遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

長いゴミ(鴉さえも近寄らないほどのみすぼらしいゴミ)

「煮干しは癒し。魂はだましだまし。」その言葉が浮かんだと同時にここにはいない友人の「は? 適当すぎる」という吐き捨てるような声が聞こえて酷く懐かしい心持にされ、言われてみれば確かにそうだな、と自嘲した。その自嘲に長い時間浸ることができるほど若くはなく、友人の言葉を真に受け入れるほど年を重ねてもいない。そのため旅館の窓から白い泡を含みながら打ち寄せる波が見えた時には、自分に自嘲は不釣り合いだから、と理由を付けて出来るだけ違う事を考えようとした。しかし自嘲の残滓が胸の内に漂い、どうも座りが悪かった。

居心地の悪さがなくなることはない。気分転換に外を歩くことにした。歩いていると自分が前に進んでいることが確かめられるので、私は自分の意思が行き詰った時にはいつもそうしていた。通りを歩いている最中も、凪いだ心の後ろに空寒さがあった。

閑散としている街路は忘れられたかのように見えた。夏の間の賑わっていた姿を想像すると、その落差に驚かされるが、それが海をメインとした観光地の定めなのだと思い、やり過ごすことにした。冬の間の海が見えるこの道は、大変味がありますとなど口が裂けても言えない。耐え難い寂しさがあるのみだ。もし寂しささえもが商品になるとしたら、この町は息をつくことも許されなくなるのだろう。やはりこの寂しさは残さなければ生活できないものなのだろうかと思案しながら、道を下った。頭上には厚い灰色の雲が蓋をしていた。昼間にもかかわらず薄暗さのある通りには所々シャッターが開いている店が並んでいる。黄ばんだ光が通りに零れている。店内を横目で覗くと身内同士で喋っていて商売という雰囲気ではなかった。人が少ないと入る気も失せる。人が室内を満たしていても入る気が失せる。そもそも、自分の寂しさや不安を薄れさせるために、より寂しいと思われる場所へときたのだから人の匂いというのを毛嫌いしている節があるのかもしれない。

防波堤に着き、ちらほらと釣りをしている人間の、海に頭から落ちようとしているようにも見える丸まった背中を一つ一つ確認して、歩いた。波が石に衝突し、飛沫が風に乗り、頬を撫でている。釣り針をあべこべ にしたような姿勢で海を覗く。海水の色が鈍く感じられた。底が見えない。酔った時のように重心がおぼつかなくなったのでその場でしゃがみ、ジーンズのポケットから煮干しを取りだし、海にほっぽった。しばらく浮いたまま漂っていたが、緩慢な波に攫われ姿が消えた。もう一つ取りだし、ぱくつく。そして立ち上がり海に背を向け歩き出した。湾岸から遠くを見つめると、ゆるやかに反っている浜辺が眺められる。

口内に違和感があった。まさぐると紺色の糸だった。濡れたそれを中指と親指でこすりながら浜に沿って歩いた。地平線へと目を向けると、一辺倒な色に思える海にサーフボードの蛍光色の毒々しさが混じっていた。浜辺には夏と比べると人が少なすぎた。こうも寂しさがあると、どうしても夏の間の海を想像して、一層寂しくなろうとする癖がある。まだ学生だった頃、友人たちと由比ガ浜に行った。夏の夕暮れの浜にはゆっくりと何かが終わる気配があった。その雰囲気に巻き込まれてなのか、人は皆等しく陽が沈むのを眺めはじめる。そこに奇妙な一体感がある。誰もが太陽に目を取られて時間の経過が妙に静かに感じられる。波の音がそれを助長させる。そういった甘美な寂しさがここにはなかった。

点滅している青信号を見て急かされているような心地がした。ただでさえ小股の歩行を速めたため、砂に足が埋まり余計におぼつかなくなった。しかし急いで渡り切った。コンクリートの地面の上で振り返り、まだ信号が点滅しているのを見て肩の力を抜いた。首を正面に据えると、渡り切った先にあるコンビニで煙草を吸っていた浅黒い肌の若者が、私を笑っていた。まだ実の出来たばかりのトウモロコシのように真っ白い歯を唇の間から覗かせていた。頬に浮かんだ乾いた大地のひび割れのような皺に拳をぶつけてやりたいが、そんなことできはしないのも私はよく知っている。渡り切らなくても良かったはずだった。点滅している間は渡らなないで、次を待つと幼い頃に教えらっているはずだった。しかし渡ってしまった。中年が急くのは若者からしてみれば、そんなに滑稽に見えるのか。

思えば自分のこれまでは点滅し続ける青信号のようなものだったかもしれないと思った。自分の若さを証明するために点滅している青信号を渡り切ろうとする。そして渡り切った後、振り向き未だ点滅の終わっていない様子を見て若い頃は満足を覚えるが、年を取り一向に赤にならない信号を訝しんでみると、自分の人生そのもののように思えて倦怠が自分を覆い、やがてすべてが徒労に思える。そして、それらが永遠に点滅し続ける青信号だとやっと理解される。

自分は三十八歳で死亡すると大学生の頃から考えていた。朝のニュース番組の今日の運勢コーナーのように自分の都合に合わせてそれを信じたり信じなかったりしてきた。喫煙や飲酒も身体に悪いらしいというだけで、死ぬための貯金として考えながら味わってきたものの、三十八歳になった今、重い病気にもならず、もうすぐ自分が死ぬと信じられるような予兆が現れる機会は会社の健康診断での不摂生を責められた時のみであり、いつ終わりが来るのかここのところずっと焦らされている気分だ。しかし、だからといって自殺をするわけではない。そんな簡単に割り切れるわけでもない。どうにも煮え切らない。死ぬか、それ以外かという選択を持ち出せるほど自分に期待をしていなかったせいだろうか、今になって生きるための希望を抱こうとも思えない。何をしても徒労になってしまうと思えてならない。若者の視線はスマートフォンに向けられていた。私を見ている時よりもつまらなさそうな顔だった。

松の街路樹の植えられた通りを歩いていると、まだ新米のサーファーと思われる肌の白い男とすれ違い、気軽に挨拶をされたので、私は空虚な軽さをフレンドリーさと読み違えてもらおうと、愛想を張り付けて挨拶を返した。

途中で土産屋の前を通った。食事の匂いがした。吸い寄せられて中を覗いてみると、中年男性が瓶ビールとサザエのつぼ焼きに舌鼓を打っていた。足元に薄青いクーラーボックスが置いてあった。あまり釣れなかったのだろう。匂いにつられて腹が減った。しかし店内に入ると、あの中年男性と妙な連帯感が生まれるだろう。こんなところにいる人間は自分と似ている、と。そうなれば会話をしなければならないと脅迫的に考えてしてしまうと思い、もう少し歩いた先にあるチェーン店で食べることにした。そのまま歩を進めると仏像のガラポンがあったので回した。中学生の頃、修学旅行のお土産として同じようなものを買ったのを思い出した。一度しか買っていないのにも関わらず妙に親密に思えた。

 

昼食を済まし旅館に戻った頃には陽が雲間から海に突き刺さっていた。机に乗せた、地震が来たら一発で崩れ去りそうな土産屋の横にある錆の混じった赤いガチャガチャを回して手に入れた、外国人が好みそうなお手軽な仏のフィギュアの、西日を浴びて白く輝いているさまを見ていると、次第に心が落ち着くのを認め、やがて笑いが止まらなくなった。

去年の同窓会で本田に生きる希望がないと打ち明けた時、彼は私のことを親しかった友人から死にたがりの人間だと認識を更新したようで、生きていればいい事もあるから、と私を心配してというよりは、自身に言い聞かせるように、本心からそれを信じていないような苦渋に満ちた面持ちで切り出されたのを思い出す。生きていればいい事はあるに決まっていると分かっているし、私は自殺したいとも考えていないのだから、利己的な言葉だなと他人事のように受け取った。加えて本田は「生きる理由は女なんだ、誰かが自分を必要としてくれるから、それと同時に自分が相手を必要とするから生きれるんだ。それが人間の重力なんだ」と苦笑いするしかない答えを教えてくれた。詳しく話を聞いてみると、どうしようもない男が主人公の物語には救済の技法として大切な存在が現れて、それが大抵は女らしい。自分の周りには女もいないし、親しい友人も疎遠になり、それはそれで快適さを感じるものの、時折感情の整理がつかなくなることがあった。確かにそれなりの説得力があるかもしれないが、再会を喜ぶ酒の席でこんな話をするのはどうかと思い、早々に切り上げ、重力がないなら浮力があるのだろうかと考えながら家に帰った。床に就き自分のラブドールを抱きながら明日も仕事があると思うと、まだ命綱は切れてはいないと確かめられた。翌日、電車に乗り赤羽―池袋間を浅く呼吸しながら運ばれていると、目の前に女性が立っていることに気付いた。イヤフォンをしてインスタグラムを見ていた。つり革が頭上にあるのに捕まらずにいた。身長が高くないようなので捕まると疲れるのだと思った。電車から見える景色を見ようとしたが過ぎる景色の中では視点が定まらず、吐き気を催した。対象不在の訳の分からない苛立ちが湧き、痴漢になれば否応なく死ぬことが許されると思ったが、それが利己的だと察すると、どうしようもない悲しみが襲ってきた。その時も、目の前に仏でもあれば心が穏やかになったのだろうかと想像すると、あまり良い気分ではない。現実を受け入れている安堵や絶望に似た心境の時に、宗教の存在を意識するのは自分の人生が非合理で超越的な存在を導き出すためのものだったように思えて、つい笑わなければならないと思うし、実際に笑ってしまう。「三百円で手に入る心の平穏」と呟くと面白さに拍車がかかった。

ふと思い立ってにぼしを仏のフィギュア の前に煮干しを一つ並べた。お供え物にしては貧しい限りだが、大きさからみてみればトントンで、しかしこういうのは気持ちだと思いながら奥歯に何かが挟まった心地で、ぼんやりと眺めた。多少は笑えたが、ますます自分が超自然的な存在にあやかりたいのではないかと思われた。数分でそれに飽きて午睡へと向かった。眠りへの入りは驚くほど滑らかだった。

 

目が覚め湯へと向かった。旅館の銭湯には地元の方もいない。時間も時間で、季節も季節で人は誰もいない。立ち昇る湯気は水面上でゆらゆら揺れる。身体を洗いしばらく湯船に身を沈め外の景色に興味を失った折に、静かに潜る。目を瞑り暗闇の中でチカチカと踊る光を追いかけた。点々と移動するカナブンのような色だった。おのずと息が苦しくなり追跡どころではなくなる。泡を追うように浮かぶ。目を瞑ったままでもどのタイミングで息ができるか分かった。大きく息を吸い、肺にむんとした空気が入り込むと、達成感のような充実さがあった。そういえば自殺ごっこをした時はベルトで首を絞め先の方を上へ引き上げてから、何十秒か待ち続け、段々と頭に血が上るのを認めながら、ぼんやり迫る心地の良さを楽しんだが、子供の頃によくやった水中で息を止めてどれだけ耐えられるかどうか競うい合う ようなものなのかもしれない。違いは苦しさを目的としているかどうかの点か。共通しているのは、それを終えた後には不思議と心が満たされているという点か。潜水を何回か繰り返す内に頭痛が起こっている事を熱くなった呼吸に知らされた。鈍くなった頭のまま湯船を出ると、身体が重く、きっとのぼせていたのだと思うことにした。指の腹には何本か線が通っていた。自分はもう既に煮え切っていたのではないかと疑った。正確には煮え切っていないと確信していたことが急に不確かに思えた。

脱衣所でコーヒー牛乳を買った。広間の畳の上で夕方のニュースを見ながら、私は自堕落さに対して寛容になりつつあった。ごろんと横になれば今すぐにでも寝れてしまいそうで、さっきまで昼寝をしていたのにも関わらずまた寝るのかと自戒の念もあったが、もういっそ横になろうと思い、周りを見渡し自分のほかには誰もいないことを確認しようとした。しかし見知らぬ女がいた。釣り人のような待機に慣れた穏やかさがあった。

一応は横になってみたが、眼が冴えてしまっていた。周辺に人間がいると思うとおちおち眠れない人間なのだ私は。堂々巡りの思考をしつづけて、ふっとこと切れるように眠ることはできずに、そういうもんだと諦めて身体を起こした。仕切りがあれば良いが、生憎そういったよそよそしさはこの広間にはなかった。女を見ると私よりも眠っているように思われた。濡れて艶やかに見えるからだろうか、とろとろとした瞳がやけに色めかしく映った。

自分より年齢が一回りは下の女に気を取られているという状況に耐えられず 、煙草を吸いに行った。紫色のマットの敷かれたフロントを横切り、暖房が追い付けない一角でスポンジが裂け目から溢れているソファに沈みこみながら、じりじりと灰を落とさぬようにゆっくり煙草を吸っていると、先ほどの女がやって来た。灰皿の近くのヤニ焼けした壁に寄り掛かった女は私を一瞥してからその場にしゃがみ込んだ。見たところ二十代前半に見えた。誰かに似ているという印象を抱いたが、誰とも似ておらず、他人の空似だと思うことにした。

もしかしたら自分を追いかけてきたのではないかという、どこかそう思う事さえも恥ずかしい妄想が湧き、黄昏た。

しばらくの間、ぼんやりと女を見つめていると目が合い、そうして合点がいった。家で私を待っているラブドールと瓜二つなのだ。睫毛は砂鉄のようにきらめく荒々しさがあり、墨色の静かな眉とゴムボールのような円い顔を覆うセミショートが、その危うい印象を際立させている。私は如何にしようとも抑えられない熱に浮かされた。今、自分の生きた理想が眼の前に存在している、そういった観念が湧き胸を締め付けた。私の姿を映す瞳には明らかな水分が含まれており、また頬は朱を残しており、陶器のような手に這う紫に近い青の血管は生き生きとしている。煙草の煙が目に染みて涙が出た。痛みを知覚すると灰が自分の浴衣に落ちた。形を崩さず落ちた五センチほどの灰は幼虫のように生々しく見えた。慌てて灰皿に煙草を落とし、浴衣の裾を掴み、灰をできうる限り落とそうと悪戦苦闘していると鼻息で笑いと解る笑いが聞こえた。女の笑いだった。ちらりと顔を見た。細くなった目じりに浮かんだ皺が幸福そそっていた。

「なんで笑うの?」

 そう口に出した時、まるで自分が人形に語り掛ける時のように甘ったるい声になっているのに気が付き、愕然とした。

「……いや、すいません。なんでもないです」

 女は笑いを隠そうとせず、そして私の浴衣の裾を握り私よりも懸命に落とそうとした。申訳のなさが劣情を加速させている。私にとってラブドールは性的玩具という神秘を持つ愛玩人形だった。その点において、私はプラトニックな愛を理想の具現化であるラブドールに捧げていたし、最初から与えられている目的を達成しないということに対して矜持という拠り所を 作っていたが、いざ目の前にラブドールに似た女が現れると、どうしようもなく煽情的に見えた。股に集中している熱を隠そうと、前かがみになり灰がどれくらい落ちているかを確認する体を取った。女の手のひらが私の背中に添えられた。老人の介護のようだった。

「ありがとうございます」

 私は丁寧に聞こえるようにそう言った。本来なら年下の女に敬語を使う義理もないはずだが、そうしなければならない理由があった。この時に、私の中で一つの転回が始まりかけていたのだ。ラブドールとそれに似た人間の対立が起こり、私はラブドールに似た人間の方へと必然的に流されかけていた。その抵抗として敬語だった。

煙草の匂いと混じった香水の匂いを振りまきながら女は「全然大丈夫です」と言った。

 女は喫煙所から去って行った。私は裂け目の入った黒光りソファに深く沈み込み、できるだけ女の後姿を見ないように自制していた。女の香りが頭の芯に浸透していく心地がした。甘いコロナの匂いだった。

 煙草をもう一本吸い(今度は灰を落とさぬように気を付けながら)、女がまだ残っていることを願いながら荒い息で広間へと戻った。女はまだそこに居た。ことこと心が揺れる音がして嘆息を漏らした。俯いている女の背中から私を見つめるうなじには梯子のような形をした藍色が見えた。タトゥーだった。畳の上を歩き、女に接近した。

「あの、すいません」

 女が振り返りスマートフォンに向けられていた視線が私の方へと向けられた。なぜ話しかけられたのか理解していない目だった。つむじは眩しい白だった。

「はい」

 私は女のスマートフォンの画面をちらりと見てから、「タトゥー綺麗ですね。初めて見ましたよ」と言った。やにわに歪められた顔からは嫌悪が読み取れた。ラブドールはこんな顔しない。この女はラブドールに似た女だと分かり、少しホッとする。

「褒められるようなことではないんです。これがあるってだけでイロモノ扱いされますしね」

「ああ、ごめんね。……これは失礼なことかもしれないけど、ならどうして消さないんですか」

「別にあやまることではないです。ただ、これを消したら昔の自分に戻ってしまう気がして消せないんです」

「昔というのはいつ?」

「昔は昔ですよ。タトゥーを入れる前」

「けど、別にタトゥーを入れたからと言ってイロモノ扱いされるもんなのかなあ」

「もう既にしていますよ。タトゥーを入れた人間って。それがなければ、あ、ちょっと名前を教えてくれませんか?」

「石清水」

「石清水さんは私に声を掛けなかったはずなんですよ」

 それは君が私のラブドールに似ているから、とは言えなかった。女からしてみれば私はタトゥーを入れた女に興味を持ったと思われても仕方のない状況なのだろう。いや、しかし

「違う違う。本当はなんで灰を落とすのを手伝ってくれたのかなっていう疑問を解消したくてね、声を掛けたんだ」

「あっ、そうなんですか。それはですね」女はしばらく考えてから「なんとなくです。今思うと、可哀想に見えたんだと思います。こんな時期に、この辺りに旅行しに来る人なんて珍しいなと。あとは、凄い取り乱してましたよ。自分で分からなかったんですか?」と言った。

「えっ、そんなに?」

「そうですよ」

 笑いかけられた。つやつやした薄桃色の唇が横に伸び歯並びの悪さを見た。それを隠すように、すぐさま手で覆われた。なぜか私のラブドールも口を開けば歯並びが悪いような気がした。彼女にキスをする時は、私の熱で、その唇を溶かしてしまうだろう。ロウが顎に滴り地面に溜まりができる。

「でも、これで今日はスッキリ寝れそうだ。ありがとう」

「あっ、そうだ。岩清水さんってあとどれくらい滞在するんですか?」

「二日、今日を入れて三日です。僕はやることがあるので部屋に戻ります。それじゃあ」

 少しでも凛とした後姿に見えるように意識し、背筋をピンと伸ばしながら歩いた。ラブドールに似た女と会話できる喜びが私を臆病にしたが、やはりもっと話せばよかったと後悔が残る。しかし、それが甘い自己嫌悪を呼び覚ました。

 私はラブドールを一度も性的玩具として扱う事はしなかった。そこに在るというだけで満足だったのかもしれない。それだけで愛せた。開かれた瞳は閉じた試しがないし、胸が膨らむこともなく、静かにそこに居てくれた。なのに、今、私は、ラブドールに似た女に興味を持ち始めてしまっている。だからこそ自己嫌悪に陥る。私は人形に愛を誓ったはずだった。いや、しかしラブドールに似た女はタトゥーを入れていた。私はあれが何なのか確かめられなければならないという衝動に駆られた。 あの女をラブドールと引き離すためには、それしかないと、どこか大義名分のような響きがあった。

 パタパタとスリッパの足音がして振り返ると、女が追いかけてきていた。心臓を鷲掴みにされたような心地がした。右目の上で留められたヘアピンから逃れた髪がおでこに張り付いていた。ラブドールのウィッグを中途半端に乾かしたまま装着させたときと同じだった。女は走っようで頬で汗が滑っていた。悪夢のように思われた。 

「あの、よしよければ明日、一緒に海に行きませんか?」

 あえなく私は頷いた。

部屋に戻り、仏のフィギュアの前に置いておいた煮干しを食べた。口の中が酷く渇いた。 そして、新しい煮干し一つ、仏のフィギュアの前に置いた。

 

 女の名前が分かったのは私が家へと帰るろうと旅館を出る時だった。 そして連絡先を交換した。Takahashi Yu-ki とラインには書いてあった。名前だけ見れば実際に会ってみないと性別が分からない名前だったが、ホーム画面を見れば海をバックにしたラブドールに似た女がいた。

彼女は大学生だった。それ以上、属性に関することは知る必要がなかったので、Yu-ki に関することは彼女がこの国の文化に対して恋にも似た感情を抱いていることと、休みの日は文化を消費し、そのお供としてコーヒーを飲むということだけだった。Y(Yu-kiと書くのは面倒なのでYと省略する)のゆるい愛国心Youtubeで動画を見たり(そこには違法性が高いと推察されるものもあった)、ドラマやアニメを見たり、感動作と帯に書かれた小説があれば手に取り読んで泣いたり、オリンピックになればせっせと応援したりすることから生まれたものらしい。自分が見たいものが揃っている環境があることを喜んでいた(それはどこの国に生まれても同じものだとは言わなかった)。私は「日本が好き」という言葉に身構えていたが、それが政治思想とつながっていないことを理解すると、ほっと胸をなでおろした。

ラブドールに似た女は、彼氏がいることを暗に仄めかして来た。そもそもラブドールに似ているという点において、男を誘惑する顔であることは保証されている。

 

 春の風に吹かれて菜の花が黄色い蝶のように花弁を揺らしている。酒を飲むためなのか花を見るためなのか分からない人間たちが、桜の根をブルーシートで押しつぶしている。身をよじっているように湾曲している幹は男二人が手をつないでつくる輪ほどの大きさだった。桜よりも白梅の方が好きだ。桜が嫌いというわけではないが、くるくると花弁が落ちるのはあからさま過ぎる。散っている様に気付いて欲しそうに、掌に包んで欲しそうに、その存在を主張して、子供はそれを追いかけ、大人は座ったまま手のひらを開く。

「あ、岩清水さん。こっちです」

 今年から入社した男の子が私に向けて大げさに手を振っている。あまりに気持ちよく手を振るので、別れのシーンに見えた。彼の名前が思い出せなかった。彼はトイレから出てきたばかりらしくて、濡れた手をジーンズで拭いながら「来てくれたんですね」と困ったような愛想笑いをした。

「ちょっと顔だけ出しておこうかなって」

「ああ、そうなんですか」

「場所取り大変だったでしょ?」

他の会社とかなら強制しないが、うちは伝統として新入社員が場所取りするので、彼はその餌食になった。自分が新人だったころは、同期の三人が私の方を見てきたので一人で場所取りをしていたが、彼は大丈夫だったろうか。

「まぁ、そうですね。けど高橋とマリオカートしていたらあっという間でしたよ。あ、あそこです」

 彼が指さした先に見慣れた顔が並んでいた。とりあえず靴を脱いで端に座った。案内してくれた彼の名前を聞きそびれたと思い、ビールを注いでくれた高橋くんに教えてもらった。もう、かなり出来上がっている課長は、ずっと笑っていた。いつもの仏頂面が嘘みたいで、ずっとそうしてくれていればいいのに、と思った。

私の隣で山口さんがビールを飲んでいる。彼女は結婚もしていないし、彼氏もいないから、こういった集まりも婚活的な目的があるのだろうかと思った。実際、彼女は不細工で、私は山口さんにシンパシーを抱いているわけだが、彼女と付き合おうとは思っていない。

「山口さんが、こういう集まりに来るのって珍しいですよね」

 私はなんとなく話しかけた。

「いや、返答に困りますね。なんか、こういう集まりも大切なんだと思い始めたんですよね。そういえば、岩清水さんって、結構こういうイベントの時って来るんですか?」

「いや、僕もあまり参加してないから、本当に顔出しに来たってだけ」

「そうなんだ。あっ、高橋君~ちょっと話しない?」

 山口さんの私服は昔に見た時よりも過激だった。私はビールを飲み切り、ほかの社員とか課長とかに挨拶して、靴を履いた。山口さんが高橋くんの手を掴んで自分の足にこすりつけていた。多分、山口さんは好きな人ができたのだろう。その相手は高橋くんだろう。高橋くんは化け物を見たように目を見開いて自分の置かれている状況を把握しようとしていたが、山口さんは赤ちゃんを抱っこしている母親のような目で、高橋君の手を見つめていた。

山口さんがどんな人かは知らないが、異常性癖を持っているのかもしれない。不細工は恋愛が弱点だし、不細工だと、年を取るうちに自分には恋人や結婚相手ができないだろうという諦観と共に、もしかしたらまだチャンスがあるかもしれないと希望が同居して、チャンスでなくてもチャンスだと勘違いしてしまうのだ。不細工は、そもそも恋愛対象として見られないので、違う領域に興味を持たざるを得ないわけだが、その逃避をし続けられるほど強い人間は存在しないだろう。不細工は肉親以外からは愛されない運命なのだ。社会人になって婚活をしても本当に不細工なら選ばれない。選ばれたとしても金持ちだとか、将来性だとかを買われているので、自分が求められているという実感を得ることはできないだろう。ありのままを愛されるには顔面が整っていなければならない。同窓会で昔仲が良かった女友達と再会したとして、その女友達に結婚相手がいたり、彼氏が居たりするのは、不細工でも話しかけるという、その人の魅力があるからだし、もしかして自分に気があるんじゃないかと浮かれても、その可能性は全くないのが常である。

つまるところ、山口さんが高橋君を困らせているのに気が付かないのは、自分が不細工だということを忘れてしまっているからだ。

社会人になってから異性と何の用もなしに話をする機会はあるにはあるが、大抵は仕事の話なので、やっぱり相手のことを知りたいと思わせるのに最も効力があるのは顔面だろう。仕事での成功があるかもしれないが、好意に繋がることはほとんど皆無と言っていい。婚活で一度も話しかけられなかったことから、不細工は最初から不利なのだと私は知っている。

酒に酔った人間とぶつかった。彼は充血した目をこちらにむけて謝罪し、すぐに歩き直した。私は安心していた。これだけ騒がしいと自分が笑われているとは微塵も思えないので、周囲の快活な笑い声も、不快にはならなかった。

公園から出て階段をゆっくり下りていると、若い集団の一人が私を見て意地の悪い笑みを浮かべた。その男は隣に居る女の肩を叩き私の方を指さした。女も笑った。たまらず目線を外し、歩くスピードを上げた。後ろから噛み殺した笑い声が聞こえた気がした。キモい叔父さんがいる……。私はYに連絡し、待ち合わせ場所である青山へと電車に揺られて運ばれた。

 

 Yと会う機会を作りたくなかったが、私はずるずると彼女と定期的に会うようになってしまっていた。タトゥーを見るためという大義名分を盾にして、保険会社のCMでよく見るような笑顔に魅力を感じていた。しかしそれだけではなく、ただ開かれただけの眼を張り付けた顔を見る度に、私のラブドールが彼女に憑依しているのではないかと思われ、その奇妙な同一が私の中で鎮座していた。ラブドールの神秘さを失わずに、人間として機能している姿。良くも悪くも、Yと出会ったのは奇跡のようなものだった。時間的にはラブドールが先にあるはずで、かつ私はラブドールに対して鑑賞という無償の愛を捧げてきた。

私は三回目に遊んだ時にはもうYのパトロンであった。卑しい独身中年は最早金を使わなければ若い女の子と接することはなく、もし金を使わなかったとした場合に(会社の女の子だとか、そういう関係)セクハラなどで訴えられぬように注意深くなるのだから、金を払いある程度のセクハラを容認してもらえる関係の方がずっと居心地が良いのも確かだろうし、金がある限りYとのつながりは途切れないと思うと安心がやってくる。 

パトロンとなった時から、なおさら私はYのタトゥーの正体を突き止めることに執着した。そうしなければ、私は間違いを犯してしまうとよく理解していた。しかし、これといって具体的な行動はとらずに、まだ体の関係には発展してはいなかった。

八月月下旬の日曜日にタトゥーについて聞いてみたことがある。それは十回を超えるころ合いだった。それは、Yと出会ってから数か月が経とうとしていた頃。

新宿の写真撮影禁止の喫茶店をYは少し嫌がっていたが、雨が降り始めたのでしぶしぶといったように入店し、チーズケーキを一口食べると、写真を撮ることもどうでもよくなったようだった(代金は私が支払うのがお決まり)。唇からフォークを抜く姿は最早鑑賞に当たるほど完璧だった。店内には蛍光色のバックパックを膝に挟んだ外国人がいて目を引いた。彼はコーヒーのカップを見て珍しそうに見ていた。出されるコーヒーはカップがそれぞれ形や色味が違うので珍しく思えるのだろうか。客たちのさざめきに埋もれたBGMがかすかに聞こえた。

バンクシードキュメンタリー映画を見て(もちろん、私が支払った)その感想を言い合いに喫茶店に来たわけだが、彼女の琴線に触れる内容ではなかったらしく、映画の話にはならなかった。彼女は芸術作品だけを見たかったのかもしれない。

「それで、ずっと気になっていたんだけど、そのタトゥーってなんで入れているの?」

 一度唇を付けたがカップを離して「まぁ若気の至りかな」とさながらテレビドラマのキャリアウーマンのように爽やかな薄笑いで言った。Yは猫舌なので恐る恐るコーヒーを啜ってから「後悔していないけど」と付け足した。

「いや、タトゥーって何か意味があったりするでしょ? 相手を威嚇するためではなさそうだし。そう、つまり隠すみたいに背中に彫られている訳だし」

「それを聞くなら、これも奢ってよ」

 Yが指さしたのはアーモンドだった。

「全然いいよ」

「やった」

 定員を呼び新しく注文した。

「それで?」

「最初はノリ。大学に入学出来て自分へのご褒美みたいに彫ったの。なんだろう、カッコいいというか、魅力を感じたのが最初で、多分痛いんだろうなあとは思ってたけど、段々自分が変わるチャンスだと思ったのよ。色々あるじゃん。きっとこれからの人生って。その中で変わらないものって欲しいじゃない? やっぱり。それに一応後からでも消せるらしいし。間違いだったと思うのは後からでもいいかなって思った。実際全く痛くなかったし」

 雨が降ってきていた。Yがタトゥーについて話している間に、雨脚は強くなっていき、ゲリラ豪雨だと分かった。店内は煙草の匂いが微かにしている。店主は外国人が会計を済ませようとするのを引き留めている。「今外出たら濡れちゃうから、もうすこしゆっくりしていけばいいよ」と言っているようだった。私は、この雨が止まなければいいのにと思った。そうすればYはずっとここに居てくれるから。笑顔でもつまらなそうな顔でも、どちらでもよく、ただYが動いている様を見れれば満足できる。あの歯並びの悪い口が開き、幼虫のような舌が動くと、喜びにうちしがれ、手が震える。

「ねぇ聞いてる?」

「うん。……聞いてるよ。雨強くなって来たね」

 私が本当に聞きたいことを教えてくれないYは呆れたようにため息を吐いた。店員がアーモンドを持って来て、彼女はすぐにそれをかじった。Yはアーモンドを食べるカリカリという音に乗せて不満を私に伝えた。食べるペースが速かったのだ。

コーヒーに口を付けたが、空っぽだったので、追加でマンドリンを頼んだ。なぜ私はYが不満なのか汲み取ることができないのだと自分自身に失望した。Yと時間を共有したいという欲求が「次はいつ遊ぶ? 欲しい服とかない?」と私に言わせた。

「そういうことじゃないのよ。いや、あなたのそういうところが嫌いなの」

 急に頭が重たくなって、テーブルの木目が目に入った。このテーブルの元になった樹は傾いでいたはずだ。台風で折れてしまったが、しばらくして新しい枝を伸ばし、人間のひじのように折れ曲がり伸びた枝の先っぽでカラスが虫を啄んでいるような、小鳥たちの憩いの場にはなれやしない木だろう。

「ごめん」

 私は本当にYに謝るべきだったろうか? ここで謝ることがなければ私は契約の更新を望むという態度を取らずに済み、私はまだ執着が弱いうちに別れることができるだろう。しかし、彼女に気に入られたいという願望が、子供のような従順さを引き出した。自分が悪くないと考えていても、相手が私を悪と判断していると察せられる場合、考えるよりも先に謝ってしまうのだ。会話や対話を行っても相手を理解できる訳がないが、私は相手のことを知らぬ間に理解したつもりになって、その上で相手が何をするのかを期待していることを自覚して以来、謝ることが最も効率的だと思うようになった。私は相手を知ろうとすることを放棄していたのだ。そのため人に期待することは難しいと信じていた。期待しないほうが、期待するよりもよっぽど良いと思っていた。

「うん、私の方も、なんかごめん」

 Yは蛇口から一滴だけ落ちる水のように、ぽつりと呟いた。薄い膜のような雑音を抜けて、私の耳に染みた。Yがここで、私に愛想をつかしていることは簡単に察することができたし、外を何回も確認しているのを見ていると、はやく家に帰りたいと願っているに違いなかったが、雨がそれを許さなかった。だからYは無理に謝ったのだ。私に向けられた謝罪ではなく、ただ自分のための謝罪だった。平べったい謝罪だった。もしかしたら私たちは自分の中に居る他人を何回もこねくり回して良い印象や悪い印象を勝手に付与して、勝手に嫌いになったり好きになったりするだけで、本来的に相手のことなんてちゃんと見たことがないのだろうかかと、これまた勝手に辛くなった。

 雨が降り止むまでの間、遊ぶ予定を立てた。 秋口に行われるサッカー日本代表を観戦することになった。絶対に負けられない戦いがそこにはあるらしい。それなら引き分でもいいのだろうか。勝てば良いよりも好ましいが、いやむしろ勝てば良いのほうが基準がハッキリしていて分かりやすいのではないか、とも思う。実際引き分けばかりではグループステージ突破の可能性はほとんどないだろう。Yは、そもそもそんなことに興味がないらしかった。選手名も分からないしルールも知らないらしい。ゴールが決まれば楽しく、失点すれば悲しいのだろう。

西日の当たらない家に帰った。窓から見えるのは灰色の外壁を持った高さ二十五メートルの物流倉庫だ。昔は田園が広がり風通しも見通しも良かったのだが、祖父母が子供に金を工面するために土地を売り払い、聞いたこともないような企業が建設したものである。確か、私が三十歳ぐらいになってから、完全に没する日は奪われた。

物流倉庫は変わらず無機質な外壁で夕陽を遮っていた。ここからは沈む太陽は見えないし、もう興味すら湧かなかった。実際、諦める以外にどうしようもなかった。自室のカーテンを閉め、机の上に鎮座する仏のフィギュアの前に煮干しを置いた。十一個目だった。サッカーチームが組める。どの煮干しが、どのポジションをやっても変化がなさそうだった。

ベッドに横たわったまま七時を越え、夕食を作らなければならないとは思ったものの、そういう気が湧かなかった。明日から一週間、仕事が始まるのを受け入れる気にはなれないのだ。月曜に人が死ぬのは五日間、辛い思いをし続けなければならないからのではないかと思った。楽観的に考えれば一日乗り越えればいいと思えるが、これから五日間も同じ時間にタイムカードを押し、辛いこと五日間、そしてそれが六十、あるいは七十歳になるまで続くと想像すると月曜はやはり気が重くなる。そして、日曜は世界が滅びてしまえばいいのにとぼんやりとする。

八時ごろになって、あまりの空虚さに何かをしなければ落ち着かなかった。だからラブドールベビーパウダーでさらさら肌にしてやり、その後ウィッグを洗ってあげた。ウィッグのついていないラブドールは小豆のような形で顔のパーツが誇張されていることをまざまざと露呈していた。顔のパーツが中心に集中しているし、どこか不気味に感じられた。櫛を通し桶に張った温水で揉み、丁寧に髪の毛の流れに逆らわないように撫でるように洗う。シャワーで流し洗い残しがないように、もう一度温水で揉む。その後コンディショナーをしてから優しくタオルで挟み水気を取る。Yと同じ種類の商品を使うと、冷風で乾かしている間の匂いが気持ちを前向きにさせる。一つ一つ、一つ一つやることを片づければいいんだ、焦る必要も不安がる必要もない、怖がらなくてもいい、ゆっくりでいい、だってYが部屋に居るから 、顔をしかめることもないんだ、と。

九時には夕食を食べ終え、ちょうど乾いたウィッグを付けるとラブドールは美しさを取り戻した。私はまた満たされる。風呂に入る。

仏のフィギュアの目に置かれた煮干しが三十八個目になったら自殺しようと思い立った。三九歳を迎えるまでに自分は死ねるかどうかを前向きに考えた。自己憐憫に酔ってはいなかった。解決策として自殺があったので、そこにたどり着くにはどのように進めばよいのかを考えたのだ。リストラの原因となるほどの大きな問題が起こせば死ぬことができるが、しかし生憎自分はそれを実行できるほど純粋 ではなかった。もっと交通事故のような、大きな裏切りが必要だった。石ころのような存在になれば死ぬことを許せると結論付けた。

 

朝起きると四拍子の曲が五拍子になったようにリズムがうかうかしていた。通常通りのつもりが、実際にはタイミングが早すぎるというような狂い方だった。シェービングが一時間早く、朝の朝食が一時間早く、一時間早く家を出た。そこには新しい発見があった。家を出る時間を早くすると満員電車尾を回避できて、かつ会社の近くのサンマルクコーヒーで THE DIVE BRUBECK QUARTET の Blue Rondo ā la Turk を聴くことができるのだ。コーヒーを飲みながら次の会議の資料にぬけがないかを確認しているとアイデアが湧いてきて急いでメモする。浮かれた気分でチョコクロワッサンを手に取り、滔々と目を通す。あまり自分が作ったものに自信を持ちすぎるとそれが駄目だった時のショックが大きくなるので、あくまで失敗するという前提に立つのが基本だ。その分、受け入れられた時の喜びは大きくなる。

煙草を吸っていると占いを見忘れていたのを思い出したので、スマホで確認すると山羊座は一位だったので信じることにした。

 出社してから、USB内の企画案をコピーし鼻歌を歌いながらホッチキスで止めていると、課長が私の変化に気付いたようで、話しかけてきた。

「岩清水さん、なんかいつもと雰囲気、違いますね」

「そうですか?」

「だって岩清水さん、いつもそんな穏やかじゃないですか、もっとこう暗いっていうか。なんか怖いんですよねぇ」

「提案する企画が結構面白いんじゃないかって思っているので、そう見えるだけだと思いますよ」

 企画案を課長に手渡す。課長はそれをぺらぺら捲りながら「あーそうなんですか。いや、なんか自分の子供を見ているようで怖いんですよね」と言った。

「そんな年じゃないですよ、僕は」

「いや年っていうか、変化の仕方が、ちょっと似ているというか……金曜ちょっと飲みに行きませんか?」

課長はそれ以上何も言わなかった。私の変化は課長以外からはおおむね、今の方がずっと話しやすいと言われたし、別に悪い事をしているわけではないので心配される筋合いはなかった。しかし、課長に媚びを売るのも悪くないだろうと思い了承した。

「ああ、いいですね。分かりました」

昼になり行きつけの定食屋まで歩く間に、デイサービスの車が目に入った。私がビジネスに打ち込んでいる間も社会奉仕的な仕事をしている人間が不幸かどうかを考えた。利益を追求し続ける企業と比べて、介護士や保育士などの福祉的な会社は利益が全然生まれないのだろうなと漠然と思った。制度を変えるのが難航している様子から、ビジネスにかまけていれば政党の支持率は上がるのだろうかと思った。それほど関心が薄いのだろうか。考えるのが面倒になった。そんな他人のことを考えられる余裕はない。それに自分の生活が裕福になれば、そういう政策にも目が向けられるだろう。そう、今は自分の仕事を完遂させることだけを考えればいい。そしたら金を得ることができ、Yにもっと会うことができる。彼女の笑った顔を見ることができる。それだけで満足なのだ。

 昼ごはんを食べている途中、Yから連絡が来て私はポジティブになると全てが上手くいくという自己啓発には信憑性があるのだと思った。何か特別な行動をしたわけではないのにも関わらず、好ましい事柄同士をつなぎ合わせると自分を肯定できる気がした。Yも私のことを気になっているのだろうかと、淡い期待を寄せた。

用件は「明日遊ばない?」だった。私はとりあえず父を殺して休日を作った。実際はまだ生きているが、中年が女子大学生と遊ぶとは社会常識的に許されないので、父に死んでもらった。いきなり有休をとろうとすると理由を尋ねられだろうし、尤もらしい理由を作り出す必要があった。課長に「父が死んだので明日は休みにしてください」と言うと、有給取得の許可を出すか差すまいか迷っているような渋い顔をしていたのに、急に晴れやかな顔になって、「それなら仕方がないな。大変だと思うけど頑張れ」と私の肩を叩きながら言った。そして金曜日に飲みに行く予定がなくなった。部下の管理は大変なのかもしれないと思った。課長の頑張れという言葉は、なぜ発せられたのだろう。別に頑張ることではないのに。

午後四時になり、そろそろ帰宅の時間だと思い、キリの良い所で、終わらせた。身体を伸ばして欠伸をした。課長と目があって、笑いかけられた。私も笑い返した。帰宅の準備を終え、五時になるまで、ぼんやりしていた。高橋君が山口さんにパーキングの領収書を手渡している。山口さんは愛想がよすぎて相手に好意を持っているのがバレバレの笑顔を浮かべていた。それは仕方がない。高橋君は山口さんの顔を見れていないから、彼女がそういう勘違いをしても。私の席からだと高橋君が苦虫を噛み潰したような顔をしているのが見える。帰り際、高橋君が佐藤君に愚痴をこぼしていたので、話に混ざった。彼は告白して来たらどうやって断ればいいのか真剣に悩んでいるようだった。

「ブスに好意を持たれると、急に相手が気持ち悪く見えるもんなんですね。初めて知りました」

私は入社したばかりの飲み会で山口さんから聞いた理想の男性像を思い出しながら一つの回答を示した。あの人は男性が告白するものだと思っているから、そこまで気にしなくても、告白してこないよ、という。

電車に揺られている間、山口さんのような勘違いをしないように気を付けようと思った。あんなに恥ずかしいことは、この世に存在しないだろう。

 

翌日。ミニクーパーで大宮駅のロータリーまで行きYを拾った。折角の遊びというのに曇りだった。車が走り出すとYがブルートゥース機能を使って音楽が流し始めた。躁鬱みたいなロックバンドだった。軽快なクリーンギターととりあえず精神が疲弊していることが分かる投げやりさの混じった歌詞が聞き取れた。

「これ流行ってるの?」

 平日だからか高速は緩かった。夏休みは車がぎゅうぎゅうでビュンビュン走っているので運転するのが億劫になるから、これぐらいのほうが気楽に運転できる。 

「いやーどうなんだろう。友達とはそんな話しないからなあ。けどyoutubeだと一千万回ぐらい再生されているから流行っているんじゃないかな」

「へぇ。凄い人気だね」

「多分、みんな同じような気持ちで見てると思うんだよね。なんか感情移入というか、そういう感じで」

 見ているという言葉に若干の違和感を抱きながらも、Yも共感しているのだろうかと少し心配になった。

「Yu-kiはさ、友達と仲いい?」

「えっ、当たり前じゃん。仲良くないと友達じゃないでしょ」

「それならよかった」

「そうだ、聞いてよ。最近さ大学のガイダンスが凄い多くなったんだよね」

「うん」

「なんでだと思う?」

「分からないな」

「正解は就活のせいでした。馬鹿みたいに急かすんだよね。いい企業に入社しましょう、自分が働きたいところで働きましょうとか、凄い価値観の話をしてくるわけね。腹が立たない? 価値観とかって就職するのに大切なの? そもそも働きたい企業って何って感じ」

捲し立てるようにYは言った。私も自己分析が苦手だったし、今も自分の事を理解できているかと言われても自信がない。

「でも、みんなはみんなでインターンシップとかに行ってるし、私だけ何にもしていないのもあって石清水さんとどっか行きたいなって思った。それに友達とはこんな話できないからね。相手のやる気を削いじゃったらいけないし」

「そうなんだ。……じゃあ今日は楽しもう。息抜き、息抜きだよ」

「うん、今日は息抜き。それにいい企業に入ったからと言って人間関係でこじれる事もあるし運だよね」

「そんなの当たり前じゃないか。そもそも就職できないからと言って死ぬわけではないんだから」

「だよね」

 そう聞いてからシートに深く身を沈めたYは何も見ていないような目をしていた。綺麗だった。

「不思議だわ。友達よりも岩清水さんの方が自分のことを話しやすいなんて。正直に言って、会うたびに私は安心するのよ。貴方の事はほとんど知らないし、貴方の事を本当に信頼しているとは言えないけど、なぜか安心する」

「僕もだよ」 

 友達と言ってもなんでも話せるような親友というのはなかなかいない。善人も同じくいないかもしれない。何か嬉しい事が起こり、それを話してみたところで相手が全く興味を持たなかったので、話した内容が本当に嬉しいものだったのか疑うことがよくある。そうなると嬉しい事柄が、どうしてもつまらない出来事に収斂される。

 

 パーキングエリアについて昼食を取り終えた時には、湯気のような雲がちょろちょろあるだけで、画用紙を張り付けたような青い空から陽の光を浴びることができた。空気はもうすぐ夏になることを忘れているように優しかった。地方の空、これからもうひと踏ん張りと思い、両手を空に伸ばした。

 

「そういえば彼氏と上手くいってる?」

 高速を降り、あともう少しでアウトレットにつくあたりで、気になっている事を聞いた。もし話したくないことであったのなら、着いた時に話をすぐに変えることができるからだ。

「最近は、あんまり。ちょっと会えないかな。やっぱり彼も就職を意識しているし、そんな時に、私が就活を全然やってないってバレちゃうと、ほら、やっぱり申し訳ないような気持になっちゃうから」

窓から入ってくる風がYの髪の毛で遊んでいる。少し伸びてきていてボブに近くなっている髪の毛は赤いゴムで後ろにまとめられており、うなじのタトゥーがかすかに見えた。駐車場の案内が出てきたところで窓を閉めた。

「なるほどね、そういえば彼氏は梯子みたいなタトゥーのこと知ってるの?」

 出来るだけ歩かないで済むようにアウトレットに近い駐車場を探しながら聞いた。皺だらけのカーキ色の服を羽織っている丸まった背中があった。セミの抜け殻のようだった。あの人は謝りすぎて腰が曲がってしまったのかと想像した。

「私の?」

「うん」

「いや梯子じゃないよ。ジッパーだよ」

「ジッパーってなに?」

「チャック? ファスナー?」

「ああ、なるほど」

 右折する。

「彼氏には知られていない。多分ね、知られたら良い顔してくれないし」

「若い人ってタトゥーとかに偏見がないと思っていたけど、違うの?」

「人によると思う。人それぞれってやつ。彼氏は真面目だし、あんまり身体に彫るっていうのは好きじゃないと思う。だから隠すの」

 空いている駐車場を見つけて入れる。チェンジレバーをバックに入れて車を停める。絶妙なタイミングだと思った。自分がYに処女かどうかの確認を取ってしまいそうだったのを抑えることができたから。

 

 Yは夏が始まるということでワンピースを欲しがったので奢った。彼女が試着してくれた姿を見ると私も欲しくなったのもある。試着している姿を見ていると店員が話しかけてきて私の事を「叔父さん」と言ったので、とても良い設定だと思った。 そうして何着かと小物を奢ってからレストランに入った。

彼女の話を聞いていると自分まで若さを取り戻したように思える。あのブランドが良いといったことや、あのアニメが面白いだとか、あの音楽が良いだとかそういった話だ。何かに興味を持つことが難しくなったからこそ、Yの話を聞くと自分も若くなったのではないかと錯覚する。スマホに映った画面にはMusic FMや無料アニメチャンネルという文字が見えた。無料で見ることができるらしい。いくつか勧められたものの、どれを選べばいいのか分からなかったので、気が向いたら見てみると返答した。

 

帰り道、暗くなった高速道路を運転していると、アウトレット品ということは普段から彼女に奢る物よりも値段が安く、もしからしたらYは私に気を遣ってくれたのではないかと思い当たった。そう思うとYが愛しく感じられた。チラリと顔を一瞥すると眠っていた。

橙色の灯りの下を走る度に、Yの唇の横に涎が伸びていて光を反射していた。それを見た途端、皮膚の裏側から劣情が滲み始めた 。台風が窓を叩いているよう音が頭の中で響いている。段々と息苦しくなりどこか休憩する場所がないか考えた。ラブホテルが一番に思い浮かんだ。肌に張り付いたシャツの胸元を引っ張って空気を送る。嫌な汗だった。過去前例のない興奮にアクセルを踏む足に力が入った。

路肩に止めた車の中で、私はジーンズのチャックを開けた。夏休み初日の小学生のように笑顔を振りまきながら空気に触れたペニスをじっと見つめた。どす黒い紅から鼻の奥をツンと指す匂いがして窓を開ける。

端的に言って、私はマスターベーションをした。Yの唇はだらしなく中途半端に開かれており、その唇に血管が浮き出たペニスを擦り合わせるさまを思い描きながら三擦りで射精した。勢いのあまりハンドルに張り付いた精子をウェットティシュで拭き取った。そのままペニスを拭き、ジーンズの中に仕舞った。ウェットティッシュはポケットの中に詰め込んだ。

シートに身を沈めた。確かに自分は早漏だがここまで早いのは初めてだった。もしかしたら付き合っていた女性と関係が続かなかったのはそのせいではないのかと、原因をそこに求めたが、これまで一度も恋人がいたことはなかったし、だから一度も性交はしたことはなかったし、これまで信じてきた、自分は過度に相手に気を使いすぎる仮説の方が優しい人間のように自分を捉える事ができるので、曖昧なままにしておくことにした。

なにも期待せず悲しみに身を沈めた時にこそ景色が美しく受け止められる。ほっとするように、するりと魂が自分から離れて、目が認識するのをやめる。ほとんど無の感覚のなかで走り抜ける光が胸に迫った。ごうごうと音を立てて走り抜ける車はやけにトラックが多く、自分の家の前にある物流倉庫に流れ着くトラックが混じっているのかもしれないと思った。

「あれ、どったん?」

 Yが目を擦りながら私に尋ねた。

「ちょっとね。休憩」

「あ、そう?」

「あのさ、Yって処女?」

 私は迂闊にもそれを口に出してしまった。狭い車内の中でYの顏には瑞々しい恐怖が浮かび、しかし何事もないように振る舞おうと震えた声で「どっちだろうね」と彼女は言った。

「ごめん、別にそういう気はなくて」言えば言うほど自分が処女について拘っているような気がした。否定しようとしても無駄だった。 「なにか正当化しているように聞こえるかもしれないけれど、彼氏はそういうセックスとかしないで関係が続くものなのか凄く気になって。僕はこれまでそれが理由で女性と関係が続かなかったかもしれないんだ」

 ウィンカーを出して走り出した。そうすればYに対して手を出すなどをする気がないという態度を取れると判断できたからだ。

「それは分んないよ。だってこの先も関係が続くとは限らないし……けど今まで、一年とちょっとは続いてきたから、多分それなりに続くんだと思う。私はそうしたい」

 自分の経験を離れて何かを話すといつも嘘めいたこだまが生まれるのをYは理解しているのか、それとも暗に私と性的な関係を持ちたくないと言っているのか、判断が付かなかった。しかし経験に基づいて話す言葉は、そのすべてが正しく、かつ嘘であるのも知ってるのだろう。だから私に答えを差し出したりは出来ないのだ。

「そうだよね。別に僕はYにそういうことを期待して支援しているわけじゃないから安心して。けどやっぱり否定できないこととしてタトゥーをちゃんと見たいっていうのはあるんだ」それが性欲と結びついているかどうか自分で否定することはできなかった。

「そんなの性欲と結びついているに決まっているし、あなたの女性観が歪んでいる事の証明なんじゃないの?」

 違うとは言えない。それは認めざるを得ないが、受け入れがたさがあった。しかし、どう反駁したらいいのかもわからなかった。私は潔白でなければならなかったのかもしれない。性欲と結びつかないように、抑圧しなければならなかったのだ。

「分からない。けどタトゥーが見たいっていうことだけは確かなんだ」

「なにそれ、全然分からない」

「分からなくていいんだ。ただ、だからと言って君を襲ったりなんかしないということだけは分ってほしい。誓うよ」

「やっぱり、あなたは根本的に間違っているのよ。ねぇ言ったでしょう。あなたに信頼なんて寄せていないの」Yの声が震えていた。「まぁただ岩清水さんの目的が分かって少し安心した。可愛いってだけでお金を寄与してくれる存在なんているわけないって分っていたし、やっぱりって」

 私はペニスに遅れてきた精子を感じて、自分を酷く惨めな男だと思った。

 

 Yを大宮駅まで送ってから(彼女は一人暮らしをしていて大学の近くに住んでいるらしいが、それは秘密にしておくのがルールだった)カーシェアの駐車場にミニクーパーを返し、課長に明日も出勤できそうにないとメールを送っておいた。二十三時を回ったところだった。

そのまま大宮の鳥貴族で時間を潰していると、昔よりもずっと酒に弱くなっていたのに気が付いた。友達が妙に恋しくなった。ただ、話を聞いてもらいたかった。その内容が倫理的に許されない事であっても、最後まで聞いてくれる友人が。いくら焼き鳥を食べても腹の中には満たされる感覚はなく、満腹感だけが先行していた。時間が過ぎれば過ぎるほど空虚さはいつのまにか投げやりさに変わり、これまでの失敗を思い出すたびに、自分の中でどうでもいい部類にカテゴリー分けされた。妙に落ち着いていた。

午前三時にマクドナルドに入った。Mサイズのコーラを買い窓の外をぼんやり見ていた。もう終電がないから家には帰れなかった。酒を飲まずに帰るべきだったと後悔しながら、私と同じように終電を逃した人たちを気に掛けた。マクドナルドは変わることなくマクドナルドであり続ける。しかし、誰も食事をしておらず店内は、昼間のごった返した雰囲気ではなかった。あの包み紙をくしゃくしゃにする音や咀嚼音や足音や話し声が聞こえず妙に静かだった。時間が止まったかのように思われるが、時折クルーが見回りに来て寝ている人に「ここは寝る場所じゃないですよ」と言い起こし続けていた。あのサラリーマンが注意を受けるのはもう三回目で、割に怒気を孕ませた声色でクルーは起こしている。ここの従業員たちは毎晩、毎朝これを繰り返していると思うと素直に尊敬できた。

始発が出るのは午前五時二十五分だから、あと二時間はここにいることになる。もしかしたら幸福なのかもしれないと思った。二時間、なにもできない、あるいはしなくていいのだと諦められる時間は普段暮らしている時には味わう事ができないからだ。自分が求めていた癒しがそこにはあった。みな見知らぬ人で、しかし同じ状況で、親密感が湧き、眠い目のまま時間が流れるのを待つという。

人間は椿の花のようなものなのかもしれないと不意に思った。椿の花が落ちる瞬間は一度も見たことがなかった。同じように人が死ぬ瞬間を一度も目にしたことはない。だから知らない間に花が咲いていて(店内にいる人間のように生きていて)、いつのまにか地面に落ちているという点(いつの間にか死んでいる)では椿に似ている。よく人間の頭が落ちるようだから植えないほうが良いと聞く。しかし、それでもうえる人間が存在するのは、それを見つめていたいと願う人間がいるからではないか? それはきっと悲しくはなく、ただ慈しむことができるからというだけのみの理由で。

Yに会いたいと思った。今なら性欲も願望も関係なく、ただ会うことができそうだった。まだ起きていれば良いなと思いながらメッセージを送ると既読だけが付き、返信はなかった。

 夜が明ける瞬間はいつやってくるのか、いつも分からなかった。朝が来れば夜が明けたことになるという自然に異を唱える気はさらさらないが、夜の空気を連れたまま朝を迎えるの方が実感として残っていた。だが、ようやくわかった気がする。明朝の空気はため息が少ないのだと。その瞬間が、夜が明けたということになるのだろう。

 午前五時十分になった時、私は外に出て煙草を吸った。日の出前の街はタクシーのテールランプがやけに映えていた。

睡魔のせいで駅のホームで鉄のレールに吸い込まれそうになった。自分が思うより先に身体が反応して黄色い点字ブロックの上に右足が乗った。私はそれに驚いて改札のあたりまで歩き暖かい飲み物を買い、ベンチに腰掛けた。もっと厚着してくれば良かったと思った。

 電車で座っていると身体が非常に怠かったが、目は冴えていた。電車に揺られている間、歪んだ外灯と交じり合う家々の窓から溢れる光や、朝日を浴びて濡れたビルの外壁が輝いている様、見慣れた駅のホームが見慣れないものに変わっている時間を忘れないようにしようと思った。

 最寄り駅に着くと向かいのホームから高校生が電車に乗りこんでいるのが見えた。改札を出てTSUTAYAヤオコーとビバホームの順番で横目に写し、コンビニで煙草を吸った。どこの駐車場も車がないのが不自然だった。

駐輪場には自分の自転車がなかった。鍵を掛け忘れたからといって、すぐに盗まれるような土地ではないはずだが、盗まれていた。家に帰らなかったのを咎められている気がした。仕方がないので歩いて帰ることにした。

足が勝手に通っていた中学校の通学路をなぞった。空気が澄んでいて鳥の鳴き声がよく聞こえる。割れたコンクリートから記憶にない懐かしさが匂い立っている。中学校の横に物流倉庫が建設されていた。それを見て、元々なにがあった土地だったか思い出せないのに気が付いた。田んぼだったような気もするし、違うかもしれない。過去の記憶が物流倉庫によって上塗りされているように思われた。何も変化がないと思っていた土地に、ゆるやかな変化があったことを知った。

 二十分ほど歩いて自宅兼、死んだ祖父母の家が見えた。家の影が物流倉庫に張り付いていた。その光景がやけに胸に迫った。これまで太陽が沈むのを見れないことを恨めしく思っていたが、初めて見る光景に目を奪われた。物流倉庫が違う顔を見せた。その衝撃のさなかで影になりたい気分になった。

自室に入るとラブドールが私を迎えてくれた。オナホールの箱が地面に転がっている。取りだしたはずみでピンクのシリコンがぷるぷる震えた。人肌に暖めたオナホールを初めてラブドールの股の穴に差し込み、ローションをたらしコンドームを付けてゆっくり挿入する。そんなことをするのはYへの裏切りのように思われたが、無理だった。

Yに会ってから、ラブドールの鑑賞の価値がなくなったのにも気づいていた。本来、無償の愛を捧げていたラブドールを制の対象へと格下げするという、罪悪を認めながらも止まらない腰、まさに罪悪感によってこそ生まれる興奮が私を自涜に押し流した。私は私で満たされている。死体のような理想の腰回りのぬくもりは私の体温が乗り移っただけだが、これがYの体温だったらどれだけ良かったろうか。頬の輪郭をなぞると、うっとりとした嘆息が漏れた。墨色のショートカットから覗く半月の耳が好きだ。声を発さないラブドールの開かれたままの目から私の涙が零れた。「ごめんなさい」と謝ると同時に射精した。

Yに襲いはしないと誓ったのにもかかわらず、こうしてラブドールを通じてYと性交することを想像するのは、おそらく無能さを実感することを求めているのかもしれない。自分が無能だと分かると安心する。何もできない人間として自分を受け入れられる。それはもしかしたら癒しなのかもしれない、それもマゾヒズムを隠れ蓑にした諦めという癒し、だ。恋人がいないこと、結婚ができないのも、うだつがあがらないことにも、やっと諦めることができる気がした。三八歳で死ぬというのも自分で自分に出した、とりあえずの処方箋のようなものだったかもしれない。頑張らなきゃいけないのに頑張れないから、自分の中でゴールを設定して、それなら頑張ってみようと思うための処方箋。死にたくもなく、死ぬ意味も分からず、しかし生きたくもないのなら、もう自分を許そう、諦めてしまおう、そう思った。

お腹が空いた。胃の中でスーパーボールが跳ね回っているような感覚を連れて、台所で湯を沸かしインスタントの味噌汁を作った。飲むと一気に肩の力が抜け、眠くなった。私はガラスケースを持ち上げ仏の前に煮干しを置いた。十二個だった。サッカー日本代表の観戦チケットが目に入った。まだYは会ってくれるだろうか、今度会った時には、上手く接すれるだろうか、と思いながら眠りについた。

 

2 

 

Yからの返信は翌日には来ていた。一三時に起きてからスマートフォンを開くと「彼氏が会いたいって。けど、その前に暇だし夏祭り行かない?」と短く用件が送られてきていた。課長からも「色々と大変だと思うけどあんまり焦らないようにね」と返信が来ていた。「今週の日曜なら空いている」とY返信し、課長には「ありがとうございます」と返信した。その後、私は外食をしにイオンモールへと向かうことにした。新調したウォーキングシューズを綺麗なU字型になるように締め、膝に手を当てながら立ち上がり、踵で地面を何度か叩いてから玄関を出た。彼氏が話したいといっている内容を想像すると、私は不安になった。いや、不安が先にあったのかもしれない。Yに拒まれるかもしれないと恐れている状態で、彼氏と会って欲しいと言われたら、不安になるのも当然だと思うことにした。

歩きながら、空き地や工場、軽トラックの中古販売店接骨院が多いのに気付いた。もしかしたらコンビニよりも接骨院の数の方が多いのではないかと思われた。その足でイオンに向かい、夏休み中の子供たちとすれ違いながら、回転ずしに入った。このあたりで遊ぶ場所はイオンぐらいしかない上に、東京で買い物するほどの財力を持たない子供たちは自動的にそこに屯する。私は年齢を重ねるごとに個人が経営している店ではなく企業の経営している店が好きになっていった。それは人間を平等に客として見ているからであり、自分の境遇を知られずに済むからだった。私はその無関心さを気に入っていた。その後、酒と煮干しを買い、ネットフリックスであまり興味の無いドラマを垂れ流しながら酒を飲んだ。しかし、どう楽しめばいいのか分からなかった。

 

Yと私の関係は両者が会いたいという合意の上で成り立っていた。しかし、そこに純粋さが消え去った。たとえそれが演技であっても、下心を隠しきらなければならなかったのである。だが、私は演技をする余地も残さないほどに、純粋になることを決意した。つまるところ、私も好きな人に自分のことを好きになってほしかったのだ。

鳴り響く嬌声の中で下駄のカランカランという音が響き、私には誰がやって来たのか直ぐに分った。あの日、Yに対する性欲をラブドールにぶつけることで、彼女とのささやかなふれあいの間の性欲を相殺することに気が付いた。Yに対する態度は以前、ラブドールに接していたような奉仕の心を原動力にしようと決めている。

「あ、お待たせしました」

Yの浴衣姿は最初に出会った時と変わらずに、華奢な身体はすぐにでも折れてしまいそうで、どこか儚かった。私は歓喜した。Yが着用している浴衣は私がプレゼントしたものであり、彼女の白い顔が一層映えるように赤を選んだのだ。それを彼女が着てきていることに、なんともいえぬ喜びがあった。

「あ、大丈夫だよ。凄い似合ってる」

「ありがとうございます。じゃあ行きましょう」

 はにかんだYが私の先を歩き始めた。白いうなじにはタトゥーが見えなかった。しかし、私は気になりはしなかった。Yがタトゥーを消していたとしても、私はYに対して潔白であろうと決めたのだから。

 人の波を泳ぎながら私はYの顔を何度も確認した。十二回目である今日を、これまでうやむやにして来ていた、性的関係を結ぶことが目的ではない、と証明しようとする日にしていた。これは、彼女への誓いを意味していた。彼氏がいても私はYのことを大切に思っているという誓い。第三者から見れば祈りのように見えるだろう。

自分自身に対して言及する言葉の内に潔白の要素を含む言葉を配置することによって、私は自分を抑制するようにし始めていた。たとえそれが打算的であっても、可能であると考えていた。

「あ、叔父さん、これ買ってよ」

「ああ、いいよ。まかせて」

 私は財布のチャックを開けて、お釣りが返ってこないように金を払った。屋台の豆電球の光を反射している林檎飴がYの唇に触れた。その姿が美しくて新しくデジタルカメラを買おうか悩んだ。Yは腹をすかしているのか、その後もよく食べ物をせがんだ。

「気になっていたけど、そんなに屋台のご飯って美味しい?」

「え、美味しいじゃん」

「屋台のご飯って衛生上よくなさそうだから、あんまり食べたくないんだよね」

「え~だからいいんじゃん。ここでしか食べられないんだから」

「ああ、確かにそうだね。特別な感じがする。僕も買おうかな」

 Yは「だったら私の分もお願いね」と言った。じゃがバターを買ったが、やっぱり美味しくなかった。私とは裏腹にYは美味しそうに食べていた。唇の端についているマヨネーズが美味しそうに思えた。しかし、私はすぐにそれを打ち消した。

 歩き続けて神社の前まで来た。屋台の列が途切れて、そこだけ違う世界のように思えた。しかし、それが普通なのだろう。この時間なら暗くて当然であって、今日は夏祭りだから暗い境内が妙に特別に思えるだけだと自分に言い聞かせる。

「お参りしておく?」

 私はなぜが声を潜めてYに話しかけた。返事がなかったので、もう一度呼びかけるように声を張って「参拝しておく?」と言った。

「しな~い。だって屋台のご飯と花火を見に来たんだもん。ねぇ戻って花火が良く見えるところ確保しようよ。あ、やっぱ待って。写真撮らせて」

 Yはスマホを取りだして、賽銭箱の前に上がり、境内までの道を見下ろすような角度で、写真を撮っていた。私はそれを見上げて、Yこそが私の神様なのではないかと勘違いしそうになった。浴衣の時は下着をつけていないと聞く。それが都市伝説程度のものだが、信じておきたいと思った。そして、その上で自分の潔白さを見つめようとした。

「あ、叔父さん。ちょっとこっち来て」

 急いでYの下へと向かった。それこそ犬のように走ったつもりだが、年のせいかあまり速くはなかった。「どうしたの?」

「いや、写真に入っちゃうから」

「ああ、そうだね。気が利かなくてごめん」

 そう言ってから、私はYのスマホに映る屋台の列を見た。別に綺麗でも何でもなく、ただの屋台の列だった。しかし、こうでもしないと屋台の列をまじまじと見る機会もなさそうだった。私は賽銭箱にお金を入れるか迷ったが、Yがしないのなら自分もしなくていいだろうと思った。実際、祭りの集客が多いにもかかわらず神社は赤字が多いと聞いたことがある。地域住民からの苦情も後を絶たないと聞く。やはり日頃の感謝やYと遊べたことを感謝して賽銭を入れようと財布に手を伸ばしたが、下から「はやくいこ」と聞こえたので、急いで階段を下りた。神社なら年中行事である祭りを無くすことなんてできるはずがないのだ。だから別に今じゃなくてもいいだろうと思うことにした。

芝生に敷いたビニールシートの上に座り、買った酒を開けて乾杯した。座り心地が悪くて時折、腰を浮かして落ち着く場所を探す。酔ったままYの顏を見ていると「本気で好きになって良いのだろうか」と思ったが、馬鹿馬鹿しくて笑った。それを見たYも笑った。

「初めて笑った顔を見た」

そう言われて気が付いた。取り消そうとしたが、笑みが顔面に張り付いてしまっていた。顔に力が入らなかった。もし、何も望むことのできない状況を幸せと言うならば、今は幸せだった。幸せだから何も望まなかった。

人が集まるにつれて花火への期待も高まった。段々と笑い声も聞こえ始めたが、アナウンスが入ると、一瞬にして静寂が訪れた。猫の媚びた声のようにか細く、よく耳に通る音が聞こえ、光がある一点まで登ると開く。遅れて音がやってくる。それに重ねるように子供の甲高い叫びが聞こえる。それに遅れて大人の声がする。私の隣からも聞こえた。私は花火が苦手だ。破裂する一瞬を、やがて消えてしまうものを、好きになることができない。対象がなくなり、愛だけが残ってしまうから。そして、そのうち花火という言葉の儚い印象と結びついてしまい、どうも嘘っぽくなって嫌な感じが生まれる。

隣を見ると顔を赤くしたYが居た。私はどうしようもなくドギマギしてしまったが、新しい花火が上がるとYの顏は緑色になった。私を徒労感が襲った。しかし、その諦めが私の性欲を衰退させることも知っていた。聞こえる「たまや」という声が重なり会い「たまたまや」と聞こえた。つい笑ってしまった。いや、もうずっと口角が緩んでいる。私は酔いと花火に任せて「めっちゃ好きだよ」と言った。Yの顏が青く光っていた。

人混みの中を歩き駅までたどり着く間、私は時折、振り返りYに向けて「花火綺麗だったね」と尋ね続けていた。しかし、碌な返事が返ってこなかった。それほどまでに道は人で溢れていた。縁石に座り込んでいる若い女と、その隣にはボックスロゴのTシャツの男がいた。私はYの三歩先を歩いている間、彼女がいつのまにか消えてしまわないか気が気でなかった。

駅の改札前まで来るとYの顏は青白く、唇は色を失っていた。私は心配で一杯になって水を買ってYに飲ませ、しばらく背中をゆすっていると初めてYの身体に触れることができたと思った。そして勃起しなかったことに対して、自分を肯定した。

「ごめん、ちょっとトイレ行っていく」

 汗の量が尋常でなかったので私はバッグから新品のタオルを取りだし手渡した。

「わかった。待ってるね」

 私はトイレの前で通り過ぎていく人々を追っていた。同じような形の服を着ているのに顔はそれぞれ違った。しかし、みんなお祭りを楽しむためにここに来て、散り散りに家に帰っていく。来年の夏になったら彼ら彼女らはまたここに来るのだろうか。

ぼんやりしているとYが戻ってきた。まだ顔色は優れないので肩を貸そうと近づくとYは「大丈夫」と言ってやんわり私を拒否した。汗のにおいが頭の澄んだ部分に入り混じった。少しよれている浴衣から覗くうなじは、不自然に膨らんでいて、中を覗き込むとタトゥーがあった。Yはタトゥーを隠すシールを張って来ていたのだと分かった。Yはあまり酒を飲んでいないようだったが、体調の崩しようから見ると酒に弱いのだろうと察しがついた。

 

私は家に帰った後、同じようにラブドールの背中を撫でたが、何かが足りなかった。決定的に何かが欠けている、という確信はあったものの、それが何であるか判断するには勇気が足りなかったとも言えるだろう。ラブドールの両頬を両手で覆ってみても、その唇にキスをし舌を忍び込ませても決定的に欠けていた。あの場面の再現しようとして、作り上げられたのはYの特別さだけであった。不満足ばかりが残った。しかし、その分私は喜びを享受した。それだけYが本物であるように感じられるからだ。そして私はラブドールと性交した。

 

日曜日の昼間、大宮駅でストリートミュージシャンが自分の現実という生活感情の無い物事を歌詞とメロディーに乗せて歌っていた。共感して欲しそうに声を張り上げていた。しかし十メートルも離れると歌詞が聞こえなくなった。違うミュージシャンは人生の素晴らしさについて歌っていた。五メートル離れると何も聞こえなくなった。ローソンの前の喫煙所で煙草を吸っているとYから連絡が入った。彼氏はもう私と会う準備を終えているらしい。

約束通りにタリーズコーヒーに向かった。紺色のセーターを着た男が窓際に座っていた。あれがYの彼氏か、と私は妙に緊張しながら思った。美形とは言えないが清潔感があった。つまり公務員を志望してそうな身なりだった。

Yの彼氏は聡という名前だった。私は聡に軽くあいさつしてから手荷物を席に置いて、ブレンドコーヒーを買った。私が席に着くと聡は「叔父さん、今日はありがとうございます」と言った。上手く目を見れない私を見透かしたように、嘲弄のまじった声だった。

「ああ、うん。それで、なんで?」

 若干、しどろもどろになりながら、用件を尋ねた。聡は一度眼鏡の位置を直してから、まだ私のことを何も知らないのだと安心させる言葉を放った。しかし、その安心は私をすぐに違う方へと導いた。

「いや、叔父さんのこと考えると、忍びないんですけど。単刀直入に言いますと、なんか悠貴さんはパパ活っていうのをやっているようなんですよ。それも複数人と。僕もあまり詳しくは知らないんですけど、多分やっていると思います」

 私はYがパパ活をしていることに衝撃を隠せず、顔が歪んだ。

「叔父さんの気持ちも分かります。ですけど、僕も同じ気持ちです」

段々と弱くなっていく彼の声に、どこか自分が情けないのを恥じているように感じられた。先ほどの嘲弄の混じった声は彼自身に対するものだったと理解した。聡にしてみれば、友達でもなく知り合いでもない上に家族でもないパパと彼女が遊んでいることが、自分の情けなさと結びつき、結果自分もYも許せない状況に陥っているのだろうか。

「正直、もっと楽しい話をするのかと思っていたけど、まさかこんな話になるとはなぁ」

 Yは誰のものでもないと理解していてなお、私と同じ領域に生息するパパがいることが許せなかった。これが彼氏や友達、両親ならば許す ことができたが、私と同じか年上の男性に金を工面させているのなら、私はそのカテゴリーの中での序列が決まっていると想像することができてしまうため、じりじりと肌を炎で焼かれているような痛みを感じた。

「それで、Yがパパ活をしているって証拠はあるの?」

 私がそう言うと聡は口角を釣り上げ私の気持ちに共振したように怒気を孕ませた声で言った。

「確かに叔父さんからしてみれば、肉親がパパ活をやっていないって信じたいものだと思いますよ。けど、現実は違うんですよ。僕と悠貴が付き合い始めたのは大学入学してからで、そのころはYの質素さが好きだったんですよ。必要最低限のおしゃれしかしないというか、身の丈に合った幸せを探そうとしているというか。ですけど、ちょうど十月ぐらいから彼女の服のバリエーションが増えたんです」

「それが、パパ活と関係しているの?」

「しているんです」彼は断言した。「元々彼女は北海道からこっちに出てきているのも叔父さんは知っていますよね。それで両親の代わりに叔父さんが困ったことがあれば面倒を見てくれているって悠貴も言ってましたし。けど、悠貴は奨学金を借りているはずで、いきなりたくさん服を買えるような状況じゃなかったんですよ。アルバイトして捻出していましたが、普通はあんなに買えるわけないんです」

 聡は割合に大声で喋っていたことに気が付いたのか、こちらに顔を突き出して打ち明けるような態度で話し直した。初老の男性が私たちの方を見ていた。その眼がラブドールの眼と似ていることに気が付いた。見られている人間を試しているような気迫がある。

「それで、僕は違和感を覚えたんです。悠貴にアルバイトを増やしたのかと聞いてみたら、そうだと言ったので、最初は信じました」

「そうなんだ」

 初老の男性は視線を本に戻した。新書サイズで青い表紙だった。あれは小説だろうか、それとも新書なのだろうか。老年になれば行動せずに本を読んでいても良いのだろうか。

「もうちょっと真剣に聞いてくださいよ。僕は悠貴と本当に結婚を考えてもいるんです。そしたら僕も肉親になるんですよ」

「ああ、ごめんね」

 正直なところ、もう話は聞きたくなかった。聡はYと結婚する前提で話を進めるし、Yは私以外のパパを持っているらしいし、私はもうどうしようもなく逃げ出したくなったのだ。

「それで悠貴に聞いてみたんです。最近、すごいおしゃれだねって、どうして? って。そしたら悠貴は僕のためだって言うんです。自分のことを好きでいてほしいからオシャレするんだって。僕は本当のことを言って、と詰問しようとしました。けど、出来なかったんです。悠貴が僕のためを思ってパパ活をしていると思いたかったんです。ですけど、僕はそれとは関係なく、心配で、パパ活とかやっていないよねって聞きました。そしたら悠貴は僕に謝って来たんです。それで複数人とパパ活をやっている事が分かったんです」

「なるほどね」

「叔父さんはどう思いますか?」

「そりゃあ辞めさせたいよ。けど、僕はあくまで悠貴になにかあった時用のセーフティーネットみたいなもので、そこに立ち入って良いのか迷う」

「それは」聡は腕を組み、しばらく黙った。そして「薄情ですよ」と言った。

「うん、その通りだと思う」私は薄情者だと責められている気がした。そして自分でも薄情だと思った。「だから、僕の方から悠貴にも言ってみるし、彼女の両親、つまり僕の姉に言ってみるよ。だから、ちょっと待っていてくれないかな 」

「まぁそれでいいですよ」

 聡はコーヒーを啜り、憮然としない顔で私を見ていた。それまでの話の余韻で空気が重く感じられた。しばらく何をしゃべったらいいのかを考えていると、彼はスマートフォンを取りだし弄りはじめた。私は、その行動がもう喋りかけなくても良いというサインなのか、それとも逆に話しかけて欲しいというサインなのか、判断できず、聡はYの秘密をしゃべってくれたのだから私も同じようにYについて話すことにした。

「そういえば、結婚を考えてるって言っていたけど、どこまでいった?」

 すぐさまスマホをしまった聡を見て、私はこれが正解なのだと安堵した。

「なんでそんなこと言わなきゃいけないんですか」

 その言葉とは裏腹に話したくてうずうずしているようで、眩しかった。彼は自分のことを話したくてたまらないという若さがあった。そこにはYと結婚したいのだという意思があった。人間には意思があるらしいが、その言動が無条件に正当化されるのは若さしかない。若ければ失敗してもいい、若ければ楽しんだ方が良い、そういった気は実感としてある。歳をとればとるほど、失敗はしにくい。つまるところ聡の意思は若さによって既に正当化されており、相対的に老いた私と比べると、彼の言動は全て正しいものであるように思われたのだった。

「いいじゃん、別に減るもんじゃないし」

 実際減る。言ってしまったら秘密が一つ減るのだ。しかし、物質的にはなにも減らないので、私はそう言った。

「そうですけど。まぁ、叔父さんになら言ってもいいですかね。キスぐらいですかね。僕はやっぱり、結婚するまで、そのセックスはしたくないです。なにか自分の中で儀式めいているんですよね」

 なんとなくだが、聡は私の若い頃に似ている気がした。そしてYが処女である可能性が増したことに対して、喜んだが、すぐに打ち消した。

 私は彼にYのタトゥーについて話すのを迷い、ぬるくなったコーヒーを啜った。タトゥーが理由で彼がYに対して良くない感情を抱いてしまうことで、二人の関係が崩れてしまうことが嫌だった。それは私がYのことを好いていても、彼女の生活に関しては深入りすることに対して躊躇いがあったことに由来する。

そして、叔父という設定の私から、それを聞くとなるとやはり違和感があるのではないかと思った。なぜこいつはそこまで知っているのだろうかと思われてしまった場合に、どう説明して切り抜ければいいのか私は考えていなかった。育ての親でもない私が、彼女の身体に関する事柄を知っているのならば、やはり聡は疑念を抱くのではないだろうか。しかし、

「そうなんだ。じゃあ、もっと積極的にならなきゃね。けど、君みたいに貞操観念がしっかりしているなら、もしセックスする時にはYを嫌いにならないで欲しいんだ」

 聡の顏が鶏のように前に出た。眉は八の字。私は慌てて「いや、なんでも悠貴はタトゥーを入れているかもしれないってことで」と付け足した。

「え、そうなんですか。それっていつからですか?」

「いや、僕も詳しくは知らないんだけど、大学に入ってからじゃないかな。確かそういう話を聞いた記憶があるんだよ」

「記憶って、一番頼りないですよそれは」彼は口角を釣り上げながら「けど、大丈夫ですよ、安心してください。もうそれぐらいでYのことを嫌いになったりしません。なんていったって、パパ活をしている悠貴のことを好きでい続けられているんですからね。それに僕は将来、公務員になって安定した暮らしをする心算なんです」と言った。

 本当ならば私は安心するべきだった。私がYのことを本気で愛していれば、聡がYを愛していることを喜ぶべきだったし、安心するべきだった。しかし、それよりも先に得も言われぬ苛立ちが起こった。なぜ、この男は悠貴のことを嫌いにならずに、結婚まで考えることができるのか。なんで何をしても嫌いになることができないなんて思えるのだろう。全身を流れる血液が速さを増していた。私はどこかで聡がYを嫌いになってしまえばいいと思っていたのだろう。そうすればYは私と遊ぶ機会が増えるだろうし、私がYに好きになってもらえる機会があるかもしれない。しかし、自分がそう思っていることに気が付くと怒りはなくなり、あの馴れ馴れしい虚無が私を襲った。お前は三十八歳で夢も希望ももてない人間なのに、若い女の子が自分を好きになってくれたら良いなと希望的観測をしている、それを恥ずかしいと思わないのか? それにYには同じ年齢の彼氏がいるのに、それでもYを略奪できると考えているのか? 聡ほどお前はYを好いているのか? と自問自答の末、私は「それでもYを愛し続けよう」と覚悟する他なかった。しかし、その背後には「三十九歳になるまでに死ぬのだから考えなくともよい」という諦めがあった。

「そうか」

 そうつぶやいた私は背もたれに寄っかかろうと重心を後ろにずらしたが、椅子には背もたれがなく、危うく後ろに倒れってしまいそうになった。それを見た聡は「そういう所、血が繋がっているんだなぁって思います」と笑っていた。背もたれがないのは早く店の回転率を上げるためだというのは分かるが、もう少し私のことを考えてみて欲しかった。

 その後、聡とラインを交換した。苗字が違うと驚かれたが、姉が嫁いだのだと話すと納得した。血が繋がっていても苗字が違う人間がいるのだと、その時に初めて気が付いた。

聡は若さを我が物に持て余しているという印象があった。人を愛する力もあり、現に彼女が居る、加えて安定した暮らしを志向しているなどの人間性がそれを引き出していた。

人間性は常に良いものでなければならないのだ、そのようにしなければ、よりよい社会には向かっていかない。そういった予断が私の中に錨を下ろしていた。透明な私の底には確かな規範があった。どのように生きることが推奨されるのか、どのような志向をとることが良いのか、それらを成人期には理解していた。それは意思に加えて、本能的にただそうしなければならないものである。しかし、私には意志の力が備わっていなかった。大学に入学しても、就職しても、意思の力は必要がなかった。ただ追われるように出世を望み(男は出世しなければならないという予断があった)、かといって仕事に打ち込めず(なぜ仕事を頑張らなければならないのか理解できなかった)、いつしか年下の上司の下で働くようになっている。私も聡のように考えていれば(これからの人生をどのように生きたいのかを理解していれば)、良かったのだろうか。

 

 喫煙所で煙草をふかしていると漠然とした不安に襲われた。やはり自分は三八歳の内に死んでおかなければ、これから、平均寿命のあたり までずっと自分自身に痛みを与え続けてしまうだろう。しかし、決意はできなかった。

 今、自分を生かし続けているのはYが存在するためだ。娘を持つとこのような状況になるのかもしれない。私は娘と血のつながらない父親として生きようとしている、そして私以外のパパがいることを認められない中途半端な独占欲とも愛とも言い切れない内心を抱えながら。そこには必ず終わりがあり、関係が切れた後に町中ですれ違うことがあったとしても、契約は終わっているから、見知らぬ人間同士にならなければならない。それに気が付くと今更ながら私はYに近づいたことを後悔した。Yが私の寿命だった。

 煙草を灰皿に落とし、黄金色に輝く手すりを使いながら階段を登り連絡通路から駅構内へと入った。セレクトショップで服を買い、Yに連絡を入れた。彼女の好きなアニメのスタンプを押し、聡はとても良い人間だったと短い文章を送信した。上手く泣けなかった。

 家に帰り早速買ったばかりの服を着て姿見に写ると、若作りした中年にしか見えず、店員の言葉をうのみにしてはいけないなと思った。「似合っているかな?」ラブドールに問いかけた。「あまり似合っていないし、流行は終わったんじゃない?」と聞こえた。静かに落ち込んだ。

姿見に映った自分を見て名案が思い付いた。ラブドールに買った服を着させてみよう。私はMA-1を白いワンピースを着ているラブドールに羽織らせた。その可憐さを目の当たりにして息をのんだ。このラブドールが本当は自律型で、私が会社に居る時や寝ている間に外に出て遊び惚けている、という設定を思いついた。着替えるのが面倒で、白いワンピース(私はそれを寝巻だと考える事にした)の上に暖かい上着を羽織っただけで、無印良品の靴下を履き、ニューバランスのスニーカーで歩く(つまり、Yをそっくりそのままトレースした姿)。ラブドールを見ている間、指が震えず、身体は熱くならならず、次第に私を焦りが捉えた。これではあべこべだ、と。ラブドールが性欲の対象ではなくなったという現状が、私の元々の使用意図に戻ってしまったようで、相対的にYに対する性欲をコントロールできなくなることを恐れた。

一人でいる自覚による孤独感が私を宙に浮かした。木に結び付けられてしまった風船のような孤独の中に私は居た。外が見えなかった。もはや自分では空へ上昇することはできなくなっており、誰かが紐を解くか切るかしなければ上昇できない。鳥が割ってしまうか、風や雨や朝日や昼の日差しが孤独の劣化を進めなければ、破裂もできないし地面に落ちれない。

ラブドールに見て取るYの面影は確かに臆面もせずパパ活をしていそうな顔だった。もっと違う形でYと会えればよかったのにと意味もなく思った。自分がもっと若ければ、と妄想して刹那的に癒されるが、すぐに堂々巡りの思考を繰り返した。Yにもっと会うべきだろうか、いや会ってどうしたいんだ? 本当の叔父だったらどれだけ良かっただろうか、そんなことを考えたとしても意味がない、というより不可能だ、それならば考えること自体が無駄だ。しかし、それすらも受け入れられず、すぐに打ち消し、また妄想した。自分でも訳が分からなかった。

その日、私は眠れなかった。

 

サッカー観戦は最高。ビールが美味し、この世の終わり。浦和美園駅から埼玉スタジアム二〇〇二までは青色の服装をしていたが、スタジアムに入るなり私たちは日本代表のユニフォームを買った。Yの背番号はオーソドッグスな十二番で私は四番を買った。その後、ゲート口からすぐ上の席を取り、選手たちがウォーミングアップしているのを座ってぼんやり見ていた。緑色の芝生と黄緑色の芝生のコントラストは美しい。

時折前を通る人達を見て、普段サッカーを見る人はどれだけいるのかを考えた。好きなサッカーチームがある人はどれだけいるだろうか、ただ騒ぎたいだけなのだろうか。両方だろうか。そもそも、断定できる事柄ではないと思い、ビールに口を付けながら歩く人々を見ていると、激しく照明を反射しているハゲのジジイがいた。今日の月よりも光っている。内心で彼のことを小馬鹿にしていると、さながらエスパーのように彼はこちらを見て、しばらくの間、凝視していた。最初は目を細めていたが、しばらくするとニカッと笑顔を寄越した。そして「来てたんだ、次もよろしくね」と言った。私は後ろを振り返り、誰かが応答していることを確認しようとした。しかし、そんな気配がなく、訝しんだまま姿を追うと男は自由席の一番端に座った。コーナーキックがあったら写真でも撮るのだろうかと思っていると、Yの背中が丸まっているのに気が付いた。呼吸も荒い。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。ちょっと気分が悪くなってきちゃった」

 どうすればいいのか迷った。今ここでYをトイレに行かせるべきか、それとも帰るべきか。いずれにせよYと会う時間が減ることに対して抵抗したかった私は、Yを気に掛ける以外に特別、何かが出来るわけでもなかった。あてもなく私は空を見上げた。そこにはストッキングを履いた足の膝小僧のような、翳った月があった。ナイター照明が眩しい。

「ねぇ、最近変だよ」 

 それはYに向けた言葉だったはずだったが、自分自身に尋ねているように響いた。そして、あの夜に聞こえたラブドールの声は自分の声だったと理解した。

「そうかな。私は元々変人だよ」

 Yの伏せた目を見て、さっき声を掛けてきた中年はパパ活の相手なのかもしれないと思った。Yは自分の世界に入り込もうとしていた。すべて自分の性格や属性などに収斂させようとしていた。

「多分、人間は皆、変人だからYが元々変人というのも頷けるよ。けどやっぱり、最初にあった時と今だと、上手く言葉に出来ないけど、変だよ」

「分かってる。変なのは」

「もし良ければでいいんだけど」ウォーミングアップは終わっていた。スタメン発表がスタジアムに響きゴール裏が合いの手を入れていた。「何があったか教えてくれない?」

 その時のYの顔は烙印のように明快に思い出すことができる。忘れることを許さないような、胸を突く表情だった。それは、あの時の私がYに向けて最も浮かべたい表情でもあった。澄んだ眉と不釣り合いの丸い目が赤く充血している。口元はだらしがなく開かれており、歯並びが綺麗になっていることや歯そのものが新品のように白く輝いていることに気が付いた。私は、Yの喉元で突っかかっている石に手を伸ばして、取り除くことを望んだが、それは正しいことなのかを考えてしまい、等しく私の喉にも石が詰まる。話の続きを促したとして、それは本当に良いことなのか分からない。事後的に善悪を判断することは、相手にとって誠実ではなく、本来は正誤であるべきだ。しかし、正誤を判断するには私とYの間には大きな距離があった。年齢や、性別や、生まれ育った環境や、人生の差異が。

 控えのメンバーが発表されている間、私はハゲジジイの方へと目を向けた。男の隣に居る女性の腰に手を回していた。私は、もしかするともしかするかもしれないと、今まさに覚悟を決めなければならないと、指先に火がともったような熱を感じながらYの手を初めて握った。Yは握り返してくれた。

「無理にではなくていいんだ。そう、言いたくないことは言わなくてもいい。けれど、言わなければならないことは、とてもたくさんあるはずだよ。それは相手がだれであれ、きっと言わなければならないと、君自身がそう感じていることがあるはずだ。君は、その葛藤の中に居るんだね。少しだけでいいんだ、君の意図が分からなくても、意思が分かれば、僕は力になる」

Yはこのままではいけない、私はそう思った。そして力になりたい、と願った。

「私、妊娠しちゃったのかもしれない」

しかし、その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。どうして、と尋ねることはできなかった。薄膜につつまれたように、周囲の喧騒はくぐもっていいた。私はまたグランドに目を向けた。選手入場のアンセムが響き渡っている中で、目に張った薄い膜のせいで視界が歪んだ。灯りが揺れて曲線を描いている。

「まだ病院には行っていないから、本当かどうか私にも解らないけど、検査機を買って試してみたら、丸に一本、赤い線が通ったの」私の眼を見てYは言った。「全部自分のせい」

Yの手を強く優しく握る。責任の所在をハッキリさせる事で多少の安心はあるものの、本来的に原因は複雑で曖昧だ。つまり、Yは不幸であるのみであって、それが嘘であっても自己責任に収斂することは不可能だと私は言い張り続けなければならない。不幸は人を溺れさせ、拠り所にはなかなかなれないのも確かだ。不幸は独自性を持つことができないのだ。独自性を認めるまでに冷静でいられないのだ 。だから、自己責任として不幸を片づけることは安易だ。その不幸が複雑さを増しているにもかかわらず自己に責任を帰属させるのは暴力的であり、かつ不衛生だ。私はYのセーフティーネットにならなければならない。

彼女に優しく出来る人間は自分以外にいない。それは、私とYの関係は切ろうと思えば、すぐ切れるものであり、互いに会いたいと思わなければ会えない関係であるからだ。だから純粋な意味で優しくなったと証明できる。証明? いや、信頼のない安心が、Yの罪悪や居心地の悪さを無くすことができる。

 相手チームの国歌斉唱の間に、私は「聡には言えなかったんだよね。あいつは良い奴だから」と確認した。

「うん」

 伏せたYの顏から涙が零れている。誰の言葉か覚えていないが、涙はこれから待ち受けている現実に向き合う決意の表れらしい。私は自分の目から出た水の痛みを等しく義務として受け入れることにした。その痛みに麻痺することをせず、耐え続けようと。

「話してくれてありがとうね。これからどうするつもり?」

 力になりたいとは言えなかった。意思が一方的になってしまうから。ただ、Yが私を必要とした時に、力になる。そういった便利な人間なまま待ち続けなければならない。段々と、握った手が湿り気を帯び、頭の芯が熱くなるのを、抑制する。

「まだ分からない。けど、一回休みたいなあ」

 君が代が流れ始めた。周囲が一体になろうと歌い始める。私は歌う気になれなかったが、周囲の目線がこちらに向いていることに気が付いた。

 私とYは国家を歌った。その間、涙が溢れて仕方がなかった。

 キックオフの笛が鳴り、試合が始まり、私たちの周りでまばらな手拍子が生まれた。数分が過ぎるとチャンントを歌えるようになった。ニッポン、ニッポン、ニッポン。Yは体調がまだ悪そうで青白い顔のまま、声を出していた。ニッポン、ニッポン、ニッポン。私はあのハゲジジイに憎悪に似た感情を抱いた。あの男がYを妊娠させたかどうか確証がなかったが、私は彼を汚い人間として見るようになっていた。実際、Yの気の動転具合を見る限り、そのようにしか見えなかった。私は今、本当の意味で童貞を喪失したと感じた。それは嫉妬だった。

「それで、相手はやっぱり」そこで言葉を止めた

「うん、あのパパ。どうしようもなかったの」

「なんだよ、あいつ」

 男の下に行こうと席を立った。あわよくば殴りたかった。それで逮捕されても別にかまわなかった。また、そのような感情を抱くことのできることが喜ばしく思われた。しかし、握られたままの手が私を引き留めた。そうしてから、殴ることはできないと分かった。 

「駄目だよ」

 後ろから「邪魔だよオッサン」と野次が飛んできたので大人しく座った。その波紋は思わぬ形で広がった。私が周囲を見回して見方を探そうとしても、私の顔を見た観客たちは口を動かして「気持ち悪い」と囁いている。

私は「ねぇ帰らない?」と言った。Yは黙って頷いた。手を離して、スタジアムの出口に向かった。

「それで、聡には言うの?」

 外を歩き始めてから、私は確かめるように口に出した。Yの翳った顔には人工的な光がかすかに届き、鼻の横に薄い影が揺らめいている。巨人の歩幅で置かれたLED電灯が駅までの道に点々と続き、視界に奥行きが感じられる。

「言わなきゃいけないとは思うけれど、言う勇気が、足りない。そもそも、生むべきなのか、堕胎するべきなのか、分からないの」

Yは喋りながら文法が間違っていないか気を張っているかのように、途切れ途切れに言った。消え入りそうな声だった。

「あのオヤジには連絡した?」

「してない。言ったらお金が……」

「なんで言わないの? すぐに言った方が良いよ」

 しばらく沈黙のまま、もうすぐモデルルームの横のあたりでYは口を開いた。

「お金が貰えなくなっちゃうから」

「そんなこと、この際、気にしている場合じゃないよ」

「でも、お金は欲しいのよ。それに、一回セックスするとね、断りづらくなっちゃうのよ。あの人からは、お金もたくさんもらえるから、コスパが凄くいいの」

 私はYへの期待を裏切られ続けた。それと同時に、それが言いようもなく心地よかった。純粋になれると思われた。Yは肉体関係を結ぶことに躊躇いがあったはずで、しかしそれを飛び越えてまでしてお金が必要だったのだ。その時、喉元までせり上がったゲロのような言葉がある。「なんでそんな悲しい事を言うの?」といった言葉だ。しかし、私は吐き出さなかった。

「だけどさ、だけど」

「分かってる。どうにかしなきゃいけないってことは。けど色んな事がありすぎて優先順位がつけられないの。就活が失敗したら奨学金を返せないだろうし、お腹の子供をどうしたいのかもわからないし、自分じゃどうにもできないことが多すぎるのよ。きっと、だれでもそう。その中で生きているんだと思う。けど、やっぱり、難しいよ」

 犬の散歩をしているウィンドブレーカーを着た男性が道の端を歩いていた。犬がマーキングしているコンクリートは灰色から黒色に変わり、そこだけ永遠に夜が続くような気がした。

「確かに難しいとは思う、けど僕には本当のところは分らない。ねぇ、Yがどうしようもないことは僕に任せてよ。奨学金は僕が工面する。お腹の事は、聡と話し合って。それは絶対。あいつは君の事を本当に好きなんだよ。だからせめて、聡にだけは言って欲しい。これは僕の意思だから。もちろん従わなくていい。けど、絶対……。そして、なにか力になれることがあれば、僕を頼って欲しい」

「うん。」

奨学金はあとどれくらい残っているの?」 

 その言葉を発した時、私はYの面倒を見終わったら自殺しようと心に決めていることに気が付いた。 これまでもそうだった。いつも言動が先にあって、それを無理やり認識しようとする。全部後から意味を付与する。そのように自分を作ってきた。

「二百五十万円、けど、返すのは卒業してからでいいの」Yの手が私の手からパッと離れた。「岩清水さんがそう言ってくれたら、凄く気持ちが軽くなった」

 

 家の鍵を開け、むんとした空気に迎え入れれた。風の無い分、家の中の方が熱く感じられる。私は冷蔵庫からカップご飯を取りだし、レンジに入れ、その時間のうちにお湯を沸かしインスタントの味噌汁を作った。そのごリビングで野菜炒めを作り、テレビを点けながら食べた。外食してくればよかったと思ったが、外で他人と同じ空間でご飯を食べたくなかった。その後、シャワーを浴びた。シャンプーが切れている事に気が付いて、裸のまま詰め替えた。入る前に気が付いていれば体を冷やさずに済むのに、なぜかいつも裸で詰め替えている。自分が惨めに思えた。歯を大げさに鳴らした。よく響いた。汚れを掻き落とすように注意深く洗った。

解放なのか、自分で自分を見放したのかは分からないが、自室に入ると、とにかく安堵した 。頬杖を突き、ベッドに横たわるラブドールを眺めていると、綺麗だと思った。花のように可憐だった。動かない表情は私を無神経に悲しくさせないのだ。それが、どれだけ美しいことだろう。

ラブドールに触れた。輪郭を確かめるように頭から爪先まで、体温の無い身体を撫でた。ここにYの心はなかった。Yの体温はなかった。しかし、肌の弾力やなめらかさはYよりも本物のように思われた。あの小汚いジジイに撫でまわされたYの身体は、このラブドールよりも素晴らしいものではないように思われた。私はラブドールが愛しくなり、抱きしめた。アルミの骨格が感じられる。触れれば触れるほど、強く抱きしめれば抱きしめるほど、しっくりきた。ラブドールは星のように、私に応答することなく、自然の摂理としてそこに在って輝いている。それは私に話しかけたり、心情を吐露したり、表情を変えることなく、ただそこにあった。物質としては触れられるが精神としては触れ合うことができない。この隔たりこそが真実だと思った。ただ、自分がそうしたいと思うからこそ、そして、相手からの反応を気にしないからこそ(感謝の言葉や、自分の行動に見合うだけの見返りを求めないこと)愛を達成できる。だれが、私を惨めだと思うだろう?

蚊の飛ぶ音がハッキリと聞き取れる。私は香取ベープを付けた。そして、ベッドに横たわり、なされるがままになった。蚊はラブドールの肌の上に舞い降りた。私は叩いて殺した。ラブドールのヘソの横、肝臓のあたりに赤い血が残った。私は自分の二の腕にかゆみを感じながらも、それに見惚れた。

 Yへの奉仕が完成されるのはもうすぐだ、と私は妙に感じ入った。それはつまり、ラブドールへと回帰していた。Yへの執着は、性欲やラブドールとの差異から離れ、家族的な愛おしさへと推移している。自殺のための滑走路としてYを助けるという決意をしたのだから、それは当然の結果だろう。しかし、私は歩いてきた道に戻って進み始めたわけではない 。無一文になることでYへの奉仕は終了する。そして両親に生命保険でいくばくかの金を残す。立つ鳥跡を濁さずに。

 私は煮干しを一つ、仏のフィギュアの前に置いた。十三個目だった。並べられた煮干しは、食べられることはなく、ただ乾いた眼を開けたまま、一生餌を食べることのない口をだらしなく開き続けている。それを見ていて私は自分の死期を悟った。この、なんとなくの積み重ねに一つの意味を見出し、未来を決定した。三十八個になったら、それが終わりの合図だと。 

 Yに乱され続けた私が純粋にYを助けるという意思を得たのだからこそ、与える者―与えられる者の関係が生まれ、その関係の確からしさは安定した。

 諦観の中で厭世的な世界が広がることはなかった。その若さは失っていた。世の中を呪っていても、友人や家族がそこに属していると思うと、呪う事はできなかったし、友人や家族との関わりは極めて薄くなっており、そもそも興味が持てなかった。そして、なによりも、ベビーカーを押した女の人や、はしゃぎまわる学生を見る度に、この世界を呪ったり、滅亡を望んだりすることは馬鹿馬鹿しいのだと単純に思った。

 そうだ、タトゥーの全貌を見よう。私は唐突に、Yに近づいた目的を思いだした。今更、それに執着する理由は見当たらなかったが、自分の最後を考えた時、タトゥーを見なければ死ねないと思った。なぜだかは分からないが。

 

 3 

 

 企画の報告を終え、上司から好意的な評価をもらい、トイレで喜びを爆発させている間に、聡から連絡が来て、Yを殴ってしまったということを知った。私はYにすぐに連絡し「一回、休学したら?」と提案し、続けて「僕の家でゆっくりするといいよ。使っていない部屋もたくさんあるし、なんにせよ一人で住むには広すぎるから」と送った。定時になり、片づけておきたい仕事があるにもかかわらず残業はさせてもらえなかったので、帰宅することになった。山口さんは、部署移動を希望して、今は地方の営業所で事務として働いている。妥当だと思った。きっと、私でもそうする。

会社の最寄り駅周辺のラーメン屋で夕食を食べていると返信があった。短く「そうする」と書いてあった。実際大学の近くの産婦人科に行くのは怖いのだろう。私が既読を付けると「今日から行きたい」ときたので、「大宮駅で待ち合わせ」と短く打ってラーメンを勢いよく啜った。

 ロータリー近くの喫煙所で煙草を吸ってからYとの待ち合わせ場所である東部アーバンパークライン改札前に向かった。Yはキャーリーバッグの上に座り、iPhoneを見ていた。高校生カップルがキスをしているのも見えた。私は、煙草を吸っている間に考えていた言葉を忘れてしまい、一旦トイレで手を洗った。なんて声を掛ければいいのだろうか。大丈夫だとかでいいのだろうか。

 トイレから出ると目の前にYが居た。私に気が付いたようで「行こ」と言った。あまり落ち込んでいるようには見えなくて、私は逆に心配になった。それが演技の可能性もあるが、思っていたのと違って、少し慌てた。私は今からYを所有するはずなのだが、Yはこれが普段の自分であると匂わせている。

 大宮駅から離れるにつれて背の高い建造物がなくなり、代わりに住宅が密集している光景が見えた。その間にYは心のデトックスと言って泣ける小説を読んでいた。途中でぽつぽつと会話し、休学は両親に了承を得て既に手続きを行っていることと、これからは産婦人科に通いつつ小説や漫画や映画などを見る期間だとYの中で位置づけられていること、聡とは一度距離を置くということが、断片的に分かった。そしてYが大学というシステムから脱出し、就活も一度休止することに対して、私はYが自分の世界の中に住んでくれることだと思い喜んでいた。Yの拠り所になることに成功した手ごたえがあった。そこに信頼がないのは百も承知だが、些細な問題である。

 最寄り駅からYと並んで歩いた。Yの歩幅に合わせて歩くスピードを落とした。なにやらデートのようだと思った。私は自分の家までの道のりを初めて人と共に歩いた。

 家に着き、Yとカップラーメンを食べた。いつもと変わらない味が今日は美味しかった。人と食べるご飯が、こんなに美味しいとは露ほどにも思わなかった。つまるところYに対しては気を使うという機会がなかったのだ。何か話さなければならないだとか、相手の顔色をうかがうということはせずに、ただただ落ち着いた。家に人がいるということがどれだけ素晴らしいことなのか、初めて理解した。

 シャワーを浴びている間、温水が熱湯に変わる瞬間を十何年ぶりに味わった。シャワーの出が悪くなる瞬間が、一人ではないことを教えてくれた(Yの使っている種類のシャンプーは、家に着いてからすぐに、鏡台の棚の奥底に眠らせておいた)。

髪の毛を洗っている最中の気がかり、Yが私の部屋を覗いてしまうことよりも、家に人が居ることの喜びの方が勝った。風呂に浸かっている間にラブドールをどこに隠すかを考えたが、むしろ隠さないほうが誠実だと思い、Yが自分に似たラブドールをどのように受け止めるのか知りたくなった。そして私がそれを持っていることを明るみに出され、Yに見放されることを望んだ。潜水した。これがYの身体から出た死んだ細胞の残り滓だと思った。私は飲んだ。苦しくなり浮かび上がり呼吸をすると、満たされた。

 風呂上りのYがテレビを見ていた。Yは私を男として認識していないのか、キャミソールのままテレビを見ていた。バスタオルを頭に被せている。その背中にタトゥーを認めると、私の中にイメージが湧いた。うなじのジッパーを降ろし、Yの肩口に顎を乗ながら、燃えるような熱の籠った臓器をかき分けながら中身をまさぐり、胸を裏側から確かめつつ、自分の手形の浮かんだ胸を見つめる。皮を上手く剥けなかったライチのようなYの眼玉は果汁を滴らせている。私の手が胸から子宮へと下降すると異物に触れ、それを摘出するイメージ……。

「あ、お酒もらってるから」

 ほのかに高揚した頬に笑みを張りつけているYは自暴自棄のように見えた。今、お酒を飲むという行為は赤ちゃんを殺そうとしていると等しい。Yとの間に赤ちゃんが外に出る前に殺してしまおうという合意が取れているように思われた。

「ああ、全然いいよ。ねぇ、赤ちゃんは殺してしまうのかい?」

「うん! 殺してしまおうと思ってる」

 Yは腹の中に居る命に向けて宣言するように、ほとんど叫びに似た声を上げた。

 私は冷蔵庫からビールを取りだし、ソファからYの背中を見続けた。そうか、Yはこんなに綺麗な肌をしているのか。しかしあの肌に触れたパパが居るのだ。ウィンナーのように分厚い指で、肌に赤い跡を付けながら、餌を前にした動物のように落ち着きを失いながらYを受精させたパパ。その血を受け継いだ子供は、この世の中で最も醜い子供だろう。

「僕も賛成だ。君のこれからの人生を想像するにあたって、その子供は邪魔なものになるに違いない。だけど、酒を飲むことによって赤ちゃんに害を与え続けるつもりではないだろう?」

「当たり前でしょ」Yは吐き捨てるように言った。「ねぇ岩清水さんがお金を出してくれるんだよね。それなら明日にでも産婦人科に行って、相談して来るわ」

「当り前じゃないか。お金のことはなにも心配しなくてもいい。見ての通り、生活には余裕があるんだ。君が望む限り、僕は支援するよ」

私には貯蓄があった。それは働き続けて得た金に加え、目の前の物流倉庫の土地を売った際に家族に配分された金も合わせれば、Yの支援は容易だった。

夜通し飲酒を続け、挙句の果てに夜の散歩をした。そして蚊に刺されまくって家に着くと夜中になっていた。互いの飴玉ほどの蚊に刺されを笑いながら掻きあった。互いの血に口づけをした。Yはリビングで寝ると言って私を自室に戻した。

見慣れた自室でラブドールが待っていた。その姿はYに似ていなかった。Yとは別にY´として独立した存在に変化していた。私はY´と性交した。Yと触れ合った体温が乗り移り、私はいかにもYを妊娠させたパパのように貪った 。あの柔らかそうな唇はY´の唇であり、あの折れてしまいそうな腕はY´のものだった。このピンク色の乳輪はYのものだった。この股座はYのものだった。自分の中でYとラブドールが入り混じり一つの理想を構築しつつあった。二つの存在はフレキシブルに、それぞれを代替し合っている。しかし、タトゥーがそれを完成には至らせない。あのタトゥーさえなければ完成するのに、一つ余計なものが残ってしまっている。さて、私はY´のオナホールで果てた。

煮干しを仏のフィギュアの前に置く際に、これから共同生活をするのなら余命が決定したと安堵したわけだが、それがかえって生きるための希望として輝いているように思われた。あの干からびた鰯の煮干し。これから、私は干されるのだ。

 

翌朝、目が覚めリビングに向かい、朝食を作った。Yは目の下に紫色のクマを薄く伸ばした絵の具のように描いていた。今日の夜はY´にクマを作る予定が立った。Yは某恋愛共同生活ドラマを見ていたようで、画面には爽やかで清潔感のある男女が自然に囲まれたウッドデッキでトランプをしていた。ババを引かないように注意を払っているようだった。

私は朝食を食べながら近くの産婦人科を調べ、口コミを参考にして一つの病院にあたりを付けた。なんでも医者の人柄が良いそうだ。それをYに伝え、地図をプリントアウトし渡した。

「とりあえず電話して予約しなきゃいけないらしいから、お昼ごろ電話かけておいてね」

「うん」

 あっけらかんとした返答に肩透かしを食らいながらも、家を出て電車に揺られ会社に着く、その間に仕事を辞めようと思い立った。三十八歳無職ニートという響きが気に入った。そこに童貞も加えられると思うと興奮した。今、とりまく環境から自由になり、金銭だけがYとの繋がりとすれば、私は純粋な所有者になれると思われた。Yは(この段階では)人間関係や労働から脱出しており、私以外に服従する相手が居ない。そこで私が社会から逃れることができれば、死ぬまでのモラトリアムを閉じた世界で味わうことができる。

 思い立ったが吉日。退職する意思を課長に伝えた。母の介護をしなければならないので、と嘘をついた。課長は「そうか、でも休職でも良いんだぞ」と言葉を掛けてくれたが「いえ、ちょっといつまでかかるか分からないので」と言うと、退職届を受理してくれた。辞めるための正当な理由は、簡単に出てくることに驚かされた。

 それからの私は身軽だった。失うものは未だ数多くあったが、それが失われることを恐れはしなかった。端的に言えば、全てがどうでもよくなったのだ。物事の良し悪しや正誤の判断基準を放り投げ、自殺直前になって意思を取り消さぬように、自身を取り巻く社会的環境をパージする。それをもう一度、身に着けようとするには、これまで以上の努力が必要になるだろう、失われた信頼は二度と元の姿には戻らないのだから。

半休を取り、昼過ぎには自宅の最寄り駅の空気を吸った。家までは山茶花が咲いているあぜ道を選んで歩いた。山茶花の茎は綺麗に切れるので気分がいい。足で茎を蹴り飛ばせば、遠くに花が飛んでいく。その時だけスローモーションになる。そして地面に倒れ、山茶花の生息域が少しだけ広がる。

帰宅後すぐ、Yにちゃんと連絡をしたかどうかを確認すると、まだしていないなかったので、私はiPhoneから病院に電話を掛けた。四回目のコールで女性の声が聞こえた。その瞬間にYと代わり、彼女が予約をするのを見届けた。強制的かもしれないが、こうでもしないとYは手術を受けないで、身体に傷をつけ、流産しようとする可能性が僅かだがあった。それらを未然に防ぐために、適した場所で適した治療を受けてもらわなければならない。

Yの嗚咽交じりの声に耐えられなくなった私は、自分の部屋でラブドールにクマを描いた。Y´になった。そして私は彼女を抱きしめた。自分の体温がY´に乗り移った時、ひらめきが起こった。今のYならセックスさせてくれるんじゃないだろうか? 私はそのひらめきを噛めば噛むほど味が出る貝ひものように飲み込むことなく、湿らせ続けた。

リビングに戻ると昨日と同じキャミソールを着たYの背中が丸まっていた。地面に置かれたリュックサックのようだった。ファスナーを開けて中から必要な物を取りださなければならないような気がした。

仕事を辞めたと伝えるとYは眉間にしわを寄せ、詰問するように「お金は?」と言った。私は「大丈夫、貯金はかなりあるんだ」と応答した。

翌日、目が覚めてからしばらく、勃起が収まらなかった。Y´で済ましてシャワーを浴びた。Yは徹夜しているらしかった。これで二日連続。朝食を作り、テーブルで食べた。椅子に座って食事に手を付けないYを見ていると、昔のY´を思い出した。初めて彼女と夕食を食べた時、同じように手を付けることはなかった。あの時の自分は何を思ったのか、野菜を無理やりY´の口に押し入れて、その後処理が大変だった。あの頃のY´よりも今のYの方が人形らしく思われた。家具のように、この空間に酷く馴染んでいた。

「もしかして眠れないの?」私はなんとなく口にした。

 Yは黙って頷いた。

「けど、ご飯は食べたほうが良いよ」私は口うるさい親になったつもりで言った。

 Yは黙って頷いた。

「今度、タトゥーをちゃんと見せてよ」私はYが壊れたのだと思った。

 Yは黙って頷いた。

「ねぇセックスしない?」

 Yは黙って首を横に振った。

「だよね、ははは」

 乾いた笑い声が部屋の中を駆け回った。「いや、嘘だよ、本当はそんなことしないから」

「あなたはきっと私を襲うだろうけど、そこに意味なんてもうないよ。それに多分、岩清水さんは後悔すると思う。だから言っておくわ、絶対にやめた方が良い」

 そう言った後のYは西日よりも眩しく輝いていた。目を瞑ると、その存在が赤い斑点となって瞼の裏側にこびりついた。それは柔らかな熱を私に伝えた。包まれるような心地のよさに身を任せたまま咀嚼を続けると、シャキシャキレタスの触感が脳内にこだました。

私はYよりも先に食べ終え、彼女がご飯を食べている様を眺めた。赤いニキビが白い兎の眼のようにこちらを見ていた。Yは怯え切っていてもなお食事を続けていた。

食器をシンクの水に浸し、Yの部屋を用意することにした。ほとんど物置に近くなった部屋から、違う使われていない部屋へとガラクタを移して、掃除機をかけ、雑巾がけをした。それが終わると、昼食の前に干しておいた布団を敷き、自室に戻った。Y´の頬にニキビを再現しようとしたが、それはただの赤い斑点にしかならなかった。立体感が足りなかった。

リフォームされた家の廊下は、昔とは違い人の足に鈍感になっていた。私が幼かったころの廊下は、歩けば呻き声をあげていたが、新しいフローリングは靴下を履いていれば、枯れ果てた声しかあげられない。背後の人の息遣いがあることを確信していたが、振り返ることはできなかった。間違いなくYだ。私が自分と瓜二つのラブドールに筆を走らせているさまを見て、Yは自分ではなくなりたいと願うだろう。そして背中のジッパーに手が届かないことを後悔する。自分で着脱できない……。しかし、それがなければYは分裂した欲望の断片のままだ。

Yはリビングで有料配信テレビドラマを見ていた。ドンタコスの赤い粉が太ももに彩を加えていた。この際、ソファが汚れるなどの危惧はなく、たださっきの人間の気配がYのものではなかったのではないかと不安になった。不安? 私はYに期待しているようだったので、死んだ祖父母が倫理を問いかけにやってきたのだと思うことにした。祖父母の今更過ぎる眼差しは、私に何も効果を持たない。

隣に腰かけてもこちらを見ないYは、むしろ興味がない訳ではなく恐怖の感情によって首が石化してしまったのではないかと思った。正面を見据えたまま開かれた眼は蝶のように羽を開いたり閉じたりしている。Yの首は着脱可能だろうか。Y´なら可能だ。

「このテレビ面白い?」

「まぁまぁ。私もこんな恋愛してみたかったなあ。全部がキラキラしていて、夢を見ていて、そのために頑張れる人になれたら良かったのに。そしたら自分を振り返った時に、全部が意味のあったものだと思えそう。ちょっと羨ましいかも」

 彼女は一週間後に産婦人科に行く。私はもうすぐ自死を許すことができる。Yは診察までの期間を、お腹から広がった蕁麻疹を掻きむしりたい衝動に駆られるだろうが、私がそれを治癒していこう。Yが身体を傷つけないように。

 目下、私の関心はYとY´の間の差異を解消することにある。少しずつだが、二つの存在は相互浸透し始めているように思われる。リビングに居るYは意思の無い人間というよりかは、人形に近かった。部屋に馴染みすぎているのだ。

 私はカーテンの閉め切られた自室でY´と性交した。顔が動くことはなかったが、私はYを襲う瞬間、煮干しが三十八個になった時、快楽へと直滑降する恐怖で顔が歪むだろうと楽観的に想像した。いや、恥辱や苦悶によってかもしれない。だが、顔が歪みさえすれば、そのどちらでも良かった。

 煮干しを置いた。一六個目になっていた。つまり、あと二十二日だ。

 

 煙草の匂いと人の目を気にしない怒号のような笑い声のする居酒屋で、どこか場違いな場所に居ると思った。ネームプレートの下にあだ名の付いた店員は腹をすかせた鯉のようにぱくぱく口を開きながら、注文を聞いて回っていた。金曜日ということもあるだろう。花の金曜日、私は確かに場違いだった。

 課長が私の送別会をしようと言い、普段私を気にも留めない社員たちがこぞって参加の意思を表明した。もしかしたら自分は人脈があったほうなのではないかと勘違いしてしまいそうだった。

 それっぽく乾杯の音頭が取られ、手元にあるビールに口をつけた。二次会をやると誰かが言い出さないか危惧した。私を合わせて十三人。新入社員は二人いたが、どちらも不参加だった。一番遠くの座席で人気のある若い女の子を口説こうとしている男が三人、その手前で自分の生活の苦しさを愚痴りながらも笑っている男女が六人、上座、つまり私の方には三人、同世代が固まっていた。母親の介護について同情を寄せていた。三八歳、これからという時に退社するのは、あまり考えられないらしい。年代によって考えなければならないことは数多くやって来て、それらから目を離していては歩けているかどうかさえ分からなくなる。

「退職するのは勇気が必要だったでしょ? まぁ色々と整理が付いたらまたウチで働いてよ」

「はい。できればそうしたいですね」

 母親の介護が本当だったのならば、私が復職したところで、この中で出世している社員はたくさんいるだろうし、それを押しのけて昇進することは不可能であるように思われた。引継ぎをして新しい社員が雇われていて、自分の席がそこにはないかもしれない。いや、そもそも生きていないだろうから、そんなことを気にする必要もないだろう。

 高橋君が充血した目を動かし続けていた。以前なら私の酒がなくなると、待ってましたと言わんばかりにグラスに注いでいた彼は、もう私に対してはそれをしなかった。課長にはしていた。つまりそういうことだった。

帰り際、その高橋君が私に話しかけてきて、申し訳程度の挨拶をしてきた。

「大変だとは思いますが、頑張ってください」

「うん。君も頑張ってね。ああそうだ、山口さんとはどうなったの?」

「露骨に避けるようにしたら、勝手にいなくなりましたよ。アドバイスありがとうございました」

 電車に揺られながら、もう二度とこの景色を見ることはないと思うと清々した。窓に映った自分の顏が奇妙に見えた。目のあるところに目があって、鼻のあるところに鼻があるといったような、パーツがあるべき場所にあるのに嫌悪感を抱いた。笑顔を作ると、目が五歳児ぐらいの子供が書くような笑顔の特徴、弧になった目が出来上がった。吐き気がした。

 家には鍵が掛かっていた。チャイムを鳴らしたが誰も出てこなかった。指が震えたが、なんとかYにメッセージを送った。直ぐに既読が付いて、階段を降りる音が聞こえた。鍵が回される音を聞いて扉を引いたが、チェーンが掛かっていて、思いのほか大きな音がした。Yの噛み殺した笑いが聞こえた。

 Amazonの段ボールを越えてリビングに入り手を洗いに洗面所へ向かった。Yはここ数日で得た自分の居場所に座った。手を洗い終えるとソファから頭が生えていた。冷蔵庫からビールを二本取りだし、一緒にドキュメンタリー映画を見た。Yの髪の毛が伸びてきてセミロング気味になって来ていたので、Y´に新しいウィッグを買わなければならないと思った。

「そういえば、お金振り込んでおいてくれた?」

一回目の診察で、どれぐらいのお金がかかるかの説明を受けたYは私に昨日のうちに口座へ振り込むように指示していた。私は飲みに行く前に二十五万円 振り込んだ。

「うん、とりあえず振り込める分だけ」

「ありがと」

 Yが尻を上げて私に近づいた。甘いコロナの匂いがした。互いの腹同士がぶつかり合った。私は吸われるようにYに肩を寄せ、視線を背骨に合わせて下降させた。そして、このファスナーが開かれることはないのだろうと思った。指を這わせて感触を味わいたい。ざらざらしているのだろうか。しかし、腕を動かすことはできなかった。

「薬物売買のドキュメンタリーって案外面白いね」

 何も言う事がなくて、適当な感想を言った。金と命の中で揺れる人間にはなれそうもないが、中毒者には容易くなれると思う。

「そうだよね。お金の無い人だとか中毒になった人には麻薬を売らないって、売人が判断する瞬間が好き」うっとりとした顔で呟いた。「あの時の売人の顏って、感情がないから。それで次の取引先を探して、また車を走らせるの。けど、それってすごく合理的なのよね」

「確かに、凄く簡単に切り捨てるよね」

 Yの慈しむような瞳を湛えた横顔は、光が内部で反射して波だっているような宝石だった。その横顔を見ていると私は不安になった。

私は、私は自分の命を切り捨てる人間だ、と極めて単純に自己確認した。自分の命との間にある感情(死にたい・生きたいという意思を基盤として生まれる物事への認識)を空白にすることで、距離が生まれて、自分の事が他人ごとになる。

これまで生きてきた自分が、これからを想像すると一寸先というより、目の前が闇だと気が付く。だから、切り捨てられるという不安をなくすために、切り捨てられてもどうせ死ぬので気にすることはないと考えるのは、合理的なのではないだろうか。

Yが現れてくれたおかげだ。私は死ぬタイミングを掴めた。その天から垂れた細い糸を爪が掌に食い込ませるほど強く握り続けている。合理的になろうとするならば死ぬことは正当化されうるだろうか。とにかく死ぬために、私は不合理を積み上げなければならないだろう。それは未練をなくすと言うべきだろうか? 分からない。

 

本田が死んだ。煮干しが三十個を超えた次の日だ。葬式の案内の葉書を見て、やっぱりか、と思った。死因については自殺だという確信があった。私は感情が揺れ動くのを抑えるために、尤もらしい理由を考え、統計的に女性よりも男性の方が自殺率は高いので、正常な結果だろうと結論づけた。

久しぶりに髭を剃り、伸びた髪の毛をヘアムースで固めてから喪服を着た。買ったばかりの喪服だった。もうすぐ死ぬ人間が、死んでしまった人間を悔やみに行くのは、どこか笑える。これから会いに行くよと連絡を取ろうとしているようだ。その無駄さが面白い。

葬儀場には嫌な空気が流れていた。誰かが死ねば悲しい、という当たり前がはびこっていた。入り口で会場を探していると本田と話している所を見たことのない同級生が泣いていた。私も泣いたほうがいいのだろうか? 嫌気がさした。受付で本田の両親に急な予定が入ったことにして、後日、線香をあげに行くと伝えた。

家の鍵は開いていた。そのことに安堵したが、不用人だとも思った。靴を脱ぎ、手入れをした。黒光りした靴を見て、もう履かないのに何故手入れをしてしまったのだろうと、訝しんだ。習慣が身体から離れていなかった。

立ち上がって鍵を閉めた。シャワーの音が聞こえた。その音が心地よく、脱ぎ捨てられたYのシャツをソファの端に寄せて、私は眠ろうとした。しかし、眠れなかった。涙が出ないことが許せなかったのだ。中学時代は同じグループに属し、大学生になってからも何度も遊んだ。彼女ができないことに対する不平不満を愚痴ったり、互いに童貞であることを馬鹿にしたりしたこともあった。あれだけ、仲が良かったのに、涙が出ないことは嘘だと思った。聡が言われた「薄情」という言葉が、私に本質であると思われた。

きっと私なら、あの同級生のように関わりの薄い人間が、自分の死を忍ぶことに耐えられないだろう。そして、関わりの濃い人間が涙を流さないことは、酷く寂しいだろう。手元にYの着ていたシャツを手繰り寄せ、そのぬくもりに安心した。他人の匂いが私を落ち着かせた。微かにYの鼻歌が聞こえて、シャツをもとの位置に戻した。私はやっと眠ることができた。

目が覚め、汗ばんだシャツにぎょっとした。周りを見回すと自分の家だと理解したが、Yの姿が見当たらず、不安になった。子供みたいだと自嘲したが、探さずにはいられなかった。彼女の部屋には居なかった。玄関に行き、鍵が開けられているのを見た瞬間、不在の虚しさに襲われ、自室に向かった。Yが不在ならばY´を抱きしめようと思った。

そこにはファスナーの彫られた背中があった。棒のように立っていたYを見つけた瞬間、力が抜けた。そして、もう全てが駄目なのだと理解した。Y´の首がYの手のひらに包まれていた。

「ねぇ」Yの声は掠れている。「これはなに?」

「それは理想だよ」自分でも驚くほど滑らかに口に出た。

「私じゃん。恥ずかしくないの? こんな人形を持っているのは」

「恥? 理想が明るみに出たからといって恥にはならない。それに、それは君じゃないから」

「そんな当たり前のことを言いたいわけじゃないの」

「じゃあ、何が言いたいの?」

「言いたいことはない。けど」

「僕は君を襲わないって言ったろう? だから安心して欲しい。それにお金を出さなくなるわけではないし、本来的に君は僕のことを信頼してはいけないんだよ。分かってる?」

「当たり前でしょ」

「じゃあ、忘れた方が良いよ」

「そうだけど」

 Yが部屋から出ていくと、熱い興奮が私を満たした。私は意図せずYを裏切った。Y´の背中に回した腕に力が入り、呼吸が上手く出来なくなる。首が傾いでY´鎖骨に顎がうずめる。背中が丸まる。声を押し殺したら、しゃっくりのようになった。

肩の上下運動のスピードが段々と緩慢になり、ゆっくりと目を開いた。Y´の背中に張り付いているシャツの袖が濡れていた。しばらくの間、私はそのままY´を抱きしめながら、深く呼吸し、自分を落ち着かせた。Y´の背中は、足跡のない雪原のように白く輝いて見えた。

夕食時にYがこちらを見ていた。私は目を合わせることができなかったが、おそらく私は見られていた。嫌な人間をつるし上げて留飲を下げる番組が聞こえた。自分の咀嚼音が、ひどく食欲を衰退させる。しかし、これは正しい、これが正常なのだと自分に言い聞かせた。嫌われたくないが、嫌われてしまうから、嫌われようとすることで、本当に嫌われた時のショックを軽減させようと準備してきていたが、無駄だった。

煮干しは三二個、あと六日で終わるはずだ。私は本当に死ねるのだろうか?

 

翌日、起きた時刻は十一時だった。ブランチを作ろうとリビングに行くと、誰もいなかった。階段を登りYの部屋をノックすると「何か用?」と返ってきたので「もうすぐご飯できるから」と言った。

「もう食べたから。あ、あと一三時になったら病院まで送って行ってよ」

 予想だにしていなかった言葉に私はうろたえた。これまで食事を作るのは私の役割だったが、私がいなくともYは自分で生活できることを失念していた。手に掛けたままのドアノブを強く握った。冷たかった。

「あっ、うん。ねぇ中に入っても良い?」

「なんで?」

「いや、なんとなく」

「じゃあ、嫌」

「そうだよね」

Yを産婦人科に送り、一度家に帰り洗濯物を干してから、自転車で本田の家へ向かった。高い青空。落ち葉を踏む車輪の音と、遠くから聞こえる車に轢かれ続ける道の音が混ざり合っていた。荷台に籠が付いた自転車に喪服で乗っている中年を好奇のまなざしで見る人々とすれ違い、細い住宅街を抜けると一面が田んぼになる。国道沿いにはラブホテルがあった。

整備されていない、軽トラックしか走らないような田んぼの中の道路を走り続けていると、畦の花が横目に入った。この道を通ることはもうないだろうと思い、スピードを緩め、振り返りその花をまじまじと見た。紫色の小さい花が密集していて鮮やかだった。

この道には昔の自分がいると思った。部活が終わってから本田の家に遊びに行く私、約束の時間に遅れそうでサドルから尻を離している私、鞄にビールを忍び込ませている二十歳になったばかりの私、台風の中で興奮気味にペダルをこいでいる私、たった今、それらとすれ違った気がした。

 本田の母親に居間に通された。昼下がりの本田家はワイドショーの誰かの怒りを代弁している人間の声が聞こえた。窓から差し込む柔らかい日差しの中で埃が輝いており、時折スズメの鳴き声が聞こえる。本田の母親は口を開かなかった。彼の骨壺が置いてある場所だけが、異質に感じられた。元々何が置かれていた場所だろうかと考えたが、おそらく何も置かれていない場所だったと思い出した。空寒いほど静かで、水中にいるのかと錯覚した。

線香をあげ終えると、彼の母親が「長男が死んだから、この家も危ないねえ」と冗談っぽく言った。「妹さんはどうなんです?」と聞くと「あんまり結婚とかには興味がないようだし、婿養子になってくれる子なんているのかしらね」と笑っていた。彼の死を受け入れようと笑うさまには奇妙な迫力があった。

 さっきの道は通らなかった。イオンモールでYの口座に二十五万円振り込むためだ。国道沿いを走りながら歌を歌った。トラックの騒音で声を張らないと歌っているか自分でも分からないので、それなりの大声になった。

イオンモールの中にある、りそな銀行で振り込みを完了させた。自分の預金残高が空になりつつあるのを認めた。よく分からないが、達成感があった。

家に帰り、Yの部屋に入った。ベッドにもぐりこんで丸まった。しばらく浅い呼吸を繰り返していると勃起したので自室の戻りY´と性交した。Yが喘いでいる姿を想像し、鼻孔の中にこびりついたYの匂いが失せる前に射精した。

洗面台でオナホールを洗った。温水でしばらく濯いでいると鏡が曇ったので、なんとなく掌でこすると、醜い男が居た。これまた救いようのないほど不細工。髭は伸びてはいないものの、清潔感とかそういった努力でどうこうできる顏ではない。福笑いで作られた顔のようにパーツが少しずれている。しかし、左右対称になっていないにも関わらず、それが顔のパーツだと分かってしまうから、不細工という枠から出ることができない。これから先、結婚したとしても、相手は金目当て以外にいそうにない顔。あまりに細すぎる目とニンニクのような鼻とたらこ唇。気持ちが悪い。不細工であることが、こんなに気持ちの悪いことだと思わなかった。その後、オナホールをひっくり返して丁寧に精液を洗い流したが、曇った鏡を拭くことはしなかった。

オナホールの水分を吸い取ったタオルは、手で揉み洗いして自室のカーテンロールに引っ掛けて干した。開いている窓から冷たい風が入って来たが、白いタオルが揺れるのを見ていると、大変心が安らぐので閉めなかった。まだ日差しが入っているが、Yを迎えに行く頃には大分暗くなってしまう。やることがなかった。煮干しを持て余しながら、やるべきこともないと思った。停止であるべきところが、停滞しているように思われた。

もう一度Yの部屋に入りクローゼットを漁ると冬服があった。この服を着たYを見たことはない。違うパパからもらった服だろうか、Yを妊娠させたパパからもらった金で買った服だろうか、一度Yが着ている姿を見てみたいと思った。しかし、それでは生きようとしているようなので、丁寧にたたんで中に仕舞おうとクローゼットを開いたら、名案が浮かんだ。Y´に着させよう。

慌てて自室に戻りY´に着させてから、リビングまで運び、椅子に座らせた。限りなく正解に近かったが、しっくりこなかった。ソファからY´を見ると、しっくりきた。しかし、それ以上近づくと、拒まれる。Yが着たところを見たことがないからY´が着てもしっくりこないのだと思った。私はもうYなしでは生きていけないのだった。しかし、だからこそYを裏切らなければならなかった。裏切りは、Yを襲う以外にありえなかった。自分への裏切りと、もうこんな人間と一緒に住んでいられないと思わせる裏切りを。

煮干しは今日で三二個になる。

 

Yへの裏切りの決行日まで私が何か特別なことをする必要はなかった。それまでの習慣としてY´と性交する以外に、私を昂らせる出来事はなかった。むしろ徒労感にあふれていた。Yが私に無断で外出するようになっていること、知らない間にYが居なくなって、もう戻ってこないのかと不安にさせられるが、結局は帰ってくる。私は外出を止めてくれと言う権利がない。Yが外出している間に、彼女の部屋に忍び込みガラスを息で湿らせて「愛している」と書いても虚しいままだ。その虚しさの穴を埋めるように、Yが触れたものを、私も手に取ってみたり、Yがトイレに行った後に、私もトイレに行ったり、Yが買ってきたゼリーを後日、二つ買ってきたり、一つのジュースを分け合おうとわざわざ二百五十ml.のファンタを買ってきたり(それは叶わなかった)、した。

私は自分の持っている服を一つの段ボールに纏めて、ガムテープを張って庭で燃やした。炎が揺らめいて、酷く嫌なにおいが鼻に入って来た。私はこの一日に全てを掛けていた。

Yに「なにしているの」と質問されたが取り合わずに過ごした。いつもと同じように今日を過ごすことはできなかった。

夕食を食べ終え、私はYの部屋に侵入した。窓ガラスに書かれた文字は消えていた。私は安堵してYを殴った。膨らんだお腹に踵落としを食らい床に倒れ込んだYは顔色が悪かった。床に散乱している赤文字系の雑誌、脱ぎ捨てられた服、画家の特別展示で買った手帳、ポテトチップスの残り滓、一本しかない箸、折られていない折り紙。私はYをベッドの上に放り投げ、覆いかぶさった。Yは両腕で私の胸を突き放そうとしたが、無駄だった。それほどにも私は醜く太っている。両足を昆虫のようにバタつかせたYをもう一度殴って鎮めた。完全に動かなくなった両足を開いて、乾ききった股座にペニスを這わせた。しかし、まったく侵入できなかったので、あわててローションを使って入れた。独りよがりな性交はマスターベーションと同じだった。Yの顔を見ると表情が消えていた。もしかして死んでしまった? 頭から血の気が去り「生きてる?」と確認を取ると、Yは頷いた。そして私は気づいた。Yは不感症だと。私はYと会う以前から裏切られていたのだと絶望した。

この行為は裏切りでも何でもなく、子供から母への復讐めいている。どうせ愛してくれないけれど愛して欲しい、という淡い希望を砕かれたことへの復讐。焦りにとらわれた私は萎え切ったペニスをなんども擦ったが、しばらく勃起することはできなかった。なんども試みている内に、冷静さを取り戻した私はYの顔見た。Yの人形のように全く動かない顔を見た瞬間に、私のペニスは力を取り戻した。Yがラブドールに見えたのである。そして、Yの苦悶の表情が浮かぶ様を想像しながら、私は果てることができた。Y´を通じてのYの苦悶の表情こそが、私の理想であり、今、Yは本物ではなくなってしまった。

 気が付くと私は地面に組み伏せられていた。騒がしい周囲は私をじっと見つめていた。手首に冷たい金属を感じた。アーケードの溝に沿って蟻が進んでいた。一匹が私の目の方へ近づいて来きた。私はそれを見つめた。

私は、最も幸せな場所に行くことができるのだと確信した。

 

 

刑務所から出てきてから、仏の前にある煮干しを全て口に入れた。それを咀嚼しながらY´の背中にファスナーを書き加えた。手は震えていたため、あまり綺麗ではなかった。そして窓のサッシにY´を座らせた。その光景をiPhoneのカメラで写真を撮った。窓枠が額縁の機能を果たしていた。

私はその背中を、小鳥と戯れるように優しく触れ、その背中をゆっくり押した 。