遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

クリスマス

 クリスマスイブもクリスマスも特に変わったことはない。だからといって不満があるわけではないんだけど、やっぱり恋愛ムードに絡めとられて、苦しくなる。ぶっちゃけ好きな人もいないので、関係ないと言えば関係ないんだけど、このビックウェーブに乗れていないと感じてしまうので、とりあえずリア充爆発しろ、みたいなスタンスを取りがち。本心では特に興味がなくとも、孤独をどうしようもなく感じてしまいそうなんだよね。恋愛をしたいんだけど、やっぱりそんな気にはなれない。徐々に距離を近づけていって好きになるってことはほとんどないんじゃないかなとか思う。いい人やなって思う女性がいても、まったく恋愛対象として見ることを拒否してしまう節がある。それは相手を自分との関係で見ようとすることで、それは他人に形容詞を付けるのと同じように思う。可愛い○○とかカッコいい○○とか優しい○○とか、そういう先入観があまり好きではないのかもしれない。なぜかは分からないけれど。もしかしたら他人に期待したくないのかもしれない。別に裏切られたことはないんだけども、そういう役割を相手に期待しているようで、自覚したときに苦しくなる。けど、そういう形容詞は実利的だから、無自覚にやっているかもしれない。それに、そういう形容詞がなければ、自分と似てない人と付き合う時、居心地が悪そうに思う。

 

 去年は二人でもロンリーナイツっていう小話を書いていたので、クリスマスに間接的に参加している感覚があったけれど、今回はそれどころじゃないので、余計に寂しくなるね。ある意味で社会参加なのかもしれん。でも最近、クリぼっちでも誰かと一緒にいることは可能になっているなとすごい思う。Vtuberの配信もクリスマスムードで、クリぼっちの人間たちがごまんといる中で、リアルタイムで同じものを見ていていると思うと孤独も薄れるのかも。けど、ガス抜きみたいなもので、配信が終わると、誰もいなくなる。孤独を薄れさせるためにリアルタイム放送を見に行くことは、結局現実世界の孤独を癒すことにはならないと思う。慰めに過ぎない。そう思ってしまうのは、あまりよくないと思うが、根が暗いからそう思ってしまう。

 

 四年生になって最後のサークル参加として、仲のいい三人で共作をしようと思ってる。最初はやる気があったが、着地点がないので、ばらばらになりつつある。それと同時に、書いてみたいなっていうテーマと文体を構想することの困難を感じる。そもそも5作ぐらいしか書いてない時点でお門違いなところもあるが。身の丈に合った小説を書くべきだと思うが、変にうじうじ虫みたいな小説を書きたくないし、興味がなくても読み進められる小説が書きたいが、いまいち掴み切れない。一人称であり三人称である語りをしてみたいなと考えているが、それを過去の語り直しという形ではやりたくない。過去の自分を「彼」と呼ぶこと自体、私小説的でちょっと反発心がある。実際、私小説をやることよりも、ニムロッドとかコンビニ人間とか、そういう新しい社会の見方みたいなのを提示する小説の方が必要だと思う。まあけど、文章がうまければ読めるねんな。けれど、現在軸で自分のことを彼と呼ぶことを文章に落とし込む際に、二重人格とかにはしたくないので、そのバランスが全くつかめへんねんな。自己責任を回避するための、自己嫌悪を回避するための、劣等感を回避するための手段として、自分のことを彼と呼ぶ。それがやりたいこと。前のごみみたいな小話も、それを試みたけど、うまくいかなくて、締め切り過ぎてからなんとか誤魔化そうとして、マジもんのごみになってしまった。まあ語り方もよくなかったかもしれない。焦点化がうまくいかなかったし、社会の視点が欠落している。家族の中しか書かなかったので、その分うごきも弱く、文章もうまくいかなかった。だから、まあやりたいことだけれど、まったく文章力というか小説の構想の能力が全く足りていないんだなあと思うので、そもそも大学生活中に焦ってやろうとするのもよくないのかもしれないなって思うので、共作する時に、このアイデアは没にしようと思っている。ちょっと我が出すぎていたかもしれないなと反省。だから共作するけれど、ちゃんと話し合いをしなきゃいけないなあ。

 

 そもそも、この自分のことを彼と呼ぶ、というアイデアには元ネタがある。ギュンター・グラスの「玉ねぎの皮をむきながら」をブックオフで見かけ、最初の一行を読んだとき、電流が流れたともいうべき衝撃があった。なぜなら僕が考えていた一人称・三人称についての始まり方をしていたからだ。ここに引用しよう「今日、自分のことを三人称の【彼】と見なしたいという誘惑は、これまでそうであったように、魅力的なものだ」。さて衝撃的な書き始めにより、1500円という恒常的に貧困状況にある僕にとっての高級品、普段なら絶対に手を出さないはずの価格にも関わらずハードカバーの本を片手にレジへと向かった。それは子供のころにDSを母親に買ってもらった時のように意気揚々としていた。そして家に帰るまでの間に読み進めると、それが自伝作品であることに気が付き、落胆したのだが……。まあ、自分のことを彼と見なすこと、それはグラスがナチスの秘密組織に属していたことに対する罪悪を自身のものとして引き受ける決意の表れとだとは思うが、僕はこれを現代における自己責任を(自分を彼という存在に置換し、相対化し)アイロニカルに回避する方法として捉え、そこから始まる匿名性の中で生まれる新しい人と人のつながり方として再構成したいと考えている。

彼という存在が名前がない状態であるということ。あくまで指示対象でしかないこと。それと手の震えや風邪など、身体にはすでに予測したとしても完全に制御できるわけではない他者にも似た兆候がうかがえる時があること。それら。だから対面する他者を恐れるわけでなく、自らのうちに他者を認めれば、いいんじゃない?みたいな(ふわっとしてるけど)考えが言いてぇ~。どのように他者と向き合うかと考えるときに、むしろ自分の中に他者がいることを自覚することで、他者にとってはまた自分も他者になると言う論理を拾い上げてぇ。そうすれば、感動ポルノも起きないだろうし、ネットリンチを乗り越えられる気がする。ああいうのって許せない他者を裁いているというか、異質な他者に対する反応だと思うから…。そもそも他者は異質なもんだけど、ここでは自分とは違う人みたいなイメージで使っている、同じ趣味とか同じ価値観とかをもつ他者も異質さはあるんだけど、同質的でかえって村社会を形成して、結局、違うコミュニティと対立しがちだし。性的イメージを喚起するみたいな炎上も、ぶっちゃけそれに似た何かを感じる。性的なイメージを喚起させると言われてみればそうかもなとか思う時は確かにある。漫画とか表現物について触れているいるっていう前提から、だから性的なものは良くないっていうのと、だから性的なものも可能性があるっていう二つの論理はどちらも導き出せるだろう。でもそれは、正誤の判断をする基準がなくなったことと繋がると、平行線な気がする。まあだから対話しようと思っても、そもそもの語彙の種類が違いすぎる気もするが。

まあ~何が言いたいのか分からんくなって来たけど、自分の中に他者を認めることで、そういう異質さに対して寛容になっていきたいよねって話だっけ?

わからん。