遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

ゴミ(途中放棄)

 薫は花占いをしていた。人形の腕や脚を引きちぎっているみたいだと彼は思った。そしてその認識にとらわれた彼は、妙に興奮して本来の目的を忘れたまま引きちぎり続けていたが、四輪目にして、ふと我に返った。止めた手をまた動かし、「やる、やらない、やる」とぼそぼそと花占いを再開した。弁を欠いた花。結果は「やる」だった。しかし薫は結果に満足できずに、地面を手探りし、まだお尻の横に残っている花の茎をへし折って占いをやり直した。微風が吹き菜の花の匂いを連れてきた。猫が手の届かない距離から彼を伺うように凝視している。彼は猫が甘い鳴き声を上げても見向きもしない。集中とは違い、彼は没入していたのだ。テントウムシが手の甲に乗ると、それをデコピンで弾き、立ち上がった。彼の足元にはバラバラになった花弁と、渺とした花が散らばっていた。

 シャワーを浴びたばかりの身体から石鹸の匂いがして彼はスンスンと鼻を鳴らした。猫背で進んでいく彼の姿は疲れた中年という印象を受けるが、まだ一九歳だった。彼は予備校へ入塾手続きしに行こうとしていたが、占いを行かないという結果に捻じ曲げた。浪人を決意してから、しばらくの間は闘志と被害妄想によって食事と睡眠の時間以外は勉強していた。が、二か月ほどして周りを見回すだけの余裕が生まれた時には、自分は自由だと急に恐ろしく思われた。そして無気力に襲われた。それは人間を袋小路に迷わす。何事も徒労に終わるように思われる誰にも見られない孤独の営み。それは根っこにある何にでも意味を求める性格が起因しているためだ。

 土手から降りて酒屋の前を通り抜けると十字路に出る。そこを左に曲がりしばらく歩くと高さ二五メートルの物流倉庫がある。その向かいに里香の家がある。薫は首筋にぷつぷつと浮かんだ汗を手で拭いジーパンで手を拭った。初夏のどこからともなくやってくる熱気が近くにある田んぼに水が注がれる音によって相殺されている。

 彼が里香の家に通うようになって二か月が経った。それはちょうど自由だという事が分かりすぎた時期と重なる。ステラガーデンと書かれた家にたどり着くとインターホンを鳴らしてドアノブを開いた。昼間だというのに暗い部屋の真ん中に両手を点に向けて片脚を地面から離している公民館や音楽ホールの前にある自由や平和を現す銅像のように里香が立っていた。エアコンの駆動音がかすかに聞こえる。墨色の頭部を切り取り線のように黄ばんでいるように見える陽がカーテンの隙間から差していた。そこだけ埃が輝いていた。

「また来たの?」

「うん」

「何をしに?」

 彼はぎょっとして別に何かをしようとして来ている訳ではないと口に出そうとしたが、口に出すことはなかった。彼は棒立ちの彼女の隣を通り過ぎカーテンを開けた。目の奥が痺れた。遮光性が高いカーテンはしっかりとした重みがあった。この部屋から見える景色は退屈である。目の前には物流倉庫のつまらない灰色の壁があり、そこから目を横に流すとマイホーム主義が打ち立てられるほどの給与が会社に属すれば貰える働き方、見れば見るほど退屈だと蹴とばすことしかできない二階建ての三角屋根と小さな庭の付いた家々が道沿いに並んでいた。グリーンカーテンなんぞやってのけてしまうほど精神的余裕のある暮らし。彼は人の匂いがする景色を見ても無感情であった。物流倉庫の壁が与える妙に切迫した印象が他の景色の印象を奪っていたのかもしれない。だが、そもそも彼にとってはそれが自分との接点、あるいは未来の自分との接点のありそうな暮らしには思えなかったのだ。むしろ、そのような景色を見て感動やら憧れを抱くことは、その場限りの感情であって嘘のようだ。もしそれを純粋に信じすぎて、自分にもそのような暮らしができると思い込むと、失敗した時にはより多くの代償を背負うのだろう。彼は無感情だ。

「何をしにって、君のお母さんから頼まれてるから来たんだよ。お母さん悲しんでいたよ。それこそ僕に頼むときだって顔を赤くしてさ、見ているこっちが力になってあげたいと思うぐらいには」

「そういう所が嫌い」

 その言葉が自分に向けられたものか、彼女の母親に向けられたものか彼には判断が付かなかったが、それは彼にとってどうでもよいことだった。彼女の銅像性は崩れて今はただの子供のようにテレビのない部屋で背中を丸めて座っていた。

「幼馴染だと言っても、仮にも僕は男なんだから肌の露出は控えて欲しいと思うんだけど」

「幼馴染なんて今さら言われても」と言いながら膝を抱えた。

 彼はクローゼットの中の小さな箪笥から、パーカーを取りだし彼女へ放り投げた。彼女は手を伸ばさなかったので、それで顔が隠れた。彼はうっとりとした嘆息を漏らしながら、パーカーを羽織らせた。フードが裏返っていたので直して両肩甲骨の上に置いた。彼が触れた肩は震えていた。

「僕は精神医学に明るい人間でもないし、君にとって、変な言い方になるけど……大切な人間でもないと思うんだよね。それこそ幼馴染ってだけで。それなのに君の母親は僕に君の世話を頼んできたわけで、僕としても世話って何をすればいいのか分からないんだ。まぁ僕にとって、この時間も勉強の息抜きだと思って承諾したわけだけど」

「私の世話なんてしないで予備校にでも行ってらっしゃいよ。あなたはカウンセラーじゃないんだから、どこにでも好きなところに!」

 精神医学という言葉は彼女にとって禁句だったが、彼はあえてこの言葉を使った。彼女を怒らす事は密かな楽しみでもあったのだ。彼女がなぜ部屋にとどまり続けているか、彼にはおおよその見当がついていたが、それを口に出すことは精神医学よりも禁句であった。それを言った瞬間に関係は崩壊することが目に見えていた。

このテレビのない部屋のなかで彼女にとって社会との関わりは彼だけだったのであり、彼は社会を忘れるためにこの部屋に来ていた。

「それは君に強制できることではないよ。僕は好きでここに来ているんだ。じゃなきゃ来るたびに、そういった突き放すような言葉を投げかけられるのに、懲りずにこの部屋に来るんだからね。まぁ僕にとって娯楽みたいなもんだね」

彼女が痛みに耐えるように顔を歪めているのを見て、彼は喜びの目眩に見舞われた。この部屋においては力関係が重要であることを彼はよく理解していた。彼女は彼以外の関係を両親以外に持たなかったのだし、彼女はその小さすぎる関係においても心開けず、子供のように頑なに虚勢を張り続けている。それも彼の言葉に割り込むことはなく、ある種の礼儀正しさをを持ちながら、だ。彼はその子供らしさを愛していた。それは上下関係がなければ成立しない醜い愛情だった。

「あぁ! もうやめて。貴男は口を噤んで!」

 彼女がこのようにどこか芝居がかった話し方をするのは、小説ばかり読んでいるせいである。彼女は知らぬ間に芝居がかった言葉を吐くことによってしか自分の意思を伝えることができなくなっているのだ。しかし、誰が彼女を責めることができるようか? 誰しもが自分の言葉を用いる事の出来ない状況に陥ったことがあるのではないか? 

「そう言われても、君は社会復帰する気あるの? というよりも君は社会復帰しなければならないんだよね、両親のためにもさ。ところが、君はどうしても外に出ようとしない。昔の人も言ってたぜ。書を捨てよ、町へ出よってさ」

「知らない、そんなの」

 彼はムッとした。無知によってでは正論は跳ね返すことができないのだ。正しい事は受け入れなければならず、むしろ受け入れない場合には悪や敵として正論の射程に入れられることになるのだから。しかし、知る努力をしていれば正論はヴェールのように優しくその姿勢を覆い隠してくれるのだが、彼女はそうではなかった。

「まぁ知らなくてもいいさ。本当のところ君は僕の人生にとって必要ではないんだからね」

「じゃあ言わなくていいじゃない。貴男って本当に間抜けね」

 彼女のひきつった笑みによって皮肉は強度を増し、一挙に力関係を反転させた。そして、それは薫を苛立たせた。薫は自分が彼女を愛している事を理解しておらず、いま起こった苛立ちに対して不可解だと感じている。しかし、何故だかわからない感情が神経を逆なでし、その感情について深く触れる事は出来ずに、ただの怒りに収斂されてしまった。

「そうだよ。僕はバカだ。それは確かだ。だから何だっていうんだ? しばらく考えてみてよ。このテレビもなく、あるのは小説ぐらいの寂しい部屋からさ。そのくせ本棚だけは大きくて、外に出る気が湧かない部屋をさ。君は、一体どこに向かっているんだい? そのくせ死なないし!」

 隣の部屋から壁ドン が響いた。彼は大きく息を吐いて、一見して呆れていると分かるように首を振った。彼にはもう前後の判断がついていなかった。呆れたから首を振ったのか、首を振ってから呆れているのだと理解したのか、もう分らなかったのだ。

彼女もまた、分からなくなっていた。今自分が言いたい事が分からなくなっていたのだ、それは彼の発言を頭の中で反芻させられ、錆びた包丁同士を擦り合わせるように不快だった。彼女は理解していた。自分は存在しても存在しなくとも良い人間である事と、しかし誰かから必要とされたいという意思を。その中で見知らぬ人に囲まれながらも生きなければならないことも。それがあまりに強すぎるために、一つの失敗と自身の不幸が彼女の中で大きな存在になり、無視できない物になってしまっている。

この沈黙に耐えかねた彼は、音楽を流し始めた。二人の間での習慣化された約束であり仲直りの方法だった。二人は日本のポップスを聴く事ができない。やけくそに応援して来るから。

「僕が悪かったよ。言い過ぎた」

「いいのよ。本当はあなたが来てくれるだけで嬉しいの」

 音楽には人に芝居をさせる効果がある。この二人の男女の自身の物語を持たないという特性が、より音楽に身を任せることを可能にしているのだ。音楽に見合った振る舞いをすること、そしてそれはその場限りの純粋な受容態度を引き起こさせ、思考することなく内側へと内側へと深く根を伸ばし、小さな世界の中で絶望とも似ている快楽 に落ちていく。絶望はいつも尤もらしく堂々とした訳知り顔で否応なく人間を体内に取り入れることができるのだ。

 この二人だけの密会と不思議な連帯感はより強固な世界を作ることができる。大多数とつながる事よりも優先されるべき、いや優先した方が良い関係。彼が扉を開け部屋に光が差した瞬間、彼女は出迎えようとし立ち上がったままポーズした。開口一番「なんで来たの?」といった瞬間には、この部屋は使われるものになった。そして、それに見合うように関係も一晩よりもずっと早い時間で再構築されはじめた。

 二人は近づき、俳優が映画中で愛の欲求を抑えられず理知的な動物になる瞬間 のように、溶接された鉄のように一瞬を永遠に続け始めていた。体温を確かめ合いながら互いの首筋に汗を認めながら、そこが一番見やすく素晴らしい席であると認めながら、垂れ流しの映画を見ているようないかなる感情を起こさせない汗を心ここにあらずといったように眺め続けている。男び胸のふくらみがなお一層膨らむ時、彼女は彼の首筋にくすぐったい息を吹きかけ、それが萎むと彼は土星の輪のように彼女を囲う腕に力を入れた。

しばらくそのまま溶け合った状態でいると薫は恥がブクブクと音を立てている事を認めた。僕は永遠に続くような欲望が昇華されるのを獣のようにはしたなく湿った鼻を鳴らしながら待ち望んでいる、と。それは間違いでもなく、ともすれば正常であったものの彼は受け入れられず、泣いてしまいそうだった。ワンナイト・ラブ、あるいは檻の中。リスクが姿を変え彼の中で倫理へと姿を変えてしまっていた。しかし、彼女は彼のぐんと持ち上がった性器の存在について母親のような諦観とその面倒見の良さが、何かを学ぶような気持を浮き上がらせ、人魚が泳ぐ際の最も抵抗の少ない姿勢ように身体の側面にピッタリとくっ付いていた手を彼の腿の間に巻き込ませた。熱が彼女の冷たい手を暖めた。彼は涙を流しながら、強く星を締め上げた。彼の腿の間にある戸惑った手は探し求めるようにジーンズをまさぐり、スキニーを下にずらした。夏休み初日の子供のように外へ飛び出したペニスははじけるような笑顔を振りまいている。勢いのあまり彼女の手首にある裂け目の形跡を治癒するように透明な液体がなぞった。彼は嗚咽交じりの呻きをあげながら喜びに耐えていた。彼女は、そのような彼の姿を見るたびに愛しくてたまらなる。可哀想な子供、と。自分の涙が首筋にこぼれた瞬間、彼は放心に至った。同時に、吐き出された精液が彼の魂だったかのように、何も見ていない彼の目を見つめた彼女は、涙の跡を舌でなぞった。誰かが言っていたように涙は非合理な感情から生まれる最も効率的な現実に対応する決意の証である。が、彼にとっての現実は彼女との間にしか存在しなかった。彼がアルバイトをしているスーパーマーケットの社員や夫と一緒に居る時間から逃げるように働いていることを感じさせない快活なパートのおばさん、たまに実家に帰った時に気遣って笑顔を作る両親は現実と見合うだけの重さを持っていなかった。彼女は人形になった彼を舐めるたびに全てがどうでもよくなる。そして人形への献身として、慰めとして心が満ち満ちた彼女は彼の口の中へ舌を忍び込ませ、より自分の中に入り込んでいく。自己満足だった。彼女の舌が蛇のように口の中に入ってくると彼は空に放っていた心を取り戻し、あぁ俺には未来がない、そしてもっと最悪なことに希望すら抱きたくもない、と為されるがままだ。

 自動再生機能を切り忘れていたアプリが二人をぶっ壊した。それまで空間のみがあった音楽は、陽気な海岸の音楽へと切り替わり、二人は急にお互いを自分とは違う人間なのだと意識した。これまで行われていた仲直りの方法は二人の輪郭を曖昧にし、溶け合わせるものだったが、それを可能にしていたスピリチュアルは身ぐるみをはがされてしまった。スロットマシーンのように黒目が目玉の中でピタッと止まると、顔を見合い二人は驚いた。彼は殺人現場を見てしまったかのような顔で大切な人を迎えるアメリカ人風に腕を広げ、彼女は魔法が溶けてしまったシンデレラのように酷く貧しい気分になった。

その後、二人は腹違いの子供のように、腫れ物に触れるように優しく、おっかなびっくりなまま昼食にありついた。日は傾いていたが。しかし西日は入らなかった。それを防ぐように大きな倉庫がアパートの前にあるため部屋は冷たい。彼が彼女の家に通うようになった時にはすでに存在感のある倉庫があった。灰色の窓一つない大きな壁が、彼女の部屋からの風景を支配していた。

電子レンジで暖めたパスタは直ぐに冷たくなり二人は日の当たらない部屋で静かにそれを食べた。隣の部屋から女の喘ぎ声が聞こえた。二人が溶け合っている間、隣人は壁にジャブジャブストレートを繰り返していたが一向に静かにならなかったので、アダルトビデオを見始めたのだ。二人はプラスチックの皿の底を見るように俯き、吐き気に耐えた。嫌に耳をつんざく声が、小学生が下校する時間帯に流され、外を歩く人間は、このアパートに一生住みたくないと思うだろう。

薫は逃げるようにパスタを平らげ外に出た。彼は物流倉庫の壁に返された喘ぎ声に包まれながら、今度舌を入れられたら噛み切ってあげようと決意した。

 

家に帰るまでの道のりは、惨めさをふくらませる様子。小学生が甲高い叫び声をあげながら小さい身体をがむしゃらに動かしランドセルに掛けられたきんちゃく袋が身体を叩きながら彼を追い越していく姿や、腰が曲がった婆さんが手押し車を押しながら蟻のように歩きながらも終始にこやかな微笑みをたたえている姿、地元の高校生が自転車をこぎながら道いっぱいに広がり会話をする姿、それら全てが彼の意識をむしばんだ。ここにはおれの姿がないとハッキリと突き放されたような心地がしていた。彼はたまらずコンビニエンスストアに入り黒ラベルのロング缶を手に取り、レジへと並んだがそこには中学生の軍団が互いを小突き合いながらポテトチップスを手に持ち並んでいて、彼は余計に、こんな平和的な夕方におれは何をしているのかと虚脱状態に陥った。しかし、彼はビールを手放させなかった。彼にとって飲酒という行為は、排泄などの生理的な習慣を除いた中で最もハードルの最も低い習慣であり、未成年である彼を取り囲む劣等感の代替として罪悪感を自分の心の中の石臼ですり潰す作業でもあった。彼の底には必ず暗い気分があった。小中と明るく友人たちにもお笑い芸人になればというあまりにもフザケタ土壌を持っていたのにも関わらず高校生になり、中学の同級生が自宅の懸垂トレーニング器具にタオルが絡まって事故死したという知らせを聞いた時から、彼の土壌は酷く乾いた蛇柄のヒビが入った土壌に変化した。彼はその知らせを聞いた時、涙が出なかった。そして彼は自分自身を許せなかった。罪だと感じた。親しい友人が死んだにも関わらず涙を流さない自分はとても薄情で酷い人間だと思った。その瞬間に彼は薄情である人間になってしまったのだ。彼は未だにそれに気付いておらず自分が薄情な人間であることを否定したがっているが、その動機づけの根本にある理想からの隔たった距離、つまり不安については自覚的であった。しかし、彼女の部屋に入れば薄情を否定する必要がなくなる。あの西日の当たらない部屋に入ったのならば自分を受け入れなければならない(誰も見ていないのだから……)。そして、自分を否定することもせずに済むのである。だから彼は彼女の部屋に通うのだ。

彼はさして興味のないビールをレジに置き、そのまま買って家へと帰る。誰も彼の顏なんて見ていないのにも関わらず自分が世界の中心であると思い込み、自分の中に埋没することを良しとしている彼にとって、罪悪感はより自分を興奮させるためのカンフル剤にしかならない。そしてその罪悪感にとってリアリティは必要なく、その行為に対して薫自身が強い意味づけを信じている限りは、彼の現実は姿を現さないのだ。信じたいものを信じすぎるのは危険だ。彼は女子高校生が笑い声を上げると自分が笑われているのではないかと疑いながらも根っこの部分では信じておらず、ただそうであったのならどれだけ救われるかを考えている。おれは世界中から笑いものにされて死ぬことへの免罪符、あるいは、俺が死んだとしても他人が納得できる理由が欲しい。あの自分が笑っている事を周囲にも伝え自分がどれだけ楽しいかを主張してくるような笑い声で、おれを笑って欲しい、と。彼の中でマゾヒズムが信仰の対処になり始めていた。笑われるのを望むことは彼の自己破壊への近道である。彼の内部でのみ行われる妄想としての笑いは、神との極めて親密で純粋な関係と等値だ。彼が必要とした時にのみ神は現れ、彼は肥満そうな顔を見せながらもノーとは言えずイエスというしかない。もはや彼の拠り所は彼自身の思い込みにしかなかった。彼の見ていた現実が現実がモノクロだったらどれだけ楽だったのだろう。

彼の憂鬱さは夜になると重さを増す。朝は無気力、昼は虚無感、夜は考えすぎる、寝付くのにはアルコールが必要だ。自由という恐怖の中に居ると、当為が生まれない。それが彼の核だった。強制されないがゆえに、何をすればいいのかが分からなくなるのだ。整理しようとしても優先順位もない。彼はただ一人きりだった。義務や約束は存在せず、破られても相対され、理解を示そうとし、腫れ物を扱うような人の目つきの厭らしさに打ちひしがれてたままだ。

傷んだ蜜柑のような柔らかい心で、彼は自分の家に着くと部屋のテレビを点けた。彼女に似ている俳優が今日もお茶の間をにぎわせている。買ってきたビールを開け、飲んだ。彼女に似ている俳優、それは彼が高校生の頃に出てきたメディアスター、媚びない姿勢と私生活の親しみやすさと時折見える品の良さが人気に拍車をかけていた。彼女はこの俳優の登場により高校時代のあだ名が決定された。他人と違う自分になろうと苦心していた高校時代の彼女にとって「偽○○」は彼女が彼女として受け入れられることがない事を示していた。 そして彼女は外に出られなくなった。液晶から漏れる笑い声は誰に向けられてもおらず、無暗に響く。彼は、そこで自分が一人きりであることをハッキリと自覚した。血管の一つ一つが大きく膨らんだかのように激しく音を立てる。熱くなった瞼を閉じ呼吸を整え、彼は彼女の家に帰ることを決めた。