遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

練習

 

 

 

 

食事は大切だ。どんなに嫌なことがあっても食べ続けなければならない。食べると、多少は元気が復活する。食べたものは糞になって外に出て、また新しい食べ物を食べる。循環する。あまり食事が喉を通らない時でも、食べ続ける事は大切だ。自分の身体に栄養を与え続けるのは、日々を生きるには大切。

朝目を覚ましてから、そういうことを考えた。実際、ここ最近は暑さのせいで食事を摂る気にはならなかったから。とりあえず沸かしたコーヒーを飲みながらテレビをぼんやり眺めていると、黒い枠の中で高田純次が適当な言葉を言いながら商店街を散歩していた。あれぐらい適当に生きていけるのは鈍感なのか、それとも高度に感情を意識しているからなのかは分からないが、いずれにせよ多少は生きるのが楽しそうだと思う。

手元を探りiPhoneを手に取った。そこには高見からの今日の待ち合わせ場所の連絡があった。そのメッセージが僕を急かした。あと三十分で家を出なければならないじゃん。 シャワーを浴びていなかったし、朝食もまだ。ヤバい遅れる。寝汗で湿ったパジャマを洗濯籠に放り投げて、浴室に入った。シャワーと着替えを十分以内に終わらせて、それ以降はゆっくりご飯を食べよう。シャワーの蛇口を回すと、背中に冷水がかかって、さながら動物のように後ろに飛び上がった。その時に滑っておしりを強く打った。自分で自分のどんくささに呆れた。けれど、もし同じようにどんくさい人が居たら、少しは優しくなれるだろう。きっと。気を取り直して、シャワーをざっと浴びた。けど、着替えとタオルを用意するのを忘れて、びしゃびしゃなまま床を歩きたくないが、そうする以外に選択肢がないので、諦めて歩いた。掃除する時間が増えてしまった。

身体を拭いて、着替えた。そして、いらなくなったTシャツで床を拭いていると呼び鈴が鳴った。今はほかのことにかまけている暇はないので居留守を使おうとしたが、ドアが叩かれた。数十秒間、乱暴にドアを叩く音と(まるで今を逃すともう二度と訪れない幸福を懇切丁寧に教えてくれるみたいに)「すみません」という耳をつんざく甲高い声が響き続けて、うんざりした。けれど、やっぱり扉を開けた。

 ドア越しに僕は「なんですか?」と言った。

「ああ、助かった。隣の石田ですけどちょっと開けてもらえませんか?」と妙に早口で言われた。女性の声だった。僕は面倒に思ったが、後々嫌がらせを受けたらたまったもんじゃないので、少しだけドアを開いて半分だけ顔を出した。

 そこには血色の悪い女性が居た。彼女は僕と目が合うと安堵したように微笑んで―しかし、しっかりとドアを掴んで―こう言った。

「ちょっとこの子の面倒見てくれませんか?」

 女性が立っている位置からずれると下を向いた女の子が居た。くたくたになった白菜のようなシャツ来ている少女は、顔を上げて僕の方を見たが、その目は髪の毛で隠れていて、嫌な感じがした。僕はチェーンを掛けたまま顔を出せば良かった後悔した。

「嫌ですよ。この後、用事があるんです」

 女性は張り付いたままの笑顔で(それはきっと僕の都合を受け入れないという意思表示)濡れた犬が身体をゆすらせて飛沫を飛び散らせるみたいに、首を横に忙しなく振った。大げさだ。

「でも、そこをなんとか、お願いします。そうだ。お金を払います。そうすればいいじゃないですか。ほら」

 女性は、そう捲し立てて財布から津田梅子を出した。それを僕に無理やり握らせて、女性は立ち去ってしまった。酷く熱い手だった。女性の背中が視界から消えて、老朽化した階段の音が軽快に響いた。僕は正面に向き直り、女の子の後ろにある陰影のある入道雲を見た。「ねぇ、僕ってどうしたらいいですか?」

 ちょうど女の子のお腹が鳴ったので、そういうことなんだろうなと納得した。とりあえず朝ご飯はまだだったから、まあいいかと思うことにして、女の子を家に通した。実際、一人で食べる食事より、二人で食べる食事の方が安心する。一人で食事をとると、自分の咀嚼音が嫌に聞こえて、あんまり食べ進めることができないし、二人だったら会話でもしながら食べれるし、咀嚼音は気にならなくなるのだ。

ほとんど新品に見える(真っ白)スニーカーを脱いだ女の子は素足でフローリングを歩いた。僕は、彼女の湿った足跡を見て、眉間に力が入った。僕の家は砂浜でもなんでもないから素足で歩くのは止めて欲しい。折角、きれいに掃除したばかりなのに。

床にはゴミが落ちてはいるので、スリッパを薦めた。けど多分、砂浜も素足で歩いたらケガするぐらいにゴミが落ちているかも。綺麗な海を見てゴミを落として帰っていく人もたくさんいそうだ。

「パンでいい?」

 僕はパンをグリルに入れてから聞いた。

「大丈夫です」

 それは遠慮なのか、パンでも構わないという意味なのか分からなかったけど、お腹が空いているようだったので、パンを焼いた。美味しいパン屋の美味しいパンだ。焼いて食べた時の匂いが違う。

 

ご飯を食べ終わったら、女の子を家に帰すと決めていたが、ぽつぽつと会話をするうちに(女の子は綾という名前だった)、彼女の家はもう鍵が掛かっていて、しかも彼女は家の鍵を持っていないことが分かったので、結局遊びに行く約束を断るはめになった。その連絡を入れると、遊びに行かないなら代わりに学籍番号を教えろとメッセージが来たので、LINEで送っておいた。

そのまま手持無沙汰なまま、ぼんやりしているのも居心地が悪かったので僕は彼女に小説を渡した。それに、なにか地雷があるかもしれないので迂闊に女の子の事を聞けないのだ。けれど、活字だけだとつまらないからと言って断られた。次に漫画を渡した。これは好感触だった。なにはともあれテレビを点けなくて済んだ。昼過ぎのテレビはあまり見たくない。

「それで、いつまで居座るつもりなの? お母さんはいつ帰ってくるの?」

「さぁ?」綾の視線は、僕の顔の上を彷徨っていた。「わかんない」

「そうなんだ」寂しい家族なんだろうな。食事の席で誰も言葉を発しないような。いや、そもそも家に人が居なさそうだ。「面倒なことになったなあ。面倒だなあ」

 綾は口角を上げていたが、それはひきつった笑みだった。

「なんか、ごめんね。新しい漫画、借りてこようか?」

「いらない。ねえ、スマホ貸してよ」

「嫌だよ。なんで」

youtubeみたいから」

「やだよ。我慢してよ」

「えー、つまんない。Youtubeの代わりに、あなたが面白い話してよ」

 僕は嫌な気分になった。サークルの先輩に同じことを言われたのを思い出したのだ。

「そんなの知らないよ。僕は君のことをあんまり知らないし」

「じゃあ、私がお手本を見せてあげる。まずね、時代は江戸。飢饉に襲われた村人たちが食料を求めて移動しているの。これは隠された歴史の話。米騒動によって隠された歴史」

 隠された歴史と聞くと、どうも胡散臭く感じる。やっぱりそういうのを読みがちな年頃なのだろうか。都市伝説とか、成り上がり物語みたいに、そういう俯瞰している気分が味わえるだとか、信じることで救われる物語だとか、そういうのが欲しいのだろうか。それ以外のものを求める事すら知らないで、ただ満たされないという理由だけで、それを求めるのだろうか。だけど、そういう物語に霊性があるのは認めざるを得ないけれど。

米騒動はヒーローの物語なんだけど、日の当たらない歴史もあるのよ。そう、続きはこう。お腹が空いている人間はお役所にカチコミをしようとも思わないわけね。そりゃあ大塩平八郎が起こした後はそのビックウェーブに乗る連中もいただろうけど、その頃は誰も役所を襲おうなんて発想がないわけ。ここからが面白い所、ちゃんと聞いてね。この食事に飢えた人たちはどうしたと思う? ふふふ、もちろん農家の家を襲ったのよ」

「それって本当?」

「さあね。でも、これは嘘ではないわ。ご飯に対する欲望が、あんまりに大きいもんだから、農家を潰すのよ。農家も農家よ、本当はご飯があるのに、ないなんて嘘ついたから。それに気が付いた飢えた人々は嘘をつかれた、という事実から裏切られたと勝手に物事をふくらませて、正当化して襲うの。裏切られて自分は可哀想だからって正当化して。ね、ちょっとおもしろいと思わない?」

「うん、ちょっとだけね」結局、面白い話じゃなくて、ちょっとだけ面白い話だった。

「でね、この話には続きがあって、農家には一人娘が居てね、その娘は周りから嘘つきだって言われたのよ。嘘つき人間の子供は、嘘つきだってね。けど、その子を生かしたのは農家じゃなくて、襲った人たちなの。こんな幼い子は殺せないって。そんな中途半端に人間性を大切にしようと思わなくてもいいのにね。それで、その娘はいじめられ続けて、死んだって話」

「でも、その話はフィクションなんでしょ?」

「信じるも、信じないもあなた次第って感じ。けど、私はそれを知っているし、もしかしたら本当かもしれない」

 どんな感じか全然わからなかったけれど、なんとなく「綾ちゃんはコラムニストにでもなれそうだね。ほら、新聞の隅っこの方の」と言った。彼女はちょっとだけ嫌そうな顔をした。

「じゃあ次、面白い話をしてよ」

「いいよ。面白いかどうかは分からないけどね。昔いじめられていた子が居た」

「それ私のパクリじゃん」

「いや、最後まで聞いてよ」綾は一応頷いた。「その子はラノベを読んでいて、ああモンスターハンターね。それでクラスのサッカー部に聞かれたんだよ。何読んでるのって。けど中々答えられないわけ。挿絵がおっぱいだからね。全然応えないもんだからサッカー部の奴は痺れを切らして無理やり取り上げた。それでパラパラ捲るとおっぱいがあるわけじゃん。あっ、そうこれは中学生の話ね。それも一年生の七月とかそれぐらいの」

「ねえ、その話って本当に面白い? 絶対面白くないと思うんだけど。しかもセクハラ」

「え、セクハラになるの?」

「いや、分んないけど」

「で、おっぱいに興奮したサッカー部の輩は教室中にエロ本持って来てる~って伝えるわけね。周りも、えっ! エロ本? 猛者やん! キモッ、とかそりゃあもうバズったわけ。一年五組のトレンド一位を獲得した子は、恥ずかしさのあまり泣いた。歯を食いしばって声を噛み殺してね。ああ、顔が赤かった。それが羞恥なのか怒りなのか分からないけど。しばらくして先生が来ると、話し合いが行われた。先生は最初、またサッカー部の奴が変なことしたんだと思っていた。でもその小説をパラパラ捲るとおっぱい。これには教師としてどう振る舞っていいのか分からなくなったみたいで、そう、つまりここでおっぱいを容認するのは教師としてどうなんだろうっていう葛藤があった。サッカー部の輩が、あんなに騒ぎ立てなければ、もっと穏便に済んだっていうのは先生も分かっていたはずだ。そして、モンハンのノベライズを読んでさえいなければ、こうならなかったことも知っていた。で結局、警告で終わり。イエローカードさえも出されなかった」

「ねぇ」綾が何か言いたそうにこっちを見た。その苛立ちを隠さずに睨み付けられていたが、僕は「大丈夫」と言った。

「ここからの展開は綾も気に入ると思うよ。辱めを受けた子は、それでも学校に登校し続けていた。筆箱を隠されたり、教科書に油性ペンで落書きされたり、上履きを身体にぶつけられたりしてもね。神様がそれを見ていたのかもしれないね。そして、体育の授業でサッカーをすることになった時、自分が、あの輩よりもサッカーが上手いことに気が付いた。さあマウントが取れるぞ、ノコッタ、ノコッタ。まさかあいつがっていう感じでクラス中が色めき立った。授業が終わると、あの輩は一緒にサッカーをやろうと誘ってきた。自分がやったことをすべて忘れたように。それを受け入れて、断れない性格の彼は、頷いた。そして、彼が活躍するようになると、彼を虐めていた子は、逆に虐められるようになった。取り巻たちにね。そして、その子は自殺した。それを知った時、涙が流れなかった。そして」

「結局何が言いたいの?」

 話を遮って、綾がそう言った。

「やさしくなりたいって話」

「本当に、つまらない話。どうせフィクションでしょ」綾はそう言いつつニヤニヤしている。

「それを言ったら、君のもフィクションさ」

 綾はそれから、ほとんど毎日、家に来た。母親から金を預かって。僕は綾の話し相手になるというアルバイトを始めたのだ。一週間五千円。他のアルバイトもしていたけど、あまりお金に余裕がある訳でもなかった。けど、人と話すのにお金はいらないし、夏休み中の暇つぶしで金が貰えるのはありがたかった。

 その日の夜、眠れなくなって布団の中でiPhoneをいじっているとメールが来た。

 

Title 眠れないのか?

Text 最近、まさにこのメールの件名のような、章名の文章を読んだ。そこでは、モノグラフとして最初に「夢は第二の人生である」と書かれている。これは何を意味しているのだろうかと考えなくとも、そのあとの文章によって、その意味が明らかにされる。夢、つまり眠る、そうすることで全てを忘れる、そう、自分ではない何者かになることができるんだ。言い換えると自分から解放される。ちょっと考えてみてよ、よく言うじゃない。この人生の主人公は貴方だって。けど、物語の主人公になることはさ、本当に耐えられるのかなって。僕は耐えられないね。他にも、例えば低賃金で働いている人とかブラック企業で働いている人、やりたくないことをやっている人、前科者、そういった人たちは、人生の主人公になることは、ひどく苦しいものだと思ってしまうんだ。つまりは、自分の人生の先行きの見通しがつかない、あるいはどんな人生を歩みたいか(つまりは向上心だね)、っていうのが既に苦しみで溢れていると思うんだよ。あとは消したい過去とかね。そういうのを引き連れて生きるには、忘れたいって欲望はあると思うんだ。それに、未来が明るいものになるだろうかと考える時、あんまり良いイメージが浮かばないんだ。だからといって暗いままでいいとは思わないよ。それにきっと明るくなろうだろうしって思う。けど、とても楽観しすぎている気がするんだよね。僕自身、このネガティブなところは直したいなあと思ってる。ああ、ちょっと話が脱線したね。ごめん。まあ、なんにせよ、自己責任から逃げ出したいね。もう書くこともなくなったから、眠れない夜にピッタリな曲を見つけたからリンクを貼っておくね。今、ねれなくて困っているんだ。もし、君も眠れないようなら、返信をくれ、仲間がいると思うと、すこし安心できるから。

https://www.youtube.com/watch?v=mb2sX76tZwU

この曲はさ、子供の頃に戻りたいって感じだね。面白いのは自分の人生が嫌なのに子供の頃には戻りたくて仕方がないってこと。少し考えてしまわないか? スマホとかLINEがあるのに仲の良かった同級生に連絡を入れようとも思わないのは、どうなんだろうって。今が楽しいってわけでもないなら、昔の友達と連絡を取ってもいいはずなのに、行動しないんだ。

 

テキストを流し読みしてからLINEで「なんでわざわざメールを送って来たのか」と尋ねると、操作方法とかの確認ということだった。絶対嘘だと思ったが、PSGの『寝れない』のリンクを送っておいた。ベランダで煙草を吸った。どうせ寝れないからコンビニでも行こうと思った、酒でも買ってこよう。眠くならなかったら眠らないで飲み続けて、眠くなったら眠ろう。

 

 

八時過ぎに目が覚めてからパンを買いに行こうと、サンダルに素足を滑り込ませてから、パン屋がつぶれたのを思い出した。それでもなんとなく外に出た。パン屋がないならコーヒー豆を買いに行こう、と思ったのだ。身体に染みついた習慣は、それが重要でないからこそ、なかなかなくならない。だから外がうだるような暑さであっても、Tシャツを肌に張り付けながら、財布と小説を持って、途中自販機で買った缶コーラを飲みながら商店街を真っすぐ突き進むことができる。そこではできない理由を探すことはない。だって、簡単にできるから。

 帽子を被った主婦と仮面ライダーのTシャツを着た子供が手をつなぎながら、微笑みあっている。その親子は僕とすれ違いかけそうになったら、コンビニに入った。音もなく開かれたドアは涼しい風を僕の足元に届けた。アーケードを子供が駆け回っている。夏休み、良い響き。僕は中学生の頃いじめられていて、あんまり外に出るっていうのをしてこなかった。そういう時は夏休み中が一番、外に出れないのだ。彼ら彼女らといつどこで遭遇するかと足が全くつかないから。けど、もしかしたら生きるっていうのも大抵そういうものなのかもしれない。競争原理の下で、いつ誰から、何から襲われるか分からないまま、ただビクビクおびえながら、自分の身を守ることに集中しなければならないし。まあ、だから、僕の横を風みたいに走り抜ける子供たちが、どことなく羨ましく映った。

 前進しようとするたび、疲れを訴えるように背中が丸まっていき、ゾンビのように足を引きずった。もう耐えられないと思った時、ちょうどパン屋があったところに着いた。テナント募集の張り紙がガラスに張られていた。青い塗装と「ロックストーンベーカリー」という店名は、もう全て白く上塗りされていて、本当にパン屋がつぶれたのだと教えてくれる。あのパン屋で働いていた人はどこにいったのだろう、サクサクメロンパンがもう食べられないのかあ、だとか考えていたら、自分が勝手に物語を探して、勝手に感傷に浸ろうとしているように思えたので、あまり気にしないように歩き直した。そこに悲しさはないはずで、ただパン屋がつぶれただけ。けれど、あのパン屋は美味しいと評判だったし(確かに美味しかった)、それを聞いた店主も悪ノリで「美味しいパン屋です」と書いたポスターを店内に張っていた。テレビに取材されたこともあった。

「パン屋がなくなるのは寂しいね」と背後から帰を掛けられた。振り返ると男が居た。夏の暑さにやられたのか酷くやせ細っていた。

「そうですよね。美味しかったのに」

「けど、パン屋なんて今時、どこにでもあるし。けど、やっぱり、ねえ」

「なんで閉店したんですかね」

「ああ、これは噂なんだけど」

話を聞くと、誰かは知らないけど、「全然美味しくない。これは詐欺、店主は嘘つき」というクレームが入ったらしい。ついでに訴えられたらしい。掲示表違反。「ごたごたして、いろんなことが嫌になったんじゃないかな? なんでも娘さんもいじめられて不登校になったとか」

見慣れたコーヒー豆屋の前まで来たら、やっと涼めるとと思い涙が出そうなほど嬉しかった。正直、外出したのは失敗だった。そもそもドルチェ・シマノフスキは商店街を抜けたところにある豆屋で、こんな暑い中、歩いていこうと思った自分は本物の馬鹿だと思った。

 店頭には空の樽とシルバーのビアンキが置いており、一目でコーヒー屋だと分かるように、濃い茶色の外壁だった(いや、そういう理由じゃないとは思うけれど)。この辺まで来ると人も少ない。トラックの走る道路の高架下をぬけるとオフィスビルが立ち並んでいる。芝生と点在するいくつかの木々。ドルチェ・シマノフスキの少し向こう(高架下の手前)にはコンビニがあり、そこで夏休みの子供が自動ドアのすぐ傍で遊戯王デッキを開封している。「公園行こうぜ!」と言っているのが聞こえて、なぜ家で遊戯王しないのか理解できなかった。外で遊戯王? 絶対蚊に刺されるし暑いのに。

考えても何もならないので(正直、熱さに耐えられなかったの方が動機として強い)ほんの少し重たい扉を押して中に入った。店内では、かの名盤であるケルンコンサートが流れていて、やっぱり今日は豆を買いに来てよかったと思った。この名盤はキースジャレットの唸り声が入っているのに旋律は氷みたいに透明で固くて好きだ。初めて聴いた時に耳からつららが突き刺さるような衝撃があった。この店主と、やっぱり波長が合うと思った。大学に入学してから、自宅周辺をぶらぶらりしていた時、初めてドルチェ・シマノフスキに入ったらザ・デイブ・ブルーベック・カルテットのロンドが掛かっていて妙に親密に感じた。それ以来、この店は僕のお気に入りだ。

店主が焙煎をしている間、僕は持って来ていた小説を読んだ。正直、全く集中できなかったが、店内でぼーっとしているのも、間抜けなので文字の上を滑っていた。ページを捲ると、内容が繋がらなくて、またページを戻すといったようなことを何回か繰り返していると、店主がコーヒーと三粒のナッツを僕の前に置いた。焙煎が終わるまでの間のちょっとしたサービスだ。

僕は出されたコーヒーとにらめっこをして(それはホットコーヒーだった)、おそるおそる口を付けた。やっぱりおいしい。一度、ちゃんとしたコーヒーを飲むと、中々インスタントコーヒーには戻れない。大してコーヒーが好きでもないのに、そうなってしまうのだ。こだわりがある訳でもないが、どうもインスタントがまずく感じられるようになる。僕はナッツを手に取った。もしかしたらナッツと夏を掛けているのだろうかと考えたが、さすがに深読みしすぎだと思い、口に放った。それを噛みながら、また文字の上をつるつる滑った。

「そういえば、どうしてパン屋なくなっちゃったんですかね」

 クレジットカードで会計をしている間、僕は店主に尋ねた。

「ああ、なんでも石田さん、いや、店主のお父さんの介護で首が回らなくなったらしいよ」

「え。けど、あの人、四十代ぐらいなんじゃないんですか? 見た感じだとそうだと思ったんですけど」

「違う違う。痴呆になったんだよ。それに一人っ子だし、嫁さんは子供連れて逃げちゃったらしいし。ほんとこれからどうするんだろうね」

 店主は同情したようにため息交じりにそう言った。ビニール袋を手首にかけて、クレジットカードを受け取り、「じゃあ、また今度」と言って家に帰った。iPhoneで時刻を確認すると、もう九時時になっていた。僕は歩を速めた。

所々、錆びて塗装がはがれた階段をわざと音を立てて登った。サンダルだといい音が鳴らないのに気が付いた。

 404号室(それは104号室。誰かが落書きして4になっている)をノックしてから隣の自分の家の鍵を開けた。夏の日差しを受けたドアノブは刃物のように鋭く光っていた。その熱を我慢して回した。中に入り、むんとした空気を追い出そうと、窓を開けて扇風機を点けた。僕は買って来たばかりのモカブレンドをコーヒーミルで挽いた。コーヒーメーカーにフィルターと豆をセットし、水を入れる。焙煎したばかりの豆のせいで部屋の匂いが変わった。換気扇を回す。

 僕はスーパーで安売りされていたパン一斤をオーブンの上から引っ張り出し、刃がギザギザのフルーツナイフで適当な厚さに切り、(本来は魚を焼くための)グリルに入れた。片面二分、もう片面一分。その間にグレープフルーツを切ろうとしたけれど、生憎切らしていたので代わりに檸檬を切ることにした。きっと目が覚めるだろう。あの流行の音楽に則って二つに切り分けた檸檬の断面図は太陽みたい、と呟いた。そういえば、なぜ子供の中には黄色い太陽を書く子が居るのだろうかと思っていると、ピーっと音がした。パンを裏返して、もう一分だけ焼く。赤色とかオレンジ色とか、いろんな太陽があるのだなあ。きっと多様性なんだろうなあ。

 ふと思い立って冷蔵庫から檸檬をもう一つ取りだして、居間に戻る。本棚から適当な小説を取りだして積み重ねた。その上に檸檬を置いた。色とりどりの背表紙の一番上に檸檬がある。全く微動だにせず、彫刻みたいに見えた。現代アートか? 意味が捕まえられない。ここは丸善ではないから爆弾にはならない。またグリルが僕を呼んだので、台所に戻った。パンを取りだしてミッフィーの小皿の上に置いて机の上に並べた。ちょうどいいタイミングでコーヒーメーカーが僕を呼んだ。そうして、アイスコーヒーにしておけばよかったと後悔した。けど、もうどうしようもないのでマグカップに注いだ。本棚から適当な小説を取りだしてコースターの代わりにする。今日は新潮の怒りの葡萄(上)(下)だ。何度も使ったせいで茶色い輪が濃い。どうせ売らないからどれだけ汚しても構いやしないのだ。

さぁこれで準備は終わりという感じで玄関を見た。けど、ブルーベリージャムを出すのを忘れていたと思って、冷蔵庫から取りだして必要な分だけ小鉢にあけて、それをテーブルに並べた。転がった檸檬、パンでミッフィーが隠れた皿、それとジャムの浸った小鉢が綺麗な三角形になった。ぼーっとしていると「大丈夫?」と声が聞こえた。

綾が来るまで扇風機は僕の方へまなざしを向けていたけれど、彼女が来ると首を回した始めた。僕と彼女を交互に眺めて、間違い探しをしているみたいに。

テーブルの真ん中に経っている小説の塔は僕と彼女の視線を遮っている。だから僕は綾の顔を見なくて済んだ。

「もうそっちは夏休みが終わるんだね」

 焦げが目立つ方のパンを齧りながら僕はそう言った。

「うん。けどずっと夏休みみたいなもんだったし」

「僕もずっと夏休みが続けばいいなと思っていた時期があったよ。高校性の時は」

「そうなの?」

 ちょっと上擦った声が聞こえた。

「中学生の時は最悪だったけどね」

「知ってる」

 今度は落ち着いた声。

「ああ、そう? ごめんね」

 本当に知っているかどうかは、曖昧だけど、とりあえず僕は謝った。

「ところで、この小説塔は何?」と向こうから声がしたので「なんか物語が嫌になって積み上げてみた。馬鹿みたいでしょ? こうやって集めて積んでみたら全く意味が見当たらないんだもの。どう? なにか意味だとか可能性を掴むことができる?」と身体を右に傾けて言った。けど綾の顏は見えなかった。きっと反対側から、こちらを伺っているのだろう。

「ぜんぜん。まあ想像力が働かないっていうのは素敵かもね」

 その時、揺れた。なんてことのない、ただの地震だった。檸檬は僕の方へ落ちてきた。綾は立ち上がって小説塔を上から押さえつけていた。揺れが収まってから彼女を見ると、目が潤んでいるのに気が付いた。何かが崩れたと思った。

「髪、切ったんだね」

黒い眼鏡の縁の上で綺麗に揃えられた眉毛があった。蝶の羽休みのようにゆっくりと瞼が閉じられた。

「うん」

彼女はピースサインを作って人差し指と中指で前髪を挟んだり、挟まなかったりを繰り返した。僕は「大丈夫だよ。きっと。それに人生は嫌になるぐらい長いんだ。だから想像して不安になっても、別になんともないんだ。それにたまに良い事が起こる」と声を掛けた。綾は僕を見て笑っていたものの、いつものチックが起こっていた。

「余命でもついたら、もうすこし頑張ろうって思えるのかな」

 消え入りそうな声が蝉の声に混じって聞こえた。

「さ、食事を再開しよう。僕が中学生の頃、初めて親に打ち明けた時、たくさんご飯を作ってくれたんだ。そこから分かったのは、食事がとても大切だってこと。お腹が膨れれば少しは満たされた気分になるんだよ」

「けど、だったらもっとちゃんとした昼食を作ってほしいな。こんなささやかなものじゃなくて」 綾は独り言ちた。「せめて今日ぐらいは」

 その先の言葉は発せられなかった。

翌日の昼もなんとなく家に居た。一応404号室にノックをしたけど、綾が居ない代わりに母親が居た。赤い目だった。その後スーパーでたくさん食料を買い、今までで一番のごちそうを作った。僕は親がなんでご飯を、ごちそうを作ってくれたのか分かった気がする。僕が辛いのを励まそうとして、ごちそうをたくさん作ってくれたのもあるが、本当は両親も同じように勝手に傷ついていたのだと。

 

 

反省点 食事・物語を基軸にしようとしたが、結局、なんにも可能性を生み出せなかった。話の整合性も全然ないしーただ、死んだだけになってしまったし、もっと突き抜けるのがいいなあ。あと、描写で同じ言葉を使いすぎ。上手くなりて~。リアリティもないし。一万千文字くらい。二万文字ぐらいかけるようになりてぇ~