遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

ゴミ2(途中放棄)

 日差しがギンギラギン、コンクリートの上に置かれたベンチに座っているOの身体は公民館の自動ドアの開閉と同時に吐き出される冷たいため息に身を晒されて少し身震いした。

さっき買ったばかりの缶ビールの結露が熱い掌をひんやりさせる。勢い良くプルを引くとカッコンと軽快な音が鳴り、泡が飲んで欲しそうにこちらを伺う。よかろう、飲んでしんぜよう、と味わうことなく一気にあおった。次いでOは煙草に火をつけた。彼の座っているベンチは炎天下の元、夕暮れ時になった時に初めて日陰になる場所に置かれている。コンクリートの上には日陰さえも現れないが、そのような場所でおひるを食べるのをOは別段大きな障害として意識せずに、尻の熱さについても無頓着である。彼は目を細めながら横を見ると、てらてらと光り輝く人影を認めた。大空に手を伸ばしている裸の女体である。

――寓話か何かで銅像と鳥の話があるけれど、あの像は幸福だろうか。幸福な王子と名前がついているけれど、僕には不幸だったように思われる。だけど、不幸の王子が、不幸を推し進めた先の結末が自己犠牲として美化されているわけで、その美化作用を意識的に読むと、みすぼらしくなった時こそが存在そのものを美に接近させているように思わないか? それに剥き出しになった像を美術ではないとして破壊した人間を誰が責められるだろうか? 彼らも像とツバメの物語を知れば、変わらずにそこに置き続けただろう。横にその物語を書いた看板を設置して。

紙パックのオレンジジュースをビニール袋から取り出して、飲み始め、自己犠牲が美しいのではなくて、自己犠牲の過程で社会的な地位や経済的な世界から距離を取ることが神秘的な要素として加わり、つまるところ社会からつまはじきになった状態こそが美に最も近いという論理を思い出したOは、午後の講義をすっぽかそうと決めた。

――今、僕の視線に先にあるのは元・幸福の王子だ。現・不幸の王子だ。陽炎がぼんやり揺らめくコンクリートの上で身じろぎすることなく、明日も明後日も変わらずにそこにいるはずだと確信が得られる存在で、あの物語のようにそれを壊す人は、この時代にはいない。

 彼は、その考えに懐かしさを感じた。家に帰ったら母親が居て、夕食になれば家族一緒のテーブルで、自分の席が決まっている食卓で夕食を食べる。食後にゴールデンタイムのバラエティーにツッコミを入れながら食べる果物の甘さという安心。ノスタルジーが、記憶を再現し、彼は世界への信頼(明日はちゃんとやってきて、過去は記憶になるという確信)を一時的に取り戻した。そんな彼にとって、毎週月曜から土曜日まで大学に通い続けるという習慣がもたらす安心は、もはや必要がなかった。

 中指と人差し指で挟んだ煙草を携帯灰皿に入れてから、時間を気にすることなくおひるを食べていると、帽子を被った老人が隣に座って来た。加齢臭がして、彼はサンドウィッチをビニール袋に戻した。吐き気に襲われたOは、場所を変えようと立ち上がったが、隣に座った老人が「なにもいいことはない。疲れたから休もうと思ったんだけど、どのベンチも日陰にはなくて、全部、太陽に照らされている」と多少なりとも共感できることを言い始めたので「休むなってことなんですよ」と返して、老人との間に十分な距離を取って座り直した。

 老人はOの顔を不思議そうに見たが、両肘を両ひざに置き、背中を丸めて地面をせかせかと這う蟻を見つめはじめた。

「私は自分のことを悲観的な人間だと思っていたけど、吉田も同じようでいて、私よりも諦めているね。もっと希望を持った方が良いと思う。未来に期待したほうが良いかもしれない」右手の拳を顎の下に置き「でも、未来に期待しても悲しくなるだけっていうのは私も似たような経験があるから分かるけど」と、そこで言葉を止めてから迷うように「君と私とじゃあ状況が違うだろうけど」と消え入りそうな声で言った。

 老人は俯いていた。Oはしばらく老人の姿を眺めていると、不意にこの老人が像のように見え始めた。Oに訓示めいた言葉を発していたのに、知らない間に自己言及的な言葉を発している老人は、額に汗を浮かべた。

「まあ、そう言っててもどうしようもないですからね。多分行動するしかないんですよ」

「行動しても変わらないことがあるんだよ。その行動が過ちだったと反省してしまう時、分からなくなってしまうんだよ」

「美化できないんですか?」

「美化したら、本当のことが見えなくなってしまうように思えてならない」

自分の額に汗が浮かんでいるのに気が付いた老人はポケットの中を探ったが、ハンカチを忘れていたのを忘れていた。それを思い出した老人は、ため息をついて猛禽類の足のように皺だらけの手で汗をぬぐった。そのまま左手は右手に組まれた。

地面から立ち昇る熱気と共に耐え難い匂いがOを不快にさせた。「それは、貴方が本当のことを信じたいだけなんだ。他人から見たらあなたの本当のことは偽りになってしまうんだ」とOは呟きにしては長すぎる言葉を呟いた。老人の耳には届かなかった。いや、聞こえていたかもしれないが、老人はもうOの言葉を意味として理解するのを止めていた。

「あ、おじいちゃん。やっと見つけた」

 専属のヘルパーが(と言っても四十歳ぐらいの)公民館から出てきて、そう言った。彼女は迷い人の捜索届を出した後だったので、苛ついており早口だった。ヘルパーはOを見てから、はにかんで「もしかして、話し相手になっていてくれたの?」と言った。

「まあ」

「そう、ありがとうね。このボケ老人は誰にでも話しかけるから。毎日毎日、家から居なくなって」思い出したかのように「そう、大体ボケ老人と喋っている人は、いつも吉田って人なの」と言った。「あなたもそうなの?」

「ボケてない。私はまだ大丈夫だ」と老人が言った。ベルトの付いていないスラックスから青いストライプのトランクスが見えた。

 Oは急に不安になった。先ほど回復した世界への信頼が恐ろしくなった。この老人は街を徘徊し誰かに話しかける。それは明日も明後日も、老人が生き続ける限りそれは続く。そして、この老人はいつも吉田という人間と話し続ける。次の日にはすべて忘れて、また吉田に向けて話をする。つまるところOは終わらない日常を恐れた。矛盾だった、変わらないものに安心を求めるが、変わらないものにも恐れを抱く。

「あ、僕、大学戻らなきゃ」

 Oはそのように口にした後、やや速足で大学に戻る間、大学という単位に属し、さらに学生というカテゴリーに属していると自分に言い聞かせて、自分を社会の一構成員であると位置づけることで、その不安から逃れたはずだったが、いざ大学の正門を前にしたら、その変化の無さをありありと感じてしまった。

渋谷に行くことにした。あの老人のような姿勢で電車の揺れを意識していた。何かに耐えるように。

 

 1

 

身支度を早めに終えたOは、家を出ると決めた時間まで窓際でぼんやりとしてた。彼が窓の外から見ているのは朝倉が居る町の方角だ。時折、腕時計を見やり、あと十分―五分―あと四分と近づく時間をひどく気にしていた。時刻が近づけば近づくほど、時計を見るタイミングは小刻みになる。彼は決定に対して厳格であり、不変を愛していた。ルールが守られることに対しても喜びを覚えているが、朝倉に会いに行くという状況にあっては、家を出る時間を決定した事は苦しみに繋がった。「僕はなにをやっているんだろう、こうしている間にも家を出てしまえばいいのに」彼は微かな希望をもって、朝倉の家を見つめていた。「彼女も僕と同じように窓から相手の居る場所を見ていやしないだろうか」しかし、そんなことはありえない。彼女の家のカーテンはしっかり閉じられており、彼はその期待の分、落ち込んだ。

 家を出たOはまずイヤホンをつけて音楽を聴きながら歩いた。彼はSpotifyでロックミュージシャンのアルバムを流し始めた。このアルバムは全体で四十六分分ほどの長さで、彼が彼女に会いに行くときには必ず聞いているアルバムである(といっても、彼が朝倉の家を訪ねるのはこれで三回目なのだが)。それはなぜか。このアルバムを聞き終わるタイミングで彼女の家にちょうど時間ピッタリにつくからだ。

しかし、はやる気持ちから、十曲目で最後の曲がり角を見てしまった。あと二曲分、彼は歩くことにした。道よりも家が優先されている道、家が建たなかった部分を道としている住宅街には、外灯がない。彼は雪の降った夜などには、この辺りは神秘的な空気を纏いそうだと思った。子供が作った顔の無い雪だるまや、壁に張り付いた星形の雪跡が神秘さを演出してくれそうだった。その情景を思い描きながら歩いているとアルバムが終わっている事にふと気が付いた。彼は来た道を走って戻った。その際、大きな過ちを起こした。朝倉から約束して欲しいと言われた事「ここに来るまでの間、音楽を聴いて来ること。もちろんイヤホンでね」。それを意図的でないにしろ破った。腕を振って走る、イヤホンのコードに手が引っ掛かり、耳から外れた。彼はキーンと鳴る痛みを感じながら、足を止めた。そうして、周囲から溢れる呻き声を初めて聴いた。

 

 2

 

 Oが今から会いに行く女性の名は、朝倉悠貴という。彼が朝倉と再会した時、彼女は相変わらず所属する新興宗教の勧誘をしていたが、それが彼を喜ばせた。信徒という点では不変の存在だ! 興奮したOは朝倉から話を聞かせてほしいと彼女に声を掛け、居酒屋で説明を受け(その間の彼の視線は耐え難いほどに感動で満ちていた)、そして、ラブホテルへと向かった。しかし、彼は神に対する信仰など持っていなかった。いや、断言はできないが、明らかに神の存在を確からしい一つの現象として受け止めたことはなかった。確かに彼は不変の存在に対して執着はしていたが、信仰はしていなかったのだ。

 

 3

 

 朝倉の母親は朝倉の兄が生まれるころ、ひどくナイーブになっていた。自分の苦しみを誰かに吐き出したいという欲求が膨れ上がり、いつか破裂してしまうのではないかと自分自身に恐れを抱きながら、生活していた。朝倉の母は按摩する職業だった。彼女は出征前診断を受け、自分の子供が障害を持って生まれてくる可能性が高いことを、事前に知っていた。だから、生むか、生まないかという選択を迫られ、それを誰かに相談したかった。だが、妊娠がバレて仕事をクビにでもなったら生活していけない。そうしている間にも、腹は膨れ上がり、でぶになっていく。インターホンが鳴る。婦人が「悩みがないか。ちゃんと眠れるか」と問いかけてきた。「話を聞くよ。いつでも来てね」ドアポストに一枚のビラ。彼女は赤の他人に心配されたこと、それに満たされる感覚に陥った。そうだ、わたしは選ばれたんだ!

 彼女は座談会に行き、自分の置かれている状況を洗いざらい話した。人々は彼女に共感し、各々自分が苦しかった経験を、彼女を通じてもう一度プレイバックし、朝倉の母は苦しみという体験は、苦しみであるという一点で共有されるものとなった。それを察知した朝倉の母親は自分の居場所を見つけたと安心した。そして入信することになった。新しい集団、優しさにあふれた人間は、彼女に子供を産むべきだと教えた。それは障害ではなく、運命づけられた証であると。彼女は産んだ。そして、朝倉の兄は、新興宗教の教祖の養子に入れられた。

 

 4

 

 新興宗教、私のような四半世紀も生きていない人間であっても、どこか胡散臭さを感じてしまう言葉。その集団の内情は知らないが、日本都心部での耐え難い苦しみ、あのナイーブさに対応するための集団である可能性は否定できない。それは中間集団として機能することを意味している。国と個人の間にある集団は、自治会など様々あるが、それらには選択肢はない。あるのは、参加するかしないかである。同じ土地に住む人間という理由だけで、人は団結できない。しかし、集団そのものが選択肢の一つとして浮き上がって来たのならば、より自由に、より複雑性が増大する。どのサークルに属するか、どの会社に属するか、そのような迷いの中、自分が相手に認められ(あるいは集団の中の価値基準に則った評価)、この集団に属してみないかと問われたのなら、自分は選ばれたと思うには十分すぎるだろう。それは自分が選択し入信したという意思の確からしさと、選ばれたという満足が、同時に押し寄せ、個人はより高い場所へと浮遊していく快楽に捕らわれるに違いない。

 

 5

 

 備え付けのインターホンを押す指が震えるのは、先ほど聞いた呻き声が原因であるとOは理解していた。しばらくして朝倉が顔を出し、手招きをした。彼は家に入ってからすぐにイヤホンを外し、古い廊下歩いた。彼には廊下のきしむ音は動物の威嚇のように聞こえた。その低い呻きは警戒心と攻撃性を孕んでいた。朝倉はOに顔を向けながら、妹が居間に居るからこっち、と言って先導する。これまでOが朝倉家にお邪魔する際は、居間で二時間ほど大学での話をするのがお決まりだった。二人の共通点は日本文学科に属しているというもので、そこでの話題はもっぱら課題をどのようにして乗り越えるかというものであり、違う大学で違うカリキュラムという点において二人は純粋な協力関係にあった。

Oは自分でも意識しない内に、その協力関係を崩し、排外的な関係を進めようとしていた(本来的に、同じ集団に属していないという点で、既に私秘的であったが、それを推し進めたいのだ彼は。そして私も)。だからこそ今回、初めて朝倉の部屋に入ったOは、さきの廊下の軋みに威嚇という意味を感じ取ったのである。

朝倉の部屋に入ったOは最初、地面に散乱している人形の数々を不思議に思ったが、それが彼女の妹のモノであると聞かされると、納得した(それと同時に、朝倉に妹がいることに対して驚いた。彼は知らない。そもそも妹という存在が嘘であることを) 。しかし、その違和感が呼び水となり、Oは先ほどの呻き声とつじつまが合うような物事を期待した。説明を求めていたと言ってもいいだろう。しかし、O自身は朝倉との約束(イヤホンをつけるということ)を破ってしまったという後ろめたさを感じ、疑問は口に出されることはなかった。

 Oは部屋の中を見回した。窓際に並べられた学習机(一つしかない)と、壁際の電子オルガン、炎のようなフレームの鏡、プラスチック製の三段箪笥。これといって呻き声と繋がり層の無い物ばかりで、彼は不安になった。

朝倉がお茶を汲みに行くと、彼はより細かく呻き声とつながりのありそうな家具を探した(生活から導こうとした)。柴犬の卓上カレンダーの一三日には赤いペンで星マークが付けられている。電子オルガンの蓋を開いても、染み一つない。彼は二段ベッドを見つめ、今あそこに身体をなげうったのならば朝倉はあの夜と同じように、まんざらでもない嫌味を言いながら、浮遊感を与えてくれるだろうかと、邪な考えを抱いたが、すぐに忘れることにした。鏡に映った自分の顏を見てしまったからだ(Oは既視感を得た。鏡に映る自分を見る自分。その感覚に対して)。そうして小学生の妹がいるなら同じ視点で探そうと思いつき、(まるで鏡から逃げるように)四つん這いになってみると、机の足もとに小さな本棚があることに気が付いた。彼は腕を伸ばした。しかし、そこで朝倉が戻ってきてしまった。彼はその場で凍り付いた。朝倉はOの背中にお盆を置いた。しばらくの間、Oは弁解の言葉を探したが、本当に弁解の言葉でいいのだろうかと考えた。

━━いま、僕が自分の行動の理由を述べる事は、かえって不自然なんじゃないか。

そうして、朝倉にどうしてお盆を背中の上に置いたのかを訪ねた。すると、そこは一番大切な処だから止めて欲しかったそう。Oは一番大切な処こそ他人と共有すべきではないかと思い当たった時、あの本棚には経典のようなものが仕舞われてあると早とちりした。彼はまだ教えの書かれた書物を持っていなかったので、そう思うのも仕方がない。彼は「もう少ししたら、何が置いてあるのか教えてくれるの?」と尋ねた。朝倉は曖昧に頷いた。「多分ね。まだ分からないけれど」

 

 6

 

「多分ね、まだ分からないけれど」という言葉の裏にはOを見定める自信が彼女になかったのを端的に示している。Oが噛み殺した笑い声を立てるのを恐れている朝倉は、その本棚に自身が所属している共同体を告発する本を隠しているのを見られたくない。だが、出来る事ならば、彼がアイロニカルな姿勢を自分と共有しているかを確かめたかった。

彼女は母が不在の間に人形で遊ぶうち、妹という存在を作った。それは母親との間に聳え立つ壁を透明にする技法である。朝倉は人形に触れる時、母親になりきり人形を愛で、自分で満たされない自分を愛し始めた。彼女は、人形遊びでは母の役割を担い、現実では子供である。人形で遊ぶことは、母の不在を埋めるように母という役割へ同化を試み、それは反復されてつづけてきた。彼女は、その没入に対して妹という概念を当てはめた。

朝倉にとって妹は他者の侵入を拒むものである。なぜなら、それが彼女しか持ちえない核であるからである。耐えず流れる涙を不快に思うように、彼女自身が妹に対する愛憎を抱き続けている。妹が生まれてから、他人の痛みを感じるのを拒否する態度が形成され、そのせいで朝倉は母親の属する教団に属しながらも、経験という共同体に属せない。もし、ゾシンの属する宗教を信じてしまったのならば、信仰を得るに至った経緯を告白するべきであるし、自分の痛みを各々の経験と照らし合わせられ、各々自身の痛みのように苦しむことを受け入れられなければならない。彼女が語ることができるのは、母親に相手にされない事の苦痛である。加えて、自分の経験を他人が追体験することは、自分が増殖していくように感じられるものではないか? 周囲は自分であり、自分はまた周囲である。朝倉悠貴は身長が高く(彼女は母親が自分を気にするような可愛らしく、愛嬌のある人間になりたかった)、周囲の男性女性、身長の高低、様々な身体の差異を持つにも関わらず(そしてなによりも体験していない人間が)自分になるのを拒む。そしてなにより自分の母親が、娘を蔑ろにしているのを他のメンバーに知られたら、母親は一体どのような処罰を受けるか、その想像をする度に恐れを抱くのだ。

つまるところ彼女は語れる苦しみがないのだ。自己を物語とする立場がある事はご存じ? 自分の経験を語ることは自分という物語を作ることである。しかし、教団には苦しみというという帯文の付いた人間たちが集まり、もちろんそこには「苦しみ」という共通項がある。しかし「苦しみ」を語れない朝倉は、そのような経験の共同体に属することができない。繰り返そう。朝倉にとって妹は不可侵である。

 

 7

 

彼女は言われた通りに防音部屋にたどり着き、所在なさげに電子オルガンの前に座った。茶色い外装を節が「川」のように流れていた。彼女が緩慢な動作で白鍵を優しく触れるように叩くが電子音は鳴らずに爪がプラスチックに当たった音と微かにバネの音がした。それは、どんな音だったか思い出すことが困難な特徴のない害のない音、彼女は綺麗だった。苛立ちも喜びもない、怒りも悲しみもない、希望も安心もない彼女の顔には、どこにもリアリティといったものがなく、一三歳にしては細く白くしかしどこかで健康的だと思わせる四肢と年相応の丸みが取れていない顔―特に頬が柔らかそうで怒ったとしても尚更にその可愛らしさが目立つような顔立ち―と彼女の鍵盤を叩く動作が何かを諦めた人間が見せる静かで汚れも感じさせない動作のようだったからだろう。そういった彼女の姿を見ていると、電源コードを刺してやることも、声を掛ける事も、息をする事も許されない気がした。つまり自分を彼女との対比によって許されないモノと設定し(本当は話しかける事で静謐が崩れるのが怖かった)、そのルールに則り行動を制限していたことになる。彼女は何度も繰り返し、特徴のない害のない音、綿を殴る時に感じるあの無抵抗な何も反発が起きない虚しさに近い感覚、に憑つかれていた。

あの頃の僕は音楽室の、防音のために壁の至る所に空いた穴、一つの穴に意識を向ける事もできないし、かといって部屋全体の穴を意識できる訳でもない暴力的な穴、死角にあるかもしれない=視認できない穴が怖かった。朝倉の後を追うという形で防音部屋に入ったが、本来的には、何度かの偶然を信じる事でしか、そこに侵入できない。僕は入ってすぐの穴を覗いてみたが、ただの穴(暗くて見通しがつかなくて、自分の体が小さくなって穴に落ちてしまったらどうなってしまうのかわからない穴)だった。

西日に背を向けた身長が高い事を気にしている彼女が履いている赤いモカシンのすぐ横には菱形の蜜柑色した夕日のマットが敷かれている。そこには格子のような影が埋め込まれていた。ぼんやりとした西日の中で埃が輝き、普段どれだけそれを吸い込んでいるのかを意識させられてげんなりとした。

彼女は弾力のある皮膚を持ち骨と肉体の結合が特徴とされる機械のようだった。長い睫毛が揺れているだけ、何も予定がない日曜日のような、キラキラと光を内に取り込み何本もの光線を反射する宝石のような瞳が開いているだけ、意識されるべき対象が不在の視線を鍵盤(便宜上、実際に見ていたのだから仕方ない)に落とし、薄い胸が息を吸うたびに大きくなり腕はそれに合わせて上がり・膨らみ、それらが下がる・しぼむと同時に黒鍵を叩き、力が抜けその指が鍵盤からするりと落ちる。一音ずつ鳴るのを自分の中で再構成し、一つのメロディーを聞いた。彼女の動作が緩慢なのは呼吸が薄くゆっくりであるからだった。それは確からしい。そしてなりよりも彼女は人間らしかった。

 

 8

 

 麦茶を一杯飲んでから、Oは朝倉にオルガンを弾くようにせびった。彼女の音楽を直に聴きたかった。それというのも幼い頃に聞いた彼女の音をOは再現して欲しいそう。朝倉はカーテンを開き西日を招き入れると、振り返ってOに笑顔を見せながら「嫌だ」と言った。Oは何故? と尋ねたが、それが自分の問題であり、Oの問題ではないと理解していた朝倉は理由を話さなかった。笑顔が張り付いたまま。

 Oはそのような西日に照らされた朝倉の顔を見て、救われかけた、と驚いた。朝倉が断らなかったら、そんなことを感じなかったはずである。拒否されることにより、彼女との距離が明確に意識されたOは朝倉に自然のような幻想を抱いた。夜に光る星、降り注ぐ雨、ゆっくり落ちる雪、風で鳴る竹林の音、そのような自分の意思でコントロールできない自然のようなものを察知し、肌から浮き出る汗をぬぐいながら甘い嘆息を吐いた。

 そもそもOが朝倉の音楽に対して抱いているイメージには触れがたい秩序があった。この二人は同じ音楽教室に通っていた。彼が彼女の音を初めて聴いたとき、彼は魅了された。剥き出しの演奏ではなく、極度に統制された旋律はかえって生命を感じさせた。

 Oはオルガンに目を向け、朝倉がそれを弾いている姿を思い浮かべた。オルガンは白い埃をかぶっていた。椅子も同様に。

「あ、攻撃が来た」

 朝倉がぽつりと呟いた。

 

 9

 

「攻撃って?」

「Oは分からないよね?」

 玄関が開く音が聞こえたのでOは「分かるよ。確かに来た」と言った。

「まだアルミホイルが脳みそを覆っているはずなのに?」

「え?」

 廊下のきしみが近づいてきた。朝倉の母だった。

「悠貴、あんた誰連れ込んでんの」

「あ、こんにちは」

「あ、こんにちは。見た事あるわね。だれ?」

「Oです」

「だれだっけ? わかんないや。まあ、悠貴、明日の準備ちゃんとしておきなさいよ。じゃあ、それだけ」

「ねえ、お母さん。電波を感じない? 凄く痛い」

「は? もしかして、あんた薬飲んでないの? 脳のセロトニンが足りてないの? アルミホイルが剥がれかかっているんじゃない。あんた。ほら、薬。これでなんとなるのよ。薬さえあれば耐えられるのよ。ほら薬。飲みなさい。かなり気分が良くなるわ、眠れない時なんてこれ飲んでおけば眠らなきゃなんて思わなくなるから。ほら薬。飲みなさい。私は忙しいの。これからコンピュータプログラミングと情報の暗号化の勉強しに行くの。はい、手の内を見せて。うん、いい子。一つ、二つ、ああOくんも飲んでみる? じゃあはい、六つね。それでは、お元気で! ほら薬、飲みなさい!」

 

 10

 

 毒電波を受信したことがありますか?

 

 11

 

 彼らにとって電波とはなんであるかを説明しようとするたびに、私はどのような言葉を使えば理解してもらえるのかを考える。絶えず流れ続けるラジオ? 親の説教? 見えないところからのまなざし? すべてである。

 ニイテンゴジ教には不変の理念がある。誰にも平等に接する、という。それは社会主義などのイデオロギーとは全く関係がない。ただ在り方の問題で、個人という存在は様々な他者との関わりによって形成されているのだとしたら、その個人は多面体として見ることができる。たとえ本人が自然体だと認識していても、かえってそれは自己認識の固定の困難化を指し示す。そこでニイテンゴジ教は平面になること、誰のまなざしを受けても、個人が変化しないことを重要視している。君たちにとっては仮面をかぶるという表現の方がしっくりくるだろうが、私は仮面をかぶるという表現が嫌いだし単純化しすぎているように思えるので、平面になると表現する。

 さて、朝倉の母親が去って行ってから、二人は会話の種を失った。先ほどまで話していたことが、急に遠くに感じられた。Oは家に帰ろうとしたが、朝倉がそれを引き留めた。彼はそれがなんとも快かった。

――朝倉は僕に執着しているのだろうか。

気恥ずかしくなり立ったまま視線を朝倉からそらすと鏡が映った。その自分としばらく見つめ合った。

「ねえ、やっぱり今日、泊まって行かない?」

 朝倉がそう言うと、彼は確信を得て行動に自信を持てるようになった人間よろしく、朝倉の肩を掴んで「もちろん」と力強く言った。Oは自分の鼻息が荒くなっていることを恥じながら、朝倉の目を見つめた。彼女もまたOを見ていた。

「明日の朝、儀礼があるの。あなたも参加して」

 Oにとってそれは、肉体的には自分が優勢を誇っているのにもかかわらず、有無を言わさぬ言葉のように思われた。それは服従への導火線だった。

「うん。参加する。君のためならなんでもする」

 導火線に火が付いた。

 

 12

 

 孤食がなぜ寂しさを誘導するのかは心のノートが教えてくれる。食事はみんなで食べるものであり、みんなで食べない食事は、寂しいものだと教育を受けている。一人で食べる食事が寂しいものだと理解してしまう。だから寂しさを感じてしまう。 共働き家庭の多い現代において、その教育はかえって悪影響を与えるのではないか? むしろ一人で食べる食事も素晴らしいということを教えるべきではないか?

それはそれとして、朝倉悠貴も一人で食べる食事について毎晩、寂しさを感じていた。一人でいることに慣れてはいるものの日々を過ごす内に、確かに寂しさは積もっていき、やがて人形が話し相手となった。それが妹である。

 さて、朝倉は初めて妹ではない相手と食事を共にするという不安と喜びにうっとりしたせいで彼の座る席がないことに気が付かなかった。そして、空いている椅子にOが座るのを許さなかった。彼は開いている席が一つあるのにもかかわらず、そこに座らせてもらえないことを不思議に思った。

「妹は? それに椅子の数が足りないよ」

「妹は友達の家に泊まるってさ。それに椅子の数は足りてるよ。わたしがそっちに座るから」

 疑問に思いながら椅子に座り、朝倉の尻の熱を感じたらOの意識は熱の方へと向かってしまった。彼は勃起しながら夕食を食べた。朝倉の咀嚼音を聞き逃すことはなく、均一のリズムを刻む顎の上下運動を眺めていると、この家にはテレビがないことに不意に気付いた。

 食事を終え手持無沙汰になったOは朝倉が母親から受け取った薬の存在を思い出し、朝倉が風呂から出たら尋ねようと思った。しかし、それは結局明らかになることはなかった。なぜなら風呂上がりの彼女は裸だったからである。色素の薄い陰毛に海葡萄のように水滴が実っていた。半分空いた唇が妙に色めかしく映り、Oのまなざしに気が付いた朝倉は口角を少し上げて「どうしたの?」と全てを見透かしたように言った。それはOを喜ばせた!

彼は支配と服従の間の揺らぎが心地よかった。相手を支配したいという欲求と、そのように考える自分を服従させる女性の登場を希求している。彼は―最も重大だが―朝倉という人間に対する一つのイメージを既に描いている。それは不変という像だ。果たして、これが恋ではないと誰が言いきれるだろうか。誰が否定しえるだろうか?

立ち上がったOは足音がたたない畳の上を歩いて朝倉と向かい合い、熱を帯びた両肩を強く掴んだ。

朝倉は風呂上りにタオルを使う習慣はなく、またそれで風邪になると は思ってもいないし、事実、風邪を引いた時も原因をそこに求めることはできない(風邪を引くのは複合的な要因があるからだ)。

Oは、彼女の微笑みを間近で直視することはできずに、視線をそらした先に、ぴょこんと三日月のような耳が浮き出ていることを認めると、急に恥ずかしくなりOの耳は赤くなった。さっき食べた生姜焼きの肉の繊維が親知らずと奥歯に挟まっているのを舌で泳がせながら、何をどう言ったらいいのか考えているOは朝倉の虫歯のおかげで蠱惑的な匂いがする息を鼻から吸い込んだ。

「離してよ」朝倉は笑いながら言った。

「うん、話す」すこし視線を彷徨わせ「なんでかっていうと」しばらく黙り「君が好きだから」

「いや、だから」ためらいがちに絞り出して、はっきりと「そうじゃなくて」 

 彼女たちはしばらく固まり、視線が合わないまま、そこに居た。互いに次の言葉を探していている。Oは朝倉をその気にさせる言葉を、朝倉はOを落ち着かせる言葉を。朝倉はOが自分に好意を寄せているという状況に耐えられない。朝倉は話が通じない人間を目の当たりにし、明日行われる儀式(共同体に属する知的障がい者の性処理である)へと想像力が働いた。そして、彼女は目を閉じた。蝶の羽休みのように静かに、飛ぶことを止めた。

 その様子を見ていたOは、キスの合図だと受け取った。彼は自分も目を閉じてキスするという紳士的振る舞いをしようと思ったが、その前に朝倉の顔を克明に記憶しようと、顔のパーツ一つ一つを見つめた。その時、彼を吐き気が襲った。 目のある場所に目があり、鼻がある場所に鼻があり、口のあるところに口がある。そこにある必然性がないのにも関わらず、確かにそこにある。 

必然性は問いをもたらさない。だが、彼はこれまで必然だったものが、そこにあるから必然だと思っていたと自覚し、世界への信頼が崩れた。 

 彼はよろよろと後ずさった。目に見えるすべてのものに違和感があった。そして彼は毒電波を受信した。

 

 13

 

 君が水を飲んでいる数秒の間や、朝倉を見つめていた数秒の間に世界のどこかで貧困にあえぐ子供たちが死んでいる。毎秒死んでいる。今が幸せだから飛び降り自殺したというニュースを見たことがあるか? いじめられて自殺する子が居る。世界のどこかで自分よりも苦しい状況にある子供たちの存在を意識したら、自分がどれだけ恵まれた環境にいるか、相対的に見てどれだけ幸福な状況にいるかを知ったら、今ある幸せを大切にしていこうと思っただろうか?(それはありえない!)貧困にあえぐ人々のドキュメンタリーを見て、自分たちの幸せを噛みしめることはできないだろうか(それはありえない!)。幸せは現状や環境ではないのも分かるが、最低限の条件があるように思う。お前もそう思わないか? そうだよ。腕にタトゥーを彫ろうよ、貧困にあえぐ子供らが死んでいくって(なんで?)。そうしたら忘れることはないだろう? それで君は辛いと思った時に、そのタトゥーを見て自分よりもつらい状況にある人のことを考えて、あの人たちも頑張って生きているから自分も頑張ろうって思うんだ。だって、相対的に見て、彼ら彼女らの方がつらいのだから(それは可能かもしれない)。そして君は気が付くだろうね(何に?)。相手を弱い人間だって決め付けている自分に。幸福で大切なのは、きっと状況じゃなくて、何をしたいか見失わないことだろうね。 

 ほら朝倉の顔を見てみろよ。お前のことを笑ってるよ。いきなり肩を掴んで、いきなり離れるんだからね。ああ、この人ってバカでノロまで勇気もないし顔も平均より下だし本当につまらない人間ってさ。つまらない人間なんていないと思うだろう?(当たり前だ!)けど、朝倉はきっとお前のこと、そう思っているよ。君のことをコミュニケーションもまともにできないし、つまらない人間で、人財にすらならないカス。はやく死んだ方が良いよ。死ぬ前にちゃんと募金するんだよ。そしたら貧困にあえいでいる子供たちもきっと喜ぶ。つまり、ここで人生を終わらせればコストカットできて、その余剰分を募金すれば、もっと生きたい人が生きていけると思わない?(……) 一回だけ死んでみれば? 一回だけでいいからさ。そしたら何かわかるかもしれない。

 ほら、朝倉がお前を殺そうと近づいて来る。彼女は心配しているんじゃなくて、君に警戒されないように優しく振る舞っているに過ぎない。何事もそうだが、やられる前にやらなきゃいけないよ。でも何にやられるかって? この状況なら朝倉だろうね。けど、それが人間じゃない場合もある、君もよくしっているだろう? 地図の無い地雷原を歩いてるんだよ。先を歩く人に地雷を踏んだ方が、その後、怯えながら歩かなくて済むし、不安に思う事も少なくなるわけだしね。君は無価値なのだから、価値のある人間のために死の一つの事例を提示したほうが良いと思う。まあいい機会だから死んでみよう。ね? お願いだ。さっさと死んでくれ。

 

 14

 

 Oは朝倉の身体を突き飛ばした。その後、彼はしばらく壁際のタンスに擬態するように、部屋の隅で膝を抱え、目を瞑ったまま浅く呼吸し続けた。

尻もちをついた朝倉は愕然とし、そのように自らの気配を違和感のないモノへと変換しようと怯えながら努力する姿に、不思議な親密さを覚えた。その親密さはいくらか彼女を安定させた。Oが全く害のない人間であると理解したのももちろんあるが、それ以上に、家具に擬態しようとするOが、朝倉には慣れ親しんだ姿に見えたのである。彼女は悠々と身体をタオルで拭き、Tシャツと短パンを身に着けてから(高校時代のクラスTシャツ、体操着)母親から手渡された薬を取りに自室へと向かった。

「ねえ、これ飲んでよ!」部屋に戻って来た朝倉は、そう言って薬を差し出した。

「それで俺を殺す気だろ! もう騙されないぞ!」

「あなたは、わたしをしんじてよ。セックスの時だったら、あんたのこといくらでも殺すチャンスがあったのよ!」

「確かにそうだが! これまでしてこなかったからといって今しないとも限らないじゃないか!」

「じゃあ、私が飲んで見せるわ」彼女は一錠飲んだ。

 Oは腕の間からその姿を見ていたが、信頼できなかった。

「もういい、面倒になった」と朝倉が言った。「ほら」

 無理やり押し倒されてOは暴れた。しかし朝倉は慣れたように鳩尾と太ももと二の腕を殴り、動けなくなったOに無理やり薬を飲ませた。そしてOは落ち着きを取り戻した。

 そして眠った。現実を忘れるように。現実はフィクションで、私たちが想像する現実は決まって暗いか明るいかのどちらかであり、事実にそれぞれのフィクションが付いて回る。朝倉とOはそのフィクションの領域において、暗いイメージを共有している。時として明るい場合もあるが、それはすぐに暗さに覆われる。