭に湧いたが、そもそも離婚して精神的に参っている男が死ぬという筋書きは、ひどく単純であり、その因果関係を想像するのがあまりに容易にできるため、深入りする必要はないし、興味もわかない。それに自分は離婚したことがないから共感できないし、彼のことはよく知らないし、分からない。だから、もうそういうことにしておこう。

「わかりました」

 

 最後の晩餐はカップラーメンだった。彼は避難しないそうなので、彼の分の醤油ラーメンをあけた。ほとんど無感動にそれを食べ終えた彼は、カップラーメンはすごいなと独り言ちた。

「そう思わない? 安くて美味しくて、それでいて暖かくなる。やっぱり世界で売れている商品だと思うな」

 そうですねと相槌を打った。テレビはほとんどのチャンネルが災害情報を伝えていたので、彼はネットフリックスでドキュメンタリーを見て退屈を誤魔化していた。

「そういえば、どうして離婚したんですか?」

「ん~。彼はね」彼は自分のスマホを取り出して、ボイスメモを開き、自分の声を録音し始めた。「彼はね、愛しているかどうかはわからないけど、間違いなく彼女を好いていたよ。けど、最後の四年間ぐらいは会話なんてなかったんだ。子供ができなくてね。まあ、そこで何かがずれたんだと思うよ。それで彼は悩んだんだね」

 何か肩透かしを食らった気がした。あまりにも他人事だったから。

「そう、どうして子供がつくれないんだろうって。それで検査をすると、自分の精子が弱くて弱くて、治療することになった。それが彼が三十歳のころ、頑張って五年は続けたけれど、三十五歳になって、やめることにしたんだ。もう無理だって。でも、彼女は納得しなかった。彼はなぜ彼女を選んでしまったのだろうかと自問自答するようになった。だけど、そこには大きな理由はなかった。そうして日々が過ぎて、彼はもしかしたら他の女の人と結婚していた可能性もあったことに気が付いた。そうすると、後悔がやってきた。もしかしたら子供をつくりたくない人と結婚することもできたはずだろうと、違う選択があったかもしれないと、そう考えるようになった。そういった違う選択肢もあったかもしれないというのは、様々な場面で出てくるようになった。それこそ君が見聞きしていたベローチェの会話、あれもこの会社に勤めていなければ、そうはならなかったと。でも彼は選んでしまった」

 彼はそう言い終えると録音を止めた。そして大きく息を吐くと急に名案を思いついたかのように、目をかっぴらいて唾を飛ばしながら言った。

「そうだよ。彼になる瞬間を映像で撮ってくれ。それでツイッターなり、YouTubeなりにアップしてほしい。そしたら、この苦しみが全世界で同じような悩みを抱えている人間に届くかもしれない」

 

 5

 

 目が覚めてスマホで時刻を確認すると、待機画面に災害情報がポップアップされていた。もうこの地域は避難勧告が出ていた。なんで起こさなかったのかと彼に聞いたが「動画を撮ってもらうため」と答えられて、昨日言っていたことが本気だったことに苛立った。彼は未だに自分が他人にとって意味のある他者だと勘違いしている。誰も彼のことなんて興味がない。パッと目を引いて、バズって、そんでもって次のバズに流されて忘れられるのに。

 防災用のリュックを背負い、急いで家を出て、遊歩道が冠水しているのを見てあと少し遅れていたらと思う。そして団地の方へ向かおうとすると、彼が服を引っ張った。大声で何かを言っているようだったが、風が強くてよく聞こえなかった。すると彼は耳元に寄ってきて「動画!」とだけ叫んで、スマホを手渡される。もう本当にさっさと終わってくれと思いながら、カメラを向けると、彼の身体が震え出した。一見そういった演出に見えなくもない。でもしばらくすると、彼は満ち足りた表情をしてカメラを見つめて、走り出した。その後を追って行くと、避難所に着いた。

避難所の受付を待っている間、彼はずっとにこやかだった。彼の身体はまだ震えていた。

うしろからスーパー堤防も決壊したという情報が入ったので、スマホで確認する。ライブカメラで捉えられた映像で見た限り、どうやら本当らしかった。彼も震えの収まらない身体を寄せて、スマホの画面を覗き込んできた。

自然災害を防ぐための堤防じゃなかったのかと感情的になる。埋立地の近くの土地に住むリスクを考慮しなかった自分に対して苛立つ。そういった物事は制御できるものではなかったのか? 制御するべきものではなかったのか?

 彼が画面から目を離し、呟く。

「彼になるっていうのは、これと一緒なんだ」