遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

ゴミ2(途中放棄)

 日差しがギンギラギン、コンクリートの上に置かれたベンチに座っているOの身体は公民館の自動ドアの開閉と同時に吐き出される冷たいため息に身を晒されて少し身震いした。

さっき買ったばかりの缶ビールの結露が熱い掌をひんやりさせる。勢い良くプルを引くとカッコンと軽快な音が鳴り、泡が飲んで欲しそうにこちらを伺う。よかろう、飲んでしんぜよう、と味わうことなく一気にあおった。次いでOは煙草に火をつけた。彼の座っているベンチは炎天下の元、夕暮れ時になった時に初めて日陰になる場所に置かれている。コンクリートの上には日陰さえも現れないが、そのような場所でおひるを食べるのをOは別段大きな障害として意識せずに、尻の熱さについても無頓着である。彼は目を細めながら横を見ると、てらてらと光り輝く人影を認めた。大空に手を伸ばしている裸の女体である。

――寓話か何かで銅像と鳥の話があるけれど、あの像は幸福だろうか。幸福な王子と名前がついているけれど、僕には不幸だったように思われる。だけど、不幸の王子が、不幸を推し進めた先の結末が自己犠牲として美化されているわけで、その美化作用を意識的に読むと、みすぼらしくなった時こそが存在そのものを美に接近させているように思わないか? それに剥き出しになった像を美術ではないとして破壊した人間を誰が責められるだろうか? 彼らも像とツバメの物語を知れば、変わらずにそこに置き続けただろう。横にその物語を書いた看板を設置して。

紙パックのオレンジジュースをビニール袋から取り出して、飲み始め、自己犠牲が美しいのではなくて、自己犠牲の過程で社会的な地位や経済的な世界から距離を取ることが神秘的な要素として加わり、つまるところ社会からつまはじきになった状態こそが美に最も近いという論理を思い出したOは、午後の講義をすっぽかそうと決めた。

――今、僕の視線に先にあるのは元・幸福の王子だ。現・不幸の王子だ。陽炎がぼんやり揺らめくコンクリートの上で身じろぎすることなく、明日も明後日も変わらずにそこにいるはずだと確信が得られる存在で、あの物語のようにそれを壊す人は、この時代にはいない。

 彼は、その考えに懐かしさを感じた。家に帰ったら母親が居て、夕食になれば家族一緒のテーブルで、自分の席が決まっている食卓で夕食を食べる。食後にゴールデンタイムのバラエティーにツッコミを入れながら食べる果物の甘さという安心。ノスタルジーが、記憶を再現し、彼は世界への信頼(明日はちゃんとやってきて、過去は記憶になるという確信)を一時的に取り戻した。そんな彼にとって、毎週月曜から土曜日まで大学に通い続けるという習慣がもたらす安心は、もはや必要がなかった。

 中指と人差し指で挟んだ煙草を携帯灰皿に入れてから、時間を気にすることなくおひるを食べていると、帽子を被った老人が隣に座って来た。加齢臭がして、彼はサンドウィッチをビニール袋に戻した。吐き気に襲われたOは、場所を変えようと立ち上がったが、隣に座った老人が「なにもいいことはない。疲れたから休もうと思ったんだけど、どのベンチも日陰にはなくて、全部、太陽に照らされている」と多少なりとも共感できることを言い始めたので「休むなってことなんですよ」と返して、老人との間に十分な距離を取って座り直した。

 老人はOの顔を不思議そうに見たが、両肘を両ひざに置き、背中を丸めて地面をせかせかと這う蟻を見つめはじめた。

「私は自分のことを悲観的な人間だと思っていたけど、吉田も同じようでいて、私よりも諦めているね。もっと希望を持った方が良いと思う。未来に期待したほうが良いかもしれない」右手の拳を顎の下に置き「でも、未来に期待しても悲しくなるだけっていうのは私も似たような経験があるから分かるけど」と、そこで言葉を止めてから迷うように「君と私とじゃあ状況が違うだろうけど」と消え入りそうな声で言った。

 老人は俯いていた。Oはしばらく老人の姿を眺めていると、不意にこの老人が像のように見え始めた。Oに訓示めいた言葉を発していたのに、知らない間に自己言及的な言葉を発している老人は、額に汗を浮かべた。

「まあ、そう言っててもどうしようもないですからね。多分行動するしかないんですよ」

「行動しても変わらないことがあるんだよ。その行動が過ちだったと反省してしまう時、分からなくなってしまうんだよ」

「美化できないんですか?」

「美化したら、本当のことが見えなくなってしまうように思えてならない」

自分の額に汗が浮かんでいるのに気が付いた老人はポケットの中を探ったが、ハンカチを忘れていたのを忘れていた。それを思い出した老人は、ため息をついて猛禽類の足のように皺だらけの手で汗をぬぐった。そのまま左手は右手に組まれた。

地面から立ち昇る熱気と共に耐え難い匂いがOを不快にさせた。「それは、貴方が本当のことを信じたいだけなんだ。他人から見たらあなたの本当のことは偽りになってしまうんだ」とOは呟きにしては長すぎる言葉を呟いた。老人の耳には届かなかった。いや、聞こえていたかもしれないが、老人はもうOの言葉を意味として理解するのを止めていた。

「あ、おじいちゃん。やっと見つけた」

 専属のヘルパーが(と言っても四十歳ぐらいの)公民館から出てきて、そう言った。彼女は迷い人の捜索届を出した後だったので、苛ついており早口だった。ヘルパーはOを見てから、はにかんで「もしかして、話し相手になっていてくれたの?」と言った。

「まあ」

「そう、ありがとうね。このボケ老人は誰にでも話しかけるから。毎日毎日、家から居なくなって」思い出したかのように「そう、大体ボケ老人と喋っている人は、いつも吉田って人なの」と言った。「あなたもそうなの?」

「ボケてない。私はまだ大丈夫だ」と老人が言った。ベルトの付いていないスラックスから青いストライプのトランクスが見えた。

 Oは急に不安になった。先ほど回復した世界への信頼が恐ろしくなった。この老人は街を徘徊し誰かに話しかける。それは明日も明後日も、老人が生き続ける限りそれは続く。そして、この老人はいつも吉田という人間と話し続ける。次の日にはすべて忘れて、また吉田に向けて話をする。つまるところOは終わらない日常を恐れた。矛盾だった、変わらないものに安心を求めるが、変わらないものにも恐れを抱く。

「あ、僕、大学戻らなきゃ」

 Oはそのように口にした後、やや速足で大学に戻る間、大学という単位に属し、さらに学生というカテゴリーに属していると自分に言い聞かせて、自分を社会の一構成員であると位置づけることで、その不安から逃れたはずだったが、いざ大学の正門を前にしたら、その変化の無さをありありと感じてしまった。

渋谷に行くことにした。あの老人のような姿勢で電車の揺れを意識していた。何かに耐えるように。

 

 1

 

身支度を早めに終えたOは、家を出ると決めた時間まで窓際でぼんやりとしてた。彼が窓の外から見ているのは朝倉が居る町の方角だ。時折、腕時計を見やり、あと十分―五分―あと四分と近づく時間をひどく気にしていた。時刻が近づけば近づくほど、時計を見るタイミングは小刻みになる。彼は決定に対して厳格であり、不変を愛していた。ルールが守られることに対しても喜びを覚えているが、朝倉に会いに行くという状況にあっては、家を出る時間を決定した事は苦しみに繋がった。「僕はなにをやっているんだろう、こうしている間にも家を出てしまえばいいのに」彼は微かな希望をもって、朝倉の家を見つめていた。「彼女も僕と同じように窓から相手の居る場所を見ていやしないだろうか」しかし、そんなことはありえない。彼女の家のカーテンはしっかり閉じられており、彼はその期待の分、落ち込んだ。

 家を出たOはまずイヤホンをつけて音楽を聴きながら歩いた。彼はSpotifyでロックミュージシャンのアルバムを流し始めた。このアルバムは全体で四十六分分ほどの長さで、彼が彼女に会いに行くときには必ず聞いているアルバムである(といっても、彼が朝倉の家を訪ねるのはこれで三回目なのだが)。それはなぜか。このアルバムを聞き終わるタイミングで彼女の家にちょうど時間ピッタリにつくからだ。

しかし、はやる気持ちから、十曲目で最後の曲がり角を見てしまった。あと二曲分、彼は歩くことにした。道よりも家が優先されている道、家が建たなかった部分を道としている住宅街には、外灯がない。彼は雪の降った夜などには、この辺りは神秘的な空気を纏いそうだと思った。子供が作った顔の無い雪だるまや、壁に張り付いた星形の雪跡が神秘さを演出してくれそうだった。その情景を思い描きながら歩いているとアルバムが終わっている事にふと気が付いた。彼は来た道を走って戻った。その際、大きな過ちを起こした。朝倉から約束して欲しいと言われた事「ここに来るまでの間、音楽を聴いて来ること。もちろんイヤホンでね」。それを意図的でないにしろ破った。腕を振って走る、イヤホンのコードに手が引っ掛かり、耳から外れた。彼はキーンと鳴る痛みを感じながら、足を止めた。そうして、周囲から溢れる呻き声を初めて聴いた。

 

 2

 

 Oが今から会いに行く女性の名は、朝倉悠貴という。彼が朝倉と再会した時、彼女は相変わらず所属する新興宗教の勧誘をしていたが、それが彼を喜ばせた。信徒という点では不変の存在だ! 興奮したOは朝倉から話を聞かせてほしいと彼女に声を掛け、居酒屋で説明を受け(その間の彼の視線は耐え難いほどに感動で満ちていた)、そして、ラブホテルへと向かった。しかし、彼は神に対する信仰など持っていなかった。いや、断言はできないが、明らかに神の存在を確からしい一つの現象として受け止めたことはなかった。確かに彼は不変の存在に対して執着はしていたが、信仰はしていなかったのだ。

 

 3

 

 朝倉の母親は朝倉の兄が生まれるころ、ひどくナイーブになっていた。自分の苦しみを誰かに吐き出したいという欲求が膨れ上がり、いつか破裂してしまうのではないかと自分自身に恐れを抱きながら、生活していた。朝倉の母は按摩する職業だった。彼女は出征前診断を受け、自分の子供が障害を持って生まれてくる可能性が高いことを、事前に知っていた。だから、生むか、生まないかという選択を迫られ、それを誰かに相談したかった。だが、妊娠がバレて仕事をクビにでもなったら生活していけない。そうしている間にも、腹は膨れ上がり、でぶになっていく。インターホンが鳴る。婦人が「悩みがないか。ちゃんと眠れるか」と問いかけてきた。「話を聞くよ。いつでも来てね」ドアポストに一枚のビラ。彼女は赤の他人に心配されたこと、それに満たされる感覚に陥った。そうだ、わたしは選ばれたんだ!

 彼女は座談会に行き、自分の置かれている状況を洗いざらい話した。人々は彼女に共感し、各々自分が苦しかった経験を、彼女を通じてもう一度プレイバックし、朝倉の母は苦しみという体験は、苦しみであるという一点で共有されるものとなった。それを察知した朝倉の母親は自分の居場所を見つけたと安心した。そして入信することになった。新しい集団、優しさにあふれた人間は、彼女に子供を産むべきだと教えた。それは障害ではなく、運命づけられた証であると。彼女は産んだ。そして、朝倉の兄は、新興宗教の教祖の養子に入れられた。

 

 4

 

 新興宗教、私のような四半世紀も生きていない人間であっても、どこか胡散臭さを感じてしまう言葉。その集団の内情は知らないが、日本都心部での耐え難い苦しみ、あのナイーブさに対応するための集団である可能性は否定できない。それは中間集団として機能することを意味している。国と個人の間にある集団は、自治会など様々あるが、それらには選択肢はない。あるのは、参加するかしないかである。同じ土地に住む人間という理由だけで、人は団結できない。しかし、集団そのものが選択肢の一つとして浮き上がって来たのならば、より自由に、より複雑性が増大する。どのサークルに属するか、どの会社に属するか、そのような迷いの中、自分が相手に認められ(あるいは集団の中の価値基準に則った評価)、この集団に属してみないかと問われたのなら、自分は選ばれたと思うには十分すぎるだろう。それは自分が選択し入信したという意思の確からしさと、選ばれたという満足が、同時に押し寄せ、個人はより高い場所へと浮遊していく快楽に捕らわれるに違いない。

 

 5

 

 備え付けのインターホンを押す指が震えるのは、先ほど聞いた呻き声が原因であるとOは理解していた。しばらくして朝倉が顔を出し、手招きをした。彼は家に入ってからすぐにイヤホンを外し、古い廊下歩いた。彼には廊下のきしむ音は動物の威嚇のように聞こえた。その低い呻きは警戒心と攻撃性を孕んでいた。朝倉はOに顔を向けながら、妹が居間に居るからこっち、と言って先導する。これまでOが朝倉家にお邪魔する際は、居間で二時間ほど大学での話をするのがお決まりだった。二人の共通点は日本文学科に属しているというもので、そこでの話題はもっぱら課題をどのようにして乗り越えるかというものであり、違う大学で違うカリキュラムという点において二人は純粋な協力関係にあった。

Oは自分でも意識しない内に、その協力関係を崩し、排外的な関係を進めようとしていた(本来的に、同じ集団に属していないという点で、既に私秘的であったが、それを推し進めたいのだ彼は。そして私も)。だからこそ今回、初めて朝倉の部屋に入ったOは、さきの廊下の軋みに威嚇という意味を感じ取ったのである。

朝倉の部屋に入ったOは最初、地面に散乱している人形の数々を不思議に思ったが、それが彼女の妹のモノであると聞かされると、納得した(それと同時に、朝倉に妹がいることに対して驚いた。彼は知らない。そもそも妹という存在が嘘であることを) 。しかし、その違和感が呼び水となり、Oは先ほどの呻き声とつじつまが合うような物事を期待した。説明を求めていたと言ってもいいだろう。しかし、O自身は朝倉との約束(イヤホンをつけるということ)を破ってしまったという後ろめたさを感じ、疑問は口に出されることはなかった。

 Oは部屋の中を見回した。窓際に並べられた学習机(一つしかない)と、壁際の電子オルガン、炎のようなフレームの鏡、プラスチック製の三段箪笥。これといって呻き声と繋がり層の無い物ばかりで、彼は不安になった。

朝倉がお茶を汲みに行くと、彼はより細かく呻き声とつながりのありそうな家具を探した(生活から導こうとした)。柴犬の卓上カレンダーの一三日には赤いペンで星マークが付けられている。電子オルガンの蓋を開いても、染み一つない。彼は二段ベッドを見つめ、今あそこに身体をなげうったのならば朝倉はあの夜と同じように、まんざらでもない嫌味を言いながら、浮遊感を与えてくれるだろうかと、邪な考えを抱いたが、すぐに忘れることにした。鏡に映った自分の顏を見てしまったからだ(Oは既視感を得た。鏡に映る自分を見る自分。その感覚に対して)。そうして小学生の妹がいるなら同じ視点で探そうと思いつき、(まるで鏡から逃げるように)四つん這いになってみると、机の足もとに小さな本棚があることに気が付いた。彼は腕を伸ばした。しかし、そこで朝倉が戻ってきてしまった。彼はその場で凍り付いた。朝倉はOの背中にお盆を置いた。しばらくの間、Oは弁解の言葉を探したが、本当に弁解の言葉でいいのだろうかと考えた。

━━いま、僕が自分の行動の理由を述べる事は、かえって不自然なんじゃないか。

そうして、朝倉にどうしてお盆を背中の上に置いたのかを訪ねた。すると、そこは一番大切な処だから止めて欲しかったそう。Oは一番大切な処こそ他人と共有すべきではないかと思い当たった時、あの本棚には経典のようなものが仕舞われてあると早とちりした。彼はまだ教えの書かれた書物を持っていなかったので、そう思うのも仕方がない。彼は「もう少ししたら、何が置いてあるのか教えてくれるの?」と尋ねた。朝倉は曖昧に頷いた。「多分ね。まだ分からないけれど」

 

 6

 

「多分ね、まだ分からないけれど」という言葉の裏にはOを見定める自信が彼女になかったのを端的に示している。Oが噛み殺した笑い声を立てるのを恐れている朝倉は、その本棚に自身が所属している共同体を告発する本を隠しているのを見られたくない。だが、出来る事ならば、彼がアイロニカルな姿勢を自分と共有しているかを確かめたかった。

彼女は母が不在の間に人形で遊ぶうち、妹という存在を作った。それは母親との間に聳え立つ壁を透明にする技法である。朝倉は人形に触れる時、母親になりきり人形を愛で、自分で満たされない自分を愛し始めた。彼女は、人形遊びでは母の役割を担い、現実では子供である。人形で遊ぶことは、母の不在を埋めるように母という役割へ同化を試み、それは反復されてつづけてきた。彼女は、その没入に対して妹という概念を当てはめた。

朝倉にとって妹は他者の侵入を拒むものである。なぜなら、それが彼女しか持ちえない核であるからである。耐えず流れる涙を不快に思うように、彼女自身が妹に対する愛憎を抱き続けている。妹が生まれてから、他人の痛みを感じるのを拒否する態度が形成され、そのせいで朝倉は母親の属する教団に属しながらも、経験という共同体に属せない。もし、ゾシンの属する宗教を信じてしまったのならば、信仰を得るに至った経緯を告白するべきであるし、自分の痛みを各々の経験と照らし合わせられ、各々自身の痛みのように苦しむことを受け入れられなければならない。彼女が語ることができるのは、母親に相手にされない事の苦痛である。加えて、自分の経験を他人が追体験することは、自分が増殖していくように感じられるものではないか? 周囲は自分であり、自分はまた周囲である。朝倉悠貴は身長が高く(彼女は母親が自分を気にするような可愛らしく、愛嬌のある人間になりたかった)、周囲の男性女性、身長の高低、様々な身体の差異を持つにも関わらず(そしてなによりも体験していない人間が)自分になるのを拒む。そしてなにより自分の母親が、娘を蔑ろにしているのを他のメンバーに知られたら、母親は一体どのような処罰を受けるか、その想像をする度に恐れを抱くのだ。

つまるところ彼女は語れる苦しみがないのだ。自己を物語とする立場がある事はご存じ? 自分の経験を語ることは自分という物語を作ることである。しかし、教団には苦しみというという帯文の付いた人間たちが集まり、もちろんそこには「苦しみ」という共通項がある。しかし「苦しみ」を語れない朝倉は、そのような経験の共同体に属することができない。繰り返そう。朝倉にとって妹は不可侵である。

 

 7

 

彼女は言われた通りに防音部屋にたどり着き、所在なさげに電子オルガンの前に座った。茶色い外装を節が「川」のように流れていた。彼女が緩慢な動作で白鍵を優しく触れるように叩くが電子音は鳴らずに爪がプラスチックに当たった音と微かにバネの音がした。それは、どんな音だったか思い出すことが困難な特徴のない害のない音、彼女は綺麗だった。苛立ちも喜びもない、怒りも悲しみもない、希望も安心もない彼女の顔には、どこにもリアリティといったものがなく、一三歳にしては細く白くしかしどこかで健康的だと思わせる四肢と年相応の丸みが取れていない顔―特に頬が柔らかそうで怒ったとしても尚更にその可愛らしさが目立つような顔立ち―と彼女の鍵盤を叩く動作が何かを諦めた人間が見せる静かで汚れも感じさせない動作のようだったからだろう。そういった彼女の姿を見ていると、電源コードを刺してやることも、声を掛ける事も、息をする事も許されない気がした。つまり自分を彼女との対比によって許されないモノと設定し(本当は話しかける事で静謐が崩れるのが怖かった)、そのルールに則り行動を制限していたことになる。彼女は何度も繰り返し、特徴のない害のない音、綿を殴る時に感じるあの無抵抗な何も反発が起きない虚しさに近い感覚、に憑つかれていた。

あの頃の僕は音楽室の、防音のために壁の至る所に空いた穴、一つの穴に意識を向ける事もできないし、かといって部屋全体の穴を意識できる訳でもない暴力的な穴、死角にあるかもしれない=視認できない穴が怖かった。朝倉の後を追うという形で防音部屋に入ったが、本来的には、何度かの偶然を信じる事でしか、そこに侵入できない。僕は入ってすぐの穴を覗いてみたが、ただの穴(暗くて見通しがつかなくて、自分の体が小さくなって穴に落ちてしまったらどうなってしまうのかわからない穴)だった。

西日に背を向けた身長が高い事を気にしている彼女が履いている赤いモカシンのすぐ横には菱形の蜜柑色した夕日のマットが敷かれている。そこには格子のような影が埋め込まれていた。ぼんやりとした西日の中で埃が輝き、普段どれだけそれを吸い込んでいるのかを意識させられてげんなりとした。

彼女は弾力のある皮膚を持ち骨と肉体の結合が特徴とされる機械のようだった。長い睫毛が揺れているだけ、何も予定がない日曜日のような、キラキラと光を内に取り込み何本もの光線を反射する宝石のような瞳が開いているだけ、意識されるべき対象が不在の視線を鍵盤(便宜上、実際に見ていたのだから仕方ない)に落とし、薄い胸が息を吸うたびに大きくなり腕はそれに合わせて上がり・膨らみ、それらが下がる・しぼむと同時に黒鍵を叩き、力が抜けその指が鍵盤からするりと落ちる。一音ずつ鳴るのを自分の中で再構成し、一つのメロディーを聞いた。彼女の動作が緩慢なのは呼吸が薄くゆっくりであるからだった。それは確からしい。そしてなりよりも彼女は人間らしかった。

 

 8

 

 麦茶を一杯飲んでから、Oは朝倉にオルガンを弾くようにせびった。彼女の音楽を直に聴きたかった。それというのも幼い頃に聞いた彼女の音をOは再現して欲しいそう。朝倉はカーテンを開き西日を招き入れると、振り返ってOに笑顔を見せながら「嫌だ」と言った。Oは何故? と尋ねたが、それが自分の問題であり、Oの問題ではないと理解していた朝倉は理由を話さなかった。笑顔が張り付いたまま。

 Oはそのような西日に照らされた朝倉の顔を見て、救われかけた、と驚いた。朝倉が断らなかったら、そんなことを感じなかったはずである。拒否されることにより、彼女との距離が明確に意識されたOは朝倉に自然のような幻想を抱いた。夜に光る星、降り注ぐ雨、ゆっくり落ちる雪、風で鳴る竹林の音、そのような自分の意思でコントロールできない自然のようなものを察知し、肌から浮き出る汗をぬぐいながら甘い嘆息を吐いた。

 そもそもOが朝倉の音楽に対して抱いているイメージには触れがたい秩序があった。この二人は同じ音楽教室に通っていた。彼が彼女の音を初めて聴いたとき、彼は魅了された。剥き出しの演奏ではなく、極度に統制された旋律はかえって生命を感じさせた。

 Oはオルガンに目を向け、朝倉がそれを弾いている姿を思い浮かべた。オルガンは白い埃をかぶっていた。椅子も同様に。

「あ、攻撃が来た」

 朝倉がぽつりと呟いた。

 

 9

 

「攻撃って?」

「Oは分からないよね?」

 玄関が開く音が聞こえたのでOは「分かるよ。確かに来た」と言った。

「まだアルミホイルが脳みそを覆っているはずなのに?」

「え?」

 廊下のきしみが近づいてきた。朝倉の母だった。

「悠貴、あんた誰連れ込んでんの」

「あ、こんにちは」

「あ、こんにちは。見た事あるわね。だれ?」

「Oです」

「だれだっけ? わかんないや。まあ、悠貴、明日の準備ちゃんとしておきなさいよ。じゃあ、それだけ」

「ねえ、お母さん。電波を感じない? 凄く痛い」

「は? もしかして、あんた薬飲んでないの? 脳のセロトニンが足りてないの? アルミホイルが剥がれかかっているんじゃない。あんた。ほら、薬。これでなんとなるのよ。薬さえあれば耐えられるのよ。ほら薬。飲みなさい。かなり気分が良くなるわ、眠れない時なんてこれ飲んでおけば眠らなきゃなんて思わなくなるから。ほら薬。飲みなさい。私は忙しいの。これからコンピュータプログラミングと情報の暗号化の勉強しに行くの。はい、手の内を見せて。うん、いい子。一つ、二つ、ああOくんも飲んでみる? じゃあはい、六つね。それでは、お元気で! ほら薬、飲みなさい!」

 

 10

 

 毒電波を受信したことがありますか?

 

 11

 

 彼らにとって電波とはなんであるかを説明しようとするたびに、私はどのような言葉を使えば理解してもらえるのかを考える。絶えず流れ続けるラジオ? 親の説教? 見えないところからのまなざし? すべてである。

 ニイテンゴジ教には不変の理念がある。誰にも平等に接する、という。それは社会主義などのイデオロギーとは全く関係がない。ただ在り方の問題で、個人という存在は様々な他者との関わりによって形成されているのだとしたら、その個人は多面体として見ることができる。たとえ本人が自然体だと認識していても、かえってそれは自己認識の固定の困難化を指し示す。そこでニイテンゴジ教は平面になること、誰のまなざしを受けても、個人が変化しないことを重要視している。君たちにとっては仮面をかぶるという表現の方がしっくりくるだろうが、私は仮面をかぶるという表現が嫌いだし単純化しすぎているように思えるので、平面になると表現する。

 さて、朝倉の母親が去って行ってから、二人は会話の種を失った。先ほどまで話していたことが、急に遠くに感じられた。Oは家に帰ろうとしたが、朝倉がそれを引き留めた。彼はそれがなんとも快かった。

――朝倉は僕に執着しているのだろうか。

気恥ずかしくなり立ったまま視線を朝倉からそらすと鏡が映った。その自分としばらく見つめ合った。

「ねえ、やっぱり今日、泊まって行かない?」

 朝倉がそう言うと、彼は確信を得て行動に自信を持てるようになった人間よろしく、朝倉の肩を掴んで「もちろん」と力強く言った。Oは自分の鼻息が荒くなっていることを恥じながら、朝倉の目を見つめた。彼女もまたOを見ていた。

「明日の朝、儀礼があるの。あなたも参加して」

 Oにとってそれは、肉体的には自分が優勢を誇っているのにもかかわらず、有無を言わさぬ言葉のように思われた。それは服従への導火線だった。

「うん。参加する。君のためならなんでもする」

 導火線に火が付いた。

 

 12

 

 孤食がなぜ寂しさを誘導するのかは心のノートが教えてくれる。食事はみんなで食べるものであり、みんなで食べない食事は、寂しいものだと教育を受けている。一人で食べる食事が寂しいものだと理解してしまう。だから寂しさを感じてしまう。 共働き家庭の多い現代において、その教育はかえって悪影響を与えるのではないか? むしろ一人で食べる食事も素晴らしいということを教えるべきではないか?

それはそれとして、朝倉悠貴も一人で食べる食事について毎晩、寂しさを感じていた。一人でいることに慣れてはいるものの日々を過ごす内に、確かに寂しさは積もっていき、やがて人形が話し相手となった。それが妹である。

 さて、朝倉は初めて妹ではない相手と食事を共にするという不安と喜びにうっとりしたせいで彼の座る席がないことに気が付かなかった。そして、空いている椅子にOが座るのを許さなかった。彼は開いている席が一つあるのにもかかわらず、そこに座らせてもらえないことを不思議に思った。

「妹は? それに椅子の数が足りないよ」

「妹は友達の家に泊まるってさ。それに椅子の数は足りてるよ。わたしがそっちに座るから」

 疑問に思いながら椅子に座り、朝倉の尻の熱を感じたらOの意識は熱の方へと向かってしまった。彼は勃起しながら夕食を食べた。朝倉の咀嚼音を聞き逃すことはなく、均一のリズムを刻む顎の上下運動を眺めていると、この家にはテレビがないことに不意に気付いた。

 食事を終え手持無沙汰になったOは朝倉が母親から受け取った薬の存在を思い出し、朝倉が風呂から出たら尋ねようと思った。しかし、それは結局明らかになることはなかった。なぜなら風呂上がりの彼女は裸だったからである。色素の薄い陰毛に海葡萄のように水滴が実っていた。半分空いた唇が妙に色めかしく映り、Oのまなざしに気が付いた朝倉は口角を少し上げて「どうしたの?」と全てを見透かしたように言った。それはOを喜ばせた!

彼は支配と服従の間の揺らぎが心地よかった。相手を支配したいという欲求と、そのように考える自分を服従させる女性の登場を希求している。彼は―最も重大だが―朝倉という人間に対する一つのイメージを既に描いている。それは不変という像だ。果たして、これが恋ではないと誰が言いきれるだろうか。誰が否定しえるだろうか?

立ち上がったOは足音がたたない畳の上を歩いて朝倉と向かい合い、熱を帯びた両肩を強く掴んだ。

朝倉は風呂上りにタオルを使う習慣はなく、またそれで風邪になると は思ってもいないし、事実、風邪を引いた時も原因をそこに求めることはできない(風邪を引くのは複合的な要因があるからだ)。

Oは、彼女の微笑みを間近で直視することはできずに、視線をそらした先に、ぴょこんと三日月のような耳が浮き出ていることを認めると、急に恥ずかしくなりOの耳は赤くなった。さっき食べた生姜焼きの肉の繊維が親知らずと奥歯に挟まっているのを舌で泳がせながら、何をどう言ったらいいのか考えているOは朝倉の虫歯のおかげで蠱惑的な匂いがする息を鼻から吸い込んだ。

「離してよ」朝倉は笑いながら言った。

「うん、話す」すこし視線を彷徨わせ「なんでかっていうと」しばらく黙り「君が好きだから」

「いや、だから」ためらいがちに絞り出して、はっきりと「そうじゃなくて」 

 彼女たちはしばらく固まり、視線が合わないまま、そこに居た。互いに次の言葉を探していている。Oは朝倉をその気にさせる言葉を、朝倉はOを落ち着かせる言葉を。朝倉はOが自分に好意を寄せているという状況に耐えられない。朝倉は話が通じない人間を目の当たりにし、明日行われる儀式(共同体に属する知的障がい者の性処理である)へと想像力が働いた。そして、彼女は目を閉じた。蝶の羽休みのように静かに、飛ぶことを止めた。

 その様子を見ていたOは、キスの合図だと受け取った。彼は自分も目を閉じてキスするという紳士的振る舞いをしようと思ったが、その前に朝倉の顔を克明に記憶しようと、顔のパーツ一つ一つを見つめた。その時、彼を吐き気が襲った。 目のある場所に目があり、鼻がある場所に鼻があり、口のあるところに口がある。そこにある必然性がないのにも関わらず、確かにそこにある。 

必然性は問いをもたらさない。だが、彼はこれまで必然だったものが、そこにあるから必然だと思っていたと自覚し、世界への信頼が崩れた。 

 彼はよろよろと後ずさった。目に見えるすべてのものに違和感があった。そして彼は毒電波を受信した。

 

 13

 

 君が水を飲んでいる数秒の間や、朝倉を見つめていた数秒の間に世界のどこかで貧困にあえぐ子供たちが死んでいる。毎秒死んでいる。今が幸せだから飛び降り自殺したというニュースを見たことがあるか? いじめられて自殺する子が居る。世界のどこかで自分よりも苦しい状況にある子供たちの存在を意識したら、自分がどれだけ恵まれた環境にいるか、相対的に見てどれだけ幸福な状況にいるかを知ったら、今ある幸せを大切にしていこうと思っただろうか?(それはありえない!)貧困にあえぐ人々のドキュメンタリーを見て、自分たちの幸せを噛みしめることはできないだろうか(それはありえない!)。幸せは現状や環境ではないのも分かるが、最低限の条件があるように思う。お前もそう思わないか? そうだよ。腕にタトゥーを彫ろうよ、貧困にあえぐ子供らが死んでいくって(なんで?)。そうしたら忘れることはないだろう? それで君は辛いと思った時に、そのタトゥーを見て自分よりもつらい状況にある人のことを考えて、あの人たちも頑張って生きているから自分も頑張ろうって思うんだ。だって、相対的に見て、彼ら彼女らの方がつらいのだから(それは可能かもしれない)。そして君は気が付くだろうね(何に?)。相手を弱い人間だって決め付けている自分に。幸福で大切なのは、きっと状況じゃなくて、何をしたいか見失わないことだろうね。 

 ほら朝倉の顔を見てみろよ。お前のことを笑ってるよ。いきなり肩を掴んで、いきなり離れるんだからね。ああ、この人ってバカでノロまで勇気もないし顔も平均より下だし本当につまらない人間ってさ。つまらない人間なんていないと思うだろう?(当たり前だ!)けど、朝倉はきっとお前のこと、そう思っているよ。君のことをコミュニケーションもまともにできないし、つまらない人間で、人財にすらならないカス。はやく死んだ方が良いよ。死ぬ前にちゃんと募金するんだよ。そしたら貧困にあえいでいる子供たちもきっと喜ぶ。つまり、ここで人生を終わらせればコストカットできて、その余剰分を募金すれば、もっと生きたい人が生きていけると思わない?(……) 一回だけ死んでみれば? 一回だけでいいからさ。そしたら何かわかるかもしれない。

 ほら、朝倉がお前を殺そうと近づいて来る。彼女は心配しているんじゃなくて、君に警戒されないように優しく振る舞っているに過ぎない。何事もそうだが、やられる前にやらなきゃいけないよ。でも何にやられるかって? この状況なら朝倉だろうね。けど、それが人間じゃない場合もある、君もよくしっているだろう? 地図の無い地雷原を歩いてるんだよ。先を歩く人に地雷を踏んだ方が、その後、怯えながら歩かなくて済むし、不安に思う事も少なくなるわけだしね。君は無価値なのだから、価値のある人間のために死の一つの事例を提示したほうが良いと思う。まあいい機会だから死んでみよう。ね? お願いだ。さっさと死んでくれ。

 

 14

 

 Oは朝倉の身体を突き飛ばした。その後、彼はしばらく壁際のタンスに擬態するように、部屋の隅で膝を抱え、目を瞑ったまま浅く呼吸し続けた。

尻もちをついた朝倉は愕然とし、そのように自らの気配を違和感のないモノへと変換しようと怯えながら努力する姿に、不思議な親密さを覚えた。その親密さはいくらか彼女を安定させた。Oが全く害のない人間であると理解したのももちろんあるが、それ以上に、家具に擬態しようとするOが、朝倉には慣れ親しんだ姿に見えたのである。彼女は悠々と身体をタオルで拭き、Tシャツと短パンを身に着けてから(高校時代のクラスTシャツ、体操着)母親から手渡された薬を取りに自室へと向かった。

「ねえ、これ飲んでよ!」部屋に戻って来た朝倉は、そう言って薬を差し出した。

「それで俺を殺す気だろ! もう騙されないぞ!」

「あなたは、わたしをしんじてよ。セックスの時だったら、あんたのこといくらでも殺すチャンスがあったのよ!」

「確かにそうだが! これまでしてこなかったからといって今しないとも限らないじゃないか!」

「じゃあ、私が飲んで見せるわ」彼女は一錠飲んだ。

 Oは腕の間からその姿を見ていたが、信頼できなかった。

「もういい、面倒になった」と朝倉が言った。「ほら」

 無理やり押し倒されてOは暴れた。しかし朝倉は慣れたように鳩尾と太ももと二の腕を殴り、動けなくなったOに無理やり薬を飲ませた。そしてOは落ち着きを取り戻した。

 そして眠った。現実を忘れるように。現実はフィクションで、私たちが想像する現実は決まって暗いか明るいかのどちらかであり、事実にそれぞれのフィクションが付いて回る。朝倉とOはそのフィクションの領域において、暗いイメージを共有している。時として明るい場合もあるが、それはすぐに暗さに覆われる。

 

ゴミ(途中放棄)

 薫は花占いをしていた。人形の腕や脚を引きちぎっているみたいだと彼は思った。そしてその認識にとらわれた彼は、妙に興奮して本来の目的を忘れたまま引きちぎり続けていたが、四輪目にして、ふと我に返った。止めた手をまた動かし、「やる、やらない、やる」とぼそぼそと花占いを再開した。弁を欠いた花。結果は「やる」だった。しかし薫は結果に満足できずに、地面を手探りし、まだお尻の横に残っている花の茎をへし折って占いをやり直した。微風が吹き菜の花の匂いを連れてきた。猫が手の届かない距離から彼を伺うように凝視している。彼は猫が甘い鳴き声を上げても見向きもしない。集中とは違い、彼は没入していたのだ。テントウムシが手の甲に乗ると、それをデコピンで弾き、立ち上がった。彼の足元にはバラバラになった花弁と、渺とした花が散らばっていた。

 シャワーを浴びたばかりの身体から石鹸の匂いがして彼はスンスンと鼻を鳴らした。猫背で進んでいく彼の姿は疲れた中年という印象を受けるが、まだ一九歳だった。彼は予備校へ入塾手続きしに行こうとしていたが、占いを行かないという結果に捻じ曲げた。浪人を決意してから、しばらくの間は闘志と被害妄想によって食事と睡眠の時間以外は勉強していた。が、二か月ほどして周りを見回すだけの余裕が生まれた時には、自分は自由だと急に恐ろしく思われた。そして無気力に襲われた。それは人間を袋小路に迷わす。何事も徒労に終わるように思われる誰にも見られない孤独の営み。それは根っこにある何にでも意味を求める性格が起因しているためだ。

 土手から降りて酒屋の前を通り抜けると十字路に出る。そこを左に曲がりしばらく歩くと高さ二五メートルの物流倉庫がある。その向かいに里香の家がある。薫は首筋にぷつぷつと浮かんだ汗を手で拭いジーパンで手を拭った。初夏のどこからともなくやってくる熱気が近くにある田んぼに水が注がれる音によって相殺されている。

 彼が里香の家に通うようになって二か月が経った。それはちょうど自由だという事が分かりすぎた時期と重なる。ステラガーデンと書かれた家にたどり着くとインターホンを鳴らしてドアノブを開いた。昼間だというのに暗い部屋の真ん中に両手を点に向けて片脚を地面から離している公民館や音楽ホールの前にある自由や平和を現す銅像のように里香が立っていた。エアコンの駆動音がかすかに聞こえる。墨色の頭部を切り取り線のように黄ばんでいるように見える陽がカーテンの隙間から差していた。そこだけ埃が輝いていた。

「また来たの?」

「うん」

「何をしに?」

 彼はぎょっとして別に何かをしようとして来ている訳ではないと口に出そうとしたが、口に出すことはなかった。彼は棒立ちの彼女の隣を通り過ぎカーテンを開けた。目の奥が痺れた。遮光性が高いカーテンはしっかりとした重みがあった。この部屋から見える景色は退屈である。目の前には物流倉庫のつまらない灰色の壁があり、そこから目を横に流すとマイホーム主義が打ち立てられるほどの給与が会社に属すれば貰える働き方、見れば見るほど退屈だと蹴とばすことしかできない二階建ての三角屋根と小さな庭の付いた家々が道沿いに並んでいた。グリーンカーテンなんぞやってのけてしまうほど精神的余裕のある暮らし。彼は人の匂いがする景色を見ても無感情であった。物流倉庫の壁が与える妙に切迫した印象が他の景色の印象を奪っていたのかもしれない。だが、そもそも彼にとってはそれが自分との接点、あるいは未来の自分との接点のありそうな暮らしには思えなかったのだ。むしろ、そのような景色を見て感動やら憧れを抱くことは、その場限りの感情であって嘘のようだ。もしそれを純粋に信じすぎて、自分にもそのような暮らしができると思い込むと、失敗した時にはより多くの代償を背負うのだろう。彼は無感情だ。

「何をしにって、君のお母さんから頼まれてるから来たんだよ。お母さん悲しんでいたよ。それこそ僕に頼むときだって顔を赤くしてさ、見ているこっちが力になってあげたいと思うぐらいには」

「そういう所が嫌い」

 その言葉が自分に向けられたものか、彼女の母親に向けられたものか彼には判断が付かなかったが、それは彼にとってどうでもよいことだった。彼女の銅像性は崩れて今はただの子供のようにテレビのない部屋で背中を丸めて座っていた。

「幼馴染だと言っても、仮にも僕は男なんだから肌の露出は控えて欲しいと思うんだけど」

「幼馴染なんて今さら言われても」と言いながら膝を抱えた。

 彼はクローゼットの中の小さな箪笥から、パーカーを取りだし彼女へ放り投げた。彼女は手を伸ばさなかったので、それで顔が隠れた。彼はうっとりとした嘆息を漏らしながら、パーカーを羽織らせた。フードが裏返っていたので直して両肩甲骨の上に置いた。彼が触れた肩は震えていた。

「僕は精神医学に明るい人間でもないし、君にとって、変な言い方になるけど……大切な人間でもないと思うんだよね。それこそ幼馴染ってだけで。それなのに君の母親は僕に君の世話を頼んできたわけで、僕としても世話って何をすればいいのか分からないんだ。まぁ僕にとって、この時間も勉強の息抜きだと思って承諾したわけだけど」

「私の世話なんてしないで予備校にでも行ってらっしゃいよ。あなたはカウンセラーじゃないんだから、どこにでも好きなところに!」

 精神医学という言葉は彼女にとって禁句だったが、彼はあえてこの言葉を使った。彼女を怒らす事は密かな楽しみでもあったのだ。彼女がなぜ部屋にとどまり続けているか、彼にはおおよその見当がついていたが、それを口に出すことは精神医学よりも禁句であった。それを言った瞬間に関係は崩壊することが目に見えていた。

このテレビのない部屋のなかで彼女にとって社会との関わりは彼だけだったのであり、彼は社会を忘れるためにこの部屋に来ていた。

「それは君に強制できることではないよ。僕は好きでここに来ているんだ。じゃなきゃ来るたびに、そういった突き放すような言葉を投げかけられるのに、懲りずにこの部屋に来るんだからね。まぁ僕にとって娯楽みたいなもんだね」

彼女が痛みに耐えるように顔を歪めているのを見て、彼は喜びの目眩に見舞われた。この部屋においては力関係が重要であることを彼はよく理解していた。彼女は彼以外の関係を両親以外に持たなかったのだし、彼女はその小さすぎる関係においても心開けず、子供のように頑なに虚勢を張り続けている。それも彼の言葉に割り込むことはなく、ある種の礼儀正しさをを持ちながら、だ。彼はその子供らしさを愛していた。それは上下関係がなければ成立しない醜い愛情だった。

「あぁ! もうやめて。貴男は口を噤んで!」

 彼女がこのようにどこか芝居がかった話し方をするのは、小説ばかり読んでいるせいである。彼女は知らぬ間に芝居がかった言葉を吐くことによってしか自分の意思を伝えることができなくなっているのだ。しかし、誰が彼女を責めることができるようか? 誰しもが自分の言葉を用いる事の出来ない状況に陥ったことがあるのではないか? 

「そう言われても、君は社会復帰する気あるの? というよりも君は社会復帰しなければならないんだよね、両親のためにもさ。ところが、君はどうしても外に出ようとしない。昔の人も言ってたぜ。書を捨てよ、町へ出よってさ」

「知らない、そんなの」

 彼はムッとした。無知によってでは正論は跳ね返すことができないのだ。正しい事は受け入れなければならず、むしろ受け入れない場合には悪や敵として正論の射程に入れられることになるのだから。しかし、知る努力をしていれば正論はヴェールのように優しくその姿勢を覆い隠してくれるのだが、彼女はそうではなかった。

「まぁ知らなくてもいいさ。本当のところ君は僕の人生にとって必要ではないんだからね」

「じゃあ言わなくていいじゃない。貴男って本当に間抜けね」

 彼女のひきつった笑みによって皮肉は強度を増し、一挙に力関係を反転させた。そして、それは薫を苛立たせた。薫は自分が彼女を愛している事を理解しておらず、いま起こった苛立ちに対して不可解だと感じている。しかし、何故だかわからない感情が神経を逆なでし、その感情について深く触れる事は出来ずに、ただの怒りに収斂されてしまった。

「そうだよ。僕はバカだ。それは確かだ。だから何だっていうんだ? しばらく考えてみてよ。このテレビもなく、あるのは小説ぐらいの寂しい部屋からさ。そのくせ本棚だけは大きくて、外に出る気が湧かない部屋をさ。君は、一体どこに向かっているんだい? そのくせ死なないし!」

 隣の部屋から壁ドン が響いた。彼は大きく息を吐いて、一見して呆れていると分かるように首を振った。彼にはもう前後の判断がついていなかった。呆れたから首を振ったのか、首を振ってから呆れているのだと理解したのか、もう分らなかったのだ。

彼女もまた、分からなくなっていた。今自分が言いたい事が分からなくなっていたのだ、それは彼の発言を頭の中で反芻させられ、錆びた包丁同士を擦り合わせるように不快だった。彼女は理解していた。自分は存在しても存在しなくとも良い人間である事と、しかし誰かから必要とされたいという意思を。その中で見知らぬ人に囲まれながらも生きなければならないことも。それがあまりに強すぎるために、一つの失敗と自身の不幸が彼女の中で大きな存在になり、無視できない物になってしまっている。

この沈黙に耐えかねた彼は、音楽を流し始めた。二人の間での習慣化された約束であり仲直りの方法だった。二人は日本のポップスを聴く事ができない。やけくそに応援して来るから。

「僕が悪かったよ。言い過ぎた」

「いいのよ。本当はあなたが来てくれるだけで嬉しいの」

 音楽には人に芝居をさせる効果がある。この二人の男女の自身の物語を持たないという特性が、より音楽に身を任せることを可能にしているのだ。音楽に見合った振る舞いをすること、そしてそれはその場限りの純粋な受容態度を引き起こさせ、思考することなく内側へと内側へと深く根を伸ばし、小さな世界の中で絶望とも似ている快楽 に落ちていく。絶望はいつも尤もらしく堂々とした訳知り顔で否応なく人間を体内に取り入れることができるのだ。

 この二人だけの密会と不思議な連帯感はより強固な世界を作ることができる。大多数とつながる事よりも優先されるべき、いや優先した方が良い関係。彼が扉を開け部屋に光が差した瞬間、彼女は出迎えようとし立ち上がったままポーズした。開口一番「なんで来たの?」といった瞬間には、この部屋は使われるものになった。そして、それに見合うように関係も一晩よりもずっと早い時間で再構築されはじめた。

 二人は近づき、俳優が映画中で愛の欲求を抑えられず理知的な動物になる瞬間 のように、溶接された鉄のように一瞬を永遠に続け始めていた。体温を確かめ合いながら互いの首筋に汗を認めながら、そこが一番見やすく素晴らしい席であると認めながら、垂れ流しの映画を見ているようないかなる感情を起こさせない汗を心ここにあらずといったように眺め続けている。男び胸のふくらみがなお一層膨らむ時、彼女は彼の首筋にくすぐったい息を吹きかけ、それが萎むと彼は土星の輪のように彼女を囲う腕に力を入れた。

しばらくそのまま溶け合った状態でいると薫は恥がブクブクと音を立てている事を認めた。僕は永遠に続くような欲望が昇華されるのを獣のようにはしたなく湿った鼻を鳴らしながら待ち望んでいる、と。それは間違いでもなく、ともすれば正常であったものの彼は受け入れられず、泣いてしまいそうだった。ワンナイト・ラブ、あるいは檻の中。リスクが姿を変え彼の中で倫理へと姿を変えてしまっていた。しかし、彼女は彼のぐんと持ち上がった性器の存在について母親のような諦観とその面倒見の良さが、何かを学ぶような気持を浮き上がらせ、人魚が泳ぐ際の最も抵抗の少ない姿勢ように身体の側面にピッタリとくっ付いていた手を彼の腿の間に巻き込ませた。熱が彼女の冷たい手を暖めた。彼は涙を流しながら、強く星を締め上げた。彼の腿の間にある戸惑った手は探し求めるようにジーンズをまさぐり、スキニーを下にずらした。夏休み初日の子供のように外へ飛び出したペニスははじけるような笑顔を振りまいている。勢いのあまり彼女の手首にある裂け目の形跡を治癒するように透明な液体がなぞった。彼は嗚咽交じりの呻きをあげながら喜びに耐えていた。彼女は、そのような彼の姿を見るたびに愛しくてたまらなる。可哀想な子供、と。自分の涙が首筋にこぼれた瞬間、彼は放心に至った。同時に、吐き出された精液が彼の魂だったかのように、何も見ていない彼の目を見つめた彼女は、涙の跡を舌でなぞった。誰かが言っていたように涙は非合理な感情から生まれる最も効率的な現実に対応する決意の証である。が、彼にとっての現実は彼女との間にしか存在しなかった。彼がアルバイトをしているスーパーマーケットの社員や夫と一緒に居る時間から逃げるように働いていることを感じさせない快活なパートのおばさん、たまに実家に帰った時に気遣って笑顔を作る両親は現実と見合うだけの重さを持っていなかった。彼女は人形になった彼を舐めるたびに全てがどうでもよくなる。そして人形への献身として、慰めとして心が満ち満ちた彼女は彼の口の中へ舌を忍び込ませ、より自分の中に入り込んでいく。自己満足だった。彼女の舌が蛇のように口の中に入ってくると彼は空に放っていた心を取り戻し、あぁ俺には未来がない、そしてもっと最悪なことに希望すら抱きたくもない、と為されるがままだ。

 自動再生機能を切り忘れていたアプリが二人をぶっ壊した。それまで空間のみがあった音楽は、陽気な海岸の音楽へと切り替わり、二人は急にお互いを自分とは違う人間なのだと意識した。これまで行われていた仲直りの方法は二人の輪郭を曖昧にし、溶け合わせるものだったが、それを可能にしていたスピリチュアルは身ぐるみをはがされてしまった。スロットマシーンのように黒目が目玉の中でピタッと止まると、顔を見合い二人は驚いた。彼は殺人現場を見てしまったかのような顔で大切な人を迎えるアメリカ人風に腕を広げ、彼女は魔法が溶けてしまったシンデレラのように酷く貧しい気分になった。

その後、二人は腹違いの子供のように、腫れ物に触れるように優しく、おっかなびっくりなまま昼食にありついた。日は傾いていたが。しかし西日は入らなかった。それを防ぐように大きな倉庫がアパートの前にあるため部屋は冷たい。彼が彼女の家に通うようになった時にはすでに存在感のある倉庫があった。灰色の窓一つない大きな壁が、彼女の部屋からの風景を支配していた。

電子レンジで暖めたパスタは直ぐに冷たくなり二人は日の当たらない部屋で静かにそれを食べた。隣の部屋から女の喘ぎ声が聞こえた。二人が溶け合っている間、隣人は壁にジャブジャブストレートを繰り返していたが一向に静かにならなかったので、アダルトビデオを見始めたのだ。二人はプラスチックの皿の底を見るように俯き、吐き気に耐えた。嫌に耳をつんざく声が、小学生が下校する時間帯に流され、外を歩く人間は、このアパートに一生住みたくないと思うだろう。

薫は逃げるようにパスタを平らげ外に出た。彼は物流倉庫の壁に返された喘ぎ声に包まれながら、今度舌を入れられたら噛み切ってあげようと決意した。

 

家に帰るまでの道のりは、惨めさをふくらませる様子。小学生が甲高い叫び声をあげながら小さい身体をがむしゃらに動かしランドセルに掛けられたきんちゃく袋が身体を叩きながら彼を追い越していく姿や、腰が曲がった婆さんが手押し車を押しながら蟻のように歩きながらも終始にこやかな微笑みをたたえている姿、地元の高校生が自転車をこぎながら道いっぱいに広がり会話をする姿、それら全てが彼の意識をむしばんだ。ここにはおれの姿がないとハッキリと突き放されたような心地がしていた。彼はたまらずコンビニエンスストアに入り黒ラベルのロング缶を手に取り、レジへと並んだがそこには中学生の軍団が互いを小突き合いながらポテトチップスを手に持ち並んでいて、彼は余計に、こんな平和的な夕方におれは何をしているのかと虚脱状態に陥った。しかし、彼はビールを手放させなかった。彼にとって飲酒という行為は、排泄などの生理的な習慣を除いた中で最もハードルの最も低い習慣であり、未成年である彼を取り囲む劣等感の代替として罪悪感を自分の心の中の石臼ですり潰す作業でもあった。彼の底には必ず暗い気分があった。小中と明るく友人たちにもお笑い芸人になればというあまりにもフザケタ土壌を持っていたのにも関わらず高校生になり、中学の同級生が自宅の懸垂トレーニング器具にタオルが絡まって事故死したという知らせを聞いた時から、彼の土壌は酷く乾いた蛇柄のヒビが入った土壌に変化した。彼はその知らせを聞いた時、涙が出なかった。そして彼は自分自身を許せなかった。罪だと感じた。親しい友人が死んだにも関わらず涙を流さない自分はとても薄情で酷い人間だと思った。その瞬間に彼は薄情である人間になってしまったのだ。彼は未だにそれに気付いておらず自分が薄情な人間であることを否定したがっているが、その動機づけの根本にある理想からの隔たった距離、つまり不安については自覚的であった。しかし、彼女の部屋に入れば薄情を否定する必要がなくなる。あの西日の当たらない部屋に入ったのならば自分を受け入れなければならない(誰も見ていないのだから……)。そして、自分を否定することもせずに済むのである。だから彼は彼女の部屋に通うのだ。

彼はさして興味のないビールをレジに置き、そのまま買って家へと帰る。誰も彼の顏なんて見ていないのにも関わらず自分が世界の中心であると思い込み、自分の中に埋没することを良しとしている彼にとって、罪悪感はより自分を興奮させるためのカンフル剤にしかならない。そしてその罪悪感にとってリアリティは必要なく、その行為に対して薫自身が強い意味づけを信じている限りは、彼の現実は姿を現さないのだ。信じたいものを信じすぎるのは危険だ。彼は女子高校生が笑い声を上げると自分が笑われているのではないかと疑いながらも根っこの部分では信じておらず、ただそうであったのならどれだけ救われるかを考えている。おれは世界中から笑いものにされて死ぬことへの免罪符、あるいは、俺が死んだとしても他人が納得できる理由が欲しい。あの自分が笑っている事を周囲にも伝え自分がどれだけ楽しいかを主張してくるような笑い声で、おれを笑って欲しい、と。彼の中でマゾヒズムが信仰の対処になり始めていた。笑われるのを望むことは彼の自己破壊への近道である。彼の内部でのみ行われる妄想としての笑いは、神との極めて親密で純粋な関係と等値だ。彼が必要とした時にのみ神は現れ、彼は肥満そうな顔を見せながらもノーとは言えずイエスというしかない。もはや彼の拠り所は彼自身の思い込みにしかなかった。彼の見ていた現実が現実がモノクロだったらどれだけ楽だったのだろう。

彼の憂鬱さは夜になると重さを増す。朝は無気力、昼は虚無感、夜は考えすぎる、寝付くのにはアルコールが必要だ。自由という恐怖の中に居ると、当為が生まれない。それが彼の核だった。強制されないがゆえに、何をすればいいのかが分からなくなるのだ。整理しようとしても優先順位もない。彼はただ一人きりだった。義務や約束は存在せず、破られても相対され、理解を示そうとし、腫れ物を扱うような人の目つきの厭らしさに打ちひしがれてたままだ。

傷んだ蜜柑のような柔らかい心で、彼は自分の家に着くと部屋のテレビを点けた。彼女に似ている俳優が今日もお茶の間をにぎわせている。買ってきたビールを開け、飲んだ。彼女に似ている俳優、それは彼が高校生の頃に出てきたメディアスター、媚びない姿勢と私生活の親しみやすさと時折見える品の良さが人気に拍車をかけていた。彼女はこの俳優の登場により高校時代のあだ名が決定された。他人と違う自分になろうと苦心していた高校時代の彼女にとって「偽○○」は彼女が彼女として受け入れられることがない事を示していた。 そして彼女は外に出られなくなった。液晶から漏れる笑い声は誰に向けられてもおらず、無暗に響く。彼は、そこで自分が一人きりであることをハッキリと自覚した。血管の一つ一つが大きく膨らんだかのように激しく音を立てる。熱くなった瞼を閉じ呼吸を整え、彼は彼女の家に帰ることを決めた。

 

長いゴミ(鴉さえも近寄らないほどのみすぼらしいゴミ)

「煮干しは癒し。魂はだましだまし。」その言葉が浮かんだと同時にここにはいない友人の「は? 適当すぎる」という吐き捨てるような声が聞こえて酷く懐かしい心持にされ、言われてみれば確かにそうだな、と自嘲した。その自嘲に長い時間浸ることができるほど若くはなく、友人の言葉を真に受け入れるほど年を重ねてもいない。そのため旅館の窓から白い泡を含みながら打ち寄せる波が見えた時には、自分に自嘲は不釣り合いだから、と理由を付けて出来るだけ違う事を考えようとした。しかし自嘲の残滓が胸の内に漂い、どうも座りが悪かった。

居心地の悪さがなくなることはない。気分転換に外を歩くことにした。歩いていると自分が前に進んでいることが確かめられるので、私は自分の意思が行き詰った時にはいつもそうしていた。通りを歩いている最中も、凪いだ心の後ろに空寒さがあった。

閑散としている街路は忘れられたかのように見えた。夏の間の賑わっていた姿を想像すると、その落差に驚かされるが、それが海をメインとした観光地の定めなのだと思い、やり過ごすことにした。冬の間の海が見えるこの道は、大変味がありますとなど口が裂けても言えない。耐え難い寂しさがあるのみだ。もし寂しささえもが商品になるとしたら、この町は息をつくことも許されなくなるのだろう。やはりこの寂しさは残さなければ生活できないものなのだろうかと思案しながら、道を下った。頭上には厚い灰色の雲が蓋をしていた。昼間にもかかわらず薄暗さのある通りには所々シャッターが開いている店が並んでいる。黄ばんだ光が通りに零れている。店内を横目で覗くと身内同士で喋っていて商売という雰囲気ではなかった。人が少ないと入る気も失せる。人が室内を満たしていても入る気が失せる。そもそも、自分の寂しさや不安を薄れさせるために、より寂しいと思われる場所へときたのだから人の匂いというのを毛嫌いしている節があるのかもしれない。

防波堤に着き、ちらほらと釣りをしている人間の、海に頭から落ちようとしているようにも見える丸まった背中を一つ一つ確認して、歩いた。波が石に衝突し、飛沫が風に乗り、頬を撫でている。釣り針をあべこべ にしたような姿勢で海を覗く。海水の色が鈍く感じられた。底が見えない。酔った時のように重心がおぼつかなくなったのでその場でしゃがみ、ジーンズのポケットから煮干しを取りだし、海にほっぽった。しばらく浮いたまま漂っていたが、緩慢な波に攫われ姿が消えた。もう一つ取りだし、ぱくつく。そして立ち上がり海に背を向け歩き出した。湾岸から遠くを見つめると、ゆるやかに反っている浜辺が眺められる。

口内に違和感があった。まさぐると紺色の糸だった。濡れたそれを中指と親指でこすりながら浜に沿って歩いた。地平線へと目を向けると、一辺倒な色に思える海にサーフボードの蛍光色の毒々しさが混じっていた。浜辺には夏と比べると人が少なすぎた。こうも寂しさがあると、どうしても夏の間の海を想像して、一層寂しくなろうとする癖がある。まだ学生だった頃、友人たちと由比ガ浜に行った。夏の夕暮れの浜にはゆっくりと何かが終わる気配があった。その雰囲気に巻き込まれてなのか、人は皆等しく陽が沈むのを眺めはじめる。そこに奇妙な一体感がある。誰もが太陽に目を取られて時間の経過が妙に静かに感じられる。波の音がそれを助長させる。そういった甘美な寂しさがここにはなかった。

点滅している青信号を見て急かされているような心地がした。ただでさえ小股の歩行を速めたため、砂に足が埋まり余計におぼつかなくなった。しかし急いで渡り切った。コンクリートの地面の上で振り返り、まだ信号が点滅しているのを見て肩の力を抜いた。首を正面に据えると、渡り切った先にあるコンビニで煙草を吸っていた浅黒い肌の若者が、私を笑っていた。まだ実の出来たばかりのトウモロコシのように真っ白い歯を唇の間から覗かせていた。頬に浮かんだ乾いた大地のひび割れのような皺に拳をぶつけてやりたいが、そんなことできはしないのも私はよく知っている。渡り切らなくても良かったはずだった。点滅している間は渡らなないで、次を待つと幼い頃に教えらっているはずだった。しかし渡ってしまった。中年が急くのは若者からしてみれば、そんなに滑稽に見えるのか。

思えば自分のこれまでは点滅し続ける青信号のようなものだったかもしれないと思った。自分の若さを証明するために点滅している青信号を渡り切ろうとする。そして渡り切った後、振り向き未だ点滅の終わっていない様子を見て若い頃は満足を覚えるが、年を取り一向に赤にならない信号を訝しんでみると、自分の人生そのもののように思えて倦怠が自分を覆い、やがてすべてが徒労に思える。そして、それらが永遠に点滅し続ける青信号だとやっと理解される。

自分は三十八歳で死亡すると大学生の頃から考えていた。朝のニュース番組の今日の運勢コーナーのように自分の都合に合わせてそれを信じたり信じなかったりしてきた。喫煙や飲酒も身体に悪いらしいというだけで、死ぬための貯金として考えながら味わってきたものの、三十八歳になった今、重い病気にもならず、もうすぐ自分が死ぬと信じられるような予兆が現れる機会は会社の健康診断での不摂生を責められた時のみであり、いつ終わりが来るのかここのところずっと焦らされている気分だ。しかし、だからといって自殺をするわけではない。そんな簡単に割り切れるわけでもない。どうにも煮え切らない。死ぬか、それ以外かという選択を持ち出せるほど自分に期待をしていなかったせいだろうか、今になって生きるための希望を抱こうとも思えない。何をしても徒労になってしまうと思えてならない。若者の視線はスマートフォンに向けられていた。私を見ている時よりもつまらなさそうな顔だった。

松の街路樹の植えられた通りを歩いていると、まだ新米のサーファーと思われる肌の白い男とすれ違い、気軽に挨拶をされたので、私は空虚な軽さをフレンドリーさと読み違えてもらおうと、愛想を張り付けて挨拶を返した。

途中で土産屋の前を通った。食事の匂いがした。吸い寄せられて中を覗いてみると、中年男性が瓶ビールとサザエのつぼ焼きに舌鼓を打っていた。足元に薄青いクーラーボックスが置いてあった。あまり釣れなかったのだろう。匂いにつられて腹が減った。しかし店内に入ると、あの中年男性と妙な連帯感が生まれるだろう。こんなところにいる人間は自分と似ている、と。そうなれば会話をしなければならないと脅迫的に考えてしてしまうと思い、もう少し歩いた先にあるチェーン店で食べることにした。そのまま歩を進めると仏像のガラポンがあったので回した。中学生の頃、修学旅行のお土産として同じようなものを買ったのを思い出した。一度しか買っていないのにも関わらず妙に親密に思えた。

 

昼食を済まし旅館に戻った頃には陽が雲間から海に突き刺さっていた。机に乗せた、地震が来たら一発で崩れ去りそうな土産屋の横にある錆の混じった赤いガチャガチャを回して手に入れた、外国人が好みそうなお手軽な仏のフィギュアの、西日を浴びて白く輝いているさまを見ていると、次第に心が落ち着くのを認め、やがて笑いが止まらなくなった。

去年の同窓会で本田に生きる希望がないと打ち明けた時、彼は私のことを親しかった友人から死にたがりの人間だと認識を更新したようで、生きていればいい事もあるから、と私を心配してというよりは、自身に言い聞かせるように、本心からそれを信じていないような苦渋に満ちた面持ちで切り出されたのを思い出す。生きていればいい事はあるに決まっていると分かっているし、私は自殺したいとも考えていないのだから、利己的な言葉だなと他人事のように受け取った。加えて本田は「生きる理由は女なんだ、誰かが自分を必要としてくれるから、それと同時に自分が相手を必要とするから生きれるんだ。それが人間の重力なんだ」と苦笑いするしかない答えを教えてくれた。詳しく話を聞いてみると、どうしようもない男が主人公の物語には救済の技法として大切な存在が現れて、それが大抵は女らしい。自分の周りには女もいないし、親しい友人も疎遠になり、それはそれで快適さを感じるものの、時折感情の整理がつかなくなることがあった。確かにそれなりの説得力があるかもしれないが、再会を喜ぶ酒の席でこんな話をするのはどうかと思い、早々に切り上げ、重力がないなら浮力があるのだろうかと考えながら家に帰った。床に就き自分のラブドールを抱きながら明日も仕事があると思うと、まだ命綱は切れてはいないと確かめられた。翌日、電車に乗り赤羽―池袋間を浅く呼吸しながら運ばれていると、目の前に女性が立っていることに気付いた。イヤフォンをしてインスタグラムを見ていた。つり革が頭上にあるのに捕まらずにいた。身長が高くないようなので捕まると疲れるのだと思った。電車から見える景色を見ようとしたが過ぎる景色の中では視点が定まらず、吐き気を催した。対象不在の訳の分からない苛立ちが湧き、痴漢になれば否応なく死ぬことが許されると思ったが、それが利己的だと察すると、どうしようもない悲しみが襲ってきた。その時も、目の前に仏でもあれば心が穏やかになったのだろうかと想像すると、あまり良い気分ではない。現実を受け入れている安堵や絶望に似た心境の時に、宗教の存在を意識するのは自分の人生が非合理で超越的な存在を導き出すためのものだったように思えて、つい笑わなければならないと思うし、実際に笑ってしまう。「三百円で手に入る心の平穏」と呟くと面白さに拍車がかかった。

ふと思い立ってにぼしを仏のフィギュア の前に煮干しを一つ並べた。お供え物にしては貧しい限りだが、大きさからみてみればトントンで、しかしこういうのは気持ちだと思いながら奥歯に何かが挟まった心地で、ぼんやりと眺めた。多少は笑えたが、ますます自分が超自然的な存在にあやかりたいのではないかと思われた。数分でそれに飽きて午睡へと向かった。眠りへの入りは驚くほど滑らかだった。

 

目が覚め湯へと向かった。旅館の銭湯には地元の方もいない。時間も時間で、季節も季節で人は誰もいない。立ち昇る湯気は水面上でゆらゆら揺れる。身体を洗いしばらく湯船に身を沈め外の景色に興味を失った折に、静かに潜る。目を瞑り暗闇の中でチカチカと踊る光を追いかけた。点々と移動するカナブンのような色だった。おのずと息が苦しくなり追跡どころではなくなる。泡を追うように浮かぶ。目を瞑ったままでもどのタイミングで息ができるか分かった。大きく息を吸い、肺にむんとした空気が入り込むと、達成感のような充実さがあった。そういえば自殺ごっこをした時はベルトで首を絞め先の方を上へ引き上げてから、何十秒か待ち続け、段々と頭に血が上るのを認めながら、ぼんやり迫る心地の良さを楽しんだが、子供の頃によくやった水中で息を止めてどれだけ耐えられるかどうか競うい合う ようなものなのかもしれない。違いは苦しさを目的としているかどうかの点か。共通しているのは、それを終えた後には不思議と心が満たされているという点か。潜水を何回か繰り返す内に頭痛が起こっている事を熱くなった呼吸に知らされた。鈍くなった頭のまま湯船を出ると、身体が重く、きっとのぼせていたのだと思うことにした。指の腹には何本か線が通っていた。自分はもう既に煮え切っていたのではないかと疑った。正確には煮え切っていないと確信していたことが急に不確かに思えた。

脱衣所でコーヒー牛乳を買った。広間の畳の上で夕方のニュースを見ながら、私は自堕落さに対して寛容になりつつあった。ごろんと横になれば今すぐにでも寝れてしまいそうで、さっきまで昼寝をしていたのにも関わらずまた寝るのかと自戒の念もあったが、もういっそ横になろうと思い、周りを見渡し自分のほかには誰もいないことを確認しようとした。しかし見知らぬ女がいた。釣り人のような待機に慣れた穏やかさがあった。

一応は横になってみたが、眼が冴えてしまっていた。周辺に人間がいると思うとおちおち眠れない人間なのだ私は。堂々巡りの思考をしつづけて、ふっとこと切れるように眠ることはできずに、そういうもんだと諦めて身体を起こした。仕切りがあれば良いが、生憎そういったよそよそしさはこの広間にはなかった。女を見ると私よりも眠っているように思われた。濡れて艶やかに見えるからだろうか、とろとろとした瞳がやけに色めかしく映った。

自分より年齢が一回りは下の女に気を取られているという状況に耐えられず 、煙草を吸いに行った。紫色のマットの敷かれたフロントを横切り、暖房が追い付けない一角でスポンジが裂け目から溢れているソファに沈みこみながら、じりじりと灰を落とさぬようにゆっくり煙草を吸っていると、先ほどの女がやって来た。灰皿の近くのヤニ焼けした壁に寄り掛かった女は私を一瞥してからその場にしゃがみ込んだ。見たところ二十代前半に見えた。誰かに似ているという印象を抱いたが、誰とも似ておらず、他人の空似だと思うことにした。

もしかしたら自分を追いかけてきたのではないかという、どこかそう思う事さえも恥ずかしい妄想が湧き、黄昏た。

しばらくの間、ぼんやりと女を見つめていると目が合い、そうして合点がいった。家で私を待っているラブドールと瓜二つなのだ。睫毛は砂鉄のようにきらめく荒々しさがあり、墨色の静かな眉とゴムボールのような円い顔を覆うセミショートが、その危うい印象を際立させている。私は如何にしようとも抑えられない熱に浮かされた。今、自分の生きた理想が眼の前に存在している、そういった観念が湧き胸を締め付けた。私の姿を映す瞳には明らかな水分が含まれており、また頬は朱を残しており、陶器のような手に這う紫に近い青の血管は生き生きとしている。煙草の煙が目に染みて涙が出た。痛みを知覚すると灰が自分の浴衣に落ちた。形を崩さず落ちた五センチほどの灰は幼虫のように生々しく見えた。慌てて灰皿に煙草を落とし、浴衣の裾を掴み、灰をできうる限り落とそうと悪戦苦闘していると鼻息で笑いと解る笑いが聞こえた。女の笑いだった。ちらりと顔を見た。細くなった目じりに浮かんだ皺が幸福そそっていた。

「なんで笑うの?」

 そう口に出した時、まるで自分が人形に語り掛ける時のように甘ったるい声になっているのに気が付き、愕然とした。

「……いや、すいません。なんでもないです」

 女は笑いを隠そうとせず、そして私の浴衣の裾を握り私よりも懸命に落とそうとした。申訳のなさが劣情を加速させている。私にとってラブドールは性的玩具という神秘を持つ愛玩人形だった。その点において、私はプラトニックな愛を理想の具現化であるラブドールに捧げていたし、最初から与えられている目的を達成しないということに対して矜持という拠り所を 作っていたが、いざ目の前にラブドールに似た女が現れると、どうしようもなく煽情的に見えた。股に集中している熱を隠そうと、前かがみになり灰がどれくらい落ちているかを確認する体を取った。女の手のひらが私の背中に添えられた。老人の介護のようだった。

「ありがとうございます」

 私は丁寧に聞こえるようにそう言った。本来なら年下の女に敬語を使う義理もないはずだが、そうしなければならない理由があった。この時に、私の中で一つの転回が始まりかけていたのだ。ラブドールとそれに似た人間の対立が起こり、私はラブドールに似た人間の方へと必然的に流されかけていた。その抵抗として敬語だった。

煙草の匂いと混じった香水の匂いを振りまきながら女は「全然大丈夫です」と言った。

 女は喫煙所から去って行った。私は裂け目の入った黒光りソファに深く沈み込み、できるだけ女の後姿を見ないように自制していた。女の香りが頭の芯に浸透していく心地がした。甘いコロナの匂いだった。

 煙草をもう一本吸い(今度は灰を落とさぬように気を付けながら)、女がまだ残っていることを願いながら荒い息で広間へと戻った。女はまだそこに居た。ことこと心が揺れる音がして嘆息を漏らした。俯いている女の背中から私を見つめるうなじには梯子のような形をした藍色が見えた。タトゥーだった。畳の上を歩き、女に接近した。

「あの、すいません」

 女が振り返りスマートフォンに向けられていた視線が私の方へと向けられた。なぜ話しかけられたのか理解していない目だった。つむじは眩しい白だった。

「はい」

 私は女のスマートフォンの画面をちらりと見てから、「タトゥー綺麗ですね。初めて見ましたよ」と言った。やにわに歪められた顔からは嫌悪が読み取れた。ラブドールはこんな顔しない。この女はラブドールに似た女だと分かり、少しホッとする。

「褒められるようなことではないんです。これがあるってだけでイロモノ扱いされますしね」

「ああ、ごめんね。……これは失礼なことかもしれないけど、ならどうして消さないんですか」

「別にあやまることではないです。ただ、これを消したら昔の自分に戻ってしまう気がして消せないんです」

「昔というのはいつ?」

「昔は昔ですよ。タトゥーを入れる前」

「けど、別にタトゥーを入れたからと言ってイロモノ扱いされるもんなのかなあ」

「もう既にしていますよ。タトゥーを入れた人間って。それがなければ、あ、ちょっと名前を教えてくれませんか?」

「石清水」

「石清水さんは私に声を掛けなかったはずなんですよ」

 それは君が私のラブドールに似ているから、とは言えなかった。女からしてみれば私はタトゥーを入れた女に興味を持ったと思われても仕方のない状況なのだろう。いや、しかし

「違う違う。本当はなんで灰を落とすのを手伝ってくれたのかなっていう疑問を解消したくてね、声を掛けたんだ」

「あっ、そうなんですか。それはですね」女はしばらく考えてから「なんとなくです。今思うと、可哀想に見えたんだと思います。こんな時期に、この辺りに旅行しに来る人なんて珍しいなと。あとは、凄い取り乱してましたよ。自分で分からなかったんですか?」と言った。

「えっ、そんなに?」

「そうですよ」

 笑いかけられた。つやつやした薄桃色の唇が横に伸び歯並びの悪さを見た。それを隠すように、すぐさま手で覆われた。なぜか私のラブドールも口を開けば歯並びが悪いような気がした。彼女にキスをする時は、私の熱で、その唇を溶かしてしまうだろう。ロウが顎に滴り地面に溜まりができる。

「でも、これで今日はスッキリ寝れそうだ。ありがとう」

「あっ、そうだ。岩清水さんってあとどれくらい滞在するんですか?」

「二日、今日を入れて三日です。僕はやることがあるので部屋に戻ります。それじゃあ」

 少しでも凛とした後姿に見えるように意識し、背筋をピンと伸ばしながら歩いた。ラブドールに似た女と会話できる喜びが私を臆病にしたが、やはりもっと話せばよかったと後悔が残る。しかし、それが甘い自己嫌悪を呼び覚ました。

 私はラブドールを一度も性的玩具として扱う事はしなかった。そこに在るというだけで満足だったのかもしれない。それだけで愛せた。開かれた瞳は閉じた試しがないし、胸が膨らむこともなく、静かにそこに居てくれた。なのに、今、私は、ラブドールに似た女に興味を持ち始めてしまっている。だからこそ自己嫌悪に陥る。私は人形に愛を誓ったはずだった。いや、しかしラブドールに似た女はタトゥーを入れていた。私はあれが何なのか確かめられなければならないという衝動に駆られた。 あの女をラブドールと引き離すためには、それしかないと、どこか大義名分のような響きがあった。

 パタパタとスリッパの足音がして振り返ると、女が追いかけてきていた。心臓を鷲掴みにされたような心地がした。右目の上で留められたヘアピンから逃れた髪がおでこに張り付いていた。ラブドールのウィッグを中途半端に乾かしたまま装着させたときと同じだった。女は走っようで頬で汗が滑っていた。悪夢のように思われた。 

「あの、よしよければ明日、一緒に海に行きませんか?」

 あえなく私は頷いた。

部屋に戻り、仏のフィギュアの前に置いておいた煮干しを食べた。口の中が酷く渇いた。 そして、新しい煮干し一つ、仏のフィギュアの前に置いた。

 

 女の名前が分かったのは私が家へと帰るろうと旅館を出る時だった。 そして連絡先を交換した。Takahashi Yu-ki とラインには書いてあった。名前だけ見れば実際に会ってみないと性別が分からない名前だったが、ホーム画面を見れば海をバックにしたラブドールに似た女がいた。

彼女は大学生だった。それ以上、属性に関することは知る必要がなかったので、Yu-ki に関することは彼女がこの国の文化に対して恋にも似た感情を抱いていることと、休みの日は文化を消費し、そのお供としてコーヒーを飲むということだけだった。Y(Yu-kiと書くのは面倒なのでYと省略する)のゆるい愛国心Youtubeで動画を見たり(そこには違法性が高いと推察されるものもあった)、ドラマやアニメを見たり、感動作と帯に書かれた小説があれば手に取り読んで泣いたり、オリンピックになればせっせと応援したりすることから生まれたものらしい。自分が見たいものが揃っている環境があることを喜んでいた(それはどこの国に生まれても同じものだとは言わなかった)。私は「日本が好き」という言葉に身構えていたが、それが政治思想とつながっていないことを理解すると、ほっと胸をなでおろした。

ラブドールに似た女は、彼氏がいることを暗に仄めかして来た。そもそもラブドールに似ているという点において、男を誘惑する顔であることは保証されている。

 

 春の風に吹かれて菜の花が黄色い蝶のように花弁を揺らしている。酒を飲むためなのか花を見るためなのか分からない人間たちが、桜の根をブルーシートで押しつぶしている。身をよじっているように湾曲している幹は男二人が手をつないでつくる輪ほどの大きさだった。桜よりも白梅の方が好きだ。桜が嫌いというわけではないが、くるくると花弁が落ちるのはあからさま過ぎる。散っている様に気付いて欲しそうに、掌に包んで欲しそうに、その存在を主張して、子供はそれを追いかけ、大人は座ったまま手のひらを開く。

「あ、岩清水さん。こっちです」

 今年から入社した男の子が私に向けて大げさに手を振っている。あまりに気持ちよく手を振るので、別れのシーンに見えた。彼の名前が思い出せなかった。彼はトイレから出てきたばかりらしくて、濡れた手をジーンズで拭いながら「来てくれたんですね」と困ったような愛想笑いをした。

「ちょっと顔だけ出しておこうかなって」

「ああ、そうなんですか」

「場所取り大変だったでしょ?」

他の会社とかなら強制しないが、うちは伝統として新入社員が場所取りするので、彼はその餌食になった。自分が新人だったころは、同期の三人が私の方を見てきたので一人で場所取りをしていたが、彼は大丈夫だったろうか。

「まぁ、そうですね。けど高橋とマリオカートしていたらあっという間でしたよ。あ、あそこです」

 彼が指さした先に見慣れた顔が並んでいた。とりあえず靴を脱いで端に座った。案内してくれた彼の名前を聞きそびれたと思い、ビールを注いでくれた高橋くんに教えてもらった。もう、かなり出来上がっている課長は、ずっと笑っていた。いつもの仏頂面が嘘みたいで、ずっとそうしてくれていればいいのに、と思った。

私の隣で山口さんがビールを飲んでいる。彼女は結婚もしていないし、彼氏もいないから、こういった集まりも婚活的な目的があるのだろうかと思った。実際、彼女は不細工で、私は山口さんにシンパシーを抱いているわけだが、彼女と付き合おうとは思っていない。

「山口さんが、こういう集まりに来るのって珍しいですよね」

 私はなんとなく話しかけた。

「いや、返答に困りますね。なんか、こういう集まりも大切なんだと思い始めたんですよね。そういえば、岩清水さんって、結構こういうイベントの時って来るんですか?」

「いや、僕もあまり参加してないから、本当に顔出しに来たってだけ」

「そうなんだ。あっ、高橋君~ちょっと話しない?」

 山口さんの私服は昔に見た時よりも過激だった。私はビールを飲み切り、ほかの社員とか課長とかに挨拶して、靴を履いた。山口さんが高橋くんの手を掴んで自分の足にこすりつけていた。多分、山口さんは好きな人ができたのだろう。その相手は高橋くんだろう。高橋くんは化け物を見たように目を見開いて自分の置かれている状況を把握しようとしていたが、山口さんは赤ちゃんを抱っこしている母親のような目で、高橋君の手を見つめていた。

山口さんがどんな人かは知らないが、異常性癖を持っているのかもしれない。不細工は恋愛が弱点だし、不細工だと、年を取るうちに自分には恋人や結婚相手ができないだろうという諦観と共に、もしかしたらまだチャンスがあるかもしれないと希望が同居して、チャンスでなくてもチャンスだと勘違いしてしまうのだ。不細工は、そもそも恋愛対象として見られないので、違う領域に興味を持たざるを得ないわけだが、その逃避をし続けられるほど強い人間は存在しないだろう。不細工は肉親以外からは愛されない運命なのだ。社会人になって婚活をしても本当に不細工なら選ばれない。選ばれたとしても金持ちだとか、将来性だとかを買われているので、自分が求められているという実感を得ることはできないだろう。ありのままを愛されるには顔面が整っていなければならない。同窓会で昔仲が良かった女友達と再会したとして、その女友達に結婚相手がいたり、彼氏が居たりするのは、不細工でも話しかけるという、その人の魅力があるからだし、もしかして自分に気があるんじゃないかと浮かれても、その可能性は全くないのが常である。

つまるところ、山口さんが高橋君を困らせているのに気が付かないのは、自分が不細工だということを忘れてしまっているからだ。

社会人になってから異性と何の用もなしに話をする機会はあるにはあるが、大抵は仕事の話なので、やっぱり相手のことを知りたいと思わせるのに最も効力があるのは顔面だろう。仕事での成功があるかもしれないが、好意に繋がることはほとんど皆無と言っていい。婚活で一度も話しかけられなかったことから、不細工は最初から不利なのだと私は知っている。

酒に酔った人間とぶつかった。彼は充血した目をこちらにむけて謝罪し、すぐに歩き直した。私は安心していた。これだけ騒がしいと自分が笑われているとは微塵も思えないので、周囲の快活な笑い声も、不快にはならなかった。

公園から出て階段をゆっくり下りていると、若い集団の一人が私を見て意地の悪い笑みを浮かべた。その男は隣に居る女の肩を叩き私の方を指さした。女も笑った。たまらず目線を外し、歩くスピードを上げた。後ろから噛み殺した笑い声が聞こえた気がした。キモい叔父さんがいる……。私はYに連絡し、待ち合わせ場所である青山へと電車に揺られて運ばれた。

 

 Yと会う機会を作りたくなかったが、私はずるずると彼女と定期的に会うようになってしまっていた。タトゥーを見るためという大義名分を盾にして、保険会社のCMでよく見るような笑顔に魅力を感じていた。しかしそれだけではなく、ただ開かれただけの眼を張り付けた顔を見る度に、私のラブドールが彼女に憑依しているのではないかと思われ、その奇妙な同一が私の中で鎮座していた。ラブドールの神秘さを失わずに、人間として機能している姿。良くも悪くも、Yと出会ったのは奇跡のようなものだった。時間的にはラブドールが先にあるはずで、かつ私はラブドールに対して鑑賞という無償の愛を捧げてきた。

私は三回目に遊んだ時にはもうYのパトロンであった。卑しい独身中年は最早金を使わなければ若い女の子と接することはなく、もし金を使わなかったとした場合に(会社の女の子だとか、そういう関係)セクハラなどで訴えられぬように注意深くなるのだから、金を払いある程度のセクハラを容認してもらえる関係の方がずっと居心地が良いのも確かだろうし、金がある限りYとのつながりは途切れないと思うと安心がやってくる。 

パトロンとなった時から、なおさら私はYのタトゥーの正体を突き止めることに執着した。そうしなければ、私は間違いを犯してしまうとよく理解していた。しかし、これといって具体的な行動はとらずに、まだ体の関係には発展してはいなかった。

八月月下旬の日曜日にタトゥーについて聞いてみたことがある。それは十回を超えるころ合いだった。それは、Yと出会ってから数か月が経とうとしていた頃。

新宿の写真撮影禁止の喫茶店をYは少し嫌がっていたが、雨が降り始めたのでしぶしぶといったように入店し、チーズケーキを一口食べると、写真を撮ることもどうでもよくなったようだった(代金は私が支払うのがお決まり)。唇からフォークを抜く姿は最早鑑賞に当たるほど完璧だった。店内には蛍光色のバックパックを膝に挟んだ外国人がいて目を引いた。彼はコーヒーのカップを見て珍しそうに見ていた。出されるコーヒーはカップがそれぞれ形や色味が違うので珍しく思えるのだろうか。客たちのさざめきに埋もれたBGMがかすかに聞こえた。

バンクシードキュメンタリー映画を見て(もちろん、私が支払った)その感想を言い合いに喫茶店に来たわけだが、彼女の琴線に触れる内容ではなかったらしく、映画の話にはならなかった。彼女は芸術作品だけを見たかったのかもしれない。

「それで、ずっと気になっていたんだけど、そのタトゥーってなんで入れているの?」

 一度唇を付けたがカップを離して「まぁ若気の至りかな」とさながらテレビドラマのキャリアウーマンのように爽やかな薄笑いで言った。Yは猫舌なので恐る恐るコーヒーを啜ってから「後悔していないけど」と付け足した。

「いや、タトゥーって何か意味があったりするでしょ? 相手を威嚇するためではなさそうだし。そう、つまり隠すみたいに背中に彫られている訳だし」

「それを聞くなら、これも奢ってよ」

 Yが指さしたのはアーモンドだった。

「全然いいよ」

「やった」

 定員を呼び新しく注文した。

「それで?」

「最初はノリ。大学に入学出来て自分へのご褒美みたいに彫ったの。なんだろう、カッコいいというか、魅力を感じたのが最初で、多分痛いんだろうなあとは思ってたけど、段々自分が変わるチャンスだと思ったのよ。色々あるじゃん。きっとこれからの人生って。その中で変わらないものって欲しいじゃない? やっぱり。それに一応後からでも消せるらしいし。間違いだったと思うのは後からでもいいかなって思った。実際全く痛くなかったし」

 雨が降ってきていた。Yがタトゥーについて話している間に、雨脚は強くなっていき、ゲリラ豪雨だと分かった。店内は煙草の匂いが微かにしている。店主は外国人が会計を済ませようとするのを引き留めている。「今外出たら濡れちゃうから、もうすこしゆっくりしていけばいいよ」と言っているようだった。私は、この雨が止まなければいいのにと思った。そうすればYはずっとここに居てくれるから。笑顔でもつまらなそうな顔でも、どちらでもよく、ただYが動いている様を見れれば満足できる。あの歯並びの悪い口が開き、幼虫のような舌が動くと、喜びにうちしがれ、手が震える。

「ねぇ聞いてる?」

「うん。……聞いてるよ。雨強くなって来たね」

 私が本当に聞きたいことを教えてくれないYは呆れたようにため息を吐いた。店員がアーモンドを持って来て、彼女はすぐにそれをかじった。Yはアーモンドを食べるカリカリという音に乗せて不満を私に伝えた。食べるペースが速かったのだ。

コーヒーに口を付けたが、空っぽだったので、追加でマンドリンを頼んだ。なぜ私はYが不満なのか汲み取ることができないのだと自分自身に失望した。Yと時間を共有したいという欲求が「次はいつ遊ぶ? 欲しい服とかない?」と私に言わせた。

「そういうことじゃないのよ。いや、あなたのそういうところが嫌いなの」

 急に頭が重たくなって、テーブルの木目が目に入った。このテーブルの元になった樹は傾いでいたはずだ。台風で折れてしまったが、しばらくして新しい枝を伸ばし、人間のひじのように折れ曲がり伸びた枝の先っぽでカラスが虫を啄んでいるような、小鳥たちの憩いの場にはなれやしない木だろう。

「ごめん」

 私は本当にYに謝るべきだったろうか? ここで謝ることがなければ私は契約の更新を望むという態度を取らずに済み、私はまだ執着が弱いうちに別れることができるだろう。しかし、彼女に気に入られたいという願望が、子供のような従順さを引き出した。自分が悪くないと考えていても、相手が私を悪と判断していると察せられる場合、考えるよりも先に謝ってしまうのだ。会話や対話を行っても相手を理解できる訳がないが、私は相手のことを知らぬ間に理解したつもりになって、その上で相手が何をするのかを期待していることを自覚して以来、謝ることが最も効率的だと思うようになった。私は相手を知ろうとすることを放棄していたのだ。そのため人に期待することは難しいと信じていた。期待しないほうが、期待するよりもよっぽど良いと思っていた。

「うん、私の方も、なんかごめん」

 Yは蛇口から一滴だけ落ちる水のように、ぽつりと呟いた。薄い膜のような雑音を抜けて、私の耳に染みた。Yがここで、私に愛想をつかしていることは簡単に察することができたし、外を何回も確認しているのを見ていると、はやく家に帰りたいと願っているに違いなかったが、雨がそれを許さなかった。だからYは無理に謝ったのだ。私に向けられた謝罪ではなく、ただ自分のための謝罪だった。平べったい謝罪だった。もしかしたら私たちは自分の中に居る他人を何回もこねくり回して良い印象や悪い印象を勝手に付与して、勝手に嫌いになったり好きになったりするだけで、本来的に相手のことなんてちゃんと見たことがないのだろうかかと、これまた勝手に辛くなった。

 雨が降り止むまでの間、遊ぶ予定を立てた。 秋口に行われるサッカー日本代表を観戦することになった。絶対に負けられない戦いがそこにはあるらしい。それなら引き分でもいいのだろうか。勝てば良いよりも好ましいが、いやむしろ勝てば良いのほうが基準がハッキリしていて分かりやすいのではないか、とも思う。実際引き分けばかりではグループステージ突破の可能性はほとんどないだろう。Yは、そもそもそんなことに興味がないらしかった。選手名も分からないしルールも知らないらしい。ゴールが決まれば楽しく、失点すれば悲しいのだろう。

西日の当たらない家に帰った。窓から見えるのは灰色の外壁を持った高さ二十五メートルの物流倉庫だ。昔は田園が広がり風通しも見通しも良かったのだが、祖父母が子供に金を工面するために土地を売り払い、聞いたこともないような企業が建設したものである。確か、私が三十歳ぐらいになってから、完全に没する日は奪われた。

物流倉庫は変わらず無機質な外壁で夕陽を遮っていた。ここからは沈む太陽は見えないし、もう興味すら湧かなかった。実際、諦める以外にどうしようもなかった。自室のカーテンを閉め、机の上に鎮座する仏のフィギュアの前に煮干しを置いた。十一個目だった。サッカーチームが組める。どの煮干しが、どのポジションをやっても変化がなさそうだった。

ベッドに横たわったまま七時を越え、夕食を作らなければならないとは思ったものの、そういう気が湧かなかった。明日から一週間、仕事が始まるのを受け入れる気にはなれないのだ。月曜に人が死ぬのは五日間、辛い思いをし続けなければならないからのではないかと思った。楽観的に考えれば一日乗り越えればいいと思えるが、これから五日間も同じ時間にタイムカードを押し、辛いこと五日間、そしてそれが六十、あるいは七十歳になるまで続くと想像すると月曜はやはり気が重くなる。そして、日曜は世界が滅びてしまえばいいのにとぼんやりとする。

八時ごろになって、あまりの空虚さに何かをしなければ落ち着かなかった。だからラブドールベビーパウダーでさらさら肌にしてやり、その後ウィッグを洗ってあげた。ウィッグのついていないラブドールは小豆のような形で顔のパーツが誇張されていることをまざまざと露呈していた。顔のパーツが中心に集中しているし、どこか不気味に感じられた。櫛を通し桶に張った温水で揉み、丁寧に髪の毛の流れに逆らわないように撫でるように洗う。シャワーで流し洗い残しがないように、もう一度温水で揉む。その後コンディショナーをしてから優しくタオルで挟み水気を取る。Yと同じ種類の商品を使うと、冷風で乾かしている間の匂いが気持ちを前向きにさせる。一つ一つ、一つ一つやることを片づければいいんだ、焦る必要も不安がる必要もない、怖がらなくてもいい、ゆっくりでいい、だってYが部屋に居るから 、顔をしかめることもないんだ、と。

九時には夕食を食べ終え、ちょうど乾いたウィッグを付けるとラブドールは美しさを取り戻した。私はまた満たされる。風呂に入る。

仏のフィギュアの目に置かれた煮干しが三十八個目になったら自殺しようと思い立った。三九歳を迎えるまでに自分は死ねるかどうかを前向きに考えた。自己憐憫に酔ってはいなかった。解決策として自殺があったので、そこにたどり着くにはどのように進めばよいのかを考えたのだ。リストラの原因となるほどの大きな問題が起こせば死ぬことができるが、しかし生憎自分はそれを実行できるほど純粋 ではなかった。もっと交通事故のような、大きな裏切りが必要だった。石ころのような存在になれば死ぬことを許せると結論付けた。

 

朝起きると四拍子の曲が五拍子になったようにリズムがうかうかしていた。通常通りのつもりが、実際にはタイミングが早すぎるというような狂い方だった。シェービングが一時間早く、朝の朝食が一時間早く、一時間早く家を出た。そこには新しい発見があった。家を出る時間を早くすると満員電車尾を回避できて、かつ会社の近くのサンマルクコーヒーで THE DIVE BRUBECK QUARTET の Blue Rondo ā la Turk を聴くことができるのだ。コーヒーを飲みながら次の会議の資料にぬけがないかを確認しているとアイデアが湧いてきて急いでメモする。浮かれた気分でチョコクロワッサンを手に取り、滔々と目を通す。あまり自分が作ったものに自信を持ちすぎるとそれが駄目だった時のショックが大きくなるので、あくまで失敗するという前提に立つのが基本だ。その分、受け入れられた時の喜びは大きくなる。

煙草を吸っていると占いを見忘れていたのを思い出したので、スマホで確認すると山羊座は一位だったので信じることにした。

 出社してから、USB内の企画案をコピーし鼻歌を歌いながらホッチキスで止めていると、課長が私の変化に気付いたようで、話しかけてきた。

「岩清水さん、なんかいつもと雰囲気、違いますね」

「そうですか?」

「だって岩清水さん、いつもそんな穏やかじゃないですか、もっとこう暗いっていうか。なんか怖いんですよねぇ」

「提案する企画が結構面白いんじゃないかって思っているので、そう見えるだけだと思いますよ」

 企画案を課長に手渡す。課長はそれをぺらぺら捲りながら「あーそうなんですか。いや、なんか自分の子供を見ているようで怖いんですよね」と言った。

「そんな年じゃないですよ、僕は」

「いや年っていうか、変化の仕方が、ちょっと似ているというか……金曜ちょっと飲みに行きませんか?」

課長はそれ以上何も言わなかった。私の変化は課長以外からはおおむね、今の方がずっと話しやすいと言われたし、別に悪い事をしているわけではないので心配される筋合いはなかった。しかし、課長に媚びを売るのも悪くないだろうと思い了承した。

「ああ、いいですね。分かりました」

昼になり行きつけの定食屋まで歩く間に、デイサービスの車が目に入った。私がビジネスに打ち込んでいる間も社会奉仕的な仕事をしている人間が不幸かどうかを考えた。利益を追求し続ける企業と比べて、介護士や保育士などの福祉的な会社は利益が全然生まれないのだろうなと漠然と思った。制度を変えるのが難航している様子から、ビジネスにかまけていれば政党の支持率は上がるのだろうかと思った。それほど関心が薄いのだろうか。考えるのが面倒になった。そんな他人のことを考えられる余裕はない。それに自分の生活が裕福になれば、そういう政策にも目が向けられるだろう。そう、今は自分の仕事を完遂させることだけを考えればいい。そしたら金を得ることができ、Yにもっと会うことができる。彼女の笑った顔を見ることができる。それだけで満足なのだ。

 昼ごはんを食べている途中、Yから連絡が来て私はポジティブになると全てが上手くいくという自己啓発には信憑性があるのだと思った。何か特別な行動をしたわけではないのにも関わらず、好ましい事柄同士をつなぎ合わせると自分を肯定できる気がした。Yも私のことを気になっているのだろうかと、淡い期待を寄せた。

用件は「明日遊ばない?」だった。私はとりあえず父を殺して休日を作った。実際はまだ生きているが、中年が女子大学生と遊ぶとは社会常識的に許されないので、父に死んでもらった。いきなり有休をとろうとすると理由を尋ねられだろうし、尤もらしい理由を作り出す必要があった。課長に「父が死んだので明日は休みにしてください」と言うと、有給取得の許可を出すか差すまいか迷っているような渋い顔をしていたのに、急に晴れやかな顔になって、「それなら仕方がないな。大変だと思うけど頑張れ」と私の肩を叩きながら言った。そして金曜日に飲みに行く予定がなくなった。部下の管理は大変なのかもしれないと思った。課長の頑張れという言葉は、なぜ発せられたのだろう。別に頑張ることではないのに。

午後四時になり、そろそろ帰宅の時間だと思い、キリの良い所で、終わらせた。身体を伸ばして欠伸をした。課長と目があって、笑いかけられた。私も笑い返した。帰宅の準備を終え、五時になるまで、ぼんやりしていた。高橋君が山口さんにパーキングの領収書を手渡している。山口さんは愛想がよすぎて相手に好意を持っているのがバレバレの笑顔を浮かべていた。それは仕方がない。高橋君は山口さんの顔を見れていないから、彼女がそういう勘違いをしても。私の席からだと高橋君が苦虫を噛み潰したような顔をしているのが見える。帰り際、高橋君が佐藤君に愚痴をこぼしていたので、話に混ざった。彼は告白して来たらどうやって断ればいいのか真剣に悩んでいるようだった。

「ブスに好意を持たれると、急に相手が気持ち悪く見えるもんなんですね。初めて知りました」

私は入社したばかりの飲み会で山口さんから聞いた理想の男性像を思い出しながら一つの回答を示した。あの人は男性が告白するものだと思っているから、そこまで気にしなくても、告白してこないよ、という。

電車に揺られている間、山口さんのような勘違いをしないように気を付けようと思った。あんなに恥ずかしいことは、この世に存在しないだろう。

 

翌日。ミニクーパーで大宮駅のロータリーまで行きYを拾った。折角の遊びというのに曇りだった。車が走り出すとYがブルートゥース機能を使って音楽が流し始めた。躁鬱みたいなロックバンドだった。軽快なクリーンギターととりあえず精神が疲弊していることが分かる投げやりさの混じった歌詞が聞き取れた。

「これ流行ってるの?」

 平日だからか高速は緩かった。夏休みは車がぎゅうぎゅうでビュンビュン走っているので運転するのが億劫になるから、これぐらいのほうが気楽に運転できる。 

「いやーどうなんだろう。友達とはそんな話しないからなあ。けどyoutubeだと一千万回ぐらい再生されているから流行っているんじゃないかな」

「へぇ。凄い人気だね」

「多分、みんな同じような気持ちで見てると思うんだよね。なんか感情移入というか、そういう感じで」

 見ているという言葉に若干の違和感を抱きながらも、Yも共感しているのだろうかと少し心配になった。

「Yu-kiはさ、友達と仲いい?」

「えっ、当たり前じゃん。仲良くないと友達じゃないでしょ」

「それならよかった」

「そうだ、聞いてよ。最近さ大学のガイダンスが凄い多くなったんだよね」

「うん」

「なんでだと思う?」

「分からないな」

「正解は就活のせいでした。馬鹿みたいに急かすんだよね。いい企業に入社しましょう、自分が働きたいところで働きましょうとか、凄い価値観の話をしてくるわけね。腹が立たない? 価値観とかって就職するのに大切なの? そもそも働きたい企業って何って感じ」

捲し立てるようにYは言った。私も自己分析が苦手だったし、今も自分の事を理解できているかと言われても自信がない。

「でも、みんなはみんなでインターンシップとかに行ってるし、私だけ何にもしていないのもあって石清水さんとどっか行きたいなって思った。それに友達とはこんな話できないからね。相手のやる気を削いじゃったらいけないし」

「そうなんだ。……じゃあ今日は楽しもう。息抜き、息抜きだよ」

「うん、今日は息抜き。それにいい企業に入ったからと言って人間関係でこじれる事もあるし運だよね」

「そんなの当たり前じゃないか。そもそも就職できないからと言って死ぬわけではないんだから」

「だよね」

 そう聞いてからシートに深く身を沈めたYは何も見ていないような目をしていた。綺麗だった。

「不思議だわ。友達よりも岩清水さんの方が自分のことを話しやすいなんて。正直に言って、会うたびに私は安心するのよ。貴方の事はほとんど知らないし、貴方の事を本当に信頼しているとは言えないけど、なぜか安心する」

「僕もだよ」 

 友達と言ってもなんでも話せるような親友というのはなかなかいない。善人も同じくいないかもしれない。何か嬉しい事が起こり、それを話してみたところで相手が全く興味を持たなかったので、話した内容が本当に嬉しいものだったのか疑うことがよくある。そうなると嬉しい事柄が、どうしてもつまらない出来事に収斂される。

 

 パーキングエリアについて昼食を取り終えた時には、湯気のような雲がちょろちょろあるだけで、画用紙を張り付けたような青い空から陽の光を浴びることができた。空気はもうすぐ夏になることを忘れているように優しかった。地方の空、これからもうひと踏ん張りと思い、両手を空に伸ばした。

 

「そういえば彼氏と上手くいってる?」

 高速を降り、あともう少しでアウトレットにつくあたりで、気になっている事を聞いた。もし話したくないことであったのなら、着いた時に話をすぐに変えることができるからだ。

「最近は、あんまり。ちょっと会えないかな。やっぱり彼も就職を意識しているし、そんな時に、私が就活を全然やってないってバレちゃうと、ほら、やっぱり申し訳ないような気持になっちゃうから」

窓から入ってくる風がYの髪の毛で遊んでいる。少し伸びてきていてボブに近くなっている髪の毛は赤いゴムで後ろにまとめられており、うなじのタトゥーがかすかに見えた。駐車場の案内が出てきたところで窓を閉めた。

「なるほどね、そういえば彼氏は梯子みたいなタトゥーのこと知ってるの?」

 出来るだけ歩かないで済むようにアウトレットに近い駐車場を探しながら聞いた。皺だらけのカーキ色の服を羽織っている丸まった背中があった。セミの抜け殻のようだった。あの人は謝りすぎて腰が曲がってしまったのかと想像した。

「私の?」

「うん」

「いや梯子じゃないよ。ジッパーだよ」

「ジッパーってなに?」

「チャック? ファスナー?」

「ああ、なるほど」

 右折する。

「彼氏には知られていない。多分ね、知られたら良い顔してくれないし」

「若い人ってタトゥーとかに偏見がないと思っていたけど、違うの?」

「人によると思う。人それぞれってやつ。彼氏は真面目だし、あんまり身体に彫るっていうのは好きじゃないと思う。だから隠すの」

 空いている駐車場を見つけて入れる。チェンジレバーをバックに入れて車を停める。絶妙なタイミングだと思った。自分がYに処女かどうかの確認を取ってしまいそうだったのを抑えることができたから。

 

 Yは夏が始まるということでワンピースを欲しがったので奢った。彼女が試着してくれた姿を見ると私も欲しくなったのもある。試着している姿を見ていると店員が話しかけてきて私の事を「叔父さん」と言ったので、とても良い設定だと思った。 そうして何着かと小物を奢ってからレストランに入った。

彼女の話を聞いていると自分まで若さを取り戻したように思える。あのブランドが良いといったことや、あのアニメが面白いだとか、あの音楽が良いだとかそういった話だ。何かに興味を持つことが難しくなったからこそ、Yの話を聞くと自分も若くなったのではないかと錯覚する。スマホに映った画面にはMusic FMや無料アニメチャンネルという文字が見えた。無料で見ることができるらしい。いくつか勧められたものの、どれを選べばいいのか分からなかったので、気が向いたら見てみると返答した。

 

帰り道、暗くなった高速道路を運転していると、アウトレット品ということは普段から彼女に奢る物よりも値段が安く、もしからしたらYは私に気を遣ってくれたのではないかと思い当たった。そう思うとYが愛しく感じられた。チラリと顔を一瞥すると眠っていた。

橙色の灯りの下を走る度に、Yの唇の横に涎が伸びていて光を反射していた。それを見た途端、皮膚の裏側から劣情が滲み始めた 。台風が窓を叩いているよう音が頭の中で響いている。段々と息苦しくなりどこか休憩する場所がないか考えた。ラブホテルが一番に思い浮かんだ。肌に張り付いたシャツの胸元を引っ張って空気を送る。嫌な汗だった。過去前例のない興奮にアクセルを踏む足に力が入った。

路肩に止めた車の中で、私はジーンズのチャックを開けた。夏休み初日の小学生のように笑顔を振りまきながら空気に触れたペニスをじっと見つめた。どす黒い紅から鼻の奥をツンと指す匂いがして窓を開ける。

端的に言って、私はマスターベーションをした。Yの唇はだらしなく中途半端に開かれており、その唇に血管が浮き出たペニスを擦り合わせるさまを思い描きながら三擦りで射精した。勢いのあまりハンドルに張り付いた精子をウェットティシュで拭き取った。そのままペニスを拭き、ジーンズの中に仕舞った。ウェットティッシュはポケットの中に詰め込んだ。

シートに身を沈めた。確かに自分は早漏だがここまで早いのは初めてだった。もしかしたら付き合っていた女性と関係が続かなかったのはそのせいではないのかと、原因をそこに求めたが、これまで一度も恋人がいたことはなかったし、だから一度も性交はしたことはなかったし、これまで信じてきた、自分は過度に相手に気を使いすぎる仮説の方が優しい人間のように自分を捉える事ができるので、曖昧なままにしておくことにした。

なにも期待せず悲しみに身を沈めた時にこそ景色が美しく受け止められる。ほっとするように、するりと魂が自分から離れて、目が認識するのをやめる。ほとんど無の感覚のなかで走り抜ける光が胸に迫った。ごうごうと音を立てて走り抜ける車はやけにトラックが多く、自分の家の前にある物流倉庫に流れ着くトラックが混じっているのかもしれないと思った。

「あれ、どったん?」

 Yが目を擦りながら私に尋ねた。

「ちょっとね。休憩」

「あ、そう?」

「あのさ、Yって処女?」

 私は迂闊にもそれを口に出してしまった。狭い車内の中でYの顏には瑞々しい恐怖が浮かび、しかし何事もないように振る舞おうと震えた声で「どっちだろうね」と彼女は言った。

「ごめん、別にそういう気はなくて」言えば言うほど自分が処女について拘っているような気がした。否定しようとしても無駄だった。 「なにか正当化しているように聞こえるかもしれないけれど、彼氏はそういうセックスとかしないで関係が続くものなのか凄く気になって。僕はこれまでそれが理由で女性と関係が続かなかったかもしれないんだ」

 ウィンカーを出して走り出した。そうすればYに対して手を出すなどをする気がないという態度を取れると判断できたからだ。

「それは分んないよ。だってこの先も関係が続くとは限らないし……けど今まで、一年とちょっとは続いてきたから、多分それなりに続くんだと思う。私はそうしたい」

 自分の経験を離れて何かを話すといつも嘘めいたこだまが生まれるのをYは理解しているのか、それとも暗に私と性的な関係を持ちたくないと言っているのか、判断が付かなかった。しかし経験に基づいて話す言葉は、そのすべてが正しく、かつ嘘であるのも知ってるのだろう。だから私に答えを差し出したりは出来ないのだ。

「そうだよね。別に僕はYにそういうことを期待して支援しているわけじゃないから安心して。けどやっぱり否定できないこととしてタトゥーをちゃんと見たいっていうのはあるんだ」それが性欲と結びついているかどうか自分で否定することはできなかった。

「そんなの性欲と結びついているに決まっているし、あなたの女性観が歪んでいる事の証明なんじゃないの?」

 違うとは言えない。それは認めざるを得ないが、受け入れがたさがあった。しかし、どう反駁したらいいのかもわからなかった。私は潔白でなければならなかったのかもしれない。性欲と結びつかないように、抑圧しなければならなかったのだ。

「分からない。けどタトゥーが見たいっていうことだけは確かなんだ」

「なにそれ、全然分からない」

「分からなくていいんだ。ただ、だからと言って君を襲ったりなんかしないということだけは分ってほしい。誓うよ」

「やっぱり、あなたは根本的に間違っているのよ。ねぇ言ったでしょう。あなたに信頼なんて寄せていないの」Yの声が震えていた。「まぁただ岩清水さんの目的が分かって少し安心した。可愛いってだけでお金を寄与してくれる存在なんているわけないって分っていたし、やっぱりって」

 私はペニスに遅れてきた精子を感じて、自分を酷く惨めな男だと思った。

 

 Yを大宮駅まで送ってから(彼女は一人暮らしをしていて大学の近くに住んでいるらしいが、それは秘密にしておくのがルールだった)カーシェアの駐車場にミニクーパーを返し、課長に明日も出勤できそうにないとメールを送っておいた。二十三時を回ったところだった。

そのまま大宮の鳥貴族で時間を潰していると、昔よりもずっと酒に弱くなっていたのに気が付いた。友達が妙に恋しくなった。ただ、話を聞いてもらいたかった。その内容が倫理的に許されない事であっても、最後まで聞いてくれる友人が。いくら焼き鳥を食べても腹の中には満たされる感覚はなく、満腹感だけが先行していた。時間が過ぎれば過ぎるほど空虚さはいつのまにか投げやりさに変わり、これまでの失敗を思い出すたびに、自分の中でどうでもいい部類にカテゴリー分けされた。妙に落ち着いていた。

午前三時にマクドナルドに入った。Mサイズのコーラを買い窓の外をぼんやり見ていた。もう終電がないから家には帰れなかった。酒を飲まずに帰るべきだったと後悔しながら、私と同じように終電を逃した人たちを気に掛けた。マクドナルドは変わることなくマクドナルドであり続ける。しかし、誰も食事をしておらず店内は、昼間のごった返した雰囲気ではなかった。あの包み紙をくしゃくしゃにする音や咀嚼音や足音や話し声が聞こえず妙に静かだった。時間が止まったかのように思われるが、時折クルーが見回りに来て寝ている人に「ここは寝る場所じゃないですよ」と言い起こし続けていた。あのサラリーマンが注意を受けるのはもう三回目で、割に怒気を孕ませた声色でクルーは起こしている。ここの従業員たちは毎晩、毎朝これを繰り返していると思うと素直に尊敬できた。

始発が出るのは午前五時二十五分だから、あと二時間はここにいることになる。もしかしたら幸福なのかもしれないと思った。二時間、なにもできない、あるいはしなくていいのだと諦められる時間は普段暮らしている時には味わう事ができないからだ。自分が求めていた癒しがそこにはあった。みな見知らぬ人で、しかし同じ状況で、親密感が湧き、眠い目のまま時間が流れるのを待つという。

人間は椿の花のようなものなのかもしれないと不意に思った。椿の花が落ちる瞬間は一度も見たことがなかった。同じように人が死ぬ瞬間を一度も目にしたことはない。だから知らない間に花が咲いていて(店内にいる人間のように生きていて)、いつのまにか地面に落ちているという点(いつの間にか死んでいる)では椿に似ている。よく人間の頭が落ちるようだから植えないほうが良いと聞く。しかし、それでもうえる人間が存在するのは、それを見つめていたいと願う人間がいるからではないか? それはきっと悲しくはなく、ただ慈しむことができるからというだけのみの理由で。

Yに会いたいと思った。今なら性欲も願望も関係なく、ただ会うことができそうだった。まだ起きていれば良いなと思いながらメッセージを送ると既読だけが付き、返信はなかった。

 夜が明ける瞬間はいつやってくるのか、いつも分からなかった。朝が来れば夜が明けたことになるという自然に異を唱える気はさらさらないが、夜の空気を連れたまま朝を迎えるの方が実感として残っていた。だが、ようやくわかった気がする。明朝の空気はため息が少ないのだと。その瞬間が、夜が明けたということになるのだろう。

 午前五時十分になった時、私は外に出て煙草を吸った。日の出前の街はタクシーのテールランプがやけに映えていた。

睡魔のせいで駅のホームで鉄のレールに吸い込まれそうになった。自分が思うより先に身体が反応して黄色い点字ブロックの上に右足が乗った。私はそれに驚いて改札のあたりまで歩き暖かい飲み物を買い、ベンチに腰掛けた。もっと厚着してくれば良かったと思った。

 電車で座っていると身体が非常に怠かったが、目は冴えていた。電車に揺られている間、歪んだ外灯と交じり合う家々の窓から溢れる光や、朝日を浴びて濡れたビルの外壁が輝いている様、見慣れた駅のホームが見慣れないものに変わっている時間を忘れないようにしようと思った。

 最寄り駅に着くと向かいのホームから高校生が電車に乗りこんでいるのが見えた。改札を出てTSUTAYAヤオコーとビバホームの順番で横目に写し、コンビニで煙草を吸った。どこの駐車場も車がないのが不自然だった。

駐輪場には自分の自転車がなかった。鍵を掛け忘れたからといって、すぐに盗まれるような土地ではないはずだが、盗まれていた。家に帰らなかったのを咎められている気がした。仕方がないので歩いて帰ることにした。

足が勝手に通っていた中学校の通学路をなぞった。空気が澄んでいて鳥の鳴き声がよく聞こえる。割れたコンクリートから記憶にない懐かしさが匂い立っている。中学校の横に物流倉庫が建設されていた。それを見て、元々なにがあった土地だったか思い出せないのに気が付いた。田んぼだったような気もするし、違うかもしれない。過去の記憶が物流倉庫によって上塗りされているように思われた。何も変化がないと思っていた土地に、ゆるやかな変化があったことを知った。

 二十分ほど歩いて自宅兼、死んだ祖父母の家が見えた。家の影が物流倉庫に張り付いていた。その光景がやけに胸に迫った。これまで太陽が沈むのを見れないことを恨めしく思っていたが、初めて見る光景に目を奪われた。物流倉庫が違う顔を見せた。その衝撃のさなかで影になりたい気分になった。

自室に入るとラブドールが私を迎えてくれた。オナホールの箱が地面に転がっている。取りだしたはずみでピンクのシリコンがぷるぷる震えた。人肌に暖めたオナホールを初めてラブドールの股の穴に差し込み、ローションをたらしコンドームを付けてゆっくり挿入する。そんなことをするのはYへの裏切りのように思われたが、無理だった。

Yに会ってから、ラブドールの鑑賞の価値がなくなったのにも気づいていた。本来、無償の愛を捧げていたラブドールを制の対象へと格下げするという、罪悪を認めながらも止まらない腰、まさに罪悪感によってこそ生まれる興奮が私を自涜に押し流した。私は私で満たされている。死体のような理想の腰回りのぬくもりは私の体温が乗り移っただけだが、これがYの体温だったらどれだけ良かったろうか。頬の輪郭をなぞると、うっとりとした嘆息が漏れた。墨色のショートカットから覗く半月の耳が好きだ。声を発さないラブドールの開かれたままの目から私の涙が零れた。「ごめんなさい」と謝ると同時に射精した。

Yに襲いはしないと誓ったのにもかかわらず、こうしてラブドールを通じてYと性交することを想像するのは、おそらく無能さを実感することを求めているのかもしれない。自分が無能だと分かると安心する。何もできない人間として自分を受け入れられる。それはもしかしたら癒しなのかもしれない、それもマゾヒズムを隠れ蓑にした諦めという癒し、だ。恋人がいないこと、結婚ができないのも、うだつがあがらないことにも、やっと諦めることができる気がした。三八歳で死ぬというのも自分で自分に出した、とりあえずの処方箋のようなものだったかもしれない。頑張らなきゃいけないのに頑張れないから、自分の中でゴールを設定して、それなら頑張ってみようと思うための処方箋。死にたくもなく、死ぬ意味も分からず、しかし生きたくもないのなら、もう自分を許そう、諦めてしまおう、そう思った。

お腹が空いた。胃の中でスーパーボールが跳ね回っているような感覚を連れて、台所で湯を沸かしインスタントの味噌汁を作った。飲むと一気に肩の力が抜け、眠くなった。私はガラスケースを持ち上げ仏の前に煮干しを置いた。十二個だった。サッカー日本代表の観戦チケットが目に入った。まだYは会ってくれるだろうか、今度会った時には、上手く接すれるだろうか、と思いながら眠りについた。

 

2 

 

Yからの返信は翌日には来ていた。一三時に起きてからスマートフォンを開くと「彼氏が会いたいって。けど、その前に暇だし夏祭り行かない?」と短く用件が送られてきていた。課長からも「色々と大変だと思うけどあんまり焦らないようにね」と返信が来ていた。「今週の日曜なら空いている」とY返信し、課長には「ありがとうございます」と返信した。その後、私は外食をしにイオンモールへと向かうことにした。新調したウォーキングシューズを綺麗なU字型になるように締め、膝に手を当てながら立ち上がり、踵で地面を何度か叩いてから玄関を出た。彼氏が話したいといっている内容を想像すると、私は不安になった。いや、不安が先にあったのかもしれない。Yに拒まれるかもしれないと恐れている状態で、彼氏と会って欲しいと言われたら、不安になるのも当然だと思うことにした。

歩きながら、空き地や工場、軽トラックの中古販売店接骨院が多いのに気付いた。もしかしたらコンビニよりも接骨院の数の方が多いのではないかと思われた。その足でイオンに向かい、夏休み中の子供たちとすれ違いながら、回転ずしに入った。このあたりで遊ぶ場所はイオンぐらいしかない上に、東京で買い物するほどの財力を持たない子供たちは自動的にそこに屯する。私は年齢を重ねるごとに個人が経営している店ではなく企業の経営している店が好きになっていった。それは人間を平等に客として見ているからであり、自分の境遇を知られずに済むからだった。私はその無関心さを気に入っていた。その後、酒と煮干しを買い、ネットフリックスであまり興味の無いドラマを垂れ流しながら酒を飲んだ。しかし、どう楽しめばいいのか分からなかった。

 

Yと私の関係は両者が会いたいという合意の上で成り立っていた。しかし、そこに純粋さが消え去った。たとえそれが演技であっても、下心を隠しきらなければならなかったのである。だが、私は演技をする余地も残さないほどに、純粋になることを決意した。つまるところ、私も好きな人に自分のことを好きになってほしかったのだ。

鳴り響く嬌声の中で下駄のカランカランという音が響き、私には誰がやって来たのか直ぐに分った。あの日、Yに対する性欲をラブドールにぶつけることで、彼女とのささやかなふれあいの間の性欲を相殺することに気が付いた。Yに対する態度は以前、ラブドールに接していたような奉仕の心を原動力にしようと決めている。

「あ、お待たせしました」

Yの浴衣姿は最初に出会った時と変わらずに、華奢な身体はすぐにでも折れてしまいそうで、どこか儚かった。私は歓喜した。Yが着用している浴衣は私がプレゼントしたものであり、彼女の白い顔が一層映えるように赤を選んだのだ。それを彼女が着てきていることに、なんともいえぬ喜びがあった。

「あ、大丈夫だよ。凄い似合ってる」

「ありがとうございます。じゃあ行きましょう」

 はにかんだYが私の先を歩き始めた。白いうなじにはタトゥーが見えなかった。しかし、私は気になりはしなかった。Yがタトゥーを消していたとしても、私はYに対して潔白であろうと決めたのだから。

 人の波を泳ぎながら私はYの顔を何度も確認した。十二回目である今日を、これまでうやむやにして来ていた、性的関係を結ぶことが目的ではない、と証明しようとする日にしていた。これは、彼女への誓いを意味していた。彼氏がいても私はYのことを大切に思っているという誓い。第三者から見れば祈りのように見えるだろう。

自分自身に対して言及する言葉の内に潔白の要素を含む言葉を配置することによって、私は自分を抑制するようにし始めていた。たとえそれが打算的であっても、可能であると考えていた。

「あ、叔父さん、これ買ってよ」

「ああ、いいよ。まかせて」

 私は財布のチャックを開けて、お釣りが返ってこないように金を払った。屋台の豆電球の光を反射している林檎飴がYの唇に触れた。その姿が美しくて新しくデジタルカメラを買おうか悩んだ。Yは腹をすかしているのか、その後もよく食べ物をせがんだ。

「気になっていたけど、そんなに屋台のご飯って美味しい?」

「え、美味しいじゃん」

「屋台のご飯って衛生上よくなさそうだから、あんまり食べたくないんだよね」

「え~だからいいんじゃん。ここでしか食べられないんだから」

「ああ、確かにそうだね。特別な感じがする。僕も買おうかな」

 Yは「だったら私の分もお願いね」と言った。じゃがバターを買ったが、やっぱり美味しくなかった。私とは裏腹にYは美味しそうに食べていた。唇の端についているマヨネーズが美味しそうに思えた。しかし、私はすぐにそれを打ち消した。

 歩き続けて神社の前まで来た。屋台の列が途切れて、そこだけ違う世界のように思えた。しかし、それが普通なのだろう。この時間なら暗くて当然であって、今日は夏祭りだから暗い境内が妙に特別に思えるだけだと自分に言い聞かせる。

「お参りしておく?」

 私はなぜが声を潜めてYに話しかけた。返事がなかったので、もう一度呼びかけるように声を張って「参拝しておく?」と言った。

「しな~い。だって屋台のご飯と花火を見に来たんだもん。ねぇ戻って花火が良く見えるところ確保しようよ。あ、やっぱ待って。写真撮らせて」

 Yはスマホを取りだして、賽銭箱の前に上がり、境内までの道を見下ろすような角度で、写真を撮っていた。私はそれを見上げて、Yこそが私の神様なのではないかと勘違いしそうになった。浴衣の時は下着をつけていないと聞く。それが都市伝説程度のものだが、信じておきたいと思った。そして、その上で自分の潔白さを見つめようとした。

「あ、叔父さん。ちょっとこっち来て」

 急いでYの下へと向かった。それこそ犬のように走ったつもりだが、年のせいかあまり速くはなかった。「どうしたの?」

「いや、写真に入っちゃうから」

「ああ、そうだね。気が利かなくてごめん」

 そう言ってから、私はYのスマホに映る屋台の列を見た。別に綺麗でも何でもなく、ただの屋台の列だった。しかし、こうでもしないと屋台の列をまじまじと見る機会もなさそうだった。私は賽銭箱にお金を入れるか迷ったが、Yがしないのなら自分もしなくていいだろうと思った。実際、祭りの集客が多いにもかかわらず神社は赤字が多いと聞いたことがある。地域住民からの苦情も後を絶たないと聞く。やはり日頃の感謝やYと遊べたことを感謝して賽銭を入れようと財布に手を伸ばしたが、下から「はやくいこ」と聞こえたので、急いで階段を下りた。神社なら年中行事である祭りを無くすことなんてできるはずがないのだ。だから別に今じゃなくてもいいだろうと思うことにした。

芝生に敷いたビニールシートの上に座り、買った酒を開けて乾杯した。座り心地が悪くて時折、腰を浮かして落ち着く場所を探す。酔ったままYの顏を見ていると「本気で好きになって良いのだろうか」と思ったが、馬鹿馬鹿しくて笑った。それを見たYも笑った。

「初めて笑った顔を見た」

そう言われて気が付いた。取り消そうとしたが、笑みが顔面に張り付いてしまっていた。顔に力が入らなかった。もし、何も望むことのできない状況を幸せと言うならば、今は幸せだった。幸せだから何も望まなかった。

人が集まるにつれて花火への期待も高まった。段々と笑い声も聞こえ始めたが、アナウンスが入ると、一瞬にして静寂が訪れた。猫の媚びた声のようにか細く、よく耳に通る音が聞こえ、光がある一点まで登ると開く。遅れて音がやってくる。それに重ねるように子供の甲高い叫びが聞こえる。それに遅れて大人の声がする。私の隣からも聞こえた。私は花火が苦手だ。破裂する一瞬を、やがて消えてしまうものを、好きになることができない。対象がなくなり、愛だけが残ってしまうから。そして、そのうち花火という言葉の儚い印象と結びついてしまい、どうも嘘っぽくなって嫌な感じが生まれる。

隣を見ると顔を赤くしたYが居た。私はどうしようもなくドギマギしてしまったが、新しい花火が上がるとYの顏は緑色になった。私を徒労感が襲った。しかし、その諦めが私の性欲を衰退させることも知っていた。聞こえる「たまや」という声が重なり会い「たまたまや」と聞こえた。つい笑ってしまった。いや、もうずっと口角が緩んでいる。私は酔いと花火に任せて「めっちゃ好きだよ」と言った。Yの顏が青く光っていた。

人混みの中を歩き駅までたどり着く間、私は時折、振り返りYに向けて「花火綺麗だったね」と尋ね続けていた。しかし、碌な返事が返ってこなかった。それほどまでに道は人で溢れていた。縁石に座り込んでいる若い女と、その隣にはボックスロゴのTシャツの男がいた。私はYの三歩先を歩いている間、彼女がいつのまにか消えてしまわないか気が気でなかった。

駅の改札前まで来るとYの顏は青白く、唇は色を失っていた。私は心配で一杯になって水を買ってYに飲ませ、しばらく背中をゆすっていると初めてYの身体に触れることができたと思った。そして勃起しなかったことに対して、自分を肯定した。

「ごめん、ちょっとトイレ行っていく」

 汗の量が尋常でなかったので私はバッグから新品のタオルを取りだし手渡した。

「わかった。待ってるね」

 私はトイレの前で通り過ぎていく人々を追っていた。同じような形の服を着ているのに顔はそれぞれ違った。しかし、みんなお祭りを楽しむためにここに来て、散り散りに家に帰っていく。来年の夏になったら彼ら彼女らはまたここに来るのだろうか。

ぼんやりしているとYが戻ってきた。まだ顔色は優れないので肩を貸そうと近づくとYは「大丈夫」と言ってやんわり私を拒否した。汗のにおいが頭の澄んだ部分に入り混じった。少しよれている浴衣から覗くうなじは、不自然に膨らんでいて、中を覗き込むとタトゥーがあった。Yはタトゥーを隠すシールを張って来ていたのだと分かった。Yはあまり酒を飲んでいないようだったが、体調の崩しようから見ると酒に弱いのだろうと察しがついた。

 

私は家に帰った後、同じようにラブドールの背中を撫でたが、何かが足りなかった。決定的に何かが欠けている、という確信はあったものの、それが何であるか判断するには勇気が足りなかったとも言えるだろう。ラブドールの両頬を両手で覆ってみても、その唇にキスをし舌を忍び込ませても決定的に欠けていた。あの場面の再現しようとして、作り上げられたのはYの特別さだけであった。不満足ばかりが残った。しかし、その分私は喜びを享受した。それだけYが本物であるように感じられるからだ。そして私はラブドールと性交した。

 

日曜日の昼間、大宮駅でストリートミュージシャンが自分の現実という生活感情の無い物事を歌詞とメロディーに乗せて歌っていた。共感して欲しそうに声を張り上げていた。しかし十メートルも離れると歌詞が聞こえなくなった。違うミュージシャンは人生の素晴らしさについて歌っていた。五メートル離れると何も聞こえなくなった。ローソンの前の喫煙所で煙草を吸っているとYから連絡が入った。彼氏はもう私と会う準備を終えているらしい。

約束通りにタリーズコーヒーに向かった。紺色のセーターを着た男が窓際に座っていた。あれがYの彼氏か、と私は妙に緊張しながら思った。美形とは言えないが清潔感があった。つまり公務員を志望してそうな身なりだった。

Yの彼氏は聡という名前だった。私は聡に軽くあいさつしてから手荷物を席に置いて、ブレンドコーヒーを買った。私が席に着くと聡は「叔父さん、今日はありがとうございます」と言った。上手く目を見れない私を見透かしたように、嘲弄のまじった声だった。

「ああ、うん。それで、なんで?」

 若干、しどろもどろになりながら、用件を尋ねた。聡は一度眼鏡の位置を直してから、まだ私のことを何も知らないのだと安心させる言葉を放った。しかし、その安心は私をすぐに違う方へと導いた。

「いや、叔父さんのこと考えると、忍びないんですけど。単刀直入に言いますと、なんか悠貴さんはパパ活っていうのをやっているようなんですよ。それも複数人と。僕もあまり詳しくは知らないんですけど、多分やっていると思います」

 私はYがパパ活をしていることに衝撃を隠せず、顔が歪んだ。

「叔父さんの気持ちも分かります。ですけど、僕も同じ気持ちです」

段々と弱くなっていく彼の声に、どこか自分が情けないのを恥じているように感じられた。先ほどの嘲弄の混じった声は彼自身に対するものだったと理解した。聡にしてみれば、友達でもなく知り合いでもない上に家族でもないパパと彼女が遊んでいることが、自分の情けなさと結びつき、結果自分もYも許せない状況に陥っているのだろうか。

「正直、もっと楽しい話をするのかと思っていたけど、まさかこんな話になるとはなぁ」

 Yは誰のものでもないと理解していてなお、私と同じ領域に生息するパパがいることが許せなかった。これが彼氏や友達、両親ならば許す ことができたが、私と同じか年上の男性に金を工面させているのなら、私はそのカテゴリーの中での序列が決まっていると想像することができてしまうため、じりじりと肌を炎で焼かれているような痛みを感じた。

「それで、Yがパパ活をしているって証拠はあるの?」

 私がそう言うと聡は口角を釣り上げ私の気持ちに共振したように怒気を孕ませた声で言った。

「確かに叔父さんからしてみれば、肉親がパパ活をやっていないって信じたいものだと思いますよ。けど、現実は違うんですよ。僕と悠貴が付き合い始めたのは大学入学してからで、そのころはYの質素さが好きだったんですよ。必要最低限のおしゃれしかしないというか、身の丈に合った幸せを探そうとしているというか。ですけど、ちょうど十月ぐらいから彼女の服のバリエーションが増えたんです」

「それが、パパ活と関係しているの?」

「しているんです」彼は断言した。「元々彼女は北海道からこっちに出てきているのも叔父さんは知っていますよね。それで両親の代わりに叔父さんが困ったことがあれば面倒を見てくれているって悠貴も言ってましたし。けど、悠貴は奨学金を借りているはずで、いきなりたくさん服を買えるような状況じゃなかったんですよ。アルバイトして捻出していましたが、普通はあんなに買えるわけないんです」

 聡は割合に大声で喋っていたことに気が付いたのか、こちらに顔を突き出して打ち明けるような態度で話し直した。初老の男性が私たちの方を見ていた。その眼がラブドールの眼と似ていることに気が付いた。見られている人間を試しているような気迫がある。

「それで、僕は違和感を覚えたんです。悠貴にアルバイトを増やしたのかと聞いてみたら、そうだと言ったので、最初は信じました」

「そうなんだ」

 初老の男性は視線を本に戻した。新書サイズで青い表紙だった。あれは小説だろうか、それとも新書なのだろうか。老年になれば行動せずに本を読んでいても良いのだろうか。

「もうちょっと真剣に聞いてくださいよ。僕は悠貴と本当に結婚を考えてもいるんです。そしたら僕も肉親になるんですよ」

「ああ、ごめんね」

 正直なところ、もう話は聞きたくなかった。聡はYと結婚する前提で話を進めるし、Yは私以外のパパを持っているらしいし、私はもうどうしようもなく逃げ出したくなったのだ。

「それで悠貴に聞いてみたんです。最近、すごいおしゃれだねって、どうして? って。そしたら悠貴は僕のためだって言うんです。自分のことを好きでいてほしいからオシャレするんだって。僕は本当のことを言って、と詰問しようとしました。けど、出来なかったんです。悠貴が僕のためを思ってパパ活をしていると思いたかったんです。ですけど、僕はそれとは関係なく、心配で、パパ活とかやっていないよねって聞きました。そしたら悠貴は僕に謝って来たんです。それで複数人とパパ活をやっている事が分かったんです」

「なるほどね」

「叔父さんはどう思いますか?」

「そりゃあ辞めさせたいよ。けど、僕はあくまで悠貴になにかあった時用のセーフティーネットみたいなもので、そこに立ち入って良いのか迷う」

「それは」聡は腕を組み、しばらく黙った。そして「薄情ですよ」と言った。

「うん、その通りだと思う」私は薄情者だと責められている気がした。そして自分でも薄情だと思った。「だから、僕の方から悠貴にも言ってみるし、彼女の両親、つまり僕の姉に言ってみるよ。だから、ちょっと待っていてくれないかな 」

「まぁそれでいいですよ」

 聡はコーヒーを啜り、憮然としない顔で私を見ていた。それまでの話の余韻で空気が重く感じられた。しばらく何をしゃべったらいいのかを考えていると、彼はスマートフォンを取りだし弄りはじめた。私は、その行動がもう喋りかけなくても良いというサインなのか、それとも逆に話しかけて欲しいというサインなのか、判断できず、聡はYの秘密をしゃべってくれたのだから私も同じようにYについて話すことにした。

「そういえば、結婚を考えてるって言っていたけど、どこまでいった?」

 すぐさまスマホをしまった聡を見て、私はこれが正解なのだと安堵した。

「なんでそんなこと言わなきゃいけないんですか」

 その言葉とは裏腹に話したくてうずうずしているようで、眩しかった。彼は自分のことを話したくてたまらないという若さがあった。そこにはYと結婚したいのだという意思があった。人間には意思があるらしいが、その言動が無条件に正当化されるのは若さしかない。若ければ失敗してもいい、若ければ楽しんだ方が良い、そういった気は実感としてある。歳をとればとるほど、失敗はしにくい。つまるところ聡の意思は若さによって既に正当化されており、相対的に老いた私と比べると、彼の言動は全て正しいものであるように思われたのだった。

「いいじゃん、別に減るもんじゃないし」

 実際減る。言ってしまったら秘密が一つ減るのだ。しかし、物質的にはなにも減らないので、私はそう言った。

「そうですけど。まぁ、叔父さんになら言ってもいいですかね。キスぐらいですかね。僕はやっぱり、結婚するまで、そのセックスはしたくないです。なにか自分の中で儀式めいているんですよね」

 なんとなくだが、聡は私の若い頃に似ている気がした。そしてYが処女である可能性が増したことに対して、喜んだが、すぐに打ち消した。

 私は彼にYのタトゥーについて話すのを迷い、ぬるくなったコーヒーを啜った。タトゥーが理由で彼がYに対して良くない感情を抱いてしまうことで、二人の関係が崩れてしまうことが嫌だった。それは私がYのことを好いていても、彼女の生活に関しては深入りすることに対して躊躇いがあったことに由来する。

そして、叔父という設定の私から、それを聞くとなるとやはり違和感があるのではないかと思った。なぜこいつはそこまで知っているのだろうかと思われてしまった場合に、どう説明して切り抜ければいいのか私は考えていなかった。育ての親でもない私が、彼女の身体に関する事柄を知っているのならば、やはり聡は疑念を抱くのではないだろうか。しかし、

「そうなんだ。じゃあ、もっと積極的にならなきゃね。けど、君みたいに貞操観念がしっかりしているなら、もしセックスする時にはYを嫌いにならないで欲しいんだ」

 聡の顏が鶏のように前に出た。眉は八の字。私は慌てて「いや、なんでも悠貴はタトゥーを入れているかもしれないってことで」と付け足した。

「え、そうなんですか。それっていつからですか?」

「いや、僕も詳しくは知らないんだけど、大学に入ってからじゃないかな。確かそういう話を聞いた記憶があるんだよ」

「記憶って、一番頼りないですよそれは」彼は口角を釣り上げながら「けど、大丈夫ですよ、安心してください。もうそれぐらいでYのことを嫌いになったりしません。なんていったって、パパ活をしている悠貴のことを好きでい続けられているんですからね。それに僕は将来、公務員になって安定した暮らしをする心算なんです」と言った。

 本当ならば私は安心するべきだった。私がYのことを本気で愛していれば、聡がYを愛していることを喜ぶべきだったし、安心するべきだった。しかし、それよりも先に得も言われぬ苛立ちが起こった。なぜ、この男は悠貴のことを嫌いにならずに、結婚まで考えることができるのか。なんで何をしても嫌いになることができないなんて思えるのだろう。全身を流れる血液が速さを増していた。私はどこかで聡がYを嫌いになってしまえばいいと思っていたのだろう。そうすればYは私と遊ぶ機会が増えるだろうし、私がYに好きになってもらえる機会があるかもしれない。しかし、自分がそう思っていることに気が付くと怒りはなくなり、あの馴れ馴れしい虚無が私を襲った。お前は三十八歳で夢も希望ももてない人間なのに、若い女の子が自分を好きになってくれたら良いなと希望的観測をしている、それを恥ずかしいと思わないのか? それにYには同じ年齢の彼氏がいるのに、それでもYを略奪できると考えているのか? 聡ほどお前はYを好いているのか? と自問自答の末、私は「それでもYを愛し続けよう」と覚悟する他なかった。しかし、その背後には「三十九歳になるまでに死ぬのだから考えなくともよい」という諦めがあった。

「そうか」

 そうつぶやいた私は背もたれに寄っかかろうと重心を後ろにずらしたが、椅子には背もたれがなく、危うく後ろに倒れってしまいそうになった。それを見た聡は「そういう所、血が繋がっているんだなぁって思います」と笑っていた。背もたれがないのは早く店の回転率を上げるためだというのは分かるが、もう少し私のことを考えてみて欲しかった。

 その後、聡とラインを交換した。苗字が違うと驚かれたが、姉が嫁いだのだと話すと納得した。血が繋がっていても苗字が違う人間がいるのだと、その時に初めて気が付いた。

聡は若さを我が物に持て余しているという印象があった。人を愛する力もあり、現に彼女が居る、加えて安定した暮らしを志向しているなどの人間性がそれを引き出していた。

人間性は常に良いものでなければならないのだ、そのようにしなければ、よりよい社会には向かっていかない。そういった予断が私の中に錨を下ろしていた。透明な私の底には確かな規範があった。どのように生きることが推奨されるのか、どのような志向をとることが良いのか、それらを成人期には理解していた。それは意思に加えて、本能的にただそうしなければならないものである。しかし、私には意志の力が備わっていなかった。大学に入学しても、就職しても、意思の力は必要がなかった。ただ追われるように出世を望み(男は出世しなければならないという予断があった)、かといって仕事に打ち込めず(なぜ仕事を頑張らなければならないのか理解できなかった)、いつしか年下の上司の下で働くようになっている。私も聡のように考えていれば(これからの人生をどのように生きたいのかを理解していれば)、良かったのだろうか。

 

 喫煙所で煙草をふかしていると漠然とした不安に襲われた。やはり自分は三八歳の内に死んでおかなければ、これから、平均寿命のあたり までずっと自分自身に痛みを与え続けてしまうだろう。しかし、決意はできなかった。

 今、自分を生かし続けているのはYが存在するためだ。娘を持つとこのような状況になるのかもしれない。私は娘と血のつながらない父親として生きようとしている、そして私以外のパパがいることを認められない中途半端な独占欲とも愛とも言い切れない内心を抱えながら。そこには必ず終わりがあり、関係が切れた後に町中ですれ違うことがあったとしても、契約は終わっているから、見知らぬ人間同士にならなければならない。それに気が付くと今更ながら私はYに近づいたことを後悔した。Yが私の寿命だった。

 煙草を灰皿に落とし、黄金色に輝く手すりを使いながら階段を登り連絡通路から駅構内へと入った。セレクトショップで服を買い、Yに連絡を入れた。彼女の好きなアニメのスタンプを押し、聡はとても良い人間だったと短い文章を送信した。上手く泣けなかった。

 家に帰り早速買ったばかりの服を着て姿見に写ると、若作りした中年にしか見えず、店員の言葉をうのみにしてはいけないなと思った。「似合っているかな?」ラブドールに問いかけた。「あまり似合っていないし、流行は終わったんじゃない?」と聞こえた。静かに落ち込んだ。

姿見に映った自分を見て名案が思い付いた。ラブドールに買った服を着させてみよう。私はMA-1を白いワンピースを着ているラブドールに羽織らせた。その可憐さを目の当たりにして息をのんだ。このラブドールが本当は自律型で、私が会社に居る時や寝ている間に外に出て遊び惚けている、という設定を思いついた。着替えるのが面倒で、白いワンピース(私はそれを寝巻だと考える事にした)の上に暖かい上着を羽織っただけで、無印良品の靴下を履き、ニューバランスのスニーカーで歩く(つまり、Yをそっくりそのままトレースした姿)。ラブドールを見ている間、指が震えず、身体は熱くならならず、次第に私を焦りが捉えた。これではあべこべだ、と。ラブドールが性欲の対象ではなくなったという現状が、私の元々の使用意図に戻ってしまったようで、相対的にYに対する性欲をコントロールできなくなることを恐れた。

一人でいる自覚による孤独感が私を宙に浮かした。木に結び付けられてしまった風船のような孤独の中に私は居た。外が見えなかった。もはや自分では空へ上昇することはできなくなっており、誰かが紐を解くか切るかしなければ上昇できない。鳥が割ってしまうか、風や雨や朝日や昼の日差しが孤独の劣化を進めなければ、破裂もできないし地面に落ちれない。

ラブドールに見て取るYの面影は確かに臆面もせずパパ活をしていそうな顔だった。もっと違う形でYと会えればよかったのにと意味もなく思った。自分がもっと若ければ、と妄想して刹那的に癒されるが、すぐに堂々巡りの思考を繰り返した。Yにもっと会うべきだろうか、いや会ってどうしたいんだ? 本当の叔父だったらどれだけ良かっただろうか、そんなことを考えたとしても意味がない、というより不可能だ、それならば考えること自体が無駄だ。しかし、それすらも受け入れられず、すぐに打ち消し、また妄想した。自分でも訳が分からなかった。

その日、私は眠れなかった。

 

サッカー観戦は最高。ビールが美味し、この世の終わり。浦和美園駅から埼玉スタジアム二〇〇二までは青色の服装をしていたが、スタジアムに入るなり私たちは日本代表のユニフォームを買った。Yの背番号はオーソドッグスな十二番で私は四番を買った。その後、ゲート口からすぐ上の席を取り、選手たちがウォーミングアップしているのを座ってぼんやり見ていた。緑色の芝生と黄緑色の芝生のコントラストは美しい。

時折前を通る人達を見て、普段サッカーを見る人はどれだけいるのかを考えた。好きなサッカーチームがある人はどれだけいるだろうか、ただ騒ぎたいだけなのだろうか。両方だろうか。そもそも、断定できる事柄ではないと思い、ビールに口を付けながら歩く人々を見ていると、激しく照明を反射しているハゲのジジイがいた。今日の月よりも光っている。内心で彼のことを小馬鹿にしていると、さながらエスパーのように彼はこちらを見て、しばらくの間、凝視していた。最初は目を細めていたが、しばらくするとニカッと笑顔を寄越した。そして「来てたんだ、次もよろしくね」と言った。私は後ろを振り返り、誰かが応答していることを確認しようとした。しかし、そんな気配がなく、訝しんだまま姿を追うと男は自由席の一番端に座った。コーナーキックがあったら写真でも撮るのだろうかと思っていると、Yの背中が丸まっているのに気が付いた。呼吸も荒い。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。ちょっと気分が悪くなってきちゃった」

 どうすればいいのか迷った。今ここでYをトイレに行かせるべきか、それとも帰るべきか。いずれにせよYと会う時間が減ることに対して抵抗したかった私は、Yを気に掛ける以外に特別、何かが出来るわけでもなかった。あてもなく私は空を見上げた。そこにはストッキングを履いた足の膝小僧のような、翳った月があった。ナイター照明が眩しい。

「ねぇ、最近変だよ」 

 それはYに向けた言葉だったはずだったが、自分自身に尋ねているように響いた。そして、あの夜に聞こえたラブドールの声は自分の声だったと理解した。

「そうかな。私は元々変人だよ」

 Yの伏せた目を見て、さっき声を掛けてきた中年はパパ活の相手なのかもしれないと思った。Yは自分の世界に入り込もうとしていた。すべて自分の性格や属性などに収斂させようとしていた。

「多分、人間は皆、変人だからYが元々変人というのも頷けるよ。けどやっぱり、最初にあった時と今だと、上手く言葉に出来ないけど、変だよ」

「分かってる。変なのは」

「もし良ければでいいんだけど」ウォーミングアップは終わっていた。スタメン発表がスタジアムに響きゴール裏が合いの手を入れていた。「何があったか教えてくれない?」

 その時のYの顔は烙印のように明快に思い出すことができる。忘れることを許さないような、胸を突く表情だった。それは、あの時の私がYに向けて最も浮かべたい表情でもあった。澄んだ眉と不釣り合いの丸い目が赤く充血している。口元はだらしがなく開かれており、歯並びが綺麗になっていることや歯そのものが新品のように白く輝いていることに気が付いた。私は、Yの喉元で突っかかっている石に手を伸ばして、取り除くことを望んだが、それは正しいことなのかを考えてしまい、等しく私の喉にも石が詰まる。話の続きを促したとして、それは本当に良いことなのか分からない。事後的に善悪を判断することは、相手にとって誠実ではなく、本来は正誤であるべきだ。しかし、正誤を判断するには私とYの間には大きな距離があった。年齢や、性別や、生まれ育った環境や、人生の差異が。

 控えのメンバーが発表されている間、私はハゲジジイの方へと目を向けた。男の隣に居る女性の腰に手を回していた。私は、もしかするともしかするかもしれないと、今まさに覚悟を決めなければならないと、指先に火がともったような熱を感じながらYの手を初めて握った。Yは握り返してくれた。

「無理にではなくていいんだ。そう、言いたくないことは言わなくてもいい。けれど、言わなければならないことは、とてもたくさんあるはずだよ。それは相手がだれであれ、きっと言わなければならないと、君自身がそう感じていることがあるはずだ。君は、その葛藤の中に居るんだね。少しだけでいいんだ、君の意図が分からなくても、意思が分かれば、僕は力になる」

Yはこのままではいけない、私はそう思った。そして力になりたい、と願った。

「私、妊娠しちゃったのかもしれない」

しかし、その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。どうして、と尋ねることはできなかった。薄膜につつまれたように、周囲の喧騒はくぐもっていいた。私はまたグランドに目を向けた。選手入場のアンセムが響き渡っている中で、目に張った薄い膜のせいで視界が歪んだ。灯りが揺れて曲線を描いている。

「まだ病院には行っていないから、本当かどうか私にも解らないけど、検査機を買って試してみたら、丸に一本、赤い線が通ったの」私の眼を見てYは言った。「全部自分のせい」

Yの手を強く優しく握る。責任の所在をハッキリさせる事で多少の安心はあるものの、本来的に原因は複雑で曖昧だ。つまり、Yは不幸であるのみであって、それが嘘であっても自己責任に収斂することは不可能だと私は言い張り続けなければならない。不幸は人を溺れさせ、拠り所にはなかなかなれないのも確かだ。不幸は独自性を持つことができないのだ。独自性を認めるまでに冷静でいられないのだ 。だから、自己責任として不幸を片づけることは安易だ。その不幸が複雑さを増しているにもかかわらず自己に責任を帰属させるのは暴力的であり、かつ不衛生だ。私はYのセーフティーネットにならなければならない。

彼女に優しく出来る人間は自分以外にいない。それは、私とYの関係は切ろうと思えば、すぐ切れるものであり、互いに会いたいと思わなければ会えない関係であるからだ。だから純粋な意味で優しくなったと証明できる。証明? いや、信頼のない安心が、Yの罪悪や居心地の悪さを無くすことができる。

 相手チームの国歌斉唱の間に、私は「聡には言えなかったんだよね。あいつは良い奴だから」と確認した。

「うん」

 伏せたYの顏から涙が零れている。誰の言葉か覚えていないが、涙はこれから待ち受けている現実に向き合う決意の表れらしい。私は自分の目から出た水の痛みを等しく義務として受け入れることにした。その痛みに麻痺することをせず、耐え続けようと。

「話してくれてありがとうね。これからどうするつもり?」

 力になりたいとは言えなかった。意思が一方的になってしまうから。ただ、Yが私を必要とした時に、力になる。そういった便利な人間なまま待ち続けなければならない。段々と、握った手が湿り気を帯び、頭の芯が熱くなるのを、抑制する。

「まだ分からない。けど、一回休みたいなあ」

 君が代が流れ始めた。周囲が一体になろうと歌い始める。私は歌う気になれなかったが、周囲の目線がこちらに向いていることに気が付いた。

 私とYは国家を歌った。その間、涙が溢れて仕方がなかった。

 キックオフの笛が鳴り、試合が始まり、私たちの周りでまばらな手拍子が生まれた。数分が過ぎるとチャンントを歌えるようになった。ニッポン、ニッポン、ニッポン。Yは体調がまだ悪そうで青白い顔のまま、声を出していた。ニッポン、ニッポン、ニッポン。私はあのハゲジジイに憎悪に似た感情を抱いた。あの男がYを妊娠させたかどうか確証がなかったが、私は彼を汚い人間として見るようになっていた。実際、Yの気の動転具合を見る限り、そのようにしか見えなかった。私は今、本当の意味で童貞を喪失したと感じた。それは嫉妬だった。

「それで、相手はやっぱり」そこで言葉を止めた

「うん、あのパパ。どうしようもなかったの」

「なんだよ、あいつ」

 男の下に行こうと席を立った。あわよくば殴りたかった。それで逮捕されても別にかまわなかった。また、そのような感情を抱くことのできることが喜ばしく思われた。しかし、握られたままの手が私を引き留めた。そうしてから、殴ることはできないと分かった。 

「駄目だよ」

 後ろから「邪魔だよオッサン」と野次が飛んできたので大人しく座った。その波紋は思わぬ形で広がった。私が周囲を見回して見方を探そうとしても、私の顔を見た観客たちは口を動かして「気持ち悪い」と囁いている。

私は「ねぇ帰らない?」と言った。Yは黙って頷いた。手を離して、スタジアムの出口に向かった。

「それで、聡には言うの?」

 外を歩き始めてから、私は確かめるように口に出した。Yの翳った顔には人工的な光がかすかに届き、鼻の横に薄い影が揺らめいている。巨人の歩幅で置かれたLED電灯が駅までの道に点々と続き、視界に奥行きが感じられる。

「言わなきゃいけないとは思うけれど、言う勇気が、足りない。そもそも、生むべきなのか、堕胎するべきなのか、分からないの」

Yは喋りながら文法が間違っていないか気を張っているかのように、途切れ途切れに言った。消え入りそうな声だった。

「あのオヤジには連絡した?」

「してない。言ったらお金が……」

「なんで言わないの? すぐに言った方が良いよ」

 しばらく沈黙のまま、もうすぐモデルルームの横のあたりでYは口を開いた。

「お金が貰えなくなっちゃうから」

「そんなこと、この際、気にしている場合じゃないよ」

「でも、お金は欲しいのよ。それに、一回セックスするとね、断りづらくなっちゃうのよ。あの人からは、お金もたくさんもらえるから、コスパが凄くいいの」

 私はYへの期待を裏切られ続けた。それと同時に、それが言いようもなく心地よかった。純粋になれると思われた。Yは肉体関係を結ぶことに躊躇いがあったはずで、しかしそれを飛び越えてまでしてお金が必要だったのだ。その時、喉元までせり上がったゲロのような言葉がある。「なんでそんな悲しい事を言うの?」といった言葉だ。しかし、私は吐き出さなかった。

「だけどさ、だけど」

「分かってる。どうにかしなきゃいけないってことは。けど色んな事がありすぎて優先順位がつけられないの。就活が失敗したら奨学金を返せないだろうし、お腹の子供をどうしたいのかもわからないし、自分じゃどうにもできないことが多すぎるのよ。きっと、だれでもそう。その中で生きているんだと思う。けど、やっぱり、難しいよ」

 犬の散歩をしているウィンドブレーカーを着た男性が道の端を歩いていた。犬がマーキングしているコンクリートは灰色から黒色に変わり、そこだけ永遠に夜が続くような気がした。

「確かに難しいとは思う、けど僕には本当のところは分らない。ねぇ、Yがどうしようもないことは僕に任せてよ。奨学金は僕が工面する。お腹の事は、聡と話し合って。それは絶対。あいつは君の事を本当に好きなんだよ。だからせめて、聡にだけは言って欲しい。これは僕の意思だから。もちろん従わなくていい。けど、絶対……。そして、なにか力になれることがあれば、僕を頼って欲しい」

「うん。」

奨学金はあとどれくらい残っているの?」 

 その言葉を発した時、私はYの面倒を見終わったら自殺しようと心に決めていることに気が付いた。 これまでもそうだった。いつも言動が先にあって、それを無理やり認識しようとする。全部後から意味を付与する。そのように自分を作ってきた。

「二百五十万円、けど、返すのは卒業してからでいいの」Yの手が私の手からパッと離れた。「岩清水さんがそう言ってくれたら、凄く気持ちが軽くなった」

 

 家の鍵を開け、むんとした空気に迎え入れれた。風の無い分、家の中の方が熱く感じられる。私は冷蔵庫からカップご飯を取りだし、レンジに入れ、その時間のうちにお湯を沸かしインスタントの味噌汁を作った。そのごリビングで野菜炒めを作り、テレビを点けながら食べた。外食してくればよかったと思ったが、外で他人と同じ空間でご飯を食べたくなかった。その後、シャワーを浴びた。シャンプーが切れている事に気が付いて、裸のまま詰め替えた。入る前に気が付いていれば体を冷やさずに済むのに、なぜかいつも裸で詰め替えている。自分が惨めに思えた。歯を大げさに鳴らした。よく響いた。汚れを掻き落とすように注意深く洗った。

解放なのか、自分で自分を見放したのかは分からないが、自室に入ると、とにかく安堵した 。頬杖を突き、ベッドに横たわるラブドールを眺めていると、綺麗だと思った。花のように可憐だった。動かない表情は私を無神経に悲しくさせないのだ。それが、どれだけ美しいことだろう。

ラブドールに触れた。輪郭を確かめるように頭から爪先まで、体温の無い身体を撫でた。ここにYの心はなかった。Yの体温はなかった。しかし、肌の弾力やなめらかさはYよりも本物のように思われた。あの小汚いジジイに撫でまわされたYの身体は、このラブドールよりも素晴らしいものではないように思われた。私はラブドールが愛しくなり、抱きしめた。アルミの骨格が感じられる。触れれば触れるほど、強く抱きしめれば抱きしめるほど、しっくりきた。ラブドールは星のように、私に応答することなく、自然の摂理としてそこに在って輝いている。それは私に話しかけたり、心情を吐露したり、表情を変えることなく、ただそこにあった。物質としては触れられるが精神としては触れ合うことができない。この隔たりこそが真実だと思った。ただ、自分がそうしたいと思うからこそ、そして、相手からの反応を気にしないからこそ(感謝の言葉や、自分の行動に見合うだけの見返りを求めないこと)愛を達成できる。だれが、私を惨めだと思うだろう?

蚊の飛ぶ音がハッキリと聞き取れる。私は香取ベープを付けた。そして、ベッドに横たわり、なされるがままになった。蚊はラブドールの肌の上に舞い降りた。私は叩いて殺した。ラブドールのヘソの横、肝臓のあたりに赤い血が残った。私は自分の二の腕にかゆみを感じながらも、それに見惚れた。

 Yへの奉仕が完成されるのはもうすぐだ、と私は妙に感じ入った。それはつまり、ラブドールへと回帰していた。Yへの執着は、性欲やラブドールとの差異から離れ、家族的な愛おしさへと推移している。自殺のための滑走路としてYを助けるという決意をしたのだから、それは当然の結果だろう。しかし、私は歩いてきた道に戻って進み始めたわけではない 。無一文になることでYへの奉仕は終了する。そして両親に生命保険でいくばくかの金を残す。立つ鳥跡を濁さずに。

 私は煮干しを一つ、仏のフィギュアの前に置いた。十三個目だった。並べられた煮干しは、食べられることはなく、ただ乾いた眼を開けたまま、一生餌を食べることのない口をだらしなく開き続けている。それを見ていて私は自分の死期を悟った。この、なんとなくの積み重ねに一つの意味を見出し、未来を決定した。三十八個になったら、それが終わりの合図だと。 

 Yに乱され続けた私が純粋にYを助けるという意思を得たのだからこそ、与える者―与えられる者の関係が生まれ、その関係の確からしさは安定した。

 諦観の中で厭世的な世界が広がることはなかった。その若さは失っていた。世の中を呪っていても、友人や家族がそこに属していると思うと、呪う事はできなかったし、友人や家族との関わりは極めて薄くなっており、そもそも興味が持てなかった。そして、なによりも、ベビーカーを押した女の人や、はしゃぎまわる学生を見る度に、この世界を呪ったり、滅亡を望んだりすることは馬鹿馬鹿しいのだと単純に思った。

 そうだ、タトゥーの全貌を見よう。私は唐突に、Yに近づいた目的を思いだした。今更、それに執着する理由は見当たらなかったが、自分の最後を考えた時、タトゥーを見なければ死ねないと思った。なぜだかは分からないが。

 

 3 

 

 企画の報告を終え、上司から好意的な評価をもらい、トイレで喜びを爆発させている間に、聡から連絡が来て、Yを殴ってしまったということを知った。私はYにすぐに連絡し「一回、休学したら?」と提案し、続けて「僕の家でゆっくりするといいよ。使っていない部屋もたくさんあるし、なんにせよ一人で住むには広すぎるから」と送った。定時になり、片づけておきたい仕事があるにもかかわらず残業はさせてもらえなかったので、帰宅することになった。山口さんは、部署移動を希望して、今は地方の営業所で事務として働いている。妥当だと思った。きっと、私でもそうする。

会社の最寄り駅周辺のラーメン屋で夕食を食べていると返信があった。短く「そうする」と書いてあった。実際大学の近くの産婦人科に行くのは怖いのだろう。私が既読を付けると「今日から行きたい」ときたので、「大宮駅で待ち合わせ」と短く打ってラーメンを勢いよく啜った。

 ロータリー近くの喫煙所で煙草を吸ってからYとの待ち合わせ場所である東部アーバンパークライン改札前に向かった。Yはキャーリーバッグの上に座り、iPhoneを見ていた。高校生カップルがキスをしているのも見えた。私は、煙草を吸っている間に考えていた言葉を忘れてしまい、一旦トイレで手を洗った。なんて声を掛ければいいのだろうか。大丈夫だとかでいいのだろうか。

 トイレから出ると目の前にYが居た。私に気が付いたようで「行こ」と言った。あまり落ち込んでいるようには見えなくて、私は逆に心配になった。それが演技の可能性もあるが、思っていたのと違って、少し慌てた。私は今からYを所有するはずなのだが、Yはこれが普段の自分であると匂わせている。

 大宮駅から離れるにつれて背の高い建造物がなくなり、代わりに住宅が密集している光景が見えた。その間にYは心のデトックスと言って泣ける小説を読んでいた。途中でぽつぽつと会話し、休学は両親に了承を得て既に手続きを行っていることと、これからは産婦人科に通いつつ小説や漫画や映画などを見る期間だとYの中で位置づけられていること、聡とは一度距離を置くということが、断片的に分かった。そしてYが大学というシステムから脱出し、就活も一度休止することに対して、私はYが自分の世界の中に住んでくれることだと思い喜んでいた。Yの拠り所になることに成功した手ごたえがあった。そこに信頼がないのは百も承知だが、些細な問題である。

 最寄り駅からYと並んで歩いた。Yの歩幅に合わせて歩くスピードを落とした。なにやらデートのようだと思った。私は自分の家までの道のりを初めて人と共に歩いた。

 家に着き、Yとカップラーメンを食べた。いつもと変わらない味が今日は美味しかった。人と食べるご飯が、こんなに美味しいとは露ほどにも思わなかった。つまるところYに対しては気を使うという機会がなかったのだ。何か話さなければならないだとか、相手の顔色をうかがうということはせずに、ただただ落ち着いた。家に人がいるということがどれだけ素晴らしいことなのか、初めて理解した。

 シャワーを浴びている間、温水が熱湯に変わる瞬間を十何年ぶりに味わった。シャワーの出が悪くなる瞬間が、一人ではないことを教えてくれた(Yの使っている種類のシャンプーは、家に着いてからすぐに、鏡台の棚の奥底に眠らせておいた)。

髪の毛を洗っている最中の気がかり、Yが私の部屋を覗いてしまうことよりも、家に人が居ることの喜びの方が勝った。風呂に浸かっている間にラブドールをどこに隠すかを考えたが、むしろ隠さないほうが誠実だと思い、Yが自分に似たラブドールをどのように受け止めるのか知りたくなった。そして私がそれを持っていることを明るみに出され、Yに見放されることを望んだ。潜水した。これがYの身体から出た死んだ細胞の残り滓だと思った。私は飲んだ。苦しくなり浮かび上がり呼吸をすると、満たされた。

 風呂上りのYがテレビを見ていた。Yは私を男として認識していないのか、キャミソールのままテレビを見ていた。バスタオルを頭に被せている。その背中にタトゥーを認めると、私の中にイメージが湧いた。うなじのジッパーを降ろし、Yの肩口に顎を乗ながら、燃えるような熱の籠った臓器をかき分けながら中身をまさぐり、胸を裏側から確かめつつ、自分の手形の浮かんだ胸を見つめる。皮を上手く剥けなかったライチのようなYの眼玉は果汁を滴らせている。私の手が胸から子宮へと下降すると異物に触れ、それを摘出するイメージ……。

「あ、お酒もらってるから」

 ほのかに高揚した頬に笑みを張りつけているYは自暴自棄のように見えた。今、お酒を飲むという行為は赤ちゃんを殺そうとしていると等しい。Yとの間に赤ちゃんが外に出る前に殺してしまおうという合意が取れているように思われた。

「ああ、全然いいよ。ねぇ、赤ちゃんは殺してしまうのかい?」

「うん! 殺してしまおうと思ってる」

 Yは腹の中に居る命に向けて宣言するように、ほとんど叫びに似た声を上げた。

 私は冷蔵庫からビールを取りだし、ソファからYの背中を見続けた。そうか、Yはこんなに綺麗な肌をしているのか。しかしあの肌に触れたパパが居るのだ。ウィンナーのように分厚い指で、肌に赤い跡を付けながら、餌を前にした動物のように落ち着きを失いながらYを受精させたパパ。その血を受け継いだ子供は、この世の中で最も醜い子供だろう。

「僕も賛成だ。君のこれからの人生を想像するにあたって、その子供は邪魔なものになるに違いない。だけど、酒を飲むことによって赤ちゃんに害を与え続けるつもりではないだろう?」

「当たり前でしょ」Yは吐き捨てるように言った。「ねぇ岩清水さんがお金を出してくれるんだよね。それなら明日にでも産婦人科に行って、相談して来るわ」

「当り前じゃないか。お金のことはなにも心配しなくてもいい。見ての通り、生活には余裕があるんだ。君が望む限り、僕は支援するよ」

私には貯蓄があった。それは働き続けて得た金に加え、目の前の物流倉庫の土地を売った際に家族に配分された金も合わせれば、Yの支援は容易だった。

夜通し飲酒を続け、挙句の果てに夜の散歩をした。そして蚊に刺されまくって家に着くと夜中になっていた。互いの飴玉ほどの蚊に刺されを笑いながら掻きあった。互いの血に口づけをした。Yはリビングで寝ると言って私を自室に戻した。

見慣れた自室でラブドールが待っていた。その姿はYに似ていなかった。Yとは別にY´として独立した存在に変化していた。私はY´と性交した。Yと触れ合った体温が乗り移り、私はいかにもYを妊娠させたパパのように貪った 。あの柔らかそうな唇はY´の唇であり、あの折れてしまいそうな腕はY´のものだった。このピンク色の乳輪はYのものだった。この股座はYのものだった。自分の中でYとラブドールが入り混じり一つの理想を構築しつつあった。二つの存在はフレキシブルに、それぞれを代替し合っている。しかし、タトゥーがそれを完成には至らせない。あのタトゥーさえなければ完成するのに、一つ余計なものが残ってしまっている。さて、私はY´のオナホールで果てた。

煮干しを仏のフィギュアの前に置く際に、これから共同生活をするのなら余命が決定したと安堵したわけだが、それがかえって生きるための希望として輝いているように思われた。あの干からびた鰯の煮干し。これから、私は干されるのだ。

 

翌朝、目が覚めリビングに向かい、朝食を作った。Yは目の下に紫色のクマを薄く伸ばした絵の具のように描いていた。今日の夜はY´にクマを作る予定が立った。Yは某恋愛共同生活ドラマを見ていたようで、画面には爽やかで清潔感のある男女が自然に囲まれたウッドデッキでトランプをしていた。ババを引かないように注意を払っているようだった。

私は朝食を食べながら近くの産婦人科を調べ、口コミを参考にして一つの病院にあたりを付けた。なんでも医者の人柄が良いそうだ。それをYに伝え、地図をプリントアウトし渡した。

「とりあえず電話して予約しなきゃいけないらしいから、お昼ごろ電話かけておいてね」

「うん」

 あっけらかんとした返答に肩透かしを食らいながらも、家を出て電車に揺られ会社に着く、その間に仕事を辞めようと思い立った。三十八歳無職ニートという響きが気に入った。そこに童貞も加えられると思うと興奮した。今、とりまく環境から自由になり、金銭だけがYとの繋がりとすれば、私は純粋な所有者になれると思われた。Yは(この段階では)人間関係や労働から脱出しており、私以外に服従する相手が居ない。そこで私が社会から逃れることができれば、死ぬまでのモラトリアムを閉じた世界で味わうことができる。

 思い立ったが吉日。退職する意思を課長に伝えた。母の介護をしなければならないので、と嘘をついた。課長は「そうか、でも休職でも良いんだぞ」と言葉を掛けてくれたが「いえ、ちょっといつまでかかるか分からないので」と言うと、退職届を受理してくれた。辞めるための正当な理由は、簡単に出てくることに驚かされた。

 それからの私は身軽だった。失うものは未だ数多くあったが、それが失われることを恐れはしなかった。端的に言えば、全てがどうでもよくなったのだ。物事の良し悪しや正誤の判断基準を放り投げ、自殺直前になって意思を取り消さぬように、自身を取り巻く社会的環境をパージする。それをもう一度、身に着けようとするには、これまで以上の努力が必要になるだろう、失われた信頼は二度と元の姿には戻らないのだから。

半休を取り、昼過ぎには自宅の最寄り駅の空気を吸った。家までは山茶花が咲いているあぜ道を選んで歩いた。山茶花の茎は綺麗に切れるので気分がいい。足で茎を蹴り飛ばせば、遠くに花が飛んでいく。その時だけスローモーションになる。そして地面に倒れ、山茶花の生息域が少しだけ広がる。

帰宅後すぐ、Yにちゃんと連絡をしたかどうかを確認すると、まだしていないなかったので、私はiPhoneから病院に電話を掛けた。四回目のコールで女性の声が聞こえた。その瞬間にYと代わり、彼女が予約をするのを見届けた。強制的かもしれないが、こうでもしないとYは手術を受けないで、身体に傷をつけ、流産しようとする可能性が僅かだがあった。それらを未然に防ぐために、適した場所で適した治療を受けてもらわなければならない。

Yの嗚咽交じりの声に耐えられなくなった私は、自分の部屋でラブドールにクマを描いた。Y´になった。そして私は彼女を抱きしめた。自分の体温がY´に乗り移った時、ひらめきが起こった。今のYならセックスさせてくれるんじゃないだろうか? 私はそのひらめきを噛めば噛むほど味が出る貝ひものように飲み込むことなく、湿らせ続けた。

リビングに戻ると昨日と同じキャミソールを着たYの背中が丸まっていた。地面に置かれたリュックサックのようだった。ファスナーを開けて中から必要な物を取りださなければならないような気がした。

仕事を辞めたと伝えるとYは眉間にしわを寄せ、詰問するように「お金は?」と言った。私は「大丈夫、貯金はかなりあるんだ」と応答した。

翌日、目が覚めてからしばらく、勃起が収まらなかった。Y´で済ましてシャワーを浴びた。Yは徹夜しているらしかった。これで二日連続。朝食を作り、テーブルで食べた。椅子に座って食事に手を付けないYを見ていると、昔のY´を思い出した。初めて彼女と夕食を食べた時、同じように手を付けることはなかった。あの時の自分は何を思ったのか、野菜を無理やりY´の口に押し入れて、その後処理が大変だった。あの頃のY´よりも今のYの方が人形らしく思われた。家具のように、この空間に酷く馴染んでいた。

「もしかして眠れないの?」私はなんとなく口にした。

 Yは黙って頷いた。

「けど、ご飯は食べたほうが良いよ」私は口うるさい親になったつもりで言った。

 Yは黙って頷いた。

「今度、タトゥーをちゃんと見せてよ」私はYが壊れたのだと思った。

 Yは黙って頷いた。

「ねぇセックスしない?」

 Yは黙って首を横に振った。

「だよね、ははは」

 乾いた笑い声が部屋の中を駆け回った。「いや、嘘だよ、本当はそんなことしないから」

「あなたはきっと私を襲うだろうけど、そこに意味なんてもうないよ。それに多分、岩清水さんは後悔すると思う。だから言っておくわ、絶対にやめた方が良い」

 そう言った後のYは西日よりも眩しく輝いていた。目を瞑ると、その存在が赤い斑点となって瞼の裏側にこびりついた。それは柔らかな熱を私に伝えた。包まれるような心地のよさに身を任せたまま咀嚼を続けると、シャキシャキレタスの触感が脳内にこだました。

私はYよりも先に食べ終え、彼女がご飯を食べている様を眺めた。赤いニキビが白い兎の眼のようにこちらを見ていた。Yは怯え切っていてもなお食事を続けていた。

食器をシンクの水に浸し、Yの部屋を用意することにした。ほとんど物置に近くなった部屋から、違う使われていない部屋へとガラクタを移して、掃除機をかけ、雑巾がけをした。それが終わると、昼食の前に干しておいた布団を敷き、自室に戻った。Y´の頬にニキビを再現しようとしたが、それはただの赤い斑点にしかならなかった。立体感が足りなかった。

リフォームされた家の廊下は、昔とは違い人の足に鈍感になっていた。私が幼かったころの廊下は、歩けば呻き声をあげていたが、新しいフローリングは靴下を履いていれば、枯れ果てた声しかあげられない。背後の人の息遣いがあることを確信していたが、振り返ることはできなかった。間違いなくYだ。私が自分と瓜二つのラブドールに筆を走らせているさまを見て、Yは自分ではなくなりたいと願うだろう。そして背中のジッパーに手が届かないことを後悔する。自分で着脱できない……。しかし、それがなければYは分裂した欲望の断片のままだ。

Yはリビングで有料配信テレビドラマを見ていた。ドンタコスの赤い粉が太ももに彩を加えていた。この際、ソファが汚れるなどの危惧はなく、たださっきの人間の気配がYのものではなかったのではないかと不安になった。不安? 私はYに期待しているようだったので、死んだ祖父母が倫理を問いかけにやってきたのだと思うことにした。祖父母の今更過ぎる眼差しは、私に何も効果を持たない。

隣に腰かけてもこちらを見ないYは、むしろ興味がない訳ではなく恐怖の感情によって首が石化してしまったのではないかと思った。正面を見据えたまま開かれた眼は蝶のように羽を開いたり閉じたりしている。Yの首は着脱可能だろうか。Y´なら可能だ。

「このテレビ面白い?」

「まぁまぁ。私もこんな恋愛してみたかったなあ。全部がキラキラしていて、夢を見ていて、そのために頑張れる人になれたら良かったのに。そしたら自分を振り返った時に、全部が意味のあったものだと思えそう。ちょっと羨ましいかも」

 彼女は一週間後に産婦人科に行く。私はもうすぐ自死を許すことができる。Yは診察までの期間を、お腹から広がった蕁麻疹を掻きむしりたい衝動に駆られるだろうが、私がそれを治癒していこう。Yが身体を傷つけないように。

 目下、私の関心はYとY´の間の差異を解消することにある。少しずつだが、二つの存在は相互浸透し始めているように思われる。リビングに居るYは意思の無い人間というよりかは、人形に近かった。部屋に馴染みすぎているのだ。

 私はカーテンの閉め切られた自室でY´と性交した。顔が動くことはなかったが、私はYを襲う瞬間、煮干しが三十八個になった時、快楽へと直滑降する恐怖で顔が歪むだろうと楽観的に想像した。いや、恥辱や苦悶によってかもしれない。だが、顔が歪みさえすれば、そのどちらでも良かった。

 煮干しを置いた。一六個目になっていた。つまり、あと二十二日だ。

 

 煙草の匂いと人の目を気にしない怒号のような笑い声のする居酒屋で、どこか場違いな場所に居ると思った。ネームプレートの下にあだ名の付いた店員は腹をすかせた鯉のようにぱくぱく口を開きながら、注文を聞いて回っていた。金曜日ということもあるだろう。花の金曜日、私は確かに場違いだった。

 課長が私の送別会をしようと言い、普段私を気にも留めない社員たちがこぞって参加の意思を表明した。もしかしたら自分は人脈があったほうなのではないかと勘違いしてしまいそうだった。

 それっぽく乾杯の音頭が取られ、手元にあるビールに口をつけた。二次会をやると誰かが言い出さないか危惧した。私を合わせて十三人。新入社員は二人いたが、どちらも不参加だった。一番遠くの座席で人気のある若い女の子を口説こうとしている男が三人、その手前で自分の生活の苦しさを愚痴りながらも笑っている男女が六人、上座、つまり私の方には三人、同世代が固まっていた。母親の介護について同情を寄せていた。三八歳、これからという時に退社するのは、あまり考えられないらしい。年代によって考えなければならないことは数多くやって来て、それらから目を離していては歩けているかどうかさえ分からなくなる。

「退職するのは勇気が必要だったでしょ? まぁ色々と整理が付いたらまたウチで働いてよ」

「はい。できればそうしたいですね」

 母親の介護が本当だったのならば、私が復職したところで、この中で出世している社員はたくさんいるだろうし、それを押しのけて昇進することは不可能であるように思われた。引継ぎをして新しい社員が雇われていて、自分の席がそこにはないかもしれない。いや、そもそも生きていないだろうから、そんなことを気にする必要もないだろう。

 高橋君が充血した目を動かし続けていた。以前なら私の酒がなくなると、待ってましたと言わんばかりにグラスに注いでいた彼は、もう私に対してはそれをしなかった。課長にはしていた。つまりそういうことだった。

帰り際、その高橋君が私に話しかけてきて、申し訳程度の挨拶をしてきた。

「大変だとは思いますが、頑張ってください」

「うん。君も頑張ってね。ああそうだ、山口さんとはどうなったの?」

「露骨に避けるようにしたら、勝手にいなくなりましたよ。アドバイスありがとうございました」

 電車に揺られながら、もう二度とこの景色を見ることはないと思うと清々した。窓に映った自分の顏が奇妙に見えた。目のあるところに目があって、鼻のあるところに鼻があるといったような、パーツがあるべき場所にあるのに嫌悪感を抱いた。笑顔を作ると、目が五歳児ぐらいの子供が書くような笑顔の特徴、弧になった目が出来上がった。吐き気がした。

 家には鍵が掛かっていた。チャイムを鳴らしたが誰も出てこなかった。指が震えたが、なんとかYにメッセージを送った。直ぐに既読が付いて、階段を降りる音が聞こえた。鍵が回される音を聞いて扉を引いたが、チェーンが掛かっていて、思いのほか大きな音がした。Yの噛み殺した笑いが聞こえた。

 Amazonの段ボールを越えてリビングに入り手を洗いに洗面所へ向かった。Yはここ数日で得た自分の居場所に座った。手を洗い終えるとソファから頭が生えていた。冷蔵庫からビールを二本取りだし、一緒にドキュメンタリー映画を見た。Yの髪の毛が伸びてきてセミロング気味になって来ていたので、Y´に新しいウィッグを買わなければならないと思った。

「そういえば、お金振り込んでおいてくれた?」

一回目の診察で、どれぐらいのお金がかかるかの説明を受けたYは私に昨日のうちに口座へ振り込むように指示していた。私は飲みに行く前に二十五万円 振り込んだ。

「うん、とりあえず振り込める分だけ」

「ありがと」

 Yが尻を上げて私に近づいた。甘いコロナの匂いがした。互いの腹同士がぶつかり合った。私は吸われるようにYに肩を寄せ、視線を背骨に合わせて下降させた。そして、このファスナーが開かれることはないのだろうと思った。指を這わせて感触を味わいたい。ざらざらしているのだろうか。しかし、腕を動かすことはできなかった。

「薬物売買のドキュメンタリーって案外面白いね」

 何も言う事がなくて、適当な感想を言った。金と命の中で揺れる人間にはなれそうもないが、中毒者には容易くなれると思う。

「そうだよね。お金の無い人だとか中毒になった人には麻薬を売らないって、売人が判断する瞬間が好き」うっとりとした顔で呟いた。「あの時の売人の顏って、感情がないから。それで次の取引先を探して、また車を走らせるの。けど、それってすごく合理的なのよね」

「確かに、凄く簡単に切り捨てるよね」

 Yの慈しむような瞳を湛えた横顔は、光が内部で反射して波だっているような宝石だった。その横顔を見ていると私は不安になった。

私は、私は自分の命を切り捨てる人間だ、と極めて単純に自己確認した。自分の命との間にある感情(死にたい・生きたいという意思を基盤として生まれる物事への認識)を空白にすることで、距離が生まれて、自分の事が他人ごとになる。

これまで生きてきた自分が、これからを想像すると一寸先というより、目の前が闇だと気が付く。だから、切り捨てられるという不安をなくすために、切り捨てられてもどうせ死ぬので気にすることはないと考えるのは、合理的なのではないだろうか。

Yが現れてくれたおかげだ。私は死ぬタイミングを掴めた。その天から垂れた細い糸を爪が掌に食い込ませるほど強く握り続けている。合理的になろうとするならば死ぬことは正当化されうるだろうか。とにかく死ぬために、私は不合理を積み上げなければならないだろう。それは未練をなくすと言うべきだろうか? 分からない。

 

本田が死んだ。煮干しが三十個を超えた次の日だ。葬式の案内の葉書を見て、やっぱりか、と思った。死因については自殺だという確信があった。私は感情が揺れ動くのを抑えるために、尤もらしい理由を考え、統計的に女性よりも男性の方が自殺率は高いので、正常な結果だろうと結論づけた。

久しぶりに髭を剃り、伸びた髪の毛をヘアムースで固めてから喪服を着た。買ったばかりの喪服だった。もうすぐ死ぬ人間が、死んでしまった人間を悔やみに行くのは、どこか笑える。これから会いに行くよと連絡を取ろうとしているようだ。その無駄さが面白い。

葬儀場には嫌な空気が流れていた。誰かが死ねば悲しい、という当たり前がはびこっていた。入り口で会場を探していると本田と話している所を見たことのない同級生が泣いていた。私も泣いたほうがいいのだろうか? 嫌気がさした。受付で本田の両親に急な予定が入ったことにして、後日、線香をあげに行くと伝えた。

家の鍵は開いていた。そのことに安堵したが、不用人だとも思った。靴を脱ぎ、手入れをした。黒光りした靴を見て、もう履かないのに何故手入れをしてしまったのだろうと、訝しんだ。習慣が身体から離れていなかった。

立ち上がって鍵を閉めた。シャワーの音が聞こえた。その音が心地よく、脱ぎ捨てられたYのシャツをソファの端に寄せて、私は眠ろうとした。しかし、眠れなかった。涙が出ないことが許せなかったのだ。中学時代は同じグループに属し、大学生になってからも何度も遊んだ。彼女ができないことに対する不平不満を愚痴ったり、互いに童貞であることを馬鹿にしたりしたこともあった。あれだけ、仲が良かったのに、涙が出ないことは嘘だと思った。聡が言われた「薄情」という言葉が、私に本質であると思われた。

きっと私なら、あの同級生のように関わりの薄い人間が、自分の死を忍ぶことに耐えられないだろう。そして、関わりの濃い人間が涙を流さないことは、酷く寂しいだろう。手元にYの着ていたシャツを手繰り寄せ、そのぬくもりに安心した。他人の匂いが私を落ち着かせた。微かにYの鼻歌が聞こえて、シャツをもとの位置に戻した。私はやっと眠ることができた。

目が覚め、汗ばんだシャツにぎょっとした。周りを見回すと自分の家だと理解したが、Yの姿が見当たらず、不安になった。子供みたいだと自嘲したが、探さずにはいられなかった。彼女の部屋には居なかった。玄関に行き、鍵が開けられているのを見た瞬間、不在の虚しさに襲われ、自室に向かった。Yが不在ならばY´を抱きしめようと思った。

そこにはファスナーの彫られた背中があった。棒のように立っていたYを見つけた瞬間、力が抜けた。そして、もう全てが駄目なのだと理解した。Y´の首がYの手のひらに包まれていた。

「ねぇ」Yの声は掠れている。「これはなに?」

「それは理想だよ」自分でも驚くほど滑らかに口に出た。

「私じゃん。恥ずかしくないの? こんな人形を持っているのは」

「恥? 理想が明るみに出たからといって恥にはならない。それに、それは君じゃないから」

「そんな当たり前のことを言いたいわけじゃないの」

「じゃあ、何が言いたいの?」

「言いたいことはない。けど」

「僕は君を襲わないって言ったろう? だから安心して欲しい。それにお金を出さなくなるわけではないし、本来的に君は僕のことを信頼してはいけないんだよ。分かってる?」

「当たり前でしょ」

「じゃあ、忘れた方が良いよ」

「そうだけど」

 Yが部屋から出ていくと、熱い興奮が私を満たした。私は意図せずYを裏切った。Y´の背中に回した腕に力が入り、呼吸が上手く出来なくなる。首が傾いでY´鎖骨に顎がうずめる。背中が丸まる。声を押し殺したら、しゃっくりのようになった。

肩の上下運動のスピードが段々と緩慢になり、ゆっくりと目を開いた。Y´の背中に張り付いているシャツの袖が濡れていた。しばらくの間、私はそのままY´を抱きしめながら、深く呼吸し、自分を落ち着かせた。Y´の背中は、足跡のない雪原のように白く輝いて見えた。

夕食時にYがこちらを見ていた。私は目を合わせることができなかったが、おそらく私は見られていた。嫌な人間をつるし上げて留飲を下げる番組が聞こえた。自分の咀嚼音が、ひどく食欲を衰退させる。しかし、これは正しい、これが正常なのだと自分に言い聞かせた。嫌われたくないが、嫌われてしまうから、嫌われようとすることで、本当に嫌われた時のショックを軽減させようと準備してきていたが、無駄だった。

煮干しは三二個、あと六日で終わるはずだ。私は本当に死ねるのだろうか?

 

翌日、起きた時刻は十一時だった。ブランチを作ろうとリビングに行くと、誰もいなかった。階段を登りYの部屋をノックすると「何か用?」と返ってきたので「もうすぐご飯できるから」と言った。

「もう食べたから。あ、あと一三時になったら病院まで送って行ってよ」

 予想だにしていなかった言葉に私はうろたえた。これまで食事を作るのは私の役割だったが、私がいなくともYは自分で生活できることを失念していた。手に掛けたままのドアノブを強く握った。冷たかった。

「あっ、うん。ねぇ中に入っても良い?」

「なんで?」

「いや、なんとなく」

「じゃあ、嫌」

「そうだよね」

Yを産婦人科に送り、一度家に帰り洗濯物を干してから、自転車で本田の家へ向かった。高い青空。落ち葉を踏む車輪の音と、遠くから聞こえる車に轢かれ続ける道の音が混ざり合っていた。荷台に籠が付いた自転車に喪服で乗っている中年を好奇のまなざしで見る人々とすれ違い、細い住宅街を抜けると一面が田んぼになる。国道沿いにはラブホテルがあった。

整備されていない、軽トラックしか走らないような田んぼの中の道路を走り続けていると、畦の花が横目に入った。この道を通ることはもうないだろうと思い、スピードを緩め、振り返りその花をまじまじと見た。紫色の小さい花が密集していて鮮やかだった。

この道には昔の自分がいると思った。部活が終わってから本田の家に遊びに行く私、約束の時間に遅れそうでサドルから尻を離している私、鞄にビールを忍び込ませている二十歳になったばかりの私、台風の中で興奮気味にペダルをこいでいる私、たった今、それらとすれ違った気がした。

 本田の母親に居間に通された。昼下がりの本田家はワイドショーの誰かの怒りを代弁している人間の声が聞こえた。窓から差し込む柔らかい日差しの中で埃が輝いており、時折スズメの鳴き声が聞こえる。本田の母親は口を開かなかった。彼の骨壺が置いてある場所だけが、異質に感じられた。元々何が置かれていた場所だろうかと考えたが、おそらく何も置かれていない場所だったと思い出した。空寒いほど静かで、水中にいるのかと錯覚した。

線香をあげ終えると、彼の母親が「長男が死んだから、この家も危ないねえ」と冗談っぽく言った。「妹さんはどうなんです?」と聞くと「あんまり結婚とかには興味がないようだし、婿養子になってくれる子なんているのかしらね」と笑っていた。彼の死を受け入れようと笑うさまには奇妙な迫力があった。

 さっきの道は通らなかった。イオンモールでYの口座に二十五万円振り込むためだ。国道沿いを走りながら歌を歌った。トラックの騒音で声を張らないと歌っているか自分でも分からないので、それなりの大声になった。

イオンモールの中にある、りそな銀行で振り込みを完了させた。自分の預金残高が空になりつつあるのを認めた。よく分からないが、達成感があった。

家に帰り、Yの部屋に入った。ベッドにもぐりこんで丸まった。しばらく浅い呼吸を繰り返していると勃起したので自室の戻りY´と性交した。Yが喘いでいる姿を想像し、鼻孔の中にこびりついたYの匂いが失せる前に射精した。

洗面台でオナホールを洗った。温水でしばらく濯いでいると鏡が曇ったので、なんとなく掌でこすると、醜い男が居た。これまた救いようのないほど不細工。髭は伸びてはいないものの、清潔感とかそういった努力でどうこうできる顏ではない。福笑いで作られた顔のようにパーツが少しずれている。しかし、左右対称になっていないにも関わらず、それが顔のパーツだと分かってしまうから、不細工という枠から出ることができない。これから先、結婚したとしても、相手は金目当て以外にいそうにない顔。あまりに細すぎる目とニンニクのような鼻とたらこ唇。気持ちが悪い。不細工であることが、こんなに気持ちの悪いことだと思わなかった。その後、オナホールをひっくり返して丁寧に精液を洗い流したが、曇った鏡を拭くことはしなかった。

オナホールの水分を吸い取ったタオルは、手で揉み洗いして自室のカーテンロールに引っ掛けて干した。開いている窓から冷たい風が入って来たが、白いタオルが揺れるのを見ていると、大変心が安らぐので閉めなかった。まだ日差しが入っているが、Yを迎えに行く頃には大分暗くなってしまう。やることがなかった。煮干しを持て余しながら、やるべきこともないと思った。停止であるべきところが、停滞しているように思われた。

もう一度Yの部屋に入りクローゼットを漁ると冬服があった。この服を着たYを見たことはない。違うパパからもらった服だろうか、Yを妊娠させたパパからもらった金で買った服だろうか、一度Yが着ている姿を見てみたいと思った。しかし、それでは生きようとしているようなので、丁寧にたたんで中に仕舞おうとクローゼットを開いたら、名案が浮かんだ。Y´に着させよう。

慌てて自室に戻りY´に着させてから、リビングまで運び、椅子に座らせた。限りなく正解に近かったが、しっくりこなかった。ソファからY´を見ると、しっくりきた。しかし、それ以上近づくと、拒まれる。Yが着たところを見たことがないからY´が着てもしっくりこないのだと思った。私はもうYなしでは生きていけないのだった。しかし、だからこそYを裏切らなければならなかった。裏切りは、Yを襲う以外にありえなかった。自分への裏切りと、もうこんな人間と一緒に住んでいられないと思わせる裏切りを。

煮干しは今日で三二個になる。

 

Yへの裏切りの決行日まで私が何か特別なことをする必要はなかった。それまでの習慣としてY´と性交する以外に、私を昂らせる出来事はなかった。むしろ徒労感にあふれていた。Yが私に無断で外出するようになっていること、知らない間にYが居なくなって、もう戻ってこないのかと不安にさせられるが、結局は帰ってくる。私は外出を止めてくれと言う権利がない。Yが外出している間に、彼女の部屋に忍び込みガラスを息で湿らせて「愛している」と書いても虚しいままだ。その虚しさの穴を埋めるように、Yが触れたものを、私も手に取ってみたり、Yがトイレに行った後に、私もトイレに行ったり、Yが買ってきたゼリーを後日、二つ買ってきたり、一つのジュースを分け合おうとわざわざ二百五十ml.のファンタを買ってきたり(それは叶わなかった)、した。

私は自分の持っている服を一つの段ボールに纏めて、ガムテープを張って庭で燃やした。炎が揺らめいて、酷く嫌なにおいが鼻に入って来た。私はこの一日に全てを掛けていた。

Yに「なにしているの」と質問されたが取り合わずに過ごした。いつもと同じように今日を過ごすことはできなかった。

夕食を食べ終え、私はYの部屋に侵入した。窓ガラスに書かれた文字は消えていた。私は安堵してYを殴った。膨らんだお腹に踵落としを食らい床に倒れ込んだYは顔色が悪かった。床に散乱している赤文字系の雑誌、脱ぎ捨てられた服、画家の特別展示で買った手帳、ポテトチップスの残り滓、一本しかない箸、折られていない折り紙。私はYをベッドの上に放り投げ、覆いかぶさった。Yは両腕で私の胸を突き放そうとしたが、無駄だった。それほどにも私は醜く太っている。両足を昆虫のようにバタつかせたYをもう一度殴って鎮めた。完全に動かなくなった両足を開いて、乾ききった股座にペニスを這わせた。しかし、まったく侵入できなかったので、あわててローションを使って入れた。独りよがりな性交はマスターベーションと同じだった。Yの顔を見ると表情が消えていた。もしかして死んでしまった? 頭から血の気が去り「生きてる?」と確認を取ると、Yは頷いた。そして私は気づいた。Yは不感症だと。私はYと会う以前から裏切られていたのだと絶望した。

この行為は裏切りでも何でもなく、子供から母への復讐めいている。どうせ愛してくれないけれど愛して欲しい、という淡い希望を砕かれたことへの復讐。焦りにとらわれた私は萎え切ったペニスをなんども擦ったが、しばらく勃起することはできなかった。なんども試みている内に、冷静さを取り戻した私はYの顔見た。Yの人形のように全く動かない顔を見た瞬間に、私のペニスは力を取り戻した。Yがラブドールに見えたのである。そして、Yの苦悶の表情が浮かぶ様を想像しながら、私は果てることができた。Y´を通じてのYの苦悶の表情こそが、私の理想であり、今、Yは本物ではなくなってしまった。

 気が付くと私は地面に組み伏せられていた。騒がしい周囲は私をじっと見つめていた。手首に冷たい金属を感じた。アーケードの溝に沿って蟻が進んでいた。一匹が私の目の方へ近づいて来きた。私はそれを見つめた。

私は、最も幸せな場所に行くことができるのだと確信した。

 

 

刑務所から出てきてから、仏の前にある煮干しを全て口に入れた。それを咀嚼しながらY´の背中にファスナーを書き加えた。手は震えていたため、あまり綺麗ではなかった。そして窓のサッシにY´を座らせた。その光景をiPhoneのカメラで写真を撮った。窓枠が額縁の機能を果たしていた。

私はその背中を、小鳥と戯れるように優しく触れ、その背中をゆっくり押した 。

 

 

ゴミ1(燃えるごみは何曜日?)

 

食事は大切だ。どんなに嫌なことがあっても食べ続けなければならない。食べると、多少は元気が復活する。食べたものは糞になって外に出る。また新しい食べ物を食べる。循環する。あまり食事が喉を通らない時でも、食べ続ける事は大切だ。自分の身体に栄養を与え続けるのは、日々を生きるには大切。

朝目を覚ましてから、そういうことを考えたのは、六月中旬に不釣り合いな暑さのせいで食事を摂る気にはならなかったからであり、食事の大切さを再確認しないと、知らず知らずのうちに体力とつながった気力が失われていくように思われたためだ。
沸かしたコーヒーを飲みながらテレビをぼんやり眺めていると、テキトーがモットーの芸能人が熟女に「処女?」と尋ねているシーンが流れていた。あれぐらい適当に生きていけるのは極度に鈍感なのか、それとも高度に意識して演じているからなのかは分からないが、いずれにせよ生きるは大変だろう。

手元を探りiPhoneを手に取った。画面上には高見からの今日の待ち合わせ場所の連絡があった。まだシャワーを浴びていなかったし、朝食も食べていない。シャワーと着替えを十分以内に終わらせて、それ以降はゆっくりご飯を食べようと予定を立てた。寝汗で湿ったパジャマを洗濯籠に放り投げて、浴室に入った。

シャワーの蛇口を回すと、背中に冷水がかかって、さながら動物のように後ろに飛び上がった。着地時に滑って、タイルにおしりを強く打った。自分で自分のどんくささに呆れた。けれど、もし同じようにどんくさい人が居たら、少しは優しくなれるだろうと思うことにした。ただ痛いだけだと、やるせないのでそこに意味を与えた。そうしてから、シャワーをざっと浴びた。さっぱりした気分で浴室から出てから、着替えとタオルを用意するのを忘れていたのに気が付いた。びしゃびしゃなまま床を歩きたくないが、そうする以外に選択肢がないので、諦めて歩いた。掃除する時間を計算に入れると、かすかな焦燥感が身を包んだ。

身体を拭いて、着替えた。そして、いらなくなったTシャツで床を拭いていると呼び鈴が鳴った。今はほかのことにかまけている暇はないので居留守を使おうとしたが、数十秒間、まるで今を逃すともう二度と訪れない幸福を懇切丁寧に教えてくれるみたいに、何度も何度もドアが叩かれた。ただでさえ立て付けが悪いのに、あんなふうに乱暴に叩かれたら壊れてしまうのではないか? それに重なった「すみません」という甲高い声も聞こえて、うんざりした。

ドア越しに「なんですか?」と聞いた。

「ああ、助かった。隣の石田ですけどちょっと開けてもらえませんか?」と妙に早口で言われた。女性の声だった。面倒に思ったが、お隣さんと鳴れば事情は違い、後々嫌がらせを受けたらたまったもんじゃないので、おそるおそるドアを開いて半分だけ顔を出した。

 白い顔した女性が居た。彼女は安堵したように微笑んで──しかし、しっかりとドアを掴んで──こう言った。

「ちょっとこの子の面倒見てくれませんか?」

 女性が立っている位置からずれると下を向いた女の子が居た。くたくたになった白菜のようなYシャツ来ている女の子は、顔を上げて僕の方を見た。チェーンを掛けたまま顔を出せば良かった後悔した。

「嫌ですよ。この後、用事があるんです」

 女性は張り付いたままの笑顔で濡れた犬が身体をゆすらせて飛沫を飛び散らせるみたいに、首を横に忙しなく振った。それはきっと僕の都合を受け入れないという意思表示で、それにしても大げさだと思った。

「でも、そこをなんとか、お願いします。そうだ。お金を払います。そうすればいいじゃないですか。ほら」

 女性は、そう捲し立てて財布からくしゃくしゃになった諭吉を取りだした。それを無理やり握らせると、立ち去ってしまった。女性の背中が視界から消えて、老朽化した階段の音が軽快に響いた。手に残った湿り気と熱を感じながら、正面に向き直り、女の子の後ろにある陰影のある入道雲を見た。

「ねぇ、僕ってどうしたらいいですか?」と独り言ちた。

 何も用もないのに女の子を家に入れるのは犯罪になりやしないかと不安を抱えながら迷っていると、女の子のお腹が鳴ったので、そういうことなんだろうなと納得した。とりあえず朝ご飯はまだだったから、まあいいかと思うことにして、女の子を家に通した。実際、一人で食べる食事より、二人で食べる食事の方が安心するのは確かで、一人で食事をとる場合には自分の咀嚼音がうるさいぐらいに聞こえて、食欲が減退する。二人だったら会話でもしながら食べれるし、そのおかげで咀嚼音は気にならなくなるのだ。一人で食べる食事が寂しいものだと心のノートで教育されているせいかもしれない。

ほとんど新品に見える真っ白のスニーカーを脱いだ女の子は素足でフローリングを歩いた。彼女の湿った足跡を見て、眉間に力が入った。この家は砂浜でもなんでもないから素足で歩くのは止めて欲しかったので、床にはゴミが落ちてはいるという理由をでっちあげてスリッパを薦めた。けど多分、砂浜も素足で歩いたらケガするぐらいにゴミが落ちているかもしれない。綺麗な海を見てゴミを落として帰っていく人もたくさんいそうだ。というか靴下ぐらい履いて居て欲しい。

「パンでいい?」食パンをグリルに入れてから聞いた。返事がなかったので、もう一度聞いた。「パンでいいよね?」返事はなかった。振り返ると、こちらを向いて頷いた。タイマーをセットした。美味しいパン屋の美味しいパンだ。焼いた時の匂いが違う。

 食事中、女の子はスマホとみらめっこしていた。同じように僕もスマホを取りだして遊びに行く約束は断った。その連絡を入れると、遊びに行かないなら代わりに学籍番号を教えろとメッセージが来たので、LINEで送っておいた。あまり怒っていないようだったので、安心した。同時に高見は冷たい奴なんじゃないかと疑った。

 一人で食べる時よりも咀嚼音が気にならないことに驚いた。何を話せばいいのか分からないことのほうが、それよりも重要度が高いのか分からないが、僕の意識は食事よりも会話の方に向いていたのだろう。

食事を終えても会話はなかった。手持無沙汰なまま、ぼんやりしているのも居心地が悪い。自分の家なのに居心地が悪いというのは初めての体験で変な気分だった。それらを忘れようと小説を読んだ。

 平日の昼間にいる女の子というだけで、彼女がどのような状況であるか察することができていた。自分にも同じような時期があったので共感を覚えた。だけども、それを共通項として彼女に話しかけるのは気が引けた。

 そのまま日が暮れて、八時を過ぎた頃、女の子の母親は帰ってきた。そして女の子は帰っていった。しばらくしてから母親は僕の家にお礼を言いに来た。

「少ないですがお金も払いますし、これからもお願いしていいですか?」と尋ねられた僕は、少し考えてから断った。数時間前に貰った一万円も返した。だけど母親は頑なに受け取ろうとしなかった。母親は「週何回かで良いんです。話し相手になってもらえませんか? こんなこと言うのもアレなんですけど、虐められたらしくて……」と食い下がった。もちろん、僕は断った。今日、彼女が僕に向けて発したのは「あの、充電器借りていいですか?」という言葉だけだったから。

 母親は曖昧に頷いて帰った。101号室の火災報知器の上にあるツバメの巣で、腹をすかしているのだろうか、雛が鳴いていた。ああいう音は一番効率的なコミュニケーションかもしれない。

 

 翌日、大学で昨日の話を高見にすると引っ越しを勧められた。そして、もし何かあれば自分の家に泊まっても良いとまで言ってくれた。おそらく彼が僕のセーフティーネットだろう。

 高見と知り合ったのは大学入学式でたまたま近くの席にいたことがきっかけだった。僕はどうせ二週間もすれば、それぞれ友人を作るだろうと思っていたが、学籍番号が近く基礎科目が同じクラスという偶然によって、不思議と距離が保たれた。そして、距離が近づいたのは五月中旬、いじめられていたという共通した経験を持っていたとカミングアウトし合ったことに由来する。高見も僕も中学時代だという符合は、相手を自分の内に取り込むことを容易にした。彼の経験は僕の経験と似通っているという、ただそれだけで、高見が自分のように思われた。

「大体、もうすぐテスト期間だろ? そんなことしている場合じゃないって」

「もしかして高見って、結構冷たくない?」

「いや、どうせお前は無関心ではいられないから、その分、気を揉むんじゃないかって心配になるんだよ」

「実際、そんな感じだったんだよね。どうしたらいいんだろう」

「あんまり考えない方が良いと思う。特別なことはできないし、よしんば会話の相手になったとしても、それで登校できるようになるわけじゃないし、実際登校しなくても通信制とかあるんだしさ。本人の人生は、本人が決めなきゃ。まあそれが一番難しいんだけど」

「確かに」

「まあ、お前がどうやって耐えていたのかを思い出して、されて嬉しかったことを思い出してみればいいんじゃない?」

「いや、でも断ったから、もう来ないんじゃないかな」

「だといいけどね」

 大学が終わり自宅まで歩く途中に学生とすれ違った。ふと足を止めて振り返ってみる。また歩き出す。

蜜柑色した夕日が段々と朱になりつつある中、高校の通学路になっている二車線道路の歩道には学生たちが楽しそうに道いっぱいに広がってお喋りをしている。僕は歩くスピードを落とした。

 前方の集団の一人がこちらを振り向いたが、そのまま隊列を崩さずに歩き直した。自分の学生時代を思い返した。同級生の顏が思い浮かんだが、会いたいとまでは思わなかった。少しして、学生集団が右に曲がり駅の方へと歩いて行った。僕はそのまま真っすぐ進んだ。雲が紫になると外灯の灯りが点いた。さっきの集団を学生というカテゴリーで見ていたが、おそらくそれぞれに名前があって、それぞれが違う人生を歩むのだろうと思った。もしも、そのカテゴリーがなくなったら、彼ら彼女らは一体、何でつながるのか不思議に思った。

 アパートの前まで来ると、隣の部屋の灯りが点いていないことにホッとした。だけど、すぐに不安になった。この時間に家に誰もいないのは変じゃないか? 外食でもしているのだろうと思うことにした。そして、自分の部屋に入る。

 まずは部屋の電気を点けて、スマホを開いて今日の晩御飯の献立を検索した。彩り豊かなメニューが画面にズラッと並び、見ているだけで食欲が湧いてきたが、自分の口座に金がないのを思い出して、節約しなければと思いなおし、野菜炒めを作った。肉は切らしていたので、本当の野菜炒め。ずいぶん貧相な夕食。

 それを食べながらTVerで配信限定のアメトーークを見ていた。ストロングゼロ似合うおつまみドラフトをしていて、それを見ていると無性にストロングゼロと唐揚げの組み合わせが食べたくなり、家を飛び出した。スマホは凄い。可能性を広げてくれる。中学生の頃はガラケーだったけど、高校入学と同時にiPhoneを手にしてから、YouTubeやソシャゲなどの無料で楽しめるアプリのおかけで、暇つぶしと趣味がない交ぜになったり、SNSで知らないことを知れるようになったり、サファリで知りたいことを知れるようになったり、その分、知りたくないこともを知ってしまう機会も増えたりしたわけだが、総合的にはポジティブな評価をしている。スマホがなければ、唐揚げとストロングゼロへの意欲が湧かなかっただろう。

 走った。それはもうオリンピックの聖火ランナーだとか比にならないくらい息切らして走った、走るのみだった。途中、家の鍵を閉めたかどうか不安になったが、唐揚げのビジョンが脳内を支配していた。油でてらてら輝いている山盛りの唐揚げ……。震えた箸が一つを取る。それを口に入れる。口の中で唐揚げの旨味油を感じて、それをストロングゼロで流して、もう一度再開。

 ローソンに着いた時、そのシュミレーションを少なくとも十回は繰り返していたおかげかパブロフの犬実験さながら、反応が刺激に先行するという現象をまざまざと感じて、自分が動物であることを改めて自覚した。もう涎が止められない。

雑誌、エロ本のまえを速足で通り過ぎ、ストロングゼロのロング缶を手に取りレジに向かった。それに加えて唐揚げくんレギュラーを三つ買うとホクホクした気分で、店の駐車場の奥まったところにある喫煙所で煙草を吸った。そこにはデブの中年が居た。中年は僕のもっているビニール袋の中身を当てて、自分の手にしている缶チューハイを顔のあたりまで持ち上げて、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「小僧、えらい奮発したな。良い匂いがプンプンするよ。唐揚げだろ?」

 そう言われてから、節約するつもりだったのに、つい買ってしまったと反省した。しかし、もう遅いし後悔はしていない。

「はい。もう、食べたくって食べたくって仕方なくなったんですよね、もう来るまでに何回、食べる妄想をしたことか」

「恋してるね」

「はあ? 恋?」

「うん、そう。君は唐揚げに恋しているよ。何かのテレビ番組かツイッターで言っていたはず。忘れちゃったけど、その日のうちに三回その人のことを考えたら恋なんやでって誰かが言ってた。つまり、君はこの短期間で唐揚げのことを何回も考えたわけでしょ。それも頭に唐揚げを思い浮かべながら、そのたびに君は唐揚げに恋い焦がれていたんだ!」

「唐揚げに恋なんてするわけないじゃないですか」

「でも、君は今、涎が凄いよ。唾が飛びまくり。それって、唐揚げをイメージして、そのたびに唐揚げに対しての思いを強化していることに過ぎないんだ。あ、お迎えだ」

 中年は若いけばけばしい女の姿を見ると勃起していた。チノパンがパンパンだった。彼は女性と自分がセックスするシーンを想像して今、目の前にいる女性への認識を強化させたのだろうか。セックスとつながった女性として認識を強化したのだろうか。人間が反復によって、認識を強化 するにしても、なにか抵抗してほしいと思った。

中年が自動車に向けて歩き出した。けばけばしい女性はお隣さんだった。僕と女性は目があったが、すぐに伏せた。

「彼、何か言ってた?」

「いえ、唐揚げに恋しているとか言われましたけど」

「ああ、そうなんだ。ところで、娘は家に居た?」

「え? いるんですか?」

「え?」

「電気ついていませんでしたよ?」

「え? えっと、じゃあ家に帰ったら、ちょっと娘がいるかどうか確かめてくれない? それぐらいならいいでしょ?」

「え、でも」

「そう、ライン交換しましょ。それで連絡して」

 彼女は僕の手を握りほとんど強制的にラインを交換させた。この人は、僕が連絡をしないという選択を取ることを考えていないようだ。確かに、僕は連絡してしまうだろう。間違いない。

 車で待っている酔っぱらった中年が「早くしろよ!」と怒鳴った。

女性は「それじゃあ、よろしくね」と言って、車に乗り込み駐車場から去った。残された僕はコンビニでもう一本、ストロングゼロを買った。

家前の帰り道に、一本飲んだ。夜になってから段々と涼しくなって、多少なり息をしても心地のよさを感じられるようになり、酒に酔った僕は道端の背の高い雑草が手の内をするするとすり抜ける感覚と目の合わない女の子のことを考えた。あの目の隠れた女の子のことを考えた。笑ったらどんな顔をするのかだとか、幸せでいて欲しいだとか、不安や悲しみがなくなればいいのにだとか、一人で相撲を取っていた。シラフだったら絶対に考えない事。他人のことは普段、考えたくない。

聞きなれた階段の音が街灯に紛れて高く響いた。

105号室に入る前に隣の部屋をノックした。さっき家を飛び出した時から何も変わらず、電気が点いていないままだったその部屋はノックしてから、パッと明るくなった。小さな窓から衣料用洗剤の容器がうつった。

 扉が開かれて、あの目が見えない顔がすっと現れて、何故か安心した。花、確かに咲いたはずだった。けど、すぐに枯れた。また花を買った。すぐにしおれた。水はちゃんとあげていたはずけれど、枯れた。水が足りない時に音が鳴れば、すぐに助けられるのに。枯れた瞬間に音が鳴れば、あとくされもないだろう。

「なんですか?」

「いや、家の電気ついていなかったから、ちょっと心配で」その言葉に嘘はなかったけれど、本当でもなかった。彼女との関係はそれほど深いものではないし、僕が一方的に考えているだけだが、それほど簡単に割り切れるようなものではない。

「なんか気持ちが悪いですね」

「いやー手厳しい。まあ、なんにせよ良かった。じゃあね」

 急に恥ずかしくなって自分の家に戻ることにした。「え? 一体全体、なんなんだったんですか?」という声も聞こえたが、無視した。自分の部屋に入ってから女性に連絡をした。そして、酒を飲んだ。寝た。

 

 生まれて初めて鳥の糞が肩に落ちてきた。101号室のすぐ近くにツバメの巣がある。いつかはこうなると、なんとなく分かっていたし、心の準備をしていたが、いざそうなるとげんなりする。確かに軒先のコンクリートに北海道みたいな白い跡があったわけだし、そういうリスクも考慮できた。だけど、予測は不可能だった。クソッ!

ただ、落ちてきてしまったものは仕方がないし、受け入れるしかないのだ。ツバメの巣をぶち壊してやりたいが、それをしたら大家さんだとか動物好きの202号室の佐竹さんとかから顰蹙を買いそうだから、怒るのではなく諦めることにした。

二限は間に合いそうにないのでサボった。シャワーを浴びて汚れた服を手で洗って、ベランダの物干しざおに引っ掛けると、そうめんを茹でて食べた。

ツバメが巣立つ時期について調べていると、本当ならもういなくなってもおかしくはない時期らしかった。早くいなくなって欲しい。けれど、一年経って戻ってくるらしいので、本気で引っ越ししようか迷った。

しばらくすると、何もするべきことがないことに気が付いた。かといって、したいことがあるわけでもなかった。無気力だった。カーペットの上でごろんと横になり、今日は大学を丸々サボろうと思った。だが、決断は出来なかった。だから、光熱費を浮かすという理由を見つけ出して、大学に行くことしにした。

玄関を出た。104号室の前にスマホが落ちていた。画面は通知で光りっぱなしだった。それを見てから拾った。画面を見たくなかった。104号室をノックしても反応がなかった。一応、女性に連絡した。そうしてから、大学に行く予定を変更して、駅前のミスターマックスへと飲み物を買いに行った。

途中、白いワイシャツを日に晒しながら横を自転車で通り過ぎる学生が居た。ポケットの中でさっき拾ったスマホが断続的に震えていた。

店内は涼しく、冷気が肌に馴染む、ちょうどいい心地よさがあった。そこで同じ学科のヨッ友が働いていた。レジにその姿が見えた。デカビタを持って並んだ。相手は僕にヨッと言っったきり店員になった。最後に「セルフレジでいいじゃない?」と言われた。確かにその通りだった。確かにその通りだ。

ミスターマックスを出て、すぐ横の喫煙所で煙草を吸った。ミスターマックスが一番端で、ヤオコーTSUTAYAが並んでいる駅前。三つの店舗で共通の駐車場を使っている。喫煙所はヤオコーミスターマックスの間にある。もっと言えば、宝くじ売り場と証明写真BOXの近く。小さい子供とその親が前を通りがかったので、後ろを向いて煙を吐いた。そこには白い塀があって、その向こう側には、病院の廃墟がある。昔、患者を鎖で縛ってベッドに張り付かせていたのが週刊誌でバラされて潰れたらしい。まあそれは置いといて、塀の穴から中の様子が見えた。ここにもツバメの巣があった。ツバメが帰る場所は病院の廃墟なのだろう。人間も結局、生まれる時と死ぬ時は病院で過ごす人が大多数なので、実は人間もあのツバメも同じようなのかもしれない。そのような考えを馬鹿馬鹿しいと一蹴して、また煙を吐いた。そういえば、と思って、自分のスマホを取りだしてラインが来ていないか確認した。返信は来ていた。

家に戻ってから、また104号室をノックした。今度は開いた。ゆっくりと。スマホを渡そうと差し出したが、女の子はスマホと僕を何回か見て「お茶どうですか?」と言った。僕は頷いた。女の子は先に部屋の中に入ってしまったので、スマホをまたポケットの中に入れた。叩けば二つになるだろうか?

テーブルに女の子のスマホを置いた。一口齧られている林檎の面を上にして。そして部屋を見回した。家具の種類や配置は違うが、105号室と全く同じ間取りだった。冷蔵庫が閉まるボズッと音がした。女の子は冷たい麦茶を、グラスに並々注いで、それを溢さないで運べるかどうかのゲームをしているようだった。幽霊みたいに足音がしなくて、地雷原を歩くみたいに恐る恐る運んできた。それがテーブルの上に置かれた。

「ありがとうございます」をとても早口で言った。「あざす」

部屋にはテレビがなく、窓は開けられていた。熱気の孕んだ風がカーテンをふくらませた。コンセントの位置も僕の部屋と同じだった。

「聞きたかったことがあるんだけど」と彼女は言った。「前の夜、なんでドアを叩いたの?」

「ああ、それは部屋がずっと暗かったから、誰もいないのかなって」

「いや、全然分からない。泥棒するつもりだったの?」

「不服だ。本当のことを言おうか?」

「どうぞ」

「君の母親に頼まれたんだよ」

「なんだ、そうだったんだ。ねえスマホ貸してくれない? ちょっと動画見たいの」

「やだよ。我慢してよ」

 「じゃあ、私がお手本を見せてあげる。まずね、時代は江戸。飢饉に襲われた村人たちが食料を求めて移動しているの。これは隠された歴史の話。米騒動によって隠された歴史。米騒動はヒーローの物語なんだけど、日の当たらない歴史もあるのよ。そう、続きはこう。お腹が空いている人間はお役所にカチコミをしようとも思わないわけね。そりゃあ大塩平八郎が起こした後はそのビックウェーブに乗る連中もいただろうけど、その頃は誰も役所を襲おうなんて発想がないわけ。この食事に飢えた人たちはどうしたと思う? もちろん農家の家を襲ったのよ」

「それって本当?」

「さあね。でも、これは嘘ではないわ。ご飯に対する欲望が、あんまりに大きいもんだから、農家を潰すのよ。農家も農家よ、本当はご飯があるのに、ないなんて嘘ついたから。それに気が付いた飢えた人々は嘘をつかれた、という事実から裏切られたと、勝手に物事をふくらませて、自分を正当化して襲うの。裏切られた自分は可哀想だからって。ね、ちょっとおもしろいと思わない?」

「うん、ちょっとだけね」結局、面白い話じゃなくて、ちょっとだけ面白い話だった。そのちょっとだけも一つ間違えば危険な感じだ。

「でね、この話には続きがあって、農家には一人娘が居て、その娘は周りから嘘つきだって言われたのよ。嘘つきの子供は、嘘つきだってね。けど、その子を生かしたのは農家じゃなくて、襲った人たちなの。こんな幼い子は殺せないって。そんな中途半端に人間性を大切にしようと思わなくてもいいのにね。まあそれでも、その娘はいじめられ続けて、死んだって話」

「でも、その話はフィクションなんでしょ?」

「信じるも、信じないもあなた次第って感じ。けど、私はそれを知っているし、もしかしたら本当かもしれない」

 どんな感じか全然わからなかったけれど、なんとなく「綾ちゃんはコラムニストにでもなれそうだね。ほら、スポーツ新聞の隅っこの方の」と言った。彼女はちょっとだけ嫌そうな顔をした。

「ほら、次はあなたの番」

「えっと、ああ、ほら101号室の近くにツバメの巣があるじゃん」

「うん」

「そのツバメに糞を落とされた」

「ありきたりな話だし面白くもない」

「いや、ありきたりだと思うでしょ? けど、鳥の糞を浴びた人間っていうのは少ないと思うんだよね。あれって予測できないじゃん。そういうリスクがあるのは理解していても、いつ自分がそうなるのかって分からないじゃん。もしかしたら一生、そういう状況にならない可能性だってある訳だし。僕の場合はツバメの巣があるアパートっていう環境が余計に作用した訳だけど、結局ほとんど運なんだよね。ウンコだけに」

「それでも、つまらないのには変わりはない。つまらないのよそんなの」

 

 彼岸で実家に帰るまでに四回、電車を乗り換えなきゃいけないので、電車内や駅構内の広告やホームから見える看板は嫌というほど視野に入る。一回目は「賛成、新しい自分」という転職サイトの広告、二回目は「君は人生の主役」と書かれた整形外科の広告、三回目は「自分という殻を破れ」という広告会社の広告、四回目は「そうだ、京都に行こう」という旅行系の広告だった。どれが一番マシかというと、四番目だ。一番目の広告は、新しい自分になりたい人を応援することで金を稼ぐ会社、二番目は主役になりたい人のための(あるいは自分は主役ではないと思っていて、その理由が外見にあると認識している人に向けた)広告、三番目は意味が分からない、殻を破ったら何が起こるかさえも言及されているないし、意図も掴めない。

 実家の最寄り駅について相変わらず寂れていると思った。新海誠が映画の舞台として出してくれれば、風情があるとか味わいがあるとか、それっぽくパッケージングされて発掘されそうな駅。朝日か夕暮れだったらベスト、もっといえば天気雨が降っていれば、涎をたらした感動中毒者が映画館に駆け込むぐらいだ。

 車で迎えに来てくれない両親をスナック感覚で恨みながら歩いた。ラインで迎えよろしくって送っておいたのに全くの無視。蒸し暑すぎて恨まなきゃ気力すら湧いてこない。こっちから歩いて帰るって送ってしまったのを、今更になって後悔した。

両親から無視されて一人トボトボ徒歩で帰る蒸し暑い真昼間、これが僕の人生のディスティニー……。こんなクソな人生の主役になるなんてまっぴらだ。中学生の頃、僕の給食に犬の餌を入れた彼は超絶可愛い彼女とディズニー……。電車でインスタなんて見なきゃよかった。いつもそうだけど、不快に思うなら消せばいいのにと他人事のように思うが、なぜか消さない。

人生の主人公になるのに選択権があればいいのにな、と思った。というか、高見も綾ちゃんも石田さんもドルチェ・シマノフスキの主人も大学の先生もみんな自分の人生の主人公なのだろう。

五キロほど歩いた。腰かける場所と日陰はなかった。

実家で最初に僕を迎えたのは飼い犬の死体だった。飼い犬の死体を見たのは二度目だった。最初はまだ四歳ぐらいの頃、その犬は畑の土に中に埋められて、今は夏みかんの根を引き受けている。

「あんた、帰ってくるの今日だったの?」と母は言った。「ちょうどいいから。ちょっと土掘るの手伝ってよ」

 僕は頷いた。畑の土を掘った。父親とスコップを持ってビワの木の横を掘った。ナスやら唐辛子やらネギやらカボチャやらを育てている畑の外周には、放置されて山になっている藁やら枝の柿の木やら夏みかんやらが雑に植わっている。

 夏みかんはたわわに実っていて、日差しを受けた黄色はよく映えている。そういうのを見ていると自分も死んだときには土に埋めて欲しいと思った。焼かれて骨壺に入れられるより、土になって微生物の栄養を担っていきたい。あわよくば、そこから植物が生えてきてくれれば、多分おちつくだろう。

 ようやく犬一匹が入れる穴を掘り終え、腰に手を当てて空を仰いでいると、父が唐突に離れの田んぼ潰して売却したから奨学金はもう借りなくていい、と言った。もう着工されているという。

地べたに横になって固まっている犬の周りに蠅が飛んでいた。物流倉庫は三階建てらしい。犬は臭かった。物流倉庫の建つ土地の近くには小さな川が流れているが、わざわざ専用の橋を作るらしい。犬を土の中に置いた。物流倉庫が田んぼだった場所に建つ。犬に土をかけた。どんどん姿が見えなくなっていった。

 ぼんやりしながら家へと戻っている最中、白い蝶が眼の前を通り過ぎた。その白さに目が奪われ、ハッとしてその姿をもう一度、見ようとしたが姿はもう見えなかった。夏の蝶は存在するのだろうか。蝶も羽ばたく度に音が鳴れば、あれが幻覚ではないと知ることができただろうか。

 庇の下で煙草を吸った。縁側のすぐ近くのサテツの根元に蟻が這っていた。大きく息を吸った。銀色の犬小屋の前に置かれた蚊取り線香の匂いが死体の匂いと混ざって、吐き気をもたらした。頭痛もやってきた。目を閉じた。疲れた。

 日が傾きはじめて、疲れが身体に馴染んだ。倦怠が肩にのしかかった。大きく息を吐いて肩を下げた。空に溶け込めない金色の雲が死体のように見えた。微動だにしない雲。

 母親が夏みかんをもってきて「あとちょっとしたら行くから」と言った。二、三切れほど食べてから、周りの田んぼを歩きながら、また煙草を吸った。けど二、三口だけ吸ったら地面で火をもみ消した。単純に煙草が残っている夏みかんの風味と合わなかった。訳もなく田んぼの中に入った。黄金色した海をかき分けて、屈んで進んだ。

 爺さんが使っていた外のトイレを見に行った。こえだめは潰されている。土壁のぼっとんトイレは子供のころほどの恐ろしさを感じさせなかった。ただの用を足すための場所として存在していた。だけど、誰も使うことはない。

僕はそこでションベンをした。ションベン臭かった。

物置にツバメの巣があった。だけどツバメは飛び立った後らしく、姿は見えなかった。アパートのつばめもさっさと飛び立って欲しいと思った。

六時になって花柄の提灯に火をともして歩いた、父は家紋の入った提灯を手にしていた。ため息みたいに湿った風が吹いて、ぼんやりしている影が揺れた。

墓場には隣の橘さんご一家が居て、少し話した。提灯の薄明かりに照らされた母の顔に彫られた皺は思いのほか深く、そこに影が染み込んでいた。母も若くないのを知った。

夕食は僕が普段から口にしているレベルの食事よりも数段上だったものの、いじめられているのを告白した時に比べたら数段下だった。ご飯は中々喉を通らなかった。だけど、ちゃんと食べた。

高校生の時まで使っていた部屋。明かりをつけたまま眠った。そうしなければ眠れなかった。ノスタルジーさえもまともに感じれない。

 

 

八時過ぎに目が覚めてからパンを買いに行こうと、サンダルに素足を滑り込ませてから、パン屋がつぶれたのを思い出した。それでもなんとなく外に出た。パン屋がないならコーヒー豆を買いに行こう、と思ったのだ。身体に染みついた習慣は、それが重要でないからこそ、中々なくならない。だから外がうだるような暑さであっても、Tシャツを肌に張り付けながら、財布と小説を持って、途中自販機で買った缶コーラを飲みながら商店街を真っすぐ突き進むことができる。そこではできない理由を探すことはない。だって、簡単にできるから。

 帽子を被った主婦と仮面ライダーのTシャツを着た子供が手をつなぎながら、微笑みあっている。その親子は僕とすれ違いかけそうになったら、コンビニに入った。音もなく開かれたドアは涼しい風をくるぶしに届けた。アーケードを子供が駆け回っている。夏休み、良い響き。僕は中学生の頃いじめられていて、あんまり外に出るっていうのをしてこなかった。そういう時は夏休み中が一番、外に出れないのだ。彼らといつどこで遭遇するかと足が全くつかないから。けど、もしかしたら生きるっていうのも大抵そういうものなのかもしれない。競争原理の下で、いつ誰から、何から襲われるか分からないまま、ただビクビクおびえながら、自分の身を守ることに集中しなければならないし。まあ、だから、風みたいに走り抜ける子供たちが、どことなく羨ましく映った。

 前進しようとするたび、疲れを訴えるように背中が丸まっていき、ゾンビのように足を引きずった。もう耐えられないと思った時、ちょうどパン屋があったところに着いた。テナント募集の張り紙がガラスに張られていた。青い塗装と「ロックストーンベーカリー」という店名は、もう全て白で上塗りされていて、本当にパン屋がつぶれたのだと教えてくれる。あのパン屋で働いていた人はどこにいったのだろう、サクサクメロンパンがもう食べられないのかあ、だとか思っていたら、自分が勝手に物語を探して、勝手に感傷に浸ろうとしているように思えたので、あまり気にしないように歩き直した。そこに悲しさはないはずで、ただパン屋がつぶれただけ。けれど、あのパン屋は美味しいと評判だったし(確かに美味しかった)、それを聞いた店主も悪ノリで「美味しいパン屋です」と書いたポスターを店内に張っていた。テレビに取材されたこともあった。

「パン屋がなくなるのは寂しいね」と背後から帰を掛けられた。振り返ると男が居た。夏の暑さにやられたのか酷くやせ細っていた。

「そうですよね。美味しかったのに」

「まあーパンなんて今時、どこでも売ってるし。けど、やっぱり、ねえ」

「なんで閉店したんですかね?」

「ああ、これは噂なんだけど」

話を聞くと、誰かは知らないけど、「全然美味しくない。これは詐欺、店主は嘘つき」というクレームが入ったらしい。ついでに訴えられたらしい。掲示表違反らしい。「ごたごたして、いろんなことが嫌になったんじゃないかな? なんでも娘さんもいじめられてたらしいよ」

見慣れたコーヒー豆屋の前まで来たら、やっと涼めると思い、涙が出そうなほど嬉しかった。正直、外出したのは失敗だった。

そもそもドルチェ・シマノフスキは商店街を抜けたところにある豆屋で、こんな暑い中、歩いていこうと思った自分は本物の馬鹿だと思った。

 店頭には空の樽とシルバーフレームのロードバイクが置いてある。一目でコーヒー屋だと分かるように、濃い茶色の外壁だ(いや、そういう理由じゃないとは思うけれど)。この辺まで来ると人も少ない。トラックの走る道路の高架下をぬけるとオフィスビルが立ち並んでいる。芝生と点在するいくつかの木々。ドルチェ・シマノフスキの少し向こう(高架下の手前)にはコンビニがあり、そこで夏休みの子供が自動ドアのすぐ傍で遊戯王デッキを開封している。「公園行こうぜ!」と言っているのが聞こえて、なぜ家で遊戯王しないのか理解できなかった。外で遊戯王? 絶対蚊に刺されるし暑いのに。

考えても何もならないので(正直、熱さに耐えられなかったの方が動機として強い)ほんの少し重たい扉を押して中に入った。店内では、かの名盤であるケルンコンサートが流れていて、やっぱり今日は豆を買いに来てよかったと思った。この名盤はキースジャレットの唸り声が入っているのに旋律は氷みたいに透明で冷たくて固くて好きだ。この店主と、やっぱり波長が合うと思った。大学に入学してから、自宅周辺をぶらぶらりしていた時、初めてドルチェ・シマノフスキに入ったらザ・デイブ・ブルーベック・カルテットのロンドが掛かっていて妙に親密に感じた。それ以来、この店はお気に入り。

店主が焙煎をしている間、持って来ていた小説を読んだ。正直、全く集中できなかったが、店内でぼーっとしているのも、間抜けなので文字の上を滑っていた。ページを捲ると、内容が繋がらなくて、またページを戻すといったようなことを何回か繰り返していると、店主がコーヒーと三粒のナッツを僕の前に置いた。焙煎が終わるまでの間のちょっとしたサービスだ。

出されたコーヒーとにらめっこをして(それはホットコーヒーだった)、おそるおそる口を付けた。やっぱりおいしかった。一度、ちゃんとしたコーヒーを飲むと、中々インスタントコーヒーには戻れない。大してコーヒーが好きでもないのに、そうなってしまうのだ。こだわりがある訳でもないが、どうもインスタントがまずく感じられるようになる。ナッツを手に取った。もしかしたらナッツと夏を掛けているのだろうかと考えたが、さすがに深読みしすぎだと思い、口に放った。それを噛みながら、また文字の上をつるつる滑った。

「そういえば、どうしてパン屋なくなっちゃったんですかね」

 クレジットカードで会計をしている間、店主に尋ねた。

「ああ、なんでも石田さん、いや、店主のお父さんの介護で首が回らなくなったらしいよ」

「え。けど、あの人、四十代ぐらいなんじゃないんですか? 見た感じだとそうだと思ったんですけど」

「違う違う。痴呆になったんだよ。それに一人っ子だし、嫁さんは子供連れて逃げちゃったらしいし。ほんとこれからどうするんだろうね」

 店主は同情したようにため息交じりにそう言った。ビニール袋を手首にかけて、クレジットカードを受け取り、「じゃあ、また今度」と言って家に帰った。iPhoneで時刻を確認すると、もう九時時になっていた。歩を速めた。

所々、錆びて塗装がはがれた階段をわざと音を立てて登った。サンダルだといい音が鳴らないのに気が付いた。

 404号室(それは104号室。誰かが落書きして4になっている)をノックしてから隣の自分の家の鍵を開けた。夏の日差しを受けたドアノブは鋭く光っていた。熱を我慢して回した。中に入り、むんとした空気を追い出そうと、窓を開けて扇風機を点けた。買って来たばかりのモカブレンドをコーヒーミルで挽いた。コーヒーメーカーにフィルターと豆をセットし、水を入れる。焙煎したばかりの豆のせいで部屋の匂いが変わった。換気扇を回す。

 スーパーで売られている一番高い食パンをオーブンの上から引っ張り出し、刃がギザギザのフルーツナイフで適当な厚さに切り、(本来は魚を焼くための)グリルに入れた。片面二分、もう片面一分。その間にグレープフルーツを切ろうとしたけれど、生憎切らしていたので代わりに檸檬を切ることにした。きっと目が覚めるだろう。あの流行の音楽に則って、切り分けた檸檬の断面図は太陽みたいに光、と呟いた(こんなんだっけ?)。そういえば、なぜ子供の中には黄色い太陽を書く子が居るのだろうかと思っていると、ピーっと音がした。パンを裏返して、もう一分だけ焼く。赤色とかオレンジ色とか、いろんな太陽があるのだなあ。きっと多様性なんだろうなあ。

 ふと思い立って冷蔵庫から檸檬をもう一つ取りだして、居間に戻る。本棚から適当な小説を取りだして積み重ねた。その上に檸檬を置いた。色とりどりの背表紙の一番上に檸檬がある。全く微動だにせず、彫刻みたいに見えた。けど意味が捕まえられない。ここは丸善ではないから爆弾にはならなかった。またグリルが鳴ったので、台所に戻った。パンを取りだしてミッフィーの小皿の上に置いて机の上に並べた。ちょうどいいタイミングでコーヒーメーカーが鳴った。そうして、グラスに氷をたくさん入れて注ぎ、それをテーブルの上に運んだ。本棚から適当な小説を取りだしてコースターの代わりにする。今日は新潮の怒りの葡萄(上)(下)だ。何度も使ったせいで茶色い輪が濃い。どうせ売らないからどれだけ汚しても構いやしないのだ。

さぁこれで準備は終わりという感じで玄関を見た。けど、ブルーベリージャムを出すのを忘れていたと思って、冷蔵庫から取りだして必要な分だけ小鉢にあけて、それをテーブルに並べた。転がった檸檬、パンでミッフィーが隠れた皿、それとジャムの浸った小鉢が綺麗な三角形になった。ぼーっとしていると「大丈夫?」と声が聞こえた。

綾が来るまで扇風機は僕の方へまなざしを向けていたけれど、彼女が来ると首を回した始めた。僕と彼女を交互に眺めて、間違い探しをしているみたいに。

テーブルの真ん中に建設された小説の塔は彼女の視線を遮っている。だから僕は綾の顔を見なくて済んだ。

「もうそっちは夏休みが終わるんだね」

 焦げが目立つ方のパンを齧りながら僕はそう言った。

「うん。けどずっと夏休みみたいなもんだし」

「僕もずっと夏休みが続けばいいなと思っていた時期があったよ。高校性の時は」

「そうなの?」

 ちょっと上擦った声が聞こえた。

「中学生の時は最悪だったけどね」

「知ってる」

 今度は落ち着いた声。

「ああ、そう? ごめんね」

 本当に知っているかどうかは、曖昧だけど、とりあえず謝った。

「ところで、この小説塔は何?」と向こうから声がしたので「なんか物語が嫌になって積み上げてみた。馬鹿みたいでしょ? こうやって集めて積んでみたら全く意味が見当たらないんだもの。どう? なにか意味だとか可能性を見出だせる?」と身体を右に傾けて言った。けど綾の顏は見えなかった。きっと反対側から、こちらを伺っているのだろう。

「ぜんぜん。まあ想像力が働かないっていうのは素敵かもね」

 その時、揺れた。なんてことのない、ただの地震だった。檸檬は僕の方へ落ちてきた。綾は立ち上がって小説塔を上から押さえつけていた。揺れが収まってから彼女を見ると、目が潤んでいるのに気が付いた。何かが崩れたと思った。

「髪、切ったんだね」

黒い眼鏡の縁の上で綺麗に揃えられた眉毛があった。蝶の羽休みのようにゆっくりと瞼が閉じられた。

「うん」

彼女はピースサインを作って人差し指と中指で前髪を挟んだり、挟まなかったりを繰り返した。僕は「大丈夫だよ。きっと。それに人生は嫌になるぐらい長いんだ。だから想像して不安になっても、そのうち思い出になるかもしれないよ」と声を掛けた。自分から離れた言葉だった。綾は僕を見て笑っていたものの、チックが起こっていた。

「余命でもついたら、もうすこし勇気が出るのかな」

 消え入りそうな声が蝉の声に混じって聞こえた。余命がついたら虐めはなくなるし、むしろみんなは君の力になろうとするだろうと言いかけたが、それは言葉にするだけの価値がないので言わなかった。

「さ、食事を再開しよう。僕が中学生の頃、初めて親に打ち明けた時、ごちそうを作ってくれたんだ。そこから分かったのは、食事がとても大切だってこと。お腹が膨れれば少しは満たされた気分になるんだ」

「けど、だったらもっとちゃんとした昼食を作ってほしいな。こんなささやかなものじゃなくて」

 綾は独りごちた。今日のご飯は奮発したつもりだったが、彼女にとっては、ささやかなものだったらしい。

「うーん。ちゃんとした食事を作れるほど、お金があればいいんだけど。まあ、もう少ししたら豪華になると思う」

「でも、せめて今日ぐらいは」

 その先の言葉は発せられなかった。

 

アマゾンプライムで映画を見ながら午前中を過ごして、午後は適当に生きていた。日が暮れ始めた頃、夕飯を買いに行こうと外に出た。

ツバメの姿はもう見えなかった。巣の下のコンクリートにこびりついている白い糞の跡をまじまじ見ようと近づくと、消火器の裏で巣から落ちたツバメの雛が干からびていた。僕はそれを土に埋めようとしてつまんだが、地面はコンクリートだらけで、結局、面倒になって元あった場所に戻した。気を取り直してご飯を買いに行こうとしたら、石田さんが玄関から飛び出してきて、豪快に転んだのを見た。

「どうしたんですか、そんなに慌てて」

僕に憎悪の視線を送ってから「綾が屋上から落ちたの」と石田さんは言った。「それで死んだ」と呟いた。電灯のジジーという音がうるさかった。

僕はスーパーでたくさん食料を買い、今までで一番のごちそうを作った。親がなんでご飯を、ごちそうを作ってくれたのか分かった。僕が辛いのを励まそうとして、ごちそうをたくさん作ってくれたのもあるが、本当は両親も、今の僕と同じように、勝手に傷ついていたのだ。

 

 

なんですかこれ

へ へ

の の

 も

 

↑こいつムカつく顔してんな

 

 

 

 隣の席の鳥は、昼の間に老人から奪い取ったパンくずを、時折ジャケットのポケットから取り出して、それをつまみにジャックニコルソン(アルコール度数10000000000)の涙割りを飲んでいた。あれじゃあ空もまともに飛べんよねぇ……。鳥の真ん丸の目は充血している。おそらく涙が足りなくて、ソーダ割りよりも高価な涙割りを飲んでいるのだろう。いや、むしろ泣きはらして、涙が足りなくなったのかもしれない。

 なにはともあれ、その鳥の姿を見ていると、自分の飲んでいるジョニーワーカーが酷く安っぽいように思われた、事実安いし。学割だし。

 店内には躁鬱病みたいなロックミュージックが流れている。たまにコードを歪んだ音で鳴らしているだけの、ごくごくシンプルなロックが聴きたくなる。たまにはそういう曲を掛けてくれないかしらん、とぼんやり。曲が終わり、次の曲が始まるまでの静寂が訪れた時━━つまりはとても良いタイミングで━━グラスの氷がカランと鳴った。いや、氷の音じゃなかった。だって、カランの後に、コロンカランって続いたから。

 後ろを振り向くと、師・ナム亜美様がいらっしゃり、咄嗟に僕は「私はサボっていたわけではないんです」と苦し紛れの言い訳をした。師・ナム亜美様は、まるでそんなことはどうでもいいというふうに首を振り、「ジョニーワーカーではなく、ウォーカーだ」と、先に書いた酒の銘柄について修正を与えた。僕としては働くジョニーと歩くジョニーも同じ人間だという博愛的な思想をもっているので、修正を行う気にはならなかった。でもやっぱり師・ナム亜美様の修正は避けられない。やれやれ、僕は射精した。ワーカーの上に白い液体がかかった。ごめんな……働くジョニー……。これで修正液はOK。明日の朝になったら、文字は隠され、そこにウォーカーと上書きしなければならない。「ワーカー」と「ウォーカー」では文字数が違うので、上手く誤魔化さないとな、と思っていると、師・ナム亜美様が僕の隣に座り、学割を使って涙割を頼んでいた。

「もしかして、私の分も頼んでいます?」

 師・ナム亜美様は口のへの字にして「文章へんだよ。そこは私の分も頼みました? だろう?」と言った。

「へへへ……」僕はへの字の眉毛を八にして抗議の態度を取った。表情がちぐはぐなのは、元々そういう顔立ちだからで、むかし表情がばらばらだとガールフレンドに言われて本気で腹が立ったの、今思い出したわ。

師・ナム亜美様も怪訝そうに眉を八にし、下からおもちゃの刀を取りだして、いかにも「分かるかい?」と言いたげな顔で僕ののの穴になっている部分を引っ掛けて、それを引っ張った。どうやら怒っているらしかった。

のがつになってやがて目が見てないと自覚すると3になったが、僕は3という数字が苦手なので頑張ってつの状態までもどした。

 

まあこんな感じ↓

へへへへへへへへへへへへ

の の   つ つ   3. 3   つ  つ

   も      も       も       も

  へ       へ       へ       O

 

 

「マジで文字でふざけるな、殺すぞ。早く文章を直せ。日野昇国日本やからな!そげん、ふざけた文章あるわけないけん!」

「アイヤー!」

 たまらず僕の口、へはOに変わった。そうするとバーテンダーのフィリップは僕の口元にjを放り投げ「ggg」とくぐもった笑い声を立てた。取り急ぎ僕はjを口の中に入れて、咀嚼し嚥下し、口をへに戻し、師・ナム亜美様にごめんなさないを言った。こういう状況になったら、さすがの僕も良心の呵責に襲われた演技するために、顔のパーツをニュートラルに戻すのだ。両親の癇癪の時もいつもそうしている。

「ええか?」師・ナム亜美様は目が元ののの形に戻らず、つのままでいる僕を見て、狼狽えていたが「これが」と言い顔を赤くして「愛やー!」と叫んだ。

 なにがなんだか分からなかった。

汚いから、出すの止めた

うどん

 

 

「うどんフリスビー……」

フリスビーが禁止された公園で遊ぶための手段として、村崎芋男が提案してきたのは冷凍うどんをフリスビー代わりにしてフリスビーをするというものだった。プラスチック製ではないので、それは最早フリスビーではないのである。しかし、競技性は似ている。

そもそもフリスビーが禁止になったのは、頭つんつるてんの老人にぶつけてしまったからで、もちろんその老人はカンカンになって市役所にクレームを入れに行った。普段なら絶対に人にぶつけたりはしない。僕らはフリスビーに関してはプロ中のプロだからだ。僕が思うに、そのようなミスをしたのは、負けたらフリスクを一箱まるまる食べるという罰ゲームがあったからだ。この勝負に負けた人間は「うんこゆるゆる」という不名誉な称号を得てしまうという予測を(僕を含めて)三人とも抱いていただろう。そして、「うんこゆるゆる」はあだ名となる。

うだるような暑さの中で氷のように冷たい緊張感に包まれた僕らだったが、確かにフリスビーにのめり込みすぎていた。村崎が滑り台の上、海老名はアスレチックの上、そこから地上に僕がいる。正三角形でラリーを続けていくと、足つぼマッサージを終えて頬を上気させた老人がアスレチックの影からすっと現れるのに気がつかなかった村崎は腕を振りぬいてしまった。

三十回を超えるほどのラリーを経験した者は自分の手元が狂わないように集中しているので、老人を気にしているほど余裕がなかったのだ。

「これは名案だと思わないか?」と、うんこゆるゆるが言った。うんこゆるゆるゆるのうんこはまだゆるゆるなのだろうか? と今朝ゆるゆるのうんこを出した僕は考えた。

「確かに、うんこゆるゆるの言う通りだ……。だけど、うどんフリスビーだとケツにフリビーが付いているから、フリスビーとして受け止められるんじゃないか?」

海老名がケツと言った瞬間、僕は吹き出してしまった。全く面白くないのに。そして、僕は新しい提案をした。

「ケツに考案者の名前を付けたらいいと思う。うどんうんこゆるゆるってのはどう? なかなか拭き取れそうにないでしょ」

「殺す!」

 うんこゆるゆるが急に立ち上がって、そう宣言した。我慢できなかったのかもしれない。

「ごめん。さっきの発言、撤回していい?」と僕は一応、言ってみた。

「ダメだ。出したものは、もう戻らない」とうんこゆるゆるはふんばる時みたいに顔を赤くして言った。

「うんこと一緒じゃん」と海老名は笑いながら言った。

「殺すぅ!」と僕はうんこゆるゆるの真似をした。

「マジで殺す。お前ら殺してやる」

 どうやらうんこゆるゆるは本気で怒ってしまったので、さすがに僕らも慌てて謝った。三十分間ずっと謝りっぱなしだった。便秘気味の姉や漫画を持ち込む兄のトイレ時間と同じぐらいの時間、謝った。

 ようやく、僕らを許してくれたうんこゆるゆるは「うどんフリスビーで負けたやつ、フリスク食えよ?」と言った。「それはいいけど、結局さ、名前どうすんの?」と尋ねると「うどんビーとかでいいんじゃない?」とにべもないことを言った。

「まあ、それでいいか。それで誰がうどん持ってくるの?」

「あ、じゃあ、俺持ってくるよ」と海老名。

 

 翌日、僕とうんこゆるゆるが炎天下の下、遊戯王をしながら冷凍うどんを待っていると、ガシャーンと大きな音がした。僕らは音のした方へ向かい、膝小僧に唾を付け入る海老名と、その少し先に太陽の光を受けて輝いている剥き出しのうどんを見た。冷凍うどんが溶け始めているのか白いコンクリートが黒くなっていた。うんこゆるゆるはうどんを見つめたまま微動だにしなかった。

「大丈夫?」

顔を歪めた海老名に声をかけた。

「いや、無理かもしれない。今日はうどんビーに参加できない。腕、やっちまった」

「そしたら、仕方ないかあ」

内心ホッとしたのもつかの間、海老名が恐ろしいことを言った。

「なあ俺の分まで戦ってくれないか……?」

 海老名は微笑んだ。何かを我慢するみたいに、とても力の入った微笑みだった。

「いいや、君は嘘をついている!」

うんこゆるゆるが叫んだ。海老名は事前に打ち合わせでもしていたかのように、スラスラと説明した。

「嘘なんかついていないぜ。裸の冷凍うどんがぽろっと手から滑り落ちて、バランス崩したんだよ。お前らも聞いたろ。ガッシャ~ンって音」

「いや、聞いたが、おかしい! うどんがそんなにに溶けるなんておかしいんだ。ほら、見てみろよ。このうどん、あまりに溶けすぎている!さては君、罰ゲームを逃れるために、わざとやったね。さあ、こっちに来るんだ。やるぞ! うどんビー」

 彼はそう言って海老名の腕を掴み、強引に連れ出した。僕は海老名に近づいて、なんで嘘をつき続けなかったのか聞いた。そしたら、嘘はダメだって昨日、怒られたばかりらしい。

「それに、うどんはもう溶けるだろうし」

 その言葉通り、うどんビーが始まるころ、冷凍うどんはぷにぷにしていた。そのうちばらばらになるだろうと確信を得た僕は、出来る限り投げる動作に時間をかけた。最初に投げ方にこだわった。アンダースローサイドスローオーバースローか、悩んでいるふりをした。

 海老名も同じように時間をかけた。時折、うんこゆるゆるが「早くしろ!」と怒鳴ったが、気にしないように心掛けた。彼にしてみれば、うんこゆるゆるという名前を失いたかったに違いない。だから、こうして、うんこゆるゆるの称号を他人に擦り付けようと躍起になっているのだ。

「お前ら、冷凍うどんが溶けた瞬間、持っていたやつがフリスクな」

「正気か?」

 僕は言いながら冷凍うどんを投げた。それを海老名が受け取った。

「そんなの狂ってる」

 海老名はそう言いながらうんこゆるゆるに向けて投げた。

「俺のことを、うんこゆるゆるって呼んでるお前らが一番狂ってるよ」

 うんこゆるゆるは、そう言いながら冷凍うどんをがっしりキャッチした。

「でも、学校だとちゃんと名前で言っているじゃないか!」

 僕らは異議を申し立てたが、うんこゆるゆるは聞く耳を持たなかった。

 そしてとうとう、その時がやって来た。もう端っこの方がぷるぷると足を震わせている。

「なあ、罰ゲーム止めようぜ。もう村崎のこと、うんこゆるゆるなんて呼ばないから」

僕は、うんこゆるゆるになるリスクを考慮して、みんなにアグリーしてもらえそうなWin―Winな提案をした。そうして、ぎりぎりまで溶かしてから海老名に冷凍うどんを投げた。

 僕が投げた玉を受け取った海老名も「こんな不毛な戦いやめにしよう」と言いながら、ちゃっかり時間を使って投げた。

海老名の玉を受け取った村崎は「確かにそうかもしれないけど……」と言って俯いた。

「わかってくれるのか」と海老名は嬉しそうに言った。それに重ねるようにして、僕は「そうだよ村崎。今まで俺ら狂ってたよ。ごめんな」と言った。

 村崎の表情は読めないが肩を揺らしている様子から、彼は泣いているのだと思った。僕らは彼をこんなにも追い詰めてしまったのかと、さすがに反省した。

 その時、あの老人が僕らの方へ向かって歩いて来るのが分かった。「フリスビー禁止!」と言われ説教されるのは面倒だったので、僕は村崎がフリスビーを止めるように願い、そして「本当にごめん」と祈るように言った。

 しばらくの沈黙。俯いたまま大きく振りかぶった村崎を見て、僕は絶望した。

「バーーーーーーーーカ。嘘に決まってるだろ! 俺と同じ苦しみを味わえ!」

それは空中で広がり、完全にバラバラになった。その時の村崎の表情は忘れることができない。ダイソンの羽なし扇風機みたいな口と、飛び出すんじゃないかと不安になるほど開かれた眼。

 

うどんはめでたく、ハゲの頭にぶっかけられた。白いドレッドヘアー……。

練習

 

 

 

 

食事は大切だ。どんなに嫌なことがあっても食べ続けなければならない。食べると、多少は元気が復活する。食べたものは糞になって外に出て、また新しい食べ物を食べる。循環する。あまり食事が喉を通らない時でも、食べ続ける事は大切だ。自分の身体に栄養を与え続けるのは、日々を生きるには大切。

朝目を覚ましてから、そういうことを考えた。実際、ここ最近は暑さのせいで食事を摂る気にはならなかったから。とりあえず沸かしたコーヒーを飲みながらテレビをぼんやり眺めていると、黒い枠の中で高田純次が適当な言葉を言いながら商店街を散歩していた。あれぐらい適当に生きていけるのは鈍感なのか、それとも高度に感情を意識しているからなのかは分からないが、いずれにせよ多少は生きるのが楽しそうだと思う。

手元を探りiPhoneを手に取った。そこには高見からの今日の待ち合わせ場所の連絡があった。そのメッセージが僕を急かした。あと三十分で家を出なければならないじゃん。 シャワーを浴びていなかったし、朝食もまだ。ヤバい遅れる。寝汗で湿ったパジャマを洗濯籠に放り投げて、浴室に入った。シャワーと着替えを十分以内に終わらせて、それ以降はゆっくりご飯を食べよう。シャワーの蛇口を回すと、背中に冷水がかかって、さながら動物のように後ろに飛び上がった。その時に滑っておしりを強く打った。自分で自分のどんくささに呆れた。けれど、もし同じようにどんくさい人が居たら、少しは優しくなれるだろう。きっと。気を取り直して、シャワーをざっと浴びた。けど、着替えとタオルを用意するのを忘れて、びしゃびしゃなまま床を歩きたくないが、そうする以外に選択肢がないので、諦めて歩いた。掃除する時間が増えてしまった。

身体を拭いて、着替えた。そして、いらなくなったTシャツで床を拭いていると呼び鈴が鳴った。今はほかのことにかまけている暇はないので居留守を使おうとしたが、ドアが叩かれた。数十秒間、乱暴にドアを叩く音と(まるで今を逃すともう二度と訪れない幸福を懇切丁寧に教えてくれるみたいに)「すみません」という耳をつんざく甲高い声が響き続けて、うんざりした。けれど、やっぱり扉を開けた。

 ドア越しに僕は「なんですか?」と言った。

「ああ、助かった。隣の石田ですけどちょっと開けてもらえませんか?」と妙に早口で言われた。女性の声だった。僕は面倒に思ったが、後々嫌がらせを受けたらたまったもんじゃないので、少しだけドアを開いて半分だけ顔を出した。

 そこには血色の悪い女性が居た。彼女は僕と目が合うと安堵したように微笑んで―しかし、しっかりとドアを掴んで―こう言った。

「ちょっとこの子の面倒見てくれませんか?」

 女性が立っている位置からずれると下を向いた女の子が居た。くたくたになった白菜のようなシャツ来ている少女は、顔を上げて僕の方を見たが、その目は髪の毛で隠れていて、嫌な感じがした。僕はチェーンを掛けたまま顔を出せば良かった後悔した。

「嫌ですよ。この後、用事があるんです」

 女性は張り付いたままの笑顔で(それはきっと僕の都合を受け入れないという意思表示)濡れた犬が身体をゆすらせて飛沫を飛び散らせるみたいに、首を横に忙しなく振った。大げさだ。

「でも、そこをなんとか、お願いします。そうだ。お金を払います。そうすればいいじゃないですか。ほら」

 女性は、そう捲し立てて財布から津田梅子を出した。それを僕に無理やり握らせて、女性は立ち去ってしまった。酷く熱い手だった。女性の背中が視界から消えて、老朽化した階段の音が軽快に響いた。僕は正面に向き直り、女の子の後ろにある陰影のある入道雲を見た。「ねぇ、僕ってどうしたらいいですか?」

 ちょうど女の子のお腹が鳴ったので、そういうことなんだろうなと納得した。とりあえず朝ご飯はまだだったから、まあいいかと思うことにして、女の子を家に通した。実際、一人で食べる食事より、二人で食べる食事の方が安心する。一人で食事をとると、自分の咀嚼音が嫌に聞こえて、あんまり食べ進めることができないし、二人だったら会話でもしながら食べれるし、咀嚼音は気にならなくなるのだ。

ほとんど新品に見える(真っ白)スニーカーを脱いだ女の子は素足でフローリングを歩いた。僕は、彼女の湿った足跡を見て、眉間に力が入った。僕の家は砂浜でもなんでもないから素足で歩くのは止めて欲しい。折角、きれいに掃除したばかりなのに。

床にはゴミが落ちてはいるので、スリッパを薦めた。けど多分、砂浜も素足で歩いたらケガするぐらいにゴミが落ちているかも。綺麗な海を見てゴミを落として帰っていく人もたくさんいそうだ。

「パンでいい?」

 僕はパンをグリルに入れてから聞いた。

「大丈夫です」

 それは遠慮なのか、パンでも構わないという意味なのか分からなかったけど、お腹が空いているようだったので、パンを焼いた。美味しいパン屋の美味しいパンだ。焼いて食べた時の匂いが違う。

 

ご飯を食べ終わったら、女の子を家に帰すと決めていたが、ぽつぽつと会話をするうちに(女の子は綾という名前だった)、彼女の家はもう鍵が掛かっていて、しかも彼女は家の鍵を持っていないことが分かったので、結局遊びに行く約束を断るはめになった。その連絡を入れると、遊びに行かないなら代わりに学籍番号を教えろとメッセージが来たので、LINEで送っておいた。

そのまま手持無沙汰なまま、ぼんやりしているのも居心地が悪かったので僕は彼女に小説を渡した。それに、なにか地雷があるかもしれないので迂闊に女の子の事を聞けないのだ。けれど、活字だけだとつまらないからと言って断られた。次に漫画を渡した。これは好感触だった。なにはともあれテレビを点けなくて済んだ。昼過ぎのテレビはあまり見たくない。

「それで、いつまで居座るつもりなの? お母さんはいつ帰ってくるの?」

「さぁ?」綾の視線は、僕の顔の上を彷徨っていた。「わかんない」

「そうなんだ」寂しい家族なんだろうな。食事の席で誰も言葉を発しないような。いや、そもそも家に人が居なさそうだ。「面倒なことになったなあ。面倒だなあ」

 綾は口角を上げていたが、それはひきつった笑みだった。

「なんか、ごめんね。新しい漫画、借りてこようか?」

「いらない。ねえ、スマホ貸してよ」

「嫌だよ。なんで」

youtubeみたいから」

「やだよ。我慢してよ」

「えー、つまんない。Youtubeの代わりに、あなたが面白い話してよ」

 僕は嫌な気分になった。サークルの先輩に同じことを言われたのを思い出したのだ。

「そんなの知らないよ。僕は君のことをあんまり知らないし」

「じゃあ、私がお手本を見せてあげる。まずね、時代は江戸。飢饉に襲われた村人たちが食料を求めて移動しているの。これは隠された歴史の話。米騒動によって隠された歴史」

 隠された歴史と聞くと、どうも胡散臭く感じる。やっぱりそういうのを読みがちな年頃なのだろうか。都市伝説とか、成り上がり物語みたいに、そういう俯瞰している気分が味わえるだとか、信じることで救われる物語だとか、そういうのが欲しいのだろうか。それ以外のものを求める事すら知らないで、ただ満たされないという理由だけで、それを求めるのだろうか。だけど、そういう物語に霊性があるのは認めざるを得ないけれど。

米騒動はヒーローの物語なんだけど、日の当たらない歴史もあるのよ。そう、続きはこう。お腹が空いている人間はお役所にカチコミをしようとも思わないわけね。そりゃあ大塩平八郎が起こした後はそのビックウェーブに乗る連中もいただろうけど、その頃は誰も役所を襲おうなんて発想がないわけ。ここからが面白い所、ちゃんと聞いてね。この食事に飢えた人たちはどうしたと思う? ふふふ、もちろん農家の家を襲ったのよ」

「それって本当?」

「さあね。でも、これは嘘ではないわ。ご飯に対する欲望が、あんまりに大きいもんだから、農家を潰すのよ。農家も農家よ、本当はご飯があるのに、ないなんて嘘ついたから。それに気が付いた飢えた人々は嘘をつかれた、という事実から裏切られたと勝手に物事をふくらませて、正当化して襲うの。裏切られて自分は可哀想だからって正当化して。ね、ちょっとおもしろいと思わない?」

「うん、ちょっとだけね」結局、面白い話じゃなくて、ちょっとだけ面白い話だった。

「でね、この話には続きがあって、農家には一人娘が居てね、その娘は周りから嘘つきだって言われたのよ。嘘つき人間の子供は、嘘つきだってね。けど、その子を生かしたのは農家じゃなくて、襲った人たちなの。こんな幼い子は殺せないって。そんな中途半端に人間性を大切にしようと思わなくてもいいのにね。それで、その娘はいじめられ続けて、死んだって話」

「でも、その話はフィクションなんでしょ?」

「信じるも、信じないもあなた次第って感じ。けど、私はそれを知っているし、もしかしたら本当かもしれない」

 どんな感じか全然わからなかったけれど、なんとなく「綾ちゃんはコラムニストにでもなれそうだね。ほら、新聞の隅っこの方の」と言った。彼女はちょっとだけ嫌そうな顔をした。

「じゃあ次、面白い話をしてよ」

「いいよ。面白いかどうかは分からないけどね。昔いじめられていた子が居た」

「それ私のパクリじゃん」

「いや、最後まで聞いてよ」綾は一応頷いた。「その子はラノベを読んでいて、ああモンスターハンターね。それでクラスのサッカー部に聞かれたんだよ。何読んでるのって。けど中々答えられないわけ。挿絵がおっぱいだからね。全然応えないもんだからサッカー部の奴は痺れを切らして無理やり取り上げた。それでパラパラ捲るとおっぱいがあるわけじゃん。あっ、そうこれは中学生の話ね。それも一年生の七月とかそれぐらいの」

「ねえ、その話って本当に面白い? 絶対面白くないと思うんだけど。しかもセクハラ」

「え、セクハラになるの?」

「いや、分んないけど」

「で、おっぱいに興奮したサッカー部の輩は教室中にエロ本持って来てる~って伝えるわけね。周りも、えっ! エロ本? 猛者やん! キモッ、とかそりゃあもうバズったわけ。一年五組のトレンド一位を獲得した子は、恥ずかしさのあまり泣いた。歯を食いしばって声を噛み殺してね。ああ、顔が赤かった。それが羞恥なのか怒りなのか分からないけど。しばらくして先生が来ると、話し合いが行われた。先生は最初、またサッカー部の奴が変なことしたんだと思っていた。でもその小説をパラパラ捲るとおっぱい。これには教師としてどう振る舞っていいのか分からなくなったみたいで、そう、つまりここでおっぱいを容認するのは教師としてどうなんだろうっていう葛藤があった。サッカー部の輩が、あんなに騒ぎ立てなければ、もっと穏便に済んだっていうのは先生も分かっていたはずだ。そして、モンハンのノベライズを読んでさえいなければ、こうならなかったことも知っていた。で結局、警告で終わり。イエローカードさえも出されなかった」

「ねぇ」綾が何か言いたそうにこっちを見た。その苛立ちを隠さずに睨み付けられていたが、僕は「大丈夫」と言った。

「ここからの展開は綾も気に入ると思うよ。辱めを受けた子は、それでも学校に登校し続けていた。筆箱を隠されたり、教科書に油性ペンで落書きされたり、上履きを身体にぶつけられたりしてもね。神様がそれを見ていたのかもしれないね。そして、体育の授業でサッカーをすることになった時、自分が、あの輩よりもサッカーが上手いことに気が付いた。さあマウントが取れるぞ、ノコッタ、ノコッタ。まさかあいつがっていう感じでクラス中が色めき立った。授業が終わると、あの輩は一緒にサッカーをやろうと誘ってきた。自分がやったことをすべて忘れたように。それを受け入れて、断れない性格の彼は、頷いた。そして、彼が活躍するようになると、彼を虐めていた子は、逆に虐められるようになった。取り巻たちにね。そして、その子は自殺した。それを知った時、涙が流れなかった。そして」

「結局何が言いたいの?」

 話を遮って、綾がそう言った。

「やさしくなりたいって話」

「本当に、つまらない話。どうせフィクションでしょ」綾はそう言いつつニヤニヤしている。

「それを言ったら、君のもフィクションさ」

 綾はそれから、ほとんど毎日、家に来た。母親から金を預かって。僕は綾の話し相手になるというアルバイトを始めたのだ。一週間五千円。他のアルバイトもしていたけど、あまりお金に余裕がある訳でもなかった。けど、人と話すのにお金はいらないし、夏休み中の暇つぶしで金が貰えるのはありがたかった。

 その日の夜、眠れなくなって布団の中でiPhoneをいじっているとメールが来た。

 

Title 眠れないのか?

Text 最近、まさにこのメールの件名のような、章名の文章を読んだ。そこでは、モノグラフとして最初に「夢は第二の人生である」と書かれている。これは何を意味しているのだろうかと考えなくとも、そのあとの文章によって、その意味が明らかにされる。夢、つまり眠る、そうすることで全てを忘れる、そう、自分ではない何者かになることができるんだ。言い換えると自分から解放される。ちょっと考えてみてよ、よく言うじゃない。この人生の主人公は貴方だって。けど、物語の主人公になることはさ、本当に耐えられるのかなって。僕は耐えられないね。他にも、例えば低賃金で働いている人とかブラック企業で働いている人、やりたくないことをやっている人、前科者、そういった人たちは、人生の主人公になることは、ひどく苦しいものだと思ってしまうんだ。つまりは、自分の人生の先行きの見通しがつかない、あるいはどんな人生を歩みたいか(つまりは向上心だね)、っていうのが既に苦しみで溢れていると思うんだよ。あとは消したい過去とかね。そういうのを引き連れて生きるには、忘れたいって欲望はあると思うんだ。それに、未来が明るいものになるだろうかと考える時、あんまり良いイメージが浮かばないんだ。だからといって暗いままでいいとは思わないよ。それにきっと明るくなろうだろうしって思う。けど、とても楽観しすぎている気がするんだよね。僕自身、このネガティブなところは直したいなあと思ってる。ああ、ちょっと話が脱線したね。ごめん。まあ、なんにせよ、自己責任から逃げ出したいね。もう書くこともなくなったから、眠れない夜にピッタリな曲を見つけたからリンクを貼っておくね。今、ねれなくて困っているんだ。もし、君も眠れないようなら、返信をくれ、仲間がいると思うと、すこし安心できるから。

https://www.youtube.com/watch?v=mb2sX76tZwU

この曲はさ、子供の頃に戻りたいって感じだね。面白いのは自分の人生が嫌なのに子供の頃には戻りたくて仕方がないってこと。少し考えてしまわないか? スマホとかLINEがあるのに仲の良かった同級生に連絡を入れようとも思わないのは、どうなんだろうって。今が楽しいってわけでもないなら、昔の友達と連絡を取ってもいいはずなのに、行動しないんだ。

 

テキストを流し読みしてからLINEで「なんでわざわざメールを送って来たのか」と尋ねると、操作方法とかの確認ということだった。絶対嘘だと思ったが、PSGの『寝れない』のリンクを送っておいた。ベランダで煙草を吸った。どうせ寝れないからコンビニでも行こうと思った、酒でも買ってこよう。眠くならなかったら眠らないで飲み続けて、眠くなったら眠ろう。

 

 

八時過ぎに目が覚めてからパンを買いに行こうと、サンダルに素足を滑り込ませてから、パン屋がつぶれたのを思い出した。それでもなんとなく外に出た。パン屋がないならコーヒー豆を買いに行こう、と思ったのだ。身体に染みついた習慣は、それが重要でないからこそ、なかなかなくならない。だから外がうだるような暑さであっても、Tシャツを肌に張り付けながら、財布と小説を持って、途中自販機で買った缶コーラを飲みながら商店街を真っすぐ突き進むことができる。そこではできない理由を探すことはない。だって、簡単にできるから。

 帽子を被った主婦と仮面ライダーのTシャツを着た子供が手をつなぎながら、微笑みあっている。その親子は僕とすれ違いかけそうになったら、コンビニに入った。音もなく開かれたドアは涼しい風を僕の足元に届けた。アーケードを子供が駆け回っている。夏休み、良い響き。僕は中学生の頃いじめられていて、あんまり外に出るっていうのをしてこなかった。そういう時は夏休み中が一番、外に出れないのだ。彼ら彼女らといつどこで遭遇するかと足が全くつかないから。けど、もしかしたら生きるっていうのも大抵そういうものなのかもしれない。競争原理の下で、いつ誰から、何から襲われるか分からないまま、ただビクビクおびえながら、自分の身を守ることに集中しなければならないし。まあ、だから、僕の横を風みたいに走り抜ける子供たちが、どことなく羨ましく映った。

 前進しようとするたび、疲れを訴えるように背中が丸まっていき、ゾンビのように足を引きずった。もう耐えられないと思った時、ちょうどパン屋があったところに着いた。テナント募集の張り紙がガラスに張られていた。青い塗装と「ロックストーンベーカリー」という店名は、もう全て白く上塗りされていて、本当にパン屋がつぶれたのだと教えてくれる。あのパン屋で働いていた人はどこにいったのだろう、サクサクメロンパンがもう食べられないのかあ、だとか考えていたら、自分が勝手に物語を探して、勝手に感傷に浸ろうとしているように思えたので、あまり気にしないように歩き直した。そこに悲しさはないはずで、ただパン屋がつぶれただけ。けれど、あのパン屋は美味しいと評判だったし(確かに美味しかった)、それを聞いた店主も悪ノリで「美味しいパン屋です」と書いたポスターを店内に張っていた。テレビに取材されたこともあった。

「パン屋がなくなるのは寂しいね」と背後から帰を掛けられた。振り返ると男が居た。夏の暑さにやられたのか酷くやせ細っていた。

「そうですよね。美味しかったのに」

「けど、パン屋なんて今時、どこにでもあるし。けど、やっぱり、ねえ」

「なんで閉店したんですかね」

「ああ、これは噂なんだけど」

話を聞くと、誰かは知らないけど、「全然美味しくない。これは詐欺、店主は嘘つき」というクレームが入ったらしい。ついでに訴えられたらしい。掲示表違反。「ごたごたして、いろんなことが嫌になったんじゃないかな? なんでも娘さんもいじめられて不登校になったとか」

見慣れたコーヒー豆屋の前まで来たら、やっと涼めるとと思い涙が出そうなほど嬉しかった。正直、外出したのは失敗だった。そもそもドルチェ・シマノフスキは商店街を抜けたところにある豆屋で、こんな暑い中、歩いていこうと思った自分は本物の馬鹿だと思った。

 店頭には空の樽とシルバーのビアンキが置いており、一目でコーヒー屋だと分かるように、濃い茶色の外壁だった(いや、そういう理由じゃないとは思うけれど)。この辺まで来ると人も少ない。トラックの走る道路の高架下をぬけるとオフィスビルが立ち並んでいる。芝生と点在するいくつかの木々。ドルチェ・シマノフスキの少し向こう(高架下の手前)にはコンビニがあり、そこで夏休みの子供が自動ドアのすぐ傍で遊戯王デッキを開封している。「公園行こうぜ!」と言っているのが聞こえて、なぜ家で遊戯王しないのか理解できなかった。外で遊戯王? 絶対蚊に刺されるし暑いのに。

考えても何もならないので(正直、熱さに耐えられなかったの方が動機として強い)ほんの少し重たい扉を押して中に入った。店内では、かの名盤であるケルンコンサートが流れていて、やっぱり今日は豆を買いに来てよかったと思った。この名盤はキースジャレットの唸り声が入っているのに旋律は氷みたいに透明で固くて好きだ。初めて聴いた時に耳からつららが突き刺さるような衝撃があった。この店主と、やっぱり波長が合うと思った。大学に入学してから、自宅周辺をぶらぶらりしていた時、初めてドルチェ・シマノフスキに入ったらザ・デイブ・ブルーベック・カルテットのロンドが掛かっていて妙に親密に感じた。それ以来、この店は僕のお気に入りだ。

店主が焙煎をしている間、僕は持って来ていた小説を読んだ。正直、全く集中できなかったが、店内でぼーっとしているのも、間抜けなので文字の上を滑っていた。ページを捲ると、内容が繋がらなくて、またページを戻すといったようなことを何回か繰り返していると、店主がコーヒーと三粒のナッツを僕の前に置いた。焙煎が終わるまでの間のちょっとしたサービスだ。

僕は出されたコーヒーとにらめっこをして(それはホットコーヒーだった)、おそるおそる口を付けた。やっぱりおいしい。一度、ちゃんとしたコーヒーを飲むと、中々インスタントコーヒーには戻れない。大してコーヒーが好きでもないのに、そうなってしまうのだ。こだわりがある訳でもないが、どうもインスタントがまずく感じられるようになる。僕はナッツを手に取った。もしかしたらナッツと夏を掛けているのだろうかと考えたが、さすがに深読みしすぎだと思い、口に放った。それを噛みながら、また文字の上をつるつる滑った。

「そういえば、どうしてパン屋なくなっちゃったんですかね」

 クレジットカードで会計をしている間、僕は店主に尋ねた。

「ああ、なんでも石田さん、いや、店主のお父さんの介護で首が回らなくなったらしいよ」

「え。けど、あの人、四十代ぐらいなんじゃないんですか? 見た感じだとそうだと思ったんですけど」

「違う違う。痴呆になったんだよ。それに一人っ子だし、嫁さんは子供連れて逃げちゃったらしいし。ほんとこれからどうするんだろうね」

 店主は同情したようにため息交じりにそう言った。ビニール袋を手首にかけて、クレジットカードを受け取り、「じゃあ、また今度」と言って家に帰った。iPhoneで時刻を確認すると、もう九時時になっていた。僕は歩を速めた。

所々、錆びて塗装がはがれた階段をわざと音を立てて登った。サンダルだといい音が鳴らないのに気が付いた。

 404号室(それは104号室。誰かが落書きして4になっている)をノックしてから隣の自分の家の鍵を開けた。夏の日差しを受けたドアノブは刃物のように鋭く光っていた。その熱を我慢して回した。中に入り、むんとした空気を追い出そうと、窓を開けて扇風機を点けた。僕は買って来たばかりのモカブレンドをコーヒーミルで挽いた。コーヒーメーカーにフィルターと豆をセットし、水を入れる。焙煎したばかりの豆のせいで部屋の匂いが変わった。換気扇を回す。

 僕はスーパーで安売りされていたパン一斤をオーブンの上から引っ張り出し、刃がギザギザのフルーツナイフで適当な厚さに切り、(本来は魚を焼くための)グリルに入れた。片面二分、もう片面一分。その間にグレープフルーツを切ろうとしたけれど、生憎切らしていたので代わりに檸檬を切ることにした。きっと目が覚めるだろう。あの流行の音楽に則って二つに切り分けた檸檬の断面図は太陽みたい、と呟いた。そういえば、なぜ子供の中には黄色い太陽を書く子が居るのだろうかと思っていると、ピーっと音がした。パンを裏返して、もう一分だけ焼く。赤色とかオレンジ色とか、いろんな太陽があるのだなあ。きっと多様性なんだろうなあ。

 ふと思い立って冷蔵庫から檸檬をもう一つ取りだして、居間に戻る。本棚から適当な小説を取りだして積み重ねた。その上に檸檬を置いた。色とりどりの背表紙の一番上に檸檬がある。全く微動だにせず、彫刻みたいに見えた。現代アートか? 意味が捕まえられない。ここは丸善ではないから爆弾にはならない。またグリルが僕を呼んだので、台所に戻った。パンを取りだしてミッフィーの小皿の上に置いて机の上に並べた。ちょうどいいタイミングでコーヒーメーカーが僕を呼んだ。そうして、アイスコーヒーにしておけばよかったと後悔した。けど、もうどうしようもないのでマグカップに注いだ。本棚から適当な小説を取りだしてコースターの代わりにする。今日は新潮の怒りの葡萄(上)(下)だ。何度も使ったせいで茶色い輪が濃い。どうせ売らないからどれだけ汚しても構いやしないのだ。

さぁこれで準備は終わりという感じで玄関を見た。けど、ブルーベリージャムを出すのを忘れていたと思って、冷蔵庫から取りだして必要な分だけ小鉢にあけて、それをテーブルに並べた。転がった檸檬、パンでミッフィーが隠れた皿、それとジャムの浸った小鉢が綺麗な三角形になった。ぼーっとしていると「大丈夫?」と声が聞こえた。

綾が来るまで扇風機は僕の方へまなざしを向けていたけれど、彼女が来ると首を回した始めた。僕と彼女を交互に眺めて、間違い探しをしているみたいに。

テーブルの真ん中に経っている小説の塔は僕と彼女の視線を遮っている。だから僕は綾の顔を見なくて済んだ。

「もうそっちは夏休みが終わるんだね」

 焦げが目立つ方のパンを齧りながら僕はそう言った。

「うん。けどずっと夏休みみたいなもんだったし」

「僕もずっと夏休みが続けばいいなと思っていた時期があったよ。高校性の時は」

「そうなの?」

 ちょっと上擦った声が聞こえた。

「中学生の時は最悪だったけどね」

「知ってる」

 今度は落ち着いた声。

「ああ、そう? ごめんね」

 本当に知っているかどうかは、曖昧だけど、とりあえず僕は謝った。

「ところで、この小説塔は何?」と向こうから声がしたので「なんか物語が嫌になって積み上げてみた。馬鹿みたいでしょ? こうやって集めて積んでみたら全く意味が見当たらないんだもの。どう? なにか意味だとか可能性を掴むことができる?」と身体を右に傾けて言った。けど綾の顏は見えなかった。きっと反対側から、こちらを伺っているのだろう。

「ぜんぜん。まあ想像力が働かないっていうのは素敵かもね」

 その時、揺れた。なんてことのない、ただの地震だった。檸檬は僕の方へ落ちてきた。綾は立ち上がって小説塔を上から押さえつけていた。揺れが収まってから彼女を見ると、目が潤んでいるのに気が付いた。何かが崩れたと思った。

「髪、切ったんだね」

黒い眼鏡の縁の上で綺麗に揃えられた眉毛があった。蝶の羽休みのようにゆっくりと瞼が閉じられた。

「うん」

彼女はピースサインを作って人差し指と中指で前髪を挟んだり、挟まなかったりを繰り返した。僕は「大丈夫だよ。きっと。それに人生は嫌になるぐらい長いんだ。だから想像して不安になっても、別になんともないんだ。それにたまに良い事が起こる」と声を掛けた。綾は僕を見て笑っていたものの、いつものチックが起こっていた。

「余命でもついたら、もうすこし頑張ろうって思えるのかな」

 消え入りそうな声が蝉の声に混じって聞こえた。

「さ、食事を再開しよう。僕が中学生の頃、初めて親に打ち明けた時、たくさんご飯を作ってくれたんだ。そこから分かったのは、食事がとても大切だってこと。お腹が膨れれば少しは満たされた気分になるんだよ」

「けど、だったらもっとちゃんとした昼食を作ってほしいな。こんなささやかなものじゃなくて」 綾は独り言ちた。「せめて今日ぐらいは」

 その先の言葉は発せられなかった。

翌日の昼もなんとなく家に居た。一応404号室にノックをしたけど、綾が居ない代わりに母親が居た。赤い目だった。その後スーパーでたくさん食料を買い、今までで一番のごちそうを作った。僕は親がなんでご飯を、ごちそうを作ってくれたのか分かった気がする。僕が辛いのを励まそうとして、ごちそうをたくさん作ってくれたのもあるが、本当は両親も同じように勝手に傷ついていたのだと。

 

 

反省点 食事・物語を基軸にしようとしたが、結局、なんにも可能性を生み出せなかった。話の整合性も全然ないしーただ、死んだだけになってしまったし、もっと突き抜けるのがいいなあ。あと、描写で同じ言葉を使いすぎ。上手くなりて~。リアリティもないし。一万千文字くらい。二万文字ぐらいかけるようになりてぇ~