遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

ゴミ3(放棄)

 私の読み終えた小説の内に誰しもが共感できる文章がある事に皆は気が付いているだろうか? 百万部売れた小説の読者の内、どれほどがこの事実に気が付いているかは定かではないが、自分こそが人間という動物の全体であると錯覚させる後悔に満ちた言葉。大切な人が死ぬという、あまりに普遍的で、きわめて個人的な出来事のうちに、私は先験的な共感を示す。

読み終えてから感動のあまり、一人で食べる食事の席でさえ落ち着きを失い、箸やフォークといった道具を使わずに手で熱々の生姜焼きを口に掻っ込んだ(それはレンジでチンされたもの)。失われた熱を取り戻した肉が食道を通り胃に留まる感覚に、満たされた私は、満たされるという事自体に対しての反発心から、井戸に身を投げるように、一つの方向性を持った、抗えないほどの渇望を求める。

午後九時を回っても、未だ収まることを知らない熱に浮かされ、不意に今日は眠ることができないと分かった。そうして、私は初めて酒を買う決意をした。それは眠るための滑走路を用意するという意味のみならず、その熱をアルコールによって忘れるためのものであったはずだった。

薄暗い道を歩きながら自分が子供ではないことを理解した。小学生の頃は夜道を一人で歩くことなかったし中学生の頃は一人で歩くのは怖かった。しかし高校生になった今、歩いていると夜道の気味の悪さは薄れていた。

年を取ると、お化けや暗闇よりも、無能感や発生源のハッキリしない不安や、もっと身近に恐怖があること知っているからこそ、恐れを恐れるのだろう。しかし、と私は思う。しかし、あの感動物語の主人公ならば、恐れはしない。そして現実を受け入れる。最早、決定されたものであっても、それを受け入れる。もし、余命自体がなくなるという話の筋であるならば、私はこれほど勇気に満ちはしない。歯の痛みのように、どこかで治癒されるとすっかりなかったことにならない。この感動は後に引く。

民家のある道を抜けると田植えの終わったばかりの田園が光を反射して辺り一面の暗闇が和らいだ。点々と続くLEDの電灯やラブホテルのデジタルサイネージから発せられるピンク色の光が水面で跳ねて私の影を自転車収集場のトタン壁に張り付かせた。

コンビニにつき、なん十種類もあるアルコール類から私が選んだのはハイボールだった。コンビニの店員はただ奥に居る仲間との会話を再開させたいらしく、私の顔を見ることもなく手早くバーコードを読み取った。そして私は道中でストロングゼロ500mlを飲み切った。自分の足取りがおぼつかないことが、私を興奮させた。そう、私は酔っているのだ。

家につき、灯りの付いたリビングでもう一本、新しい酒を飲んだ。段々と私は解放された気分になり、裸になった。裸になると、風呂に入らなければならないと思い、実際に風呂場にタオルを持って向かった。

風呂場のむんとした空気の中で呼吸を繰り返しながら喉が痛むまで歌い続けた。それは明日になる前に、この他人に与えられた感動を自分自身が体験したものとして消化するための儀式でもあった。与えられた感動を一度、自身の中に取り込み、それを断片的に私は彼だったのだと、あるいは感動した! と自分自身に言い聞かせるような声だ。おそらく翌朝、登校する際に付近の住民たちは昨日の下手な歌声は私のものだったのだと理解し、意地の悪いほほえみを向けられる(自分も過去、そのような感情に襲われたことを懐かしむような)。しかし、私は酒に酔っていたと、自らの行動に理由を与えることができる。そして、確かに私は酔っているのだ。

余命の付いた女の子(顔は可愛く余命によって与えられたしなやかな性格)との共生を描かく平坦な物語は常に訓示めいた思いを呼び起こさせる。大切な人は死ぬ、だから、その時が来たら素直に受け入れるためにも毎日を頑張って生きよう、という。余命宣告された人と付き合っているという認識の下で、私は友達や両親や好きな人とキョウセイしよう。頭の中でキョウセイという語感が嫌に響き、それを誤魔化すために、私は掻きむしってシャンプーをした。そして頭から穢れを流し落とし、いくらかサッパリという感覚で、蛇口を捻って、水を止めようとしたが、さっぱり止まらなかった。さっぱり訳が分からないので、もう一度カランの方へと回すとシャワーは止まり、蛇口から冷たい水が出てきた。それが地面から顔を出した木の根のみたいに歪んでいる私の足の指に直に流れ、たまらず私は呻き声を挙げた。噛み殺した絶叫は風呂場に響き、やがて倍音がかった鼓膜にするりと入り込む音に変化し、その心地のよさに酩酊した私の身体は横へと傾いだ。慌てて浴槽の縁に縋ったが、つるりと滑り、私はそのまま湯の中へ滑り落ちた。

 

目が覚めたまま目覚まし時計のアラームを切った時の私は、昨夜の転落によって生まれた腰の痛みのせいで夜の表層を味わう羽目になり、浅い眠りをねむりつづけた人間にありがちな諦観で満ち満ちた倦怠を感じながら、朝練がなくなればいいのにとぼんやりと雨を待ち望んでいた。そうすれば、動かずに済むのだから。

寝返りを打つたびに痛みが意識を引っ張り上げるので、カーテン越しのチェックの日差しが布団の上に映し出される頃、むくりと起き上がった。それからカーテンを開いた。微かに人の音がした。両親は既にリビングで朝のニュースを聞き流しながら黙って朝食にありついているのだと察した。

──誰も喋らない朝。

それは明確な意思を持って言葉を発さないというわけではない。ただ、話したいと思えないから、話さないのだ。その消極性は、私にはどうしようのないものである。決められた席に座り、両親に語り掛け、それが誘い水となって幼少期の家庭を演じ直すことはできないのだ。だが、寂しい家族だとか、冷たい人間だとか悲しい言葉を当てはめて片づけたくはない。そう、おそらく二人は正直なのだ。好きだった人間を、好きでいられなくなったのを隠すことができないのだ。自身に嘘をついて相手を好きであると思い込むこともできない。つまりキョウセイはできないことを理解している。そう結論付けると、胸のあたりがスースーしたので小説を読もうと思った。あの心温まる感動の物語。そこでは私を大切にしてくれる人がいて、私を引き留めてくれる友達が居て、思い悩んだらそれを察して声を掛けてくれる両親が居る。あり大抵に言えば、私は感動物語の主人公になりたい。私は私の物語の主人公になりたくないのだ。私の物語に幸せが訪れることはない、と私が思っていると、私は理解した。なぜ私は、そう思ってしまうのだろうか。

連想──自分の物語に嫌気がさしたとこと。私が乙倉さんのことを好きだからだ。あのマネキンのような手足が長く、身長も高い乙倉さん。それでいて顔には絵のような美しさがある。人形。あの陶器のような肌に指を這わせることができるのならば、私は人形を通じて、その感触を確かめることによって、他のあらゆる物事を頭から消し去ることができるはずだ。没入。滅多に訪れる事の無い、思い返した時に至福であったと思い当たる時間。過去。現在とは切っても切れないものであって欲しいが、現在と過去は繋がらない時がある。

回想──高校校の入学式に遅れてやって来た乙倉悠貴は、同じく寝坊した私を見て湖畔の花々のように、てんでばらばらの癖に統一性のある微笑みを浮かべた。それは色とりどりであるのに、畔という場所性を与えられることによって、すっと腑に落ちる光景へと変化し、今思うと、あの笑みは乙倉悠貴という人格によって落ち着くべき場所に落ち着いた、という印象のあるものだった。そして、私は仲間を見つけた安心を源とする笑みを返した。

そのような回想を経て私は、乙倉悠貴との関わりがあるという一点が、私を安定させるのだと理解した。改変された記憶である可能性を認めはするものの、その印象は最初から現在に至るまで変わることがないと確証を持って答えられる。もしも乙倉さんが物語なのだとすれば、その印象は彼女を貫くテーマであるだろう。

両親が家を出ていくと私はリビングでコーヒーを飲んだ。コーヒー豆をミルで挽いてから一杯分だけドリップし、カロリーメイトを食べた。家族のテーブルにおいて私の座席は窓側の席であったが、その席にはクッションのような痛みを和らげるものが敷かれていないので、立ったまま朝食を食べていた。窓の外を眺めると、部屋の隅にたまった埃のような雲が頭上にあった。雨が降り出していた。灰色のコンクリートが黒く染まっていく。

不意に今日は学校を休もうと思った。今日は動きたくない。そうと決めたら学校に電話を入れた。そして、今日は休みになった。風邪をひいたという嘘を言うと担任は「安静にしてくださいね」と言った。

何か特別な理由があったわけではないが、落ち着く場所が欲しくなった。学校をさぼったという罪悪感が残り、やっぱり学校に行くべきだと思ったが、今更仮病でしたなんて言った日には教師からの信用は失われるだろうから、この居心地の悪い場所が、私の居場所なのだと諦めるほかになかった。

ソファに腰かけていると漠然とした不安が私を襲い呼吸の仕方をうっかり忘れさせたが、制服を着ることによって、その不安は取り除かれ、薄い胸が大きく膨らんだのを認めると、安心して息を吐いた。私は「学校をさぼった学生」であると自身を位置づけると、同じように「学校をさぼる学生」は他にも数多く存在すると信じれたので、私は安心を抱けた。「パジャマを着た人間」だけだと、属するカテゴリーを限定できないため、不安だったのだと思った。制服を着ることで自分が誰なのか理解することができる。言い換えると自分を社会の一構成要素として位置づけることができる。眠る前の私は、誰でもなく、ひたすらに私だったが、学生服という外部から与えられたものを身に着けることで、安心した。そして心地の良いまどろみに落ちていった。

妄想──「私は私」とぶつぶつ言いながら部屋の隅の陰になれる場所で体育座りをする人間。「私は私」それ以上なにも説明できない苦しさに苛立ち、「私も私も私」増殖していき、「私は私で私だから私は私は私は私は」と窒息する。あるいは窒息しそうな宙を漂う。外部が存在することもないし、自身をより大きなものへと還元することもできない。

右に身体が傾いで、同じく右足を踏み出し自重を支えた。酷い酔いと似ていた。もういっそ眠りたいと思った。眠っている最中は、すべてを忘れることができる。私はソファに沈んだ。そして、目を瞑った。

雨は午後には止んでいた。目の前には同じようにマンションが建っているので、虹が見えるかと期待しても、見ることはできない。

インターフォンが鳴り、画面越しに乙倉さんの姿が見えた。少し浮かれると同時に、キョウセイしなければならない、という思いが私に湧いた。しかし、私は話すだけならば大して問題にはならないだろうと判断した。率直に言えば、私は乙倉さんの声が聞きたかった。

「何しに来たの?」と言った後、冷たすぎると思った。もっと暖かく彼女を迎えた方が良かった。だけど、後悔しても遅い。だけど、乙倉さんは冷たくされても張り付いた笑顔を崩さずに「ちょっと心配になって」と言った。その単純さが私を喜ばせた。そうなのだ、用件があればlineで済むのだから、誰かが家にやってくることなど稀有だった。それにも関わらず、心配という理由だけで彼女は家まで来てくれた。本当にそれだけ? そのような期待を私は直ぐに打ち消した。キョウセイしなければならない。いや、しかしキョウセイするならば、向き合うべきで私が乙倉さんを家に上げることは将来的に正しい選択なのではないだろうか? 結局、私は誘惑に負けた。

「なんだろう。家に上がる?」

「あ、じゃあ、ちょっとだけ」

 彼女をリビングに通して、お茶を出した。彼女は制服だった。点けっぱなしのテレビから怒りを滲ませた中年の演技が聞こえた。私はテレビを消した。そこで乙倉さんは私は私に言った。

「風邪なんでしょ? ごめんね、昨日のせいだよね」

「いや、本当は仮病だったんだよね」

「え、そうなの?」

乙倉さんが歯を見せて笑った。私はそこに歯列キョウセイの器具が装着されていた。私がしばらくそれを見ていると、乙倉さんの手は静かに私の手から離れて口元へと寄せられた。

 想像──今、乙倉さんも私と同じように人に見られたくない部分を持っている。誰にも見られたくないけれど、剥き出しになってしまう時があるのだ。そして、それを隠した。事実として歯列キョウセイしているのに私が気付いても、隠さずにいられない。つまり、それを恥であり隠さなければならないのだと彼女は思っている。

 

 

 

 

 母親から痴呆や延命処置を受けるような状況に陥ったのならば、すぐさま殺してくれと言われ続けてきた私は、植物人間という言葉について、いくらかの反発を持つ。