遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

ゴミ1(燃えるごみは何曜日?)

 

食事は大切だ。どんなに嫌なことがあっても食べ続けなければならない。食べると、多少は元気が復活する。食べたものは糞になって外に出る。また新しい食べ物を食べる。循環する。あまり食事が喉を通らない時でも、食べ続ける事は大切だ。自分の身体に栄養を与え続けるのは、日々を生きるには大切。

朝目を覚ましてから、そういうことを考えたのは、六月中旬に不釣り合いな暑さのせいで食事を摂る気にはならなかったからであり、食事の大切さを再確認しないと、知らず知らずのうちに体力とつながった気力が失われていくように思われたためだ。
沸かしたコーヒーを飲みながらテレビをぼんやり眺めていると、テキトーがモットーの芸能人が熟女に「処女?」と尋ねているシーンが流れていた。あれぐらい適当に生きていけるのは極度に鈍感なのか、それとも高度に意識して演じているからなのかは分からないが、いずれにせよ生きるは大変だろう。

手元を探りiPhoneを手に取った。画面上には高見からの今日の待ち合わせ場所の連絡があった。まだシャワーを浴びていなかったし、朝食も食べていない。シャワーと着替えを十分以内に終わらせて、それ以降はゆっくりご飯を食べようと予定を立てた。寝汗で湿ったパジャマを洗濯籠に放り投げて、浴室に入った。

シャワーの蛇口を回すと、背中に冷水がかかって、さながら動物のように後ろに飛び上がった。着地時に滑って、タイルにおしりを強く打った。自分で自分のどんくささに呆れた。けれど、もし同じようにどんくさい人が居たら、少しは優しくなれるだろうと思うことにした。ただ痛いだけだと、やるせないのでそこに意味を与えた。そうしてから、シャワーをざっと浴びた。さっぱりした気分で浴室から出てから、着替えとタオルを用意するのを忘れていたのに気が付いた。びしゃびしゃなまま床を歩きたくないが、そうする以外に選択肢がないので、諦めて歩いた。掃除する時間を計算に入れると、かすかな焦燥感が身を包んだ。

身体を拭いて、着替えた。そして、いらなくなったTシャツで床を拭いていると呼び鈴が鳴った。今はほかのことにかまけている暇はないので居留守を使おうとしたが、数十秒間、まるで今を逃すともう二度と訪れない幸福を懇切丁寧に教えてくれるみたいに、何度も何度もドアが叩かれた。ただでさえ立て付けが悪いのに、あんなふうに乱暴に叩かれたら壊れてしまうのではないか? それに重なった「すみません」という甲高い声も聞こえて、うんざりした。

ドア越しに「なんですか?」と聞いた。

「ああ、助かった。隣の石田ですけどちょっと開けてもらえませんか?」と妙に早口で言われた。女性の声だった。面倒に思ったが、お隣さんと鳴れば事情は違い、後々嫌がらせを受けたらたまったもんじゃないので、おそるおそるドアを開いて半分だけ顔を出した。

 白い顔した女性が居た。彼女は安堵したように微笑んで──しかし、しっかりとドアを掴んで──こう言った。

「ちょっとこの子の面倒見てくれませんか?」

 女性が立っている位置からずれると下を向いた女の子が居た。くたくたになった白菜のようなYシャツ来ている女の子は、顔を上げて僕の方を見た。チェーンを掛けたまま顔を出せば良かった後悔した。

「嫌ですよ。この後、用事があるんです」

 女性は張り付いたままの笑顔で濡れた犬が身体をゆすらせて飛沫を飛び散らせるみたいに、首を横に忙しなく振った。それはきっと僕の都合を受け入れないという意思表示で、それにしても大げさだと思った。

「でも、そこをなんとか、お願いします。そうだ。お金を払います。そうすればいいじゃないですか。ほら」

 女性は、そう捲し立てて財布からくしゃくしゃになった諭吉を取りだした。それを無理やり握らせると、立ち去ってしまった。女性の背中が視界から消えて、老朽化した階段の音が軽快に響いた。手に残った湿り気と熱を感じながら、正面に向き直り、女の子の後ろにある陰影のある入道雲を見た。

「ねぇ、僕ってどうしたらいいですか?」と独り言ちた。

 何も用もないのに女の子を家に入れるのは犯罪になりやしないかと不安を抱えながら迷っていると、女の子のお腹が鳴ったので、そういうことなんだろうなと納得した。とりあえず朝ご飯はまだだったから、まあいいかと思うことにして、女の子を家に通した。実際、一人で食べる食事より、二人で食べる食事の方が安心するのは確かで、一人で食事をとる場合には自分の咀嚼音がうるさいぐらいに聞こえて、食欲が減退する。二人だったら会話でもしながら食べれるし、そのおかげで咀嚼音は気にならなくなるのだ。一人で食べる食事が寂しいものだと心のノートで教育されているせいかもしれない。

ほとんど新品に見える真っ白のスニーカーを脱いだ女の子は素足でフローリングを歩いた。彼女の湿った足跡を見て、眉間に力が入った。この家は砂浜でもなんでもないから素足で歩くのは止めて欲しかったので、床にはゴミが落ちてはいるという理由をでっちあげてスリッパを薦めた。けど多分、砂浜も素足で歩いたらケガするぐらいにゴミが落ちているかもしれない。綺麗な海を見てゴミを落として帰っていく人もたくさんいそうだ。というか靴下ぐらい履いて居て欲しい。

「パンでいい?」食パンをグリルに入れてから聞いた。返事がなかったので、もう一度聞いた。「パンでいいよね?」返事はなかった。振り返ると、こちらを向いて頷いた。タイマーをセットした。美味しいパン屋の美味しいパンだ。焼いた時の匂いが違う。

 食事中、女の子はスマホとみらめっこしていた。同じように僕もスマホを取りだして遊びに行く約束は断った。その連絡を入れると、遊びに行かないなら代わりに学籍番号を教えろとメッセージが来たので、LINEで送っておいた。あまり怒っていないようだったので、安心した。同時に高見は冷たい奴なんじゃないかと疑った。

 一人で食べる時よりも咀嚼音が気にならないことに驚いた。何を話せばいいのか分からないことのほうが、それよりも重要度が高いのか分からないが、僕の意識は食事よりも会話の方に向いていたのだろう。

食事を終えても会話はなかった。手持無沙汰なまま、ぼんやりしているのも居心地が悪い。自分の家なのに居心地が悪いというのは初めての体験で変な気分だった。それらを忘れようと小説を読んだ。

 平日の昼間にいる女の子というだけで、彼女がどのような状況であるか察することができていた。自分にも同じような時期があったので共感を覚えた。だけども、それを共通項として彼女に話しかけるのは気が引けた。

 そのまま日が暮れて、八時を過ぎた頃、女の子の母親は帰ってきた。そして女の子は帰っていった。しばらくしてから母親は僕の家にお礼を言いに来た。

「少ないですがお金も払いますし、これからもお願いしていいですか?」と尋ねられた僕は、少し考えてから断った。数時間前に貰った一万円も返した。だけど母親は頑なに受け取ろうとしなかった。母親は「週何回かで良いんです。話し相手になってもらえませんか? こんなこと言うのもアレなんですけど、虐められたらしくて……」と食い下がった。もちろん、僕は断った。今日、彼女が僕に向けて発したのは「あの、充電器借りていいですか?」という言葉だけだったから。

 母親は曖昧に頷いて帰った。101号室の火災報知器の上にあるツバメの巣で、腹をすかしているのだろうか、雛が鳴いていた。ああいう音は一番効率的なコミュニケーションかもしれない。

 

 翌日、大学で昨日の話を高見にすると引っ越しを勧められた。そして、もし何かあれば自分の家に泊まっても良いとまで言ってくれた。おそらく彼が僕のセーフティーネットだろう。

 高見と知り合ったのは大学入学式でたまたま近くの席にいたことがきっかけだった。僕はどうせ二週間もすれば、それぞれ友人を作るだろうと思っていたが、学籍番号が近く基礎科目が同じクラスという偶然によって、不思議と距離が保たれた。そして、距離が近づいたのは五月中旬、いじめられていたという共通した経験を持っていたとカミングアウトし合ったことに由来する。高見も僕も中学時代だという符合は、相手を自分の内に取り込むことを容易にした。彼の経験は僕の経験と似通っているという、ただそれだけで、高見が自分のように思われた。

「大体、もうすぐテスト期間だろ? そんなことしている場合じゃないって」

「もしかして高見って、結構冷たくない?」

「いや、どうせお前は無関心ではいられないから、その分、気を揉むんじゃないかって心配になるんだよ」

「実際、そんな感じだったんだよね。どうしたらいいんだろう」

「あんまり考えない方が良いと思う。特別なことはできないし、よしんば会話の相手になったとしても、それで登校できるようになるわけじゃないし、実際登校しなくても通信制とかあるんだしさ。本人の人生は、本人が決めなきゃ。まあそれが一番難しいんだけど」

「確かに」

「まあ、お前がどうやって耐えていたのかを思い出して、されて嬉しかったことを思い出してみればいいんじゃない?」

「いや、でも断ったから、もう来ないんじゃないかな」

「だといいけどね」

 大学が終わり自宅まで歩く途中に学生とすれ違った。ふと足を止めて振り返ってみる。また歩き出す。

蜜柑色した夕日が段々と朱になりつつある中、高校の通学路になっている二車線道路の歩道には学生たちが楽しそうに道いっぱいに広がってお喋りをしている。僕は歩くスピードを落とした。

 前方の集団の一人がこちらを振り向いたが、そのまま隊列を崩さずに歩き直した。自分の学生時代を思い返した。同級生の顏が思い浮かんだが、会いたいとまでは思わなかった。少しして、学生集団が右に曲がり駅の方へと歩いて行った。僕はそのまま真っすぐ進んだ。雲が紫になると外灯の灯りが点いた。さっきの集団を学生というカテゴリーで見ていたが、おそらくそれぞれに名前があって、それぞれが違う人生を歩むのだろうと思った。もしも、そのカテゴリーがなくなったら、彼ら彼女らは一体、何でつながるのか不思議に思った。

 アパートの前まで来ると、隣の部屋の灯りが点いていないことにホッとした。だけど、すぐに不安になった。この時間に家に誰もいないのは変じゃないか? 外食でもしているのだろうと思うことにした。そして、自分の部屋に入る。

 まずは部屋の電気を点けて、スマホを開いて今日の晩御飯の献立を検索した。彩り豊かなメニューが画面にズラッと並び、見ているだけで食欲が湧いてきたが、自分の口座に金がないのを思い出して、節約しなければと思いなおし、野菜炒めを作った。肉は切らしていたので、本当の野菜炒め。ずいぶん貧相な夕食。

 それを食べながらTVerで配信限定のアメトーークを見ていた。ストロングゼロ似合うおつまみドラフトをしていて、それを見ていると無性にストロングゼロと唐揚げの組み合わせが食べたくなり、家を飛び出した。スマホは凄い。可能性を広げてくれる。中学生の頃はガラケーだったけど、高校入学と同時にiPhoneを手にしてから、YouTubeやソシャゲなどの無料で楽しめるアプリのおかけで、暇つぶしと趣味がない交ぜになったり、SNSで知らないことを知れるようになったり、サファリで知りたいことを知れるようになったり、その分、知りたくないこともを知ってしまう機会も増えたりしたわけだが、総合的にはポジティブな評価をしている。スマホがなければ、唐揚げとストロングゼロへの意欲が湧かなかっただろう。

 走った。それはもうオリンピックの聖火ランナーだとか比にならないくらい息切らして走った、走るのみだった。途中、家の鍵を閉めたかどうか不安になったが、唐揚げのビジョンが脳内を支配していた。油でてらてら輝いている山盛りの唐揚げ……。震えた箸が一つを取る。それを口に入れる。口の中で唐揚げの旨味油を感じて、それをストロングゼロで流して、もう一度再開。

 ローソンに着いた時、そのシュミレーションを少なくとも十回は繰り返していたおかげかパブロフの犬実験さながら、反応が刺激に先行するという現象をまざまざと感じて、自分が動物であることを改めて自覚した。もう涎が止められない。

雑誌、エロ本のまえを速足で通り過ぎ、ストロングゼロのロング缶を手に取りレジに向かった。それに加えて唐揚げくんレギュラーを三つ買うとホクホクした気分で、店の駐車場の奥まったところにある喫煙所で煙草を吸った。そこにはデブの中年が居た。中年は僕のもっているビニール袋の中身を当てて、自分の手にしている缶チューハイを顔のあたりまで持ち上げて、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「小僧、えらい奮発したな。良い匂いがプンプンするよ。唐揚げだろ?」

 そう言われてから、節約するつもりだったのに、つい買ってしまったと反省した。しかし、もう遅いし後悔はしていない。

「はい。もう、食べたくって食べたくって仕方なくなったんですよね、もう来るまでに何回、食べる妄想をしたことか」

「恋してるね」

「はあ? 恋?」

「うん、そう。君は唐揚げに恋しているよ。何かのテレビ番組かツイッターで言っていたはず。忘れちゃったけど、その日のうちに三回その人のことを考えたら恋なんやでって誰かが言ってた。つまり、君はこの短期間で唐揚げのことを何回も考えたわけでしょ。それも頭に唐揚げを思い浮かべながら、そのたびに君は唐揚げに恋い焦がれていたんだ!」

「唐揚げに恋なんてするわけないじゃないですか」

「でも、君は今、涎が凄いよ。唾が飛びまくり。それって、唐揚げをイメージして、そのたびに唐揚げに対しての思いを強化していることに過ぎないんだ。あ、お迎えだ」

 中年は若いけばけばしい女の姿を見ると勃起していた。チノパンがパンパンだった。彼は女性と自分がセックスするシーンを想像して今、目の前にいる女性への認識を強化させたのだろうか。セックスとつながった女性として認識を強化したのだろうか。人間が反復によって、認識を強化 するにしても、なにか抵抗してほしいと思った。

中年が自動車に向けて歩き出した。けばけばしい女性はお隣さんだった。僕と女性は目があったが、すぐに伏せた。

「彼、何か言ってた?」

「いえ、唐揚げに恋しているとか言われましたけど」

「ああ、そうなんだ。ところで、娘は家に居た?」

「え? いるんですか?」

「え?」

「電気ついていませんでしたよ?」

「え? えっと、じゃあ家に帰ったら、ちょっと娘がいるかどうか確かめてくれない? それぐらいならいいでしょ?」

「え、でも」

「そう、ライン交換しましょ。それで連絡して」

 彼女は僕の手を握りほとんど強制的にラインを交換させた。この人は、僕が連絡をしないという選択を取ることを考えていないようだ。確かに、僕は連絡してしまうだろう。間違いない。

 車で待っている酔っぱらった中年が「早くしろよ!」と怒鳴った。

女性は「それじゃあ、よろしくね」と言って、車に乗り込み駐車場から去った。残された僕はコンビニでもう一本、ストロングゼロを買った。

家前の帰り道に、一本飲んだ。夜になってから段々と涼しくなって、多少なり息をしても心地のよさを感じられるようになり、酒に酔った僕は道端の背の高い雑草が手の内をするするとすり抜ける感覚と目の合わない女の子のことを考えた。あの目の隠れた女の子のことを考えた。笑ったらどんな顔をするのかだとか、幸せでいて欲しいだとか、不安や悲しみがなくなればいいのにだとか、一人で相撲を取っていた。シラフだったら絶対に考えない事。他人のことは普段、考えたくない。

聞きなれた階段の音が街灯に紛れて高く響いた。

105号室に入る前に隣の部屋をノックした。さっき家を飛び出した時から何も変わらず、電気が点いていないままだったその部屋はノックしてから、パッと明るくなった。小さな窓から衣料用洗剤の容器がうつった。

 扉が開かれて、あの目が見えない顔がすっと現れて、何故か安心した。花、確かに咲いたはずだった。けど、すぐに枯れた。また花を買った。すぐにしおれた。水はちゃんとあげていたはずけれど、枯れた。水が足りない時に音が鳴れば、すぐに助けられるのに。枯れた瞬間に音が鳴れば、あとくされもないだろう。

「なんですか?」

「いや、家の電気ついていなかったから、ちょっと心配で」その言葉に嘘はなかったけれど、本当でもなかった。彼女との関係はそれほど深いものではないし、僕が一方的に考えているだけだが、それほど簡単に割り切れるようなものではない。

「なんか気持ちが悪いですね」

「いやー手厳しい。まあ、なんにせよ良かった。じゃあね」

 急に恥ずかしくなって自分の家に戻ることにした。「え? 一体全体、なんなんだったんですか?」という声も聞こえたが、無視した。自分の部屋に入ってから女性に連絡をした。そして、酒を飲んだ。寝た。

 

 生まれて初めて鳥の糞が肩に落ちてきた。101号室のすぐ近くにツバメの巣がある。いつかはこうなると、なんとなく分かっていたし、心の準備をしていたが、いざそうなるとげんなりする。確かに軒先のコンクリートに北海道みたいな白い跡があったわけだし、そういうリスクも考慮できた。だけど、予測は不可能だった。クソッ!

ただ、落ちてきてしまったものは仕方がないし、受け入れるしかないのだ。ツバメの巣をぶち壊してやりたいが、それをしたら大家さんだとか動物好きの202号室の佐竹さんとかから顰蹙を買いそうだから、怒るのではなく諦めることにした。

二限は間に合いそうにないのでサボった。シャワーを浴びて汚れた服を手で洗って、ベランダの物干しざおに引っ掛けると、そうめんを茹でて食べた。

ツバメが巣立つ時期について調べていると、本当ならもういなくなってもおかしくはない時期らしかった。早くいなくなって欲しい。けれど、一年経って戻ってくるらしいので、本気で引っ越ししようか迷った。

しばらくすると、何もするべきことがないことに気が付いた。かといって、したいことがあるわけでもなかった。無気力だった。カーペットの上でごろんと横になり、今日は大学を丸々サボろうと思った。だが、決断は出来なかった。だから、光熱費を浮かすという理由を見つけ出して、大学に行くことしにした。

玄関を出た。104号室の前にスマホが落ちていた。画面は通知で光りっぱなしだった。それを見てから拾った。画面を見たくなかった。104号室をノックしても反応がなかった。一応、女性に連絡した。そうしてから、大学に行く予定を変更して、駅前のミスターマックスへと飲み物を買いに行った。

途中、白いワイシャツを日に晒しながら横を自転車で通り過ぎる学生が居た。ポケットの中でさっき拾ったスマホが断続的に震えていた。

店内は涼しく、冷気が肌に馴染む、ちょうどいい心地よさがあった。そこで同じ学科のヨッ友が働いていた。レジにその姿が見えた。デカビタを持って並んだ。相手は僕にヨッと言っったきり店員になった。最後に「セルフレジでいいじゃない?」と言われた。確かにその通りだった。確かにその通りだ。

ミスターマックスを出て、すぐ横の喫煙所で煙草を吸った。ミスターマックスが一番端で、ヤオコーTSUTAYAが並んでいる駅前。三つの店舗で共通の駐車場を使っている。喫煙所はヤオコーミスターマックスの間にある。もっと言えば、宝くじ売り場と証明写真BOXの近く。小さい子供とその親が前を通りがかったので、後ろを向いて煙を吐いた。そこには白い塀があって、その向こう側には、病院の廃墟がある。昔、患者を鎖で縛ってベッドに張り付かせていたのが週刊誌でバラされて潰れたらしい。まあそれは置いといて、塀の穴から中の様子が見えた。ここにもツバメの巣があった。ツバメが帰る場所は病院の廃墟なのだろう。人間も結局、生まれる時と死ぬ時は病院で過ごす人が大多数なので、実は人間もあのツバメも同じようなのかもしれない。そのような考えを馬鹿馬鹿しいと一蹴して、また煙を吐いた。そういえば、と思って、自分のスマホを取りだしてラインが来ていないか確認した。返信は来ていた。

家に戻ってから、また104号室をノックした。今度は開いた。ゆっくりと。スマホを渡そうと差し出したが、女の子はスマホと僕を何回か見て「お茶どうですか?」と言った。僕は頷いた。女の子は先に部屋の中に入ってしまったので、スマホをまたポケットの中に入れた。叩けば二つになるだろうか?

テーブルに女の子のスマホを置いた。一口齧られている林檎の面を上にして。そして部屋を見回した。家具の種類や配置は違うが、105号室と全く同じ間取りだった。冷蔵庫が閉まるボズッと音がした。女の子は冷たい麦茶を、グラスに並々注いで、それを溢さないで運べるかどうかのゲームをしているようだった。幽霊みたいに足音がしなくて、地雷原を歩くみたいに恐る恐る運んできた。それがテーブルの上に置かれた。

「ありがとうございます」をとても早口で言った。「あざす」

部屋にはテレビがなく、窓は開けられていた。熱気の孕んだ風がカーテンをふくらませた。コンセントの位置も僕の部屋と同じだった。

「聞きたかったことがあるんだけど」と彼女は言った。「前の夜、なんでドアを叩いたの?」

「ああ、それは部屋がずっと暗かったから、誰もいないのかなって」

「いや、全然分からない。泥棒するつもりだったの?」

「不服だ。本当のことを言おうか?」

「どうぞ」

「君の母親に頼まれたんだよ」

「なんだ、そうだったんだ。ねえスマホ貸してくれない? ちょっと動画見たいの」

「やだよ。我慢してよ」

 「じゃあ、私がお手本を見せてあげる。まずね、時代は江戸。飢饉に襲われた村人たちが食料を求めて移動しているの。これは隠された歴史の話。米騒動によって隠された歴史。米騒動はヒーローの物語なんだけど、日の当たらない歴史もあるのよ。そう、続きはこう。お腹が空いている人間はお役所にカチコミをしようとも思わないわけね。そりゃあ大塩平八郎が起こした後はそのビックウェーブに乗る連中もいただろうけど、その頃は誰も役所を襲おうなんて発想がないわけ。この食事に飢えた人たちはどうしたと思う? もちろん農家の家を襲ったのよ」

「それって本当?」

「さあね。でも、これは嘘ではないわ。ご飯に対する欲望が、あんまりに大きいもんだから、農家を潰すのよ。農家も農家よ、本当はご飯があるのに、ないなんて嘘ついたから。それに気が付いた飢えた人々は嘘をつかれた、という事実から裏切られたと、勝手に物事をふくらませて、自分を正当化して襲うの。裏切られた自分は可哀想だからって。ね、ちょっとおもしろいと思わない?」

「うん、ちょっとだけね」結局、面白い話じゃなくて、ちょっとだけ面白い話だった。そのちょっとだけも一つ間違えば危険な感じだ。

「でね、この話には続きがあって、農家には一人娘が居て、その娘は周りから嘘つきだって言われたのよ。嘘つきの子供は、嘘つきだってね。けど、その子を生かしたのは農家じゃなくて、襲った人たちなの。こんな幼い子は殺せないって。そんな中途半端に人間性を大切にしようと思わなくてもいいのにね。まあそれでも、その娘はいじめられ続けて、死んだって話」

「でも、その話はフィクションなんでしょ?」

「信じるも、信じないもあなた次第って感じ。けど、私はそれを知っているし、もしかしたら本当かもしれない」

 どんな感じか全然わからなかったけれど、なんとなく「綾ちゃんはコラムニストにでもなれそうだね。ほら、スポーツ新聞の隅っこの方の」と言った。彼女はちょっとだけ嫌そうな顔をした。

「ほら、次はあなたの番」

「えっと、ああ、ほら101号室の近くにツバメの巣があるじゃん」

「うん」

「そのツバメに糞を落とされた」

「ありきたりな話だし面白くもない」

「いや、ありきたりだと思うでしょ? けど、鳥の糞を浴びた人間っていうのは少ないと思うんだよね。あれって予測できないじゃん。そういうリスクがあるのは理解していても、いつ自分がそうなるのかって分からないじゃん。もしかしたら一生、そういう状況にならない可能性だってある訳だし。僕の場合はツバメの巣があるアパートっていう環境が余計に作用した訳だけど、結局ほとんど運なんだよね。ウンコだけに」

「それでも、つまらないのには変わりはない。つまらないのよそんなの」

 

 彼岸で実家に帰るまでに四回、電車を乗り換えなきゃいけないので、電車内や駅構内の広告やホームから見える看板は嫌というほど視野に入る。一回目は「賛成、新しい自分」という転職サイトの広告、二回目は「君は人生の主役」と書かれた整形外科の広告、三回目は「自分という殻を破れ」という広告会社の広告、四回目は「そうだ、京都に行こう」という旅行系の広告だった。どれが一番マシかというと、四番目だ。一番目の広告は、新しい自分になりたい人を応援することで金を稼ぐ会社、二番目は主役になりたい人のための(あるいは自分は主役ではないと思っていて、その理由が外見にあると認識している人に向けた)広告、三番目は意味が分からない、殻を破ったら何が起こるかさえも言及されているないし、意図も掴めない。

 実家の最寄り駅について相変わらず寂れていると思った。新海誠が映画の舞台として出してくれれば、風情があるとか味わいがあるとか、それっぽくパッケージングされて発掘されそうな駅。朝日か夕暮れだったらベスト、もっといえば天気雨が降っていれば、涎をたらした感動中毒者が映画館に駆け込むぐらいだ。

 車で迎えに来てくれない両親をスナック感覚で恨みながら歩いた。ラインで迎えよろしくって送っておいたのに全くの無視。蒸し暑すぎて恨まなきゃ気力すら湧いてこない。こっちから歩いて帰るって送ってしまったのを、今更になって後悔した。

両親から無視されて一人トボトボ徒歩で帰る蒸し暑い真昼間、これが僕の人生のディスティニー……。こんなクソな人生の主役になるなんてまっぴらだ。中学生の頃、僕の給食に犬の餌を入れた彼は超絶可愛い彼女とディズニー……。電車でインスタなんて見なきゃよかった。いつもそうだけど、不快に思うなら消せばいいのにと他人事のように思うが、なぜか消さない。

人生の主人公になるのに選択権があればいいのにな、と思った。というか、高見も綾ちゃんも石田さんもドルチェ・シマノフスキの主人も大学の先生もみんな自分の人生の主人公なのだろう。

五キロほど歩いた。腰かける場所と日陰はなかった。

実家で最初に僕を迎えたのは飼い犬の死体だった。飼い犬の死体を見たのは二度目だった。最初はまだ四歳ぐらいの頃、その犬は畑の土に中に埋められて、今は夏みかんの根を引き受けている。

「あんた、帰ってくるの今日だったの?」と母は言った。「ちょうどいいから。ちょっと土掘るの手伝ってよ」

 僕は頷いた。畑の土を掘った。父親とスコップを持ってビワの木の横を掘った。ナスやら唐辛子やらネギやらカボチャやらを育てている畑の外周には、放置されて山になっている藁やら枝の柿の木やら夏みかんやらが雑に植わっている。

 夏みかんはたわわに実っていて、日差しを受けた黄色はよく映えている。そういうのを見ていると自分も死んだときには土に埋めて欲しいと思った。焼かれて骨壺に入れられるより、土になって微生物の栄養を担っていきたい。あわよくば、そこから植物が生えてきてくれれば、多分おちつくだろう。

 ようやく犬一匹が入れる穴を掘り終え、腰に手を当てて空を仰いでいると、父が唐突に離れの田んぼ潰して売却したから奨学金はもう借りなくていい、と言った。もう着工されているという。

地べたに横になって固まっている犬の周りに蠅が飛んでいた。物流倉庫は三階建てらしい。犬は臭かった。物流倉庫の建つ土地の近くには小さな川が流れているが、わざわざ専用の橋を作るらしい。犬を土の中に置いた。物流倉庫が田んぼだった場所に建つ。犬に土をかけた。どんどん姿が見えなくなっていった。

 ぼんやりしながら家へと戻っている最中、白い蝶が眼の前を通り過ぎた。その白さに目が奪われ、ハッとしてその姿をもう一度、見ようとしたが姿はもう見えなかった。夏の蝶は存在するのだろうか。蝶も羽ばたく度に音が鳴れば、あれが幻覚ではないと知ることができただろうか。

 庇の下で煙草を吸った。縁側のすぐ近くのサテツの根元に蟻が這っていた。大きく息を吸った。銀色の犬小屋の前に置かれた蚊取り線香の匂いが死体の匂いと混ざって、吐き気をもたらした。頭痛もやってきた。目を閉じた。疲れた。

 日が傾きはじめて、疲れが身体に馴染んだ。倦怠が肩にのしかかった。大きく息を吐いて肩を下げた。空に溶け込めない金色の雲が死体のように見えた。微動だにしない雲。

 母親が夏みかんをもってきて「あとちょっとしたら行くから」と言った。二、三切れほど食べてから、周りの田んぼを歩きながら、また煙草を吸った。けど二、三口だけ吸ったら地面で火をもみ消した。単純に煙草が残っている夏みかんの風味と合わなかった。訳もなく田んぼの中に入った。黄金色した海をかき分けて、屈んで進んだ。

 爺さんが使っていた外のトイレを見に行った。こえだめは潰されている。土壁のぼっとんトイレは子供のころほどの恐ろしさを感じさせなかった。ただの用を足すための場所として存在していた。だけど、誰も使うことはない。

僕はそこでションベンをした。ションベン臭かった。

物置にツバメの巣があった。だけどツバメは飛び立った後らしく、姿は見えなかった。アパートのつばめもさっさと飛び立って欲しいと思った。

六時になって花柄の提灯に火をともして歩いた、父は家紋の入った提灯を手にしていた。ため息みたいに湿った風が吹いて、ぼんやりしている影が揺れた。

墓場には隣の橘さんご一家が居て、少し話した。提灯の薄明かりに照らされた母の顔に彫られた皺は思いのほか深く、そこに影が染み込んでいた。母も若くないのを知った。

夕食は僕が普段から口にしているレベルの食事よりも数段上だったものの、いじめられているのを告白した時に比べたら数段下だった。ご飯は中々喉を通らなかった。だけど、ちゃんと食べた。

高校生の時まで使っていた部屋。明かりをつけたまま眠った。そうしなければ眠れなかった。ノスタルジーさえもまともに感じれない。

 

 

八時過ぎに目が覚めてからパンを買いに行こうと、サンダルに素足を滑り込ませてから、パン屋がつぶれたのを思い出した。それでもなんとなく外に出た。パン屋がないならコーヒー豆を買いに行こう、と思ったのだ。身体に染みついた習慣は、それが重要でないからこそ、中々なくならない。だから外がうだるような暑さであっても、Tシャツを肌に張り付けながら、財布と小説を持って、途中自販機で買った缶コーラを飲みながら商店街を真っすぐ突き進むことができる。そこではできない理由を探すことはない。だって、簡単にできるから。

 帽子を被った主婦と仮面ライダーのTシャツを着た子供が手をつなぎながら、微笑みあっている。その親子は僕とすれ違いかけそうになったら、コンビニに入った。音もなく開かれたドアは涼しい風をくるぶしに届けた。アーケードを子供が駆け回っている。夏休み、良い響き。僕は中学生の頃いじめられていて、あんまり外に出るっていうのをしてこなかった。そういう時は夏休み中が一番、外に出れないのだ。彼らといつどこで遭遇するかと足が全くつかないから。けど、もしかしたら生きるっていうのも大抵そういうものなのかもしれない。競争原理の下で、いつ誰から、何から襲われるか分からないまま、ただビクビクおびえながら、自分の身を守ることに集中しなければならないし。まあ、だから、風みたいに走り抜ける子供たちが、どことなく羨ましく映った。

 前進しようとするたび、疲れを訴えるように背中が丸まっていき、ゾンビのように足を引きずった。もう耐えられないと思った時、ちょうどパン屋があったところに着いた。テナント募集の張り紙がガラスに張られていた。青い塗装と「ロックストーンベーカリー」という店名は、もう全て白で上塗りされていて、本当にパン屋がつぶれたのだと教えてくれる。あのパン屋で働いていた人はどこにいったのだろう、サクサクメロンパンがもう食べられないのかあ、だとか思っていたら、自分が勝手に物語を探して、勝手に感傷に浸ろうとしているように思えたので、あまり気にしないように歩き直した。そこに悲しさはないはずで、ただパン屋がつぶれただけ。けれど、あのパン屋は美味しいと評判だったし(確かに美味しかった)、それを聞いた店主も悪ノリで「美味しいパン屋です」と書いたポスターを店内に張っていた。テレビに取材されたこともあった。

「パン屋がなくなるのは寂しいね」と背後から帰を掛けられた。振り返ると男が居た。夏の暑さにやられたのか酷くやせ細っていた。

「そうですよね。美味しかったのに」

「まあーパンなんて今時、どこでも売ってるし。けど、やっぱり、ねえ」

「なんで閉店したんですかね?」

「ああ、これは噂なんだけど」

話を聞くと、誰かは知らないけど、「全然美味しくない。これは詐欺、店主は嘘つき」というクレームが入ったらしい。ついでに訴えられたらしい。掲示表違反らしい。「ごたごたして、いろんなことが嫌になったんじゃないかな? なんでも娘さんもいじめられてたらしいよ」

見慣れたコーヒー豆屋の前まで来たら、やっと涼めると思い、涙が出そうなほど嬉しかった。正直、外出したのは失敗だった。

そもそもドルチェ・シマノフスキは商店街を抜けたところにある豆屋で、こんな暑い中、歩いていこうと思った自分は本物の馬鹿だと思った。

 店頭には空の樽とシルバーフレームのロードバイクが置いてある。一目でコーヒー屋だと分かるように、濃い茶色の外壁だ(いや、そういう理由じゃないとは思うけれど)。この辺まで来ると人も少ない。トラックの走る道路の高架下をぬけるとオフィスビルが立ち並んでいる。芝生と点在するいくつかの木々。ドルチェ・シマノフスキの少し向こう(高架下の手前)にはコンビニがあり、そこで夏休みの子供が自動ドアのすぐ傍で遊戯王デッキを開封している。「公園行こうぜ!」と言っているのが聞こえて、なぜ家で遊戯王しないのか理解できなかった。外で遊戯王? 絶対蚊に刺されるし暑いのに。

考えても何もならないので(正直、熱さに耐えられなかったの方が動機として強い)ほんの少し重たい扉を押して中に入った。店内では、かの名盤であるケルンコンサートが流れていて、やっぱり今日は豆を買いに来てよかったと思った。この名盤はキースジャレットの唸り声が入っているのに旋律は氷みたいに透明で冷たくて固くて好きだ。この店主と、やっぱり波長が合うと思った。大学に入学してから、自宅周辺をぶらぶらりしていた時、初めてドルチェ・シマノフスキに入ったらザ・デイブ・ブルーベック・カルテットのロンドが掛かっていて妙に親密に感じた。それ以来、この店はお気に入り。

店主が焙煎をしている間、持って来ていた小説を読んだ。正直、全く集中できなかったが、店内でぼーっとしているのも、間抜けなので文字の上を滑っていた。ページを捲ると、内容が繋がらなくて、またページを戻すといったようなことを何回か繰り返していると、店主がコーヒーと三粒のナッツを僕の前に置いた。焙煎が終わるまでの間のちょっとしたサービスだ。

出されたコーヒーとにらめっこをして(それはホットコーヒーだった)、おそるおそる口を付けた。やっぱりおいしかった。一度、ちゃんとしたコーヒーを飲むと、中々インスタントコーヒーには戻れない。大してコーヒーが好きでもないのに、そうなってしまうのだ。こだわりがある訳でもないが、どうもインスタントがまずく感じられるようになる。ナッツを手に取った。もしかしたらナッツと夏を掛けているのだろうかと考えたが、さすがに深読みしすぎだと思い、口に放った。それを噛みながら、また文字の上をつるつる滑った。

「そういえば、どうしてパン屋なくなっちゃったんですかね」

 クレジットカードで会計をしている間、店主に尋ねた。

「ああ、なんでも石田さん、いや、店主のお父さんの介護で首が回らなくなったらしいよ」

「え。けど、あの人、四十代ぐらいなんじゃないんですか? 見た感じだとそうだと思ったんですけど」

「違う違う。痴呆になったんだよ。それに一人っ子だし、嫁さんは子供連れて逃げちゃったらしいし。ほんとこれからどうするんだろうね」

 店主は同情したようにため息交じりにそう言った。ビニール袋を手首にかけて、クレジットカードを受け取り、「じゃあ、また今度」と言って家に帰った。iPhoneで時刻を確認すると、もう九時時になっていた。歩を速めた。

所々、錆びて塗装がはがれた階段をわざと音を立てて登った。サンダルだといい音が鳴らないのに気が付いた。

 404号室(それは104号室。誰かが落書きして4になっている)をノックしてから隣の自分の家の鍵を開けた。夏の日差しを受けたドアノブは鋭く光っていた。熱を我慢して回した。中に入り、むんとした空気を追い出そうと、窓を開けて扇風機を点けた。買って来たばかりのモカブレンドをコーヒーミルで挽いた。コーヒーメーカーにフィルターと豆をセットし、水を入れる。焙煎したばかりの豆のせいで部屋の匂いが変わった。換気扇を回す。

 スーパーで売られている一番高い食パンをオーブンの上から引っ張り出し、刃がギザギザのフルーツナイフで適当な厚さに切り、(本来は魚を焼くための)グリルに入れた。片面二分、もう片面一分。その間にグレープフルーツを切ろうとしたけれど、生憎切らしていたので代わりに檸檬を切ることにした。きっと目が覚めるだろう。あの流行の音楽に則って、切り分けた檸檬の断面図は太陽みたいに光、と呟いた(こんなんだっけ?)。そういえば、なぜ子供の中には黄色い太陽を書く子が居るのだろうかと思っていると、ピーっと音がした。パンを裏返して、もう一分だけ焼く。赤色とかオレンジ色とか、いろんな太陽があるのだなあ。きっと多様性なんだろうなあ。

 ふと思い立って冷蔵庫から檸檬をもう一つ取りだして、居間に戻る。本棚から適当な小説を取りだして積み重ねた。その上に檸檬を置いた。色とりどりの背表紙の一番上に檸檬がある。全く微動だにせず、彫刻みたいに見えた。けど意味が捕まえられない。ここは丸善ではないから爆弾にはならなかった。またグリルが鳴ったので、台所に戻った。パンを取りだしてミッフィーの小皿の上に置いて机の上に並べた。ちょうどいいタイミングでコーヒーメーカーが鳴った。そうして、グラスに氷をたくさん入れて注ぎ、それをテーブルの上に運んだ。本棚から適当な小説を取りだしてコースターの代わりにする。今日は新潮の怒りの葡萄(上)(下)だ。何度も使ったせいで茶色い輪が濃い。どうせ売らないからどれだけ汚しても構いやしないのだ。

さぁこれで準備は終わりという感じで玄関を見た。けど、ブルーベリージャムを出すのを忘れていたと思って、冷蔵庫から取りだして必要な分だけ小鉢にあけて、それをテーブルに並べた。転がった檸檬、パンでミッフィーが隠れた皿、それとジャムの浸った小鉢が綺麗な三角形になった。ぼーっとしていると「大丈夫?」と声が聞こえた。

綾が来るまで扇風機は僕の方へまなざしを向けていたけれど、彼女が来ると首を回した始めた。僕と彼女を交互に眺めて、間違い探しをしているみたいに。

テーブルの真ん中に建設された小説の塔は彼女の視線を遮っている。だから僕は綾の顔を見なくて済んだ。

「もうそっちは夏休みが終わるんだね」

 焦げが目立つ方のパンを齧りながら僕はそう言った。

「うん。けどずっと夏休みみたいなもんだし」

「僕もずっと夏休みが続けばいいなと思っていた時期があったよ。高校性の時は」

「そうなの?」

 ちょっと上擦った声が聞こえた。

「中学生の時は最悪だったけどね」

「知ってる」

 今度は落ち着いた声。

「ああ、そう? ごめんね」

 本当に知っているかどうかは、曖昧だけど、とりあえず謝った。

「ところで、この小説塔は何?」と向こうから声がしたので「なんか物語が嫌になって積み上げてみた。馬鹿みたいでしょ? こうやって集めて積んでみたら全く意味が見当たらないんだもの。どう? なにか意味だとか可能性を見出だせる?」と身体を右に傾けて言った。けど綾の顏は見えなかった。きっと反対側から、こちらを伺っているのだろう。

「ぜんぜん。まあ想像力が働かないっていうのは素敵かもね」

 その時、揺れた。なんてことのない、ただの地震だった。檸檬は僕の方へ落ちてきた。綾は立ち上がって小説塔を上から押さえつけていた。揺れが収まってから彼女を見ると、目が潤んでいるのに気が付いた。何かが崩れたと思った。

「髪、切ったんだね」

黒い眼鏡の縁の上で綺麗に揃えられた眉毛があった。蝶の羽休みのようにゆっくりと瞼が閉じられた。

「うん」

彼女はピースサインを作って人差し指と中指で前髪を挟んだり、挟まなかったりを繰り返した。僕は「大丈夫だよ。きっと。それに人生は嫌になるぐらい長いんだ。だから想像して不安になっても、そのうち思い出になるかもしれないよ」と声を掛けた。自分から離れた言葉だった。綾は僕を見て笑っていたものの、チックが起こっていた。

「余命でもついたら、もうすこし勇気が出るのかな」

 消え入りそうな声が蝉の声に混じって聞こえた。余命がついたら虐めはなくなるし、むしろみんなは君の力になろうとするだろうと言いかけたが、それは言葉にするだけの価値がないので言わなかった。

「さ、食事を再開しよう。僕が中学生の頃、初めて親に打ち明けた時、ごちそうを作ってくれたんだ。そこから分かったのは、食事がとても大切だってこと。お腹が膨れれば少しは満たされた気分になるんだ」

「けど、だったらもっとちゃんとした昼食を作ってほしいな。こんなささやかなものじゃなくて」

 綾は独りごちた。今日のご飯は奮発したつもりだったが、彼女にとっては、ささやかなものだったらしい。

「うーん。ちゃんとした食事を作れるほど、お金があればいいんだけど。まあ、もう少ししたら豪華になると思う」

「でも、せめて今日ぐらいは」

 その先の言葉は発せられなかった。

 

アマゾンプライムで映画を見ながら午前中を過ごして、午後は適当に生きていた。日が暮れ始めた頃、夕飯を買いに行こうと外に出た。

ツバメの姿はもう見えなかった。巣の下のコンクリートにこびりついている白い糞の跡をまじまじ見ようと近づくと、消火器の裏で巣から落ちたツバメの雛が干からびていた。僕はそれを土に埋めようとしてつまんだが、地面はコンクリートだらけで、結局、面倒になって元あった場所に戻した。気を取り直してご飯を買いに行こうとしたら、石田さんが玄関から飛び出してきて、豪快に転んだのを見た。

「どうしたんですか、そんなに慌てて」

僕に憎悪の視線を送ってから「綾が屋上から落ちたの」と石田さんは言った。「それで死んだ」と呟いた。電灯のジジーという音がうるさかった。

僕はスーパーでたくさん食料を買い、今までで一番のごちそうを作った。親がなんでご飯を、ごちそうを作ってくれたのか分かった。僕が辛いのを励まそうとして、ごちそうをたくさん作ってくれたのもあるが、本当は両親も、今の僕と同じように、勝手に傷ついていたのだ。