遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

夏のゴミ(二万字ぐらいの)

 1

 

 実家の最寄り駅に着き、改札を抜けると雪が降っていた。傘のない晴斗は親に連絡して迎えに来てもらうか、それともバスに乗って家の近くまで行きそこから歩いて帰るか、迷っていた。エレベーターの音がごうんごうんと聞こえる。そこに誰かの「さぶっ」というひとりごとが混ざる。ロータリーには色とりどりの自動車が停車したまま誰かを待っている。

 そしてドアが閉められると目を輝かせて走り出す。

 寒さの中で待機し続けれないと思った晴斗は、ちょうど今やって来た、イオンが終点のバスに飛び乗った。

 ドアの入ってすぐのところにある電子機器にパスモをかざし、窓際の席に座った晴斗はスマホを開いた。そして、母親である里子にバスで帰りますと連絡を入れると、一息ついて肩の力を抜いた。

 冷風と共に学生がバスに乗り込んで来た。粉雪が暖色の照明に反射し、学ランの肩口で輝いている。短く刈り揃えられた黒髪の上にも雪があった。晴斗は窓を鏡の代わりにして頭に雪が残っていないかを確かめようとしたが、口がだらしなく開かれていることに気が付き、自分の顏から目を背けた。雪はまだかすかに頭に残っていたが、晴斗はここで自分の頭を叩いて振り払おうとは思わなかった。炭酸が抜けるような音がしてドアが閉まるとバスはのっそりと動き出した。

 停留所を二つ過ぎたころには車内の暖かさに慣れて、うとうとと眠くなり始めた晴斗はぼんやりした頭でここ最近、居眠りしてなかったなと思い、これがきっと安心感というものなのだろうと考えた。晴斗は大学に進学してから二度目の冬を迎えているが、まだ学内での友だちは誰一人としていなかった。加えてバイト先でも同様に一緒にご飯に行くような関係の人間もいなかった。そんな晴斗の孤独はバスが進むにつれて、実家に近付くにつれて溶けていった。

 晴斗が肩を揺さぶられて目を覚ますと終点のイオンに着いていた。晴斗は滅多に口に出す機会のない言葉「ありがとうございます」を言って地面に足を付けた。バスは低い唸り声をあげながらまた走り出した。晴斗はイオンに向かい入り口の自販機でホットココアを買った。

 寒さで眠気が吹っ飛んだ晴斗は家まで歩いた。トヨタカローラのディーラー、組合の集会所、元日しか賑わわない神社、小学生のころは仲の良かった友人の家、それらを通り過ぎて、ココアを一口飲み、また歩き出す。小さなトンネルを抜けると見通しのいい田園風景になる。実家の方へと視線を向かわせるとラブホテルのどぎついピンクネオンが見える。そのまま直進し、右に曲がる。晴斗がこの道を通るのは二年ぶり。とはいえ、それ以前にこの道を通ったことは幾度もある。晴斗は十九歳にふさわしいおセンチを発揮した。「この道には昔の自分がいる。バイト帰りの僕、塾帰りの僕、放課後の僕、それが今の僕と重なっている」言い様もない高揚感だった。

 晴斗は家の堀をまわって門をくぐり、両親のいる方の家に向かった。祖父母の暮らしていた家は明かりが点いていない。晴斗の祖父母が死んだからだ。五年前に祖母が死んで三年前に祖父が死んだ。庇の下に何を見ているかさえも忘れてしまった、意識が薄弱な祖母の姿が浮かんできた時、晴斗は「重なった」と思った。

 リュックから取り出したタオルで頭やら上着やらを拭いている晴斗の顔は寒さのせいかまだ赤いままだ。無表情ではあるものの、落ち着きに満ちている。

 一通り拭き終えると、玄関の扉を開け、そこで靴を脱いだ。靴下を脱ぎ重くなったそれを右手に、左手には濡れたタオルを持って扉内を開ける。暖かい空気と一緒に零れる光に一瞬だけ身を引いた。

 実のところ、晴斗は恐れていた。夏休みの間も帰省してはいたものの、盆が過ぎればすぐに東京に戻った。すぐに帰った理由は単に成績について尋ねられたくなかったからだった。

 炬燵が出されていて、家族四人がぬくぬくしていた。もう晴斗の入る余地はなかった。家族は皆テレビを見ている。いや、母親である里子だけがツムツムをしている。

「ただいま」

 晴斗がそう言うと家族は「おかえり」と返した。晴斗は上着を脱いで椅子に掛けた。テレビから流れる感動シーンを冷めた目で見ている晴斗が大きく欠伸をした。

 もう夜十時だった。この時間に家族全員そろっているのが珍しいと感じた晴斗は暖房を入れていることも相まって身も心もほだされて急激に眠気に襲われた。普段なら定年間近の孝二は九時には寝ているし、姉の絵梨も兄の和樹も自分の部屋にいる時間帯だった。これまで寝つきが良くなかった晴斗は、快眠のチャンスだと捉えて、すぐさま風呂に入ろうとしたが、パジャマがないので里子に聞くと、用意しておくからと言われた。ざっとシャワーを浴びて浴室を開けると本当にパジャマがあったので、安心して髪を乾かし歯磨きをして自分の部屋に帰った。布団の中は段々と暖かくなっていったが、眠気はなくなっていった。どうやら晴斗はもっと家族と一緒に居たかったらしい。

 寝付けずに、気分転換に水を飲もうとリビングに戻ったが、そのころにはもう誰も起きてはおらず、部屋の電気は点いていなかった。空気清浄機の青いランプだけが生暖かい部屋で無機質に光っていた。

 グラスに水を注いで飲み干して布団に戻ったが、晴斗は寝られなかった。トイレに向かう途中で、和樹の部屋をノックしてみると返事があったので中に入った。

「どうしたの?」

「眠れなくてさ、俺が居ない間、なんかあった?」

「まあ、それなりに」

「そういうの聞きたい」

「まず、俺は仕事を辞めようか悩んでいるんだよね、二年目にして。あと、豊本の田んぼを売った。ああ、墓の後ろの田んぼね」

「え、全然知らんかった」

 それなりに驚いた晴斗は、二つのトピックの詳細を求めた。仕事を辞めたい理由は単に仕事にやりがいを見いだせないというものだった。和樹は仕事中に眠くなったことから、そう判断したらしい。設計の仕事をしているが、和樹はもともと設計よりもプログラミングに興味があったようで、なんか違う、と感じている。加えて、会社で上司や同僚と話すのが面倒だという。飲み会も毎回断るらしい。田んぼが売られた理由に関しては、物流倉庫や二車線道路を三車線道路にするという事業で田んぼの近くに住む人間が土地を売ってしまった。そのような建設によって田んぼに水が入らなくなり、収穫が期待できないので売り払ったのだった。

 その話が終わると和樹が「明日コミケだから寝る」と言ったので、おとなしく自分の部屋に戻った。ベッドで横になりながら、中学・高校の友だちもコミケに行っているのだろうかと考えているうちに、眠りに落ちた。

 

 2

 

 午前七時、そろそろ子どもが動き出す時間。和樹は会場についているころ。まだ雪は降り続いている。分厚い雲からは陽の光は望めそうもない。晴斗はまだ眠りの気配を身にまとったままリビングへ向かう。階段を下りながら、ため息を吐くと白かった。

 暖房が効いているリビングには両親が揃っていた。晴斗が「あおはよ」と言うと「おはよう」と返ってくる。晴斗はパンを袋から取り出して、グリルで二分焼くまでの間、コーヒーを用意した。そうしてから頭を掻きながらテーブルの椅子を引き、座った。テーブルの上にはマーガリンやピーナッツバター。ミッフィーの小皿の上に焼いたパンを置いた。里子は新聞を読み、孝二は自分のパソコンのディスプレイを見ていた。

「そういえば、成人式に行くんだよね」

 晴斗がパンにピーナッツバターを塗りたくっている最中、赤い老眼鏡のフレームを指で挟み、文字を追いながら里子が尋ねた。

「あーうん。行くよ。でも、入学式の時に来たスーツが入らないと思う。ほら、あの時と比べると太ったから」

「じゃあスーツ買いに行かないと」里子は晴斗を一瞥した。「だからもっと早く帰って来てって言ったのに」

 孝二はまだ晴斗と里子の方を見ない。それは絵梨が起きてきても変わりがなかった。孝二はここ最近、中古車を探していている。五十二歳になって記念の昇進を済ませてから所属していた会社を退社し、現在は隣の市の高等学校で用務員として働いている。そんな孝二が老後の道楽として見出だしているのが自動車なのだろう。最近の口癖「クラウンってかっこいいな」。

「だから」里子は晴斗に言い聞かせるように言った。「採寸とかあって結局、日数がかかるんだから早めの方がいいいんだよ」

 里子はまた新聞に目を落とした。姉の絵梨は黙ってテレビを見ている。彼女は遅番らしい。

「じゃあ、今日行こうよ」

 里子が頷くと、それきり会話は無くなった。

 

 玄関先の庇の下で煙草を吸いながら晴斗は里子が家を出て来るのを待っていた。だがあまりにも遅かったので気まぐれに裏山の雑木林を歩きながら二本目の煙草に火を点けた。頭上に広がる青葉が雪を遮り、落ちてくる量は少なかった。垣根の山茶花の木の下。晴斗とその兄弟で子供のころにわざわざ木々をへし折って作った抜け穴の名残がある。その幼少期の思い出の面影に重なるように花が紅く色づいている。記憶がなんてことのない風景を特別なものに変えた。

 折れて腰ほどの高さに首を垂れる枝がある。晴斗はそれをゆすった。雪の落ちる音がした。幹はより湾曲し、より深く首を垂れる。みりみり音がして、やがては折れて木の白い繊維が剥き出しになった。かじかんだ手にそれが刺さり、さっと手を引いた。やけに静かだった。

 玄関に戻ると里子が慌てた様子で飛び出してきた。「じいちゃんが事故にあったから、今から行ってくるね」と言った。晴斗は「ああ、そうなの。こんな年末に」と言った。

「とりあえず遅くなるかもしれないから、また連絡する」

 里子は傘も持たずに車に駆け寄り、ドアを開け、家を出ていった。残された晴斗は今日の予定がなくなったと思った。そうして、自分の部屋で暖房をつけて動画を見ることにした。結局、一人の暮らしと変わらず、自分の部屋に居ついてしまうものなのかと晴斗は思った。

 玄関を開けると孝二が土間に居て煙草を口にくわえていた。晴斗に気が付くと孝二は「あれ? スーツ買いに行くんじゃないの?」と怪訝そうに尋ねた。

「え、まだ聞いていないの? じいちゃんが事故にあったらしいよ。それでおじゃん」

「ああ、そうなんだ。それじゃあ」

「そいやさ、夜遅くなるかもしれないって言ってたよ」

 晴斗は孝二の言葉を遮るように言った。

「はい、了解」

 孝二は晴斗とすれ違う時「大変だなあ」と他人事のように呟いた。それを聞いて晴斗は不快に思った。そしてその不快さを疑った。自分も母の祖父との精神的なつながりはほとんどないはずで、それだから母が飛び出していった後は別になんとも思わなかったのに、孝二が自分と同じような反応を示した場合にのみ、それを否定的に考えるのはおかしい、と。

 晴斗はその違和感を抱きながら自室に入ったが、横になって動画を見るうちに忘れていった。雪は完全に地面を隠していた。

 

 時刻は午後一時。歩道の上を滑らないように慎重に歩く晴斗が向かう先は住吉の家だった。まだ雪が降り続いているせいか歩道には人の姿が少ない。その中で赤い傘を差した晴斗の姿はよく目立った。途中、イオンで遅めの昼飯を買い、手袋をしていないのでポケットに片手をつっこむ。何度も袋を持つ手を変えながら、歩いている。晴斗はリュックとかで来ればよかったと後悔した。

 島忠ホームズの前を通り、歩道橋を渡った先で暖かい飲み物を買った。手を暖めようとした。熱かったので、ちびちび飲んだ。墓地の横を通り住宅街を抜けると、田園とあぜ道。車の通った轍の上を歩く。替えの靴下とタオルを持って来ていないことに気付いた晴斗は、家に戻ろうかと一度立ち止まって考えたが、ここまでの道のりを徒労で終わらせたくないらしく、また歩き出した。息を吸うと冷たさに肺が痛む。だからと言って急ぐわけではなく、むしろ歩を緩めた。少し火照った身体をゆっくりと冷ますためだった。

 住吉は家の庇の下で足踏みをしていた。晴斗の姿を確認すると手を振り「先に中に入っておくから」と割合に張った声で言った。晴斗は「タバコ吸ってからでいい?」と言ったが、もう住吉は家の中に入ってしまった。晴斗は軒先で煙草を吸ってから、傘をばふりと開閉して雪を落として、傘立てに置いてから、ぐずぐずになった靴下を脱いで家に上がった。フローリングに湿った足跡がついた。

 住吉の部屋に入ると暖房が点いていた。二十一インチのアイマックを背に住吉が晴斗に向けて「久しぶり」と言いながら冷たいビールを差し出した。それを受け取り一気に半分くらいまで飲み、火照った身体に染み込む冷たさに贅沢を感じる。

「よく、こんな雪の中、来ようと思ったね」

「いや、呼んだのは住吉じゃん」

「いや、でも本当に来るなんて思わなかったから」

 あっけらかんとした態度の住吉を前に晴斗は頭を掻いた。

「なんか、じいちゃんがさ事故にあったらしくて、スーツを買いに行く予定がなくなったんだよね。やっぱり、事故って言われても別に何とも思わないもんだなあ。確かに心配だよ。だけど、思っていたよりもショックが来なくて、ああこんなもんなんだって思う。一緒に住んでいたじいちゃんばあちゃんが死んだ時も、涙は流れなかったし。あれ、なんでなんだろうね。看護師さんに呼ばれて病室に行って、ご臨終ですって言われても、ああ死んだんだなあっていう感想しかないよ。誰かが泣いていると、この人は俺の分も泣いてくれているんだろうなって、だから俺は泣けないんだって思うようにしている。もちろん、変だと思う。自分でもそう思う。けど泣けないのは仕方ないし、家に帰ってもじいちゃんが死んだとは思わなくて、身近な人間が一人死んだだけって思うんだよ。普通はさ、身近な人間が死んだら泣いてしまうものだと思うんだよ。映画や漫画や小説でも描かれてる。同じ時間を過ごした人間なら、やっぱり泣いてしまうって。でも、俺は血縁関係なのに泣けなかった。小さいころから会話をしてきた相手でも。だからやっぱり人間としてどうかと自分を疑う。変だと思う。ただ人が死んで悲しいってだけ、情動っていうのがほとんどのないのは嘘なんじゃないかって」

 晴斗は意図的に情報を伏せていた。もっぱら晴斗は中学の友だちが自殺したときも、高校の同級生が自殺したときも、同じように涙は流さなかった。それを住吉に伝えると人間性を疑われるかもしれないと恐れたのだった。

 住吉は晴斗がなんでここに来たのか理解した。ただ話を聞いてほしかったんだろうなと。それでわざわざ。

「まあ、そんなに気に病むことじゃないと思うよ。だってお前はちゃんと涙が出ないことを後ろめたく思っているから、なんか、それを嘘って言うのは単純すぎるし、そんな簡単に言えることじゃない」

 珍しく真面目に返答する住吉に驚きつつ、どこか気持ちが楽になった晴斗は、それが慰めでしかないことに気付かない。

 

 住吉の家で晴斗が二本目のビールに口をつけた時、里子から今日遅くなると連絡が入った。「今日はイオンで寿司とか買ってください」という。久しぶりに里子の料理が食べられるという期待は先送りされた。次に孝二から「寿司を買ってこい」という連絡が入った。

 指示された通りに寿司を買って来た。孝二がまたパソコンの前に居るので晴斗は「何してんの?」と聞いた。孝二は「新しい車を買おうかなって」

「でも今、ミニクーパーあるじゃん」

「いや、買い替えるんだよ」

「ああ、いや、なんで?」

「カッコいいじゃん」

ミニクーパーで十分じゃないの?」

「まあ、そうだけど」

 冷蔵庫に寿司を入れて、自分の部屋に戻った晴斗は、まだ酔った頭で昔読んでいた漫画をもう一度、読み始めた。が、すぐに飽きて祖父母が住んでいた家の方へ向かった。

 仏間と応接間を抜ける廊下を歩いていると、そういえば帰って来てから一度も線香をあげていないと思い当たったので、晴斗は仏間に行った。

 ポケットからライターを取りだして蝋燭に火を点ける。紫色の線香を二本、手に取り火にそっと近づけて二秒ぐらい待ち、火が燃え移ったのを確認して、軽く振って火を消す。線香から糸のような煙が立ち上る。それを香炉に刺して、お錀を鳴らす。窓から入る青白い光が室内を照らし、晴斗の顔に浅い影を作った。お錀の残響は、不在を表すように、張り詰めた空気の中、その静かさをかえって、目立たせた。

 晴斗は祖父母が暮らしていた部屋につくと、電気を点けて、家に居る間はここに暮らすのも悪くないだろうと思った。祖父がいつも座っていた椅子に腰かけて、お茶を入れた。

「重なった」祖父母が見ていたはずの庭の中に自分の姿が浮かんだ。自分の家がもつ自然との関わりや、その年月の長さを晴斗は自覚する。そして、祖父母が飽きもせず眺めていたはずの庭、祖父母の視界を意図的でなくとも模倣したせいで晴斗の中に「僕は大切にされてきた人間だ」という自意識が生まれた。

 あまりに時間が静かに流れるので、晴斗はテレビを点けた。その音量の大きさに驚いた。祖父母が使っていた当時の音量だった。七十。ワイドショーのコメンテーターが単純化した時事問題をばっさり切っている。自信に満ち溢れた声だった。

 

 会話のない夕食ではテレビから誰かの声が特に目立つ。孝二は既に食べ終えてスマホをのゲームに熱中している。白い照明がテーブルに落ちている。雨戸はもう閉められて雪が降っているかも分からない。テレビをぼんやり見ている晴斗の耳に入り込む兄の足音、肥満気味で既に中年太りした兄、和樹の足音だ。だが、和樹はリビングにやってこない。晴斗が寿司を食べ終えてから、和樹はやって来た。顔に微笑みを湛えている。満たされた表情で「あ、今日寿司だったんだ」と言う。和樹は脱衣場に向かい、タオルを手にもって、また自分の部屋に戻っていった。

 孝二が風呂に行くと晴斗は一人。眠る時と同じ。まだテレビを見ている。医療バラエティが始まった。二時間スペシャルでテロップが豪華。自分の食生活が杜撰であると知った晴斗は、苦し紛れにガリを食べる。「そうか、元気が出ないのはカップラーメンを食べすぎていたからなんだ」コマーシャルが入ると急につまらなく感じられて自分の部屋に戻った。もし、晴斗が一人ではなかったら、そのコマーシャルを話題に会話することもできたかもしれない。晴斗は自室でイヤホンをしておじいちゃんと孫の絆を描いた泣ける物語を見始めた。涙活の一環だった。

 玄関で憔悴した顔の里子が俯きながら靴を脱いだ。リビングには誰もいないので多少の寂しさを感じたが、点けっぱなしにされたテレビに苛立ちが湧いてきた里子は冷蔵庫にある寿司を取りだし、それを食べながら「あーやだなあー」と独り言ちる。孝二の口癖が「クラウンってかっこいいな」なら里子の口癖は「やだなあー」である。

 里子が黒いトレイの上に残ったマグロに箸を伸ばした瞬間、孝二がリビングに戻って来た。そのまま孝二は自分がいつも座っている椅子に腰かけて、YouTubeで車の紹介動画を見始める。いつもと変わらない振る舞いをする孝二に里子は嫌気がさした。耐えるように強く目を瞑った八時半。晴斗が二階にある自分の部屋から降りてきて「おかえり」と言い「じいちゃん大丈夫だった?」と聞く。晴斗は心配そうに眉をひそめている。

「一応、ね。明日手術するって」里子はため息を吐いた。早く眠りたいのだ。「ちょっと、先にお風呂入っていい?」

「ああ、全然いいよ。お疲れ様、明日も病院行くんでしょ?」

「まあね」

「じゃあ、俺も行った方がいいかな」

「どっちでもいいよ」

「え、ああ、っそうなんだ。そのうち行こうかな。あ、あとスーツは自分で買いに行くよ」

「うん、お願い」

 孝二はイヤホンを指して動画を見ている。

「じゃあ、お先に風呂どうぞ」

 里子は風呂場で頭を洗っている間、考えこんだ。彼女が病院に着いた時、妹と弟の姿がなかった。妹は優子、弟は俊彦。里子の失望を誘ったのは二人とも、仕事中だからという理由で病院に来なかったことである。トリートメントをつけて待っている間に、また「やだなあ」と言う。

 里子の両親も孝二と同じ兼業農家だった。里子の家は五十代に差し掛かった俊彦が同世代の女の人と高齢結婚したので、後継ぎがいない。つまり、一つの家が途絶える。その事実が里子に悲しみを抱かせることはない。ただ受け入れられるべきものだった。そこに特別な感情を抱いても、どうしても変わらないものがある。

 シャワーで髪を洗い流すと湯船に浸かることもなく、リビングに戻った里子はちょうど晴斗がテレビを見てひとりごとを言っている場面に出くわした。脳のセロトニンが分泌されないと人間は気力を保てないという。

「あ、風呂出たから入っていいよ」

髪の毛をタオルで拭きながら、ドライヤーのあるコンセントまで近づく足音は子供のように柔らか。

「あ、うん」晴斗は生返事して、日差しを浴びましょうとか運動をしましょう等などのアドバイスを見て「本当かよ」と呟いた。

「でも、あんたはセロトニン足りてないと思うよ。帰ってきてからも、元気なさそうだし。あんまり外に出てなさそうだし、運動もしてなさそうだし。そういう脳内物質が足りていないんじゃない? ランニングでも始めれば?」里子はドライヤーを使って髪の毛を乾かし始める。晴斗はその言葉に失望した。「元気がないって気が付いているのに心配してくれないんだ」ドライヤーを使っている里子に耳には届かない。

 

 3

 

 十二月三十一日。煙草を切らしてしまったので、早めに家を出た晴斗は三日三晩降り続ける雪がようやく終わり、良く晴れた天気の下、誰が最初に足跡を点けるかを競い合う子供たちを見て、知らぬ間に微笑んだ。「重なった」子供は純粋さを呼び起こさせるので、晴斗にとって、雪の上を駆ける子供は、幼少期の自分として捉えられた。例に漏れず晴斗も雪の中を駆け回った記憶があるのだった。

 少し歩いた先で住吉がいるのを認めると、晴斗は片手をあげて合図した。表情が緩んだ晴斗を見て住吉も示し合わせたように笑った。積もった雪が、日の光を照り返し、地表には薄い影と、誰かの足跡が残っている。まだ子供は律儀に広場で雪合戦をしている。もう一時間も経てば、家の外壁に雪玉をぶつける射的ゲームが始まり、窓に向けて緩く握った玉をぶつけ始めて、その星形の跡が溶けたころに子供は家の中で昼食にありつくだろう。

 改札を抜けて駅のホームで待つ間、二人は並んでコーヒーを飲んだ。赤いボンボンの付いた帽子を被った女性が隣にいる男性に腕を回して、顔を近づけている。唇と唇が重なることはなかったが、代わりに女性は男性の肩に顎を乗せ、そこが世界で一番落ち着く場所とでも言わんばかりに、脱力していた。

「それで結局、おじいちゃんはどうなったの」住吉が聞くと晴斗は「なんか昨日の手術は成功したらしい。本当に良かったよ」と嬉しそうに言った。住吉は不思議に思った。前に会った時は祖父との距離が遠いことが苦しいと悩んでいたのに? もしかして急速に距離が縮まったのだろうか。

「まあ、肉親には死んでほしくはないよな」

「当然でしょ」

「お見舞いとか行かなくていいの?」

「いや、午後から行く。そこで合流」

「あーそうなんだ。間に合う?」

「いや、余裕っしょ」

 窓から見える景色が田園から家屋に変わり、都市が近づくにつれて車内には人間が増えた。乗客の額には汗がにじむ。晴斗と住吉も厚着の下に熱気を籠らせ汗をかいた。その分、大宮駅で降りた時の寒さに震えた。

「年末なのに人が多いね」

「年末だから人が多いんだよ」

 そのあと、二人は駅ビルで買い物をしようとしたが、いいものは既に売れてしまっていたので、徒労に終わった。晴斗は、それが良かった。人と一緒にいることに意味はなく、なんの意図も必要ないのだと、悦に浸る。住吉は不満足げに、スマートフォンを見ては、晴斗とはあまり会話をする気にはなれないことを、態度で示していた。

 喫煙所で住吉が晴斗に聞いた。

「そういえば、おじいちゃんの名前ってなんていうの?」

「ええっと、鈴木」晴斗は少し考えてから言った。「わかんないや。ちょっとおかあさんに聞いてみるわ」

 

 4

 

 僕は病院に入った。あまり臭いが気にならなかった。むしろ小さいころよりも病院らしいアルコールなどの嗅ぎ慣れていない臭いは薄れている。マスクをつけている人数も少ない。LEDライトに隈なく照らされた空間では影の存在は薄くなる。

 自動ドアのすぐ近くにある無人のカウンターで今日の要件を紙に書き、番号の書かれたカードホルダーを首からぶら下げて、二階へと向かう途中、エレベーターから父が出てきたので、喫煙所はどこにあるのか尋ねると、テレビカードを買うついでに一緒に吸おうという話になった。さっき紙を書いたカウンターまで戻り、父が皺だらけの千円札を機械に入れた。それが祖父から渡された千円札だと察すると、なにか失望のような感覚が僕の胃を締め付けた。それが終わると外に出て処方箋薬局の後ろにある喫煙所に向かい、煙草を吸った。

 病室に入ると母しか居なかった。祖父の両手は湯葉を張り付けたみたいに波立っている。こちらに気が付くと、一瞬間があって、一字一句、確かめるように名前を呼んだ。しかし、それは僕の兄の名前だった。母が訂正すると、ああそうだったかと言って二、三度は続いたが四度目にはまた元に戻り、僕は兄の名前で呼ばれた。両親は着替えや生活の段取りを整えると、また見舞いに来ると言って、病院を出た。僕は「もう少しいる」と言って、一人病室に残った。

 日当たりのいい病院の中庭で雪が溶け歩道のコンクリートが黒く染まっている。日陰の雪は溶けきれず、だが日向の芝生は姿を現す。雪が溶けて地面に染み込む。僕は、祖父が僕の名前を覚えられるのか不安に思った。手術後で体力もあまりない上に、痴呆が進んでいる祖父。僕は自分と祖父との間に共通する話題がないことに愕然とした。だから何かするべきことがないのか探した。五百ミリのお茶を買って渡すと、祖父は手すりを掴む。無理に身体を起こそうとする祖父の姿を見て、僕にはその緩慢さが事故によるものか、それとも老いなのか、判断がつかなかった。起き上がった祖父は引き出しの中から小銭入れを取りだして、しわしわの千円札を広げた。お茶代に加え「これで昼ご飯を食べなさい」と言った。僕は受け取りたくなかった。だが、僕は受け取った。午後二時だった。既に昼食を食べ終えている。菓子を何度も勧められた。僕は兄の名前で呼ばれるたびに訂正した。祖父は耳が遠く、何度も自分の名前を口に出す羽目になった。

 いくら疎遠であっても祖父という関係を維持しているので多少なり心配になるもので、僕はどれくらいの怪我か聞いた。そうすると、色あせた青のパジャマをはだけさせて胸を出した。鎖骨から胸にかけて、黒い染みが広がっている。祖父は不安げにその滲んだ黒い染みを見つめている。「痛そうだね」と僕が声を掛けると嬉しそうに、「そうでもないんだよ」と言った。そこで会話が切れると祖父はパジャマを正して、事故について金が勿体ないと嘆き始めた。僕は、まずは命があったことを喜ぶべきだろうと思ったが、事故にあった本人からすれば、予期せぬ出費として認識しているのかもしれないと思いなおした。

 

 うっかりサンマルクカフェで寝過ごした僕が病室に戻ると、叔母が居た。午後六時半だった。僕が「お久しぶりです」と声を掛けると薄く笑って、「そうですね」と言った。前に会ったのは二か月前の叔父の結婚式だった。叔父の俊彦は五十代を迎えてから結婚して、今は実家を離れて妻の敦子さんと二人暮らしをしている。叔母はその時と比べると、あまり年を重ねていないように見え、むしろ若返って生き生きとしている印象を僕に抱かせた。「あんずちゃんは元気ですか?」と僕が聞くと嬉しそうに、スマホを取りだして写真を見せて、犬のどこが可愛いのかを語った。叔母は楽器店に勤める男性と結婚し、子供には恵まれなかったが、犬を飼っていて、元旦に母の実家で会った時には犬を連れて、自分の子供のように丁重に扱っていた。僕は叔母が犬に愛情を注ぐ理由を探りはしなかったが、子供よりも犬の方がお金もかからないし、意思疎通ができない分、見返りのない愛を与えることができそうだと思った。だが、それは理想的な服従のような気がした。そして僕は自分の人格を疑った。犬と子供を比較してしまうような。

 廊下が人の気配で満ちると、四十代の女性の看護師がご飯を持って病室に入って来た。祖父の前に夕食が置かれた。その看護師は手慣れた手つきでベッドのテーブルを引き出して、その上に美味しくなさそうな食事を置いた。向かいのベッドに座っている患者にも同じように食事を置いた。

 祖父の前に置かれたお盆にはスプーンだけがあった。箸は力加減が難しく、祖父にとって使いづらいだろうと気を回したのかもしれない。だが祖父は看護婦に箸を要求しようとした。自分は子供じゃないと言った。叔母が「箸を使って食べられるならいいけれど、上手く食べられないならスプーンの方がいいでしょ」と言って祖父をなだめた。僕は思った。祖父を見ていると、かえって子供を見ているように感じられる時があり、それは我儘というか、背伸びというかどこか虚勢を張っているみたいだと。祖父はそれでも箸を欲しがった。

 看護婦が箸を持ってくると満足したようにスプーンで食べ始めた。一応は叔母の言うことを聞いたらしい。豆腐を食べようとした時、祖父は箸を手に取ったが、満足に使えないまま何度も格闘していた。何度か箸を落とした。手が痺れているのだろう。叔母は祖父のそのような姿を見て少し怒っていた。震える箸の先端が豆腐に中々たどり着かない様を見て、叔母は「上手く使えないんじゃ意味ないじゃん」と毒づいた。祖父はなんとか崩した豆腐のひとかけらを挟んで口元に運ぼうとしたが、途中で落ちてパジャマにぼとんと落ちた。「めっ! ほら、スプーンを使って!」祖父は「プリン食べているみたいだから嫌なんだよ」と言った。僕は変だと思い、向かいの患者の方を見て、フォークを使って豆腐を食べていたのを確認すると、看護師さんのちょっとしたミスなんだ、と合点し、そのまま廊下に出て看護師に声を掛けてフォークをもらった。僕はフォークを祖父に渡した。だが、祖父はフォークで豆腐を食べなかった。叔母が箸を使って食べさせるところに落ち着いた。

 食事が終わり、看護師がお盆を下げた。僕は祖父がどこを手術したのか知らずに見舞いをしていたので、それとなく尋ねると祖父は嬉しそうに笑った。叔母はため息をついた。

 手術は折れた鎖骨に金属を入れて強化するというものだった。祖父の説明は痛かっただとか金がかかるとか余計な情報があったので、時折、叔母が話の筋を戻した。

 僕が祖父の説明を聞き終えると、叔母が帰ると言った。祖父は「おれも眠くなってきたから寝る」と言ったので僕は帰ることにした。自販機の前まで来ると叔母は「何か飲み物いる?」と言った。僕は頷いた。ジュースを買ってもらった僕は、ついでにお茶を祖父のところに置いておいてあげようと提案した。叔母は「そうだね」と承諾した。

 僕らが買ってあげた緑茶を置きに病室に戻ると既に祖父は眠っていた。落ちくぼんだ目が皺と同化するように閉じられていた。胸は浅くふくらんだりしぼんだりを繰り返している。不意に叔母が祖父の禿げあがった頭を撫でた。そして僕に動画を取るように指示した。僕はスマホを渡されて動画を撮った。僕は、いつ辞めていいのか分からずに数十秒カメラを向けていた。やめ! の合図があるまで。

 僕は駐車場までの道で、叔母にどうして事故にあった日、病院に居なかったのか聞いた。

「仕事が抜けられなくてね。けど、私は昨日と今日の二連続で来たわけだし、手術前だってちゃんと来たのよ。俊彦なんてまだ一回も来てないし、いくら新婚生活が楽しいからって、それはないでしょ。あいつ本当にダメだわ。それに、結婚した相手って言っても、どうせ財産目当てなんでしょ」

 叔母は駐車場へ向かうために横断歩道を渡った。僕は立ち止まり、そこで「また、今度」と言った。そして、駅の方へと歩き出した。僕は失望した。叔母が失望していることに対して。

 

 家族全員が集まり、年末の特番を見ている。あと二時間もすれば年が明ける。僕は煙草を吸いに外へ出るたびに、張り詰めた冷たい空気を感じ、確かに何か変化するような心持になった。僕はまだ少し酔っていた。そして疲れてもいた。だから眠かった。まだ十時だった。僕は眠ることにした。新しい何かが始まることがすこし恐ろしかった。

 僕は眠る前、スマホを充電ケーブルに接続し、画面が明るくなると母からのラインがあったことを知った。なんであんな動画を撮ったのか、というものだった。曰く、あのあと、すぐに母、叔母、叔父がメンバーのグループラインに動画で共有されたらしい。僕は指示されたから、と答えた。

 叔母はなんであんなことをしたのか考えながら、布団に入り、あの行動は、むしろ犬に対する振る舞いと同じように、見返りを求めない愛情のようなものなのだろうかと僕は思った。そのままうとうとしていると、リビングの方が騒がしくなり、僕は年を越したのだと理解し、そしたら急に寂しくなり、家族のいる場所へと向かった。晴斗は酒を飲みながらテレビを見ている家族の輪へ溶け込むと「一致したい」と思った。僕は道徳の教科書と一致したい。晴斗は思った。僕は祖父ともっと話をしなければいけない。

 

 5

 

 一月五日。朝、反射鏡には霜が降りる。道路の上を這う薄い氷が晴斗を転ばせた。尻もちをついた尻を手袋をはめた手でさすりながら、今度こそ転ばないように駅までの道を歩き、電車に乗る。天気予報では、また雪が降ると言っていた。つかの間の晴天だった。晴斗はその間に、優子と俊彦の家へと行き、入院中の健吉がどのような人間なのかを調べることにしていた。そこから健吉との会話の種や、最終的には健吉への無償の愛を抱けるかもしれないと考えたのだ。

 二階建てのアパートに着き、俊彦たちの住む部屋のインターホンを鳴らした晴斗は、まず開口一番、何を言うべきかを考えたが、思いつく前に俊彦が扉を開けて、顔だけ出した。

「ああ、晴斗くん久しぶり」

 居間に通され、出された麦茶を飲みながら晴斗は部屋を見まわした。よく見れば俊彦の私物が限りなく少ないと気付いた。石油ストーブの匂いが濃かったので、晴斗は窓を開けるように提案した。窓が開いた。冷気が室内に入って暖かい空気をかき乱し、室内の空気は押し出されるように、窓の外に出てく。

「それで、爺さんについて知りたいんだって?」

「ああ、そうです」

「でも、知ってどうするの? 何の役にも立たないよ」

 理由を尋ねられると思っていなかった晴斗は、麦茶を一口飲んで舌を湿らせてから、ためらいがちに言った。

「いや、なんというか、じいちゃんのことなんも知らなかったなあって最近になって気が付いたんですよね。それで、ほら、じいちゃんも今、ちょっと、おっかなびっくりみたいな、そんな感じなので、ええっと」

「なんだ、純粋にじいさんのこと知りたいんだ」

 安心したように俊彦が言った。俊彦含め、鈴木家の子供たちは遺産相続の分配について幾度か話し合いを重ねており、現段階では長男・長女・次女の順に残される資本が多い。だから晴斗が健吉について知りたがった時、俊彦は遺産について知りたいということなのではないかと疑った。そして不安に思った。もしかしたら、自分の取り分が減ってしまうのではないかと。しかし、晴斗の金への無頓着さを理解してから、それが急に馬鹿らしくなり、そして晴斗が遺産とは無関係だと判断し「あっちゃん、ああ、俺の奥さんは多分、裏では遺産狙いって言われているけれど、そうじゃないんだよ。普通に婚活で出会って、結婚しただけ。だからつまり、家族っていうのは、そういうものを越えた繋がりなんだと思うよ。だから晴斗君は偉い」と言った。なぜ晴斗にこのような話をしたのかは単純で、ただ晴斗が信じてくれると思ったからである。動機として自分の妻が遺産目当てではないことを誰かひとりにでも理解してほしかったからである。里子や優子に話しても、彼女らは俊彦の無根拠な説明では納得しない。なぜなら五十代になってから結婚できる理由が、彼女たちには遺産ぐらいしか思いつかないからだ。

 晴斗は思った。僕がそんなことを考えるわけがない、それに家族間で大切なのは愛だから。晴斗は俊彦を可哀そうな人だと思った。そんな些細なことを心配しているなんて。

「そんなこと考えるわけないじゃないですか。そうですね、なんか最近になって、僕も家族って大切だなって思うようになったんですよね。だから爺ちゃんも心配で」

「まあ確かに、爺さんの感じだと、危ないって思うよね。でも爺さんの話なんて、あんまりないからなあ。なんか聞きたいことある?」

 本当は特に知りたいことは何もない晴斗は、それを分からないふりして「じいちゃんってどんな人だったんですか?」と言った。

「いや、まだ死んでないよ」笑いながら俊彦が言った。気まずくはなかった。むしろ、打ち解けたといった様子で「そうだな、爺さんは頭が固くて過保護だったな」と顎を触りながら健吉を評価した。

「まあ、だから結婚式の時も辛かったよ。全然笑ってないんだもん。ああ、写真見る?」

 そう言って俊彦は箪笥から写真を取りだして来た。その途中「寒いよね」と言って窓を閉めた。写真には俊彦とその奥さんである敦子さんが二人、白い姿で座り、その後ろに黒い服を着た二人の両親が並んでいた。確かに、健吉だけが表情が抜け落ちていた。が、健吉は不満そうではなかった。

「なんででしょう?」

「やっぱり、子供かな。どこまで行っても二人きりだし」晴斗はなんていえばいいのか分からないまま口を閉じていた。しばらく沈黙が続いたが、俊彦が気を使い、気丈に「まあ、それを分かっていて結婚したんだけど」と言うと、晴斗は急に励まされた気分になって「そうですよね、子供がいなくても」と朗らかに笑いながら言った。俊彦は怪訝そうに「晴斗くんは友だちから変なタイミングで笑うって言われたことない?」と言った。

「え、ないですけど」

「そうなんだ。そういうところ、良くないと思うよ。こっちは真面目に話しているから、相手に失礼だと思う。俺はいいけど、社会に出た時に苦労するからね。そうそう、爺さんの話だけど……」

 晴斗は自分が人間関係におけるタブーを犯したと気が付き、それによって生まれる緊張感から俊彦のその後の話をうまく整理できなかった。結局、健吉は頭が固くて過保護である、という情報のほかに得るものはなかった。

 

 6

 

 僕は実はいいやつなのである。確かに叔父には悪いことをしたと反省はしている。だが、それは叔父の心に寄り添おうとした結果なのであって、それが失敗に終わっても、僕がいいやつなのは確かである。というのも、僕はこれから祖父の見舞いに行くわけだし、明日には叔母から祖父の話をしてもらう予定であり、家族の絆を回復するのはいいやつしかできないだろう。時として、おっちょこちょいなミスをするが、それは仕方がない。

 個人部屋に移し替えられた祖父は目だけで僕を見て、口角をわずかに上げた。僕には祖父が喜んでいるのが分かった。

 衰えが目に見える祖父に僕は同情が湧いた。既に一月六日になる。年が明けてから僕は毎日、祖父の見舞いをしていたし、だからこそ段々と死に近づいているように思えた。

「じいちゃん長く生きてくれ」と呟いた。「まだ泣く準備ができていないんだよ」

 僕が外の木をぼんやり見ていると「晴斗は今年、成人だっけか?」と祖父がかすれた声で尋ねたので「そうだよ」と返す。

「晴斗が成人になるのを見たいな」

 はっとして僕は祖父を見た。自分の名前が覚えられている。祖父はトウモロコシの実のように黄ばんだ歯をむき出しにして笑っていた。病室の窓から見える緑樹の隙間を縫って、落日の束の間の朱が、病室に差し込む。それに照らされた祖父の顔は活力を取り戻したように見えた。

「うん、頼むね」僕は誰かに抱きしめられた時のようにほっと息を吐き出して、安心に浸かれる喜びに震えた。「重なった」これだ、この感じが家族なんだ、と僕は思った。小説で読む家族愛、漫画で読む家族愛、映画で見る家族愛、物語と重なった。感動物語の主人公に僕はなれる。これまで僕の人生の内でこれほどまでに、物語と重なることはなかったから、その喜びもひとしお。

「晴斗、ペンと紙を買ってきて」短く祖父が言った。

 祖父に買ったペンと紙を渡すと、少し席を外すように頼まれたので、喫煙所に向かった。その途中で叔父とその奥さんである敦子に出会った僕は、昨日の気まずい雰囲気を思い出して、どもりながら「じいちゃんの部屋は、三階にあります」と言った。叔父は自分も悪いことをしたと思っているのか「ありがとう」と優しく言ってくれた。

 病室に戻った。祖父は叔父が挨拶すると嬉しそうに笑ったが、敦子がいることを知るとまた無表情になった。誰だか分からないだろうかと思った。敦子が「心配しましたよ」と優しい声で言った。

 敦子は五十代だがネイルをしている。化粧は濃い。それは敦子さんが美容の専門学校で働いているからだ。それが祖父の方へと向けられるたびに、そのメスのような鋭さが不気味に思えた。祖父は回復しつつある身体を起こそうとしたが、敦子に安静にしていてください、と言われたので、しぶしぶ寝た。叔父は一通り祖母と会話してから、何か買ってくるよと言って廊下に消えた。

 敦子は居心地が悪そうに、僕を見た。僕は何も言わなかった。祖父が敦子さんを見て「貴方誰?」と言った。敦子はフッと鼻を鳴らして「敦子です」と言った。祖父は「敦子さん? ごめんね、分からない」と言った。「俊彦さんの妻です」と言われると祖父は「知ってるよ」と言った。

 また沈黙が病室を支配しかけたので、僕は逃げようとしたが祖父から「晴斗は結婚できそうな人はいる?」と聞かれ、その場にとどまらざるを得なかった。

「いないかなあ」

「そうなんだ。するなら早い方がいいいよ。子供ができないと駄目だもん。それに早めに結婚しないと、財産目当ての女とかと結婚する羽目になるからなあ」

 その言葉は少なからず、僕を動揺させた。憎しみになれない悲しさを思った。

「そんなことはないと思う」と言った。できる限り間延びした声で、表面上は否定していないように聞こえるように僕は意識した。なぜなら敦子は、まだそこで微笑んでいるのであり、叔父の話から、敦子を信じたい気持ちもあったからだ。だが、ネイルをしたまま見舞いに来る態度もどうなのかと疑いの気持ちもあった。

「あんたはどう思う? ええっと誰だっけ?」

「私もそうではないと思いますよ。おとうさん」

 敦子から、おとうさんと呼ばれることが気に入らないのか、祖父の眉間にしわが寄った。次に口にするのは「俺はあんたのおとうさんじゃない」という言葉であることが想像できた僕は、できるだけ早く叔父が帰ってくるように願った。これ以上、祖父の嫌な部分を見たくはなかったのだ。

 叔父が缶コーヒーと五百ミリのお茶を買って戻って来た。僕は予定を変更し、叔母の話を聞きに行くことにした。スマホを取り出して、連絡をすると、ちょうど見舞いをしに行こうと思っていた、と返信が来た。俊彦たちは既に帰っていた。

 

 7

 

 すっかり陽が沈んで、病院内の飲食スペースから外を眺めようとすると、窓に映る自分の顔に邪魔される。晴斗は優子が席に来るのを待っていた。しばらくすると、優子が二人分の飲み物を持って現れた。

「じいちゃん元気?」

 赤いコートを脱ぎながら優子はそう言った。白いふけのようなものが床に落ちた。

「ちょっと回復したみたいです。あんまり時間がかけられないので単刀直入に伺いますが、優子さんは祖父に対して、どのような印象をお持ちですか?」

「何その話し方」笑いながら席に座ったあと、熱い紅茶を啜り言った。「昔は頭が固くて嫌いだったけど、今はまあまあ好きかな。なんか年を取るにつれて丸くなっていったと思う。今でも頑固だと思うけど。昔はもっと酷かったのよ。ああ、ほら、うちって農業していたじゃない? 二年前ぐらいに売っちゃったけど」

「え、なんで売ったんですか?」急な話に驚きつつ晴斗は言った。

「いや、誰も跡を継ぐ人がいないからさ。それにあの家、国道に近いじゃない? それで最近になって物流倉庫が建設されるようになってきて、まあうちの田んぼが欲しいっていうのがあったんだよね。昔だったら後継ぎがいなくても売らなかったと思う。自分が耕してきた土地に対する愛着とかで。でも、じいちゃんは私たちに何の断りもなく売ったの。それでお金がたくさん入ったらしいよ」

 夜が来て、また凍り始めた道路をトラックが走っていく。晴斗は自分の家と同じだと思った。そして急に納得がいった。孝二の口癖の「クラウンってかっこいいな」は実現可能な個人的な夢だったのだと。

「まあ、でもじいちゃんが心配だよね。私もできる限り様子を見に行っているけどさ。それにそれぐらいしかできないし。晴斗くんは偉いよね。なんでも毎日、行っているらしいじゃん」

「まあ、僕もそれぐらいしかできないし」

「そうだよね。偉い、俊彦たちと比べれば偉いよ」目を輝かせながら優子は言った。晴斗は病室でのでき事を思い出して「敦子さんはじいちゃんのことを好きではないようです」と言うと、優子も同調した。「あの女は財産目当てなんだって。だって、自分のことを優先しているもん。普通はもっと見舞いに来るものでしょ。俊彦だって全然見舞いに来ないくせに、財産だけは一番多くもらおうとしているんだよ。信じられないでしょ。一番、じいちゃんへの愛がなさそうなあいつがさ」

 優子の愚痴は今に始まったことではないが、彼女が最も不満なのは自分が最も、財産の配分が少ないことに対してである。彼女は結婚しているものの子供はいない、そして最近では夫との関係もうまくいっていない。それがなぜだかは分からないが、優子が不安に思うことは、夫と離婚した場合の、頼る人間が少なくなることに対してであり、自分の老後であり、余裕のなくなった生活だった。だから、その不安が消えるぐらい金を持っていたかったのだ。

「やっぱり大切なのは愛なのよ」

 一通り愚痴を言い終えた優子が着地したのは、愛だった。晴斗はそんなの当たり前だと思ったが、一応それっぽく見えるように深くうなずいた。

 

 8

 

 雪が降っていた。晴斗はまた健吉の見舞いをしに来た。これまでと違うのは和樹が一緒に居るという点。和樹は健吉の体力がなくなりつつあることを知ると、仕事を休んでまで見舞いに行くと言った。昼過ぎに病院に着いた。その時、健吉は意識がもうろうとしているのか、天井に向けて目を開いているだけで、何かを認識しているようには見えなかった。呼吸が浅かった。昼食の時間に二人に気が付いた健吉は、和樹も晴斗と呼んだ。

 その翌日の早朝に、つまり晴斗の成人式の前日に、健吉は死んだ。雪は降り止んでいた。死因は老衰だった。術後からどんどんやせ細り、肌が白くなっていった健吉は、もう老いには勝てなかった。

 晴斗はやっと泣けたが、その涙の理由がわからなかった。別に親しくなったわけでもないし、多くの時間を共有したわけでもなく、泣くに足る理由がなかったにも関わらず、泣いてしまった。しばらく嗚咽し続けた。親族で泣いているのは晴斗だけだった。心配した里子が、落ち着くために外に出るように勧めると、晴斗はうなずいて病室から出た。だが病室を出ても涙が止まらず、そういう姿を他人に見られたくなかったのか、晴斗は誰もいない中庭に出た。すっと涙が止まった。健吉の病室から見えた木があった。良く晴れた空に目を細めると、水の落ちる音がした。木の葉の上に積もった雪が、太陽の光に照らされて、溶け始めていた。そこだけ、雨が降っているようだった。晴斗は木の下から病室を見上げた。和樹があくびをしているのが目に入った。溶けた雪が晴斗の頬に当たり、顎まで流れていった。掴める雪が溶けて、掴めない水に変わった。晴斗は泣けない自分に対して泣いていたのだと理解した。

 

 9

 

 健吉の家も、晴斗の実家と同様に裏に木が生えている。田んぼに囲まれた農家の家は風を防ぐように周りに木が植わっている。健吉の老後はその手入れと手元に残した畑で野菜を作ることだった。

 炬燵を囲んだ里子と優子、そして俊彦は向かい合って、目の前にある茶色い封筒を誰が開けるか見守っている。誰も開こうとはしない。みな当事者になることを恐れている。それは健吉の分配に関する意思だった。それは遺書ではないが、ただこうしてほしいという願いではあった。

 その時点ですでに健吉は死んでおり、葬式などの手配などを終え、ひと段落したところだった。最初に口火を切ったのは里子だった。時間がもったいないと言って封筒から紙を取り出した。それを全員に見えるように机の上に置き、読んだ。

 読み終えた時には分配量が変更されていた。まず里子が最も多く次に俊彦、最後に優子だった。ただ法的な拘束義務のない書類だったせいで、ここからまたこじれた。もちろん優子は愛を使って異議申し立てを行った。俊彦は見舞いに全く来なかったし、里子と自分を比べて、これからの人生で苦しいのは自分だと主張した。だが、里子も晴斗の学費を引き合いに出し譲らなかった。そして俊彦は自分が長男であることと、新婚でもっと楽しみたいという理由で譲らなかった。それぞれの環境の差異が、それぞれの正当化の根拠だった。ここまでくると平行線のままだった。だからか健吉への愛によって分配を決めようじゃないかと優子は言った。里子も俊彦もうんざりしていたが、自分が一番少なくていいとは言えなかった。そして、それぞれが愛を主張し始めた。どれだけ健吉に献身的であったか、過去にどんなことを健吉に行ってきたか、そういう話だ。それぞれの愛と引き継がれる資本の量を比例させようとする試みは難航した。健吉について言及すればするほど、口が重くなっていった。

 話が進まないから明日また話し合おうという流れになりかけた時、里子のスマホが光った。晴斗からの連絡だった。そこで里子は気が付いた。

「ねえ、晴斗ってほとんど毎日、お父さんの見舞いに来ていたじゃない?」

 里子がそういうと優子も俊彦もうなずいた。

「それって、もしかしたら晴斗が一番、愛があったんじゃない?」