遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに 。twitter @michiru__nagato note https://note.com/a_maze_amazes_me

アタイたち二人は tofubeats の LONELY NIGHTS がすき。

M THE BEATS「二人でもロンリーナイツ」

  A

 上には上がいるように、きっと好きな人には好きな人がいるのだと思う。僕は唐田さんと遊ぶための理由を考えるのが好きだった。その時間は楽しくもあったし、もどかしくもあった。つまり何か理由がなければ、唐田さんと会えないぐらいに僕は臆病だったのだ。唐田さんとは、何度もご飯を食べに行ったり、映画に行ったり、ライブに行ったり、それなりに時間を共有してきたつもりだった。
 しかし、彼女にはクリスマスの予定があった。それを知った時のことを思い出す度に、無意識に顔が熱くなるし、息が詰まって変な顔をしてしまう。以前は顔が熱くなることなんてなかったのに、あの時の羞恥を思い出して赤くなるようになってしまった。
 ハラハラと落葉の舞う景色が見える窓際の席で、唐田さんと昼食をとった際に、それとなくクリスマスイブの予定を聞いてみたら、うっとりと何かを想像しているような表情で伏し目がちに「あるよ」と言われたので察した。そして僕は自分の顔を見られずに済んで良かったと安堵した。その時は顔が熱くてたまらず俯いてしまったが、耳まで真っ赤にしていたと思う。とにかくこれほど惨めな男はいないなと自虐することで、現実を受け入れようとして、実際にそれは上手くいった。虚しい限りだが。
 同僚の佑亮に「唐田さん、クリスマスイブに予定あるんだって」と報告したら「あれや、女心と秋の空やからなあ」と言われた。だが彼もクリスマスイブに予定があることを僕は知っていた。つまるところ僕にだけクリスマスの楽しみがないということだった。余計に寂しかった。

 タイムカードを押してから会社を出た。対面のビルはまだ人影が見えて、少し羨ましかった。きっと彼らは富士通のデスクトップパソコンと格闘し、目頭をつねりながら苛立っているのだろう。一方で僕の勤める会社は、定期的に行われるノー残業デーだったため、これからお一人様飲み会なる催しが開かれる。僕はどうしてもそういった気分にはなれず、一人帰路につくことにしていた。参加していれば孤独感は薄れるのだろうと思うが、そのぶん一人になった時に虚しくなるに違いなかったからだ。しばらく出口でぼんやりしていると、楽しそうな笑い声が後ろから聞こえてきたので、押し出されるようにして、そそくさと駅へ向かった。
 大崎駅まで歩いているとなんとなく消えてしまいたいと思った。横目で見たフットサルコートには、赤と緑のスポーツウェアでフットサルに励む男女がいて、しきりに上がる声は自分たちが幸せであると大きく主張しているように感じられた。コートの端っこでパーティ用の鼻眼鏡を付けた男が見たことのない動きで踊っていた。何人かはそれを見て笑っていた。唐田さんのマフラーもクリスマス色だったことを思い出した。土屋さんが「唐ちゃん、そのマフラー伊勢丹の紙袋……じゃなくて、クリスマス色だね」と言っていたのが、記憶に残っている。
 街路樹に巻かれたイルミネーションは昨日や一昨日よりも一層輝いていて、その綺麗さが僕の虚しさを加速させる。それをぼんやり眺めていると悲しくなった。辛くはなかったが、少しずつ急になる坂を登っているような気分だ。コートのポケットに突っ込んだ手は、おそらく冬の間外に出ることはないだろう。白い息は、ため息によって生まれて、すぐ消えることはなかった。まるで冷凍都市だ。フットサルコートの上にあるデジタルサイネージからは、tofubeatsのLONELY NIGHTSが聴こえてくる。今日はもう一人で炬燵に入りながら、酒を飲んで、小説でも読もうと思った。きっとそれが僕にはお似合いだ。
 やってられないと思い、二か月も禁煙できていた煙草を吸った。それもイルミネーションの中にある喫煙所で。きっと僕は愛を希求しているのだと思う。ため息に混じって白い煙が吐き出される。腕を組んだり、手を繋いだりしている男女が嫌に目に入ってきた。やっぱり、みんな笑顔だった。僕は下を向いて生きた方がいいのかもしれないと思った。灰皿に煙草を落とし歩きはじめると少しクラクラしたが、それが良かった。なるべく意識がそっちに向かわないように誘導できそうな気がした。
 後ろからカッカッと足音がした。かなりテンポが速く、振り返ってどんな靴を履いているのかを見ようとした。しかし本当は靴の種類なんてどうでも良かった。何かに意識を向けていないと、ついクリスマスイブについて考えてしまいそうだった。その靴はヒールの低いパンプスだった。唐田さんはフラットシューズと、パンプスの二足持ちだったのを思い出す。ヒールがある靴で歩くのは疲れるのだろうかと考えていると、心がズタボロになった。
「あれ、裕太じゃん?」
 聞き覚えのある懐かしい声にハッとして、顔を上げる。彼女は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。きっと僕に声を掛けたことを後悔しているのだろう。クレジットカードを使うと月末に引き落とされることが決まっているように、これは運命なのかもしれない。友人の結婚式の時に、どんな顔をして会えばいいのか分からなかったから、受付だけを済ませてすぐ帰ったが、今回はそうもいかないようだった。僕は彼女から目を逸らしながら一番会いたくない人に会ってしまったと思った。
「……高校卒業以来ですね。お久しぶりです」
「そうだね」
 あまり会話は弾みそうになかった。彼女のスーツ姿は新鮮だったし、しっかりと化粧をしているのもあって、高校時代のもっさりとした印象はかなり薄らいでいた。あまりに久しぶりだったから、ちゃんと話せるかどうかという不安と、一方的に連絡を取らなくなった自分への嫌悪と、彼女に対する申し訳なさが、入り混じる。視線をどこに向けていいのか分からなくて彷徨わせていると、コートのポケットからイヤホンのコードがはみ出ているのに気が付いた。けれども、それを指摘する気にはなれなかった。
「裕太はこの近くに職場があるの?」
 駅へと向かいながら会話を続けていた。タクシーのテールランプに照らされて緑色のイルミネーションが赤く染まっている。
「うん。就職してからずっとここで働いてます」
「じゃあ、庭なんだね」
「庭って……」
 横断歩道の白線は所々掠れていた。赤茶色の路面にラメが散らばり、晴れた日の川の水面のように見える。僕は五年で庭になるなら、十年後には家にでもなっているのかと思った。そして、ここは人の出入りが頻繁なため、庭にしても家にしても居心地が悪いだろうと思った。
「……まあ、多少は詳しいぐらいですよ」
「それじゃあさ、ご飯でも食べに行く?」
「あー、いいですね。なにか食べたいものはありますか?」
 僕は彼女の気分に合わせることにした。自分がワンルームのアパートで一人っきり、丸まりながらご飯を食べている間に何を考えてしまうのか想像できてしまったことが一番大きな要因だった。彼女の意図が何処にあるのか探ろうとしても分かるわけがないし、今の僕は自炊できるほど心に余裕がない。そもそも一人でいるのが怖かった。
「このシーズンだと混んでるから、なるべく空いてるお店にしたいけど。うーん、あんまり派手じゃなくて、美味しいところとか知らないの?」
 組んだ腕と頬に手を当てて言葉を選ぶ癖が彼女にはあった。その仕草は失われていなかった。約九年越しの再会でも彼女はあまり変わっていないのかもしれない。もしかしたら、そう思う自分も変わっていないのかもしれない。
 横断歩道に差し掛かると、信号が赤く光っていた。止まれの合図。
「ラーメンぐらいしか思いつかないですね」
「え、いいじゃんラーメン。寒いし」
 彼女の背が瞬間的に伸びた。それまで寒さで猫背になっていたのだろう。
「じゃあ、それでもいいですか?」
「いいけど、なんで敬語なの?」
「いや、それは……」
 信号が青に変わり、僕は歩き出した。すると彼女がコートのポケットから手を出し僕の腕を掴んだ。
「ちょちょちょ、どこに行くの?」
 急に腕を掴まれたことに驚いて、振り返ると、彼女の足元にショートホープが落ちていた。
「あ、いや、すみません。五反田の方にあるんですよ」
 そう言いつつショートホープに視線を送っていると、彼女は不思議そうにそれを見て、拾った。僕は彼女が煙草を吸っているということに驚いたが、別に意外なことではないのかもしれない。僕たちはもう二十七歳なわけで、生きていればストレスが溜まってしまうのだから仕方ないだろう。彼女は僕の方を見て、バツの悪そうな顔をした。とはいえ、すぐに気を取り直したようで「煙草でも吸ってないとやってらんないよ」と言った。僕は曖昧に頷いた。そして掴まれたままの腕に対して、どのように対処すればいいか考えていたが、解決策は何もなかった。

  B

 外回りを終えた時には定時を少し過ぎていた。ちょっとだけ遅くなったけどこのまま直帰だ。別に気分は浮かれていない。誠と遊びに行くのは明日だし、彼はクリスマスイブである今日、私とは別の女の子と遊んでいるに違いないのだ。
 一週間ほど前、夕食を配膳している間に偶然LINEのトーク画面を見てしまっていた。すでに証拠は掴んでいるようなものだ。けど、誠のことだから私が家に着いた時には、イケアで買ったソファに座ってテレビを見ているのだろう。それを思うと怒りが湧きかけた。
 十五メートルぐらい先の信号は青だった。横断歩道を渡って早く家に帰りたかった。彼が知らない女を連れ込んでいたら、その女に説教してやろうと、さっき湧きかけた怒りの対象を無理やりすげ替えた。誠は優しくて言い寄って来る女を邪険にできないから、私が代わりにしっかりと言ってあげようと無理に意気込んで、歩く速度を上げた。
 私が急いでいるとふらふらしているサラリーマンが前を歩いていた。猫背で覇気が全く感じられないから疲れた中年に見えた。その男は急に振り返った。
「あれ? 裕太じゃん」
 驚いて話しかけてしまったことをすぐに後悔した。けど、裕太に久しぶりに会えたのがうれしいのも確かだった。私が高校生の頃に一番好きだった裕太、今では少し嫌いな裕太、けどやっぱり嫌いになれない裕太。一番会いたくない人に再会してしまったと思った。奇跡というのは悪い出来事にも使える言葉なのだろうか。
「高校卒業以来ですね。お久しぶりです」
 久しぶりに会った彼は少し他人行儀だった。彼なりにあの別れ方に罪悪感を抱いているのかもしれない。
「そうだね」
 それきり彼は黙ってしまった。なんとなく彼が一人でいるのが可哀想に思えた。あんなに大人のことをインチキだって言っていたのに、やっぱり就職していて、彼も平凡なのだと初めは思った。そう、あの頃は危険な年齢だったのだと。けど、スーツ姿の彼をまじまじと見てみれば、どこか現実に馴染めていない気がした。それどころか、大人になる過程で捨てるはずの世の中への不満や純粋なものへの憧れを今でも大事に抱えていて、自分の不器用さもそのままに大人になっている気がした。彼は今でも崖の近くを彷徨っているのだろうか。
「裕太はこの近くに職場があるの?」
「うん。就職してからずっとここで働いてます」
 冷静になって考えてみると、彼とはあまり接点がなくて、付き合っていたのがもの凄く遠い昔のように感じた。だから凄く安心した。
「じゃあ、庭なんだね」
「庭って……まあ、多少は詳しいぐらいですよ」
 彼は私の冗談を真面目に受け取った。昔から思っていたけど、裕太はもっと笑えばいいのに。というよりかは笑っていてほしい。
「それじゃあさ、ご飯でも食べに行く?」
「あー、いいですね。なにか食べたいものはありますか?」
 今度の冗談も真面目に受け取られてしまった。小腹が空いてるからいいけど。
「このシーズンだと混んでるから、なるべく空いてるお店にしたいけど、うーん、あんまり派手じゃなくて美味しいところとか知らないの?」
「ラーメンぐらいしか思いつかないですね」
 彼が足を止めたので、私も足を止める。
「え、いいじゃんラーメン。寒いし」
 裕太とラーメンを食べるのは久しぶりだ。彼は胃が強い方ではなかったし、昔と同じように、あっさりめのラーメンを食べるのだろう。もしニンニクが売りのラーメン屋だったら用事を思い出したと言って抜け出そう。匂いが残るのは嫌だし。
「じゃあ、それでもいいですか?」
「いいけど、なんで敬語なの?」
 本当は、「というか、なんで私と目が合わないの?」と言って困らせてやりたかったけど、手加減してあげた。
「いや、それは……」
 隣を歩きたくないぐらいに落ち着きがなくなった彼は、それを誤魔化すかのように横断歩道を早足で渡った。私も誤魔化しているから似た者同士なのかもしれない。あれ? ラーメン食べに行くんだよね。
「ちょちょちょ、どこに行くの?」
「あ、いえ、すみません。五反田の方にあるんですよ」
 てっきり近場だと思っていたけど、ラーメン屋ならどこにでもあるのを失念していた。五反田は遠いのか近いのか土地勘のない私には分からなかったけど、まあ、付いて行ってもいいかな。山手線で隣の駅なら多分近いはずだ。誠が女の子と遊んでいるなら、私がこうして昔付き合っていた人とご飯を食べに行くぐらい許されるだろう。
 彼が私の足元を見ていたので、つられて足元を見ると、煙草が落ちていた。しかも私のだ。別に彼に知られても気にならないけど、なんとなく「煙草でも吸ってないとやってらんないよ」と言い訳をした。

  A

 店内の音楽は露骨にクリスマスソングというわけではなかったが、シャンシャンと鈴の音がしていて絶妙にクリスマスを感じさせた。ここのラーメンは味が濃いけれど、ゆずが入っていてさっぱり感があるから好きだ。特製ラーメンの食券を買い、彼女を待っていると「先に座っておいて」と言われたので、奥のテーブル席に座った。もうどうしようもないが、本当にラーメンで良かったのだろうか、と不安になりかけていると彼女が僕の右前に座った。
 店内は暖かくて、少し眠くなってきた。それでさっきまで肩に力が入っていたのを自覚する。ここ最近、疲れがたまっていたのかもしれない。唐田さんは今、どうしているだろうか。きっと楽しく過ごしているのかな。それなら別に、それで僕は満足だ。
 店員が水を持ってきた。食券を渡して「中盛で」と頼むと彼女は目をぱちくりさせていた。そして「私は並盛で」と言った。
「並も中も同じ値段なんだね」
「そうなんだよね。だからいつも中盛りを頼むことにしてます」
「ここにはよく来るの?」
「月に二回も来ればいい方かもしれません」
「ふーん。意外と歩いたもんね」
 そこで会話が止まった。僕は何を話したらいいんだろう。最近起こったこと? 告白する前に振られたこと以外、目立ったことはなかった。じゃあ、お互いに何の仕事をしているか? 今の僕には楽しい話ができそうにない。
「最近、寒いですね」
 やっと出てきた言葉がそれで、僕は自分に失望した。一体どこで間違えたんだろう。いや、間違えてもいなかったし、正解もしていなかったのだ。そもそも、今は最初に謝るべきだった。
「うん、寒いね。最近はどうなの?」
 彼女の困惑した表情を見て、世界中どこを探しても、こんなに気が利かない会話は見つからないだろうと思った。なんて返したらいいのか分からずに、テーブルの木目が視界に入った。ちょうどその時、店内の音楽が切り替わって有名なバンドの曲が流れた。僕はスピーカーを見つめて何故今! と驚いた。顔が少しずつ熱くなっていくのを感じる。耳まで熱い。止めてほしい、この曲は高校の文化祭でコピーした曲だから止めてくれ、思い出させないでくれ!
「……えっと、特に何もないです。就職してから最初の一年は頑張って、それでだんだん慣れてきたので。これからもきっとそうなんだろうなあ。変化のない、平凡な日々が続いていくんだ」
「え、どうしたの? ドラマみたいなこと言うね」
 彼女は笑っていた。僕があんまりにもネガティブだからだろうか?
「あっ、ごめんなさい、全然なんでもないです」
「あんまり変わってないよね」
 自分が変わったことを証明しようと楽しく会話できそうな話題を探したが、一向に見つからなかった。ラーメンが運ばれてきて救われたと思った。僕は急いで食べ始めた。そうすれば会話しなくても不自然ではないからだ。あまり良い方法ではないと分かっている。それでもそうせずにはいられなかった。
 食べ終わってから僕は店内を見回して、後悔した。別に急いで食べなくても食事中には喋りたくない人間を装えば良かったと思った。
 食べている最中に話しかけるのは躊躇われたが、元々、彼女とは気を遣い合わなくても良かったじゃないか、と思い当たった。お腹が満たされて気が大きくなっているのかもしれない。
「そっちはどう? 最近なんかあった?」
 僕がそう聞くと、彼女は少し迷う素ぶりを見せてから口を開いた。
「彼氏が浮気しててさ。別に他意はないけど、男って本当に最低だなって思っちゃうんだよね。まあ、それを本人に言えない私も駄目なんだけど。というか、この話を聞いてほしかったみたいなところはあるんだよね。裕太も一人だし、ちょうどいいかなって。裕太もそういうところあるんでしょ、敬語だって取れてるし」
 確かにその通りだが、別に愚痴を言い合いたいわけではなかった。彼女は彼氏をけなすために男という単語を使ったわけで、というよりは彼氏と限定して否定したくないのかもしれない。それは僕には分からない。だが、おそらく僕も彼女も同じように悲しみを抱いているのだと思う。それは星座が同じだとか血液型が同じだとか誕生日が同じだとか、そういった運命なんて便利なものでぼんやりとさせることのできない共通点だ。
「元々そういう関係じゃなかったし」
 彼女が麺を啜ってから「今もそうでしょ」と言うのを聞いて、何かを確かめ合ったという感触が湧き出た。
「それでさ、彼って以前からそういう節があって、まあ、女の友達がたくさんいるんだよね。それって謎じゃない? 都市伝説レベルだよ。……たまに思っちゃうよ、なんでこんな男を好きになってしまったんだろうって。もう二十七歳なんだから不安にさせないでほしいよ。正月に実家に帰りたくないなあ。……そういえば、一応聞くけど、裕太って付き合ってる人いるの?」
「……いない」
 また顔が熱くなっている。恥ずかしかった。そして恥ずかしいと思えば思うほど顔が熱くなっていく。
「あははっ。何その顔」
 変な顔をしてしまったのかもしれない。けど、そうやって笑ってくれるのは悪くなかった。
「そういえば、桜井はどうして大崎にいたの?」
 無理やり話題を変えた。もうすぐラーメンを食べ終わりそうな彼女が僕を見ているのを感じる。今は味わえないが、高校生の頃だったら、蛇に睨まれた蛙のように緊張していたのだろうなと思った。二十七歳にもなると、むしろそれが居心地の良さに繋がるのかもしれない。
「ん、……営業で来たの」
「そっか、イブなのに大変だね」
 それ以上何も言えなかった。やっぱり、と僕は思った。やっぱり九年前も今も変わらなかった。九年経っても、環境が変わっても、会話が上手になるわけでもないし、気の効いたことが言えるわけでもなかったのだ。そうしたことができるなら、こうしてラーメンなんて食べていない。グラスを手に取ったが、空だった。もう水に流せないし、飲み込めるわけもないのを理解した。

  B

「ごちそうさまでした」
 本当にごちそうだったかは疑問に思うけど、死ぬほどつまらない映画でもエンドロールが終わるまで見てしまうように、そう言わなければ食事が終わった気がしない。そもそもクリスマスイブにラーメンを選ぶ感性を疑う。神社で参拝を終えた後に、何を願ったの? と訊くのと同じくらい野暮ったい。
 裕太は私が食べ終わったのを確認すると「ちょっと煙草吸わない?」と私の手を見つめながら声を掛けてきた。
 ラーメンを食べると煙草を吸いたくなるから、頷いて外に出た。年末年始が近くなると温度のない光が街を埋め尽くし始めて、クリスマスにはその雰囲気に浮かれた人たちが蟻みたいに愛の巣から出てくる。私もそのうちの一人になるわけだけど。
 時間差で色が変わるイルミネーションを開発した人は称えられるべきなのかもしれない。子供の歓喜の叫びを聞いてそう思った。朝に見た天気予報によれば、今日は冬型の気圧配置が強まっているらしい。大寒波を耐えしのぐためにも裕太に身体を寄せたかったけど、彼は私の彼氏ではないので、それはそれで残酷なのかもしれないと思った。それでも、残酷になるのも悪くないのかもと頭をよぎったりもする。
「ねえ、明日も仕事?」
「うん」
「そしたらさ、また会わない?」
 それは嘘だった。明日は誠と過ごすから。
「……分からない」
「分からないって何? イエスかノーしかないじゃん」と言いながらも心のどこかで良かったと思っている自分がいた。
「確かにそうなんだけど、どうしても分からないんだ。桜井さんには僕の考えていることが分からないから、そう言えるんだよきっと。別にそれが悪いって言っているわけじゃなくて」
「いや、どうやっても、そういう風に聞こえるよ」
 誠だったら、そんな当たり前のことを盾にすることはないのに。裕太と付き合っていた頃の私は、この無駄に優しくあろうとする姿に魅力を感じていたのかもしれない。けど、それは昔の自分が今とは違っていたからだろう。きっと時は色々と流してしまうんだなあ。
「私の彼氏だったら、こんな時は……」言葉に詰まった。誠だったら、なんて言うんだろう。イエスって言ってしまうのだろうか。「ごめん。やっぱりなんでもない」
「全然大丈夫です。なんか違う話しない?」
「そうだね。……あっ、そうだ。裕太は林平くんの結婚式に来てた?」
 困らせてしまったことを反省して、慌ててもっと明るい話を振った。
「えっと、うん、行ったよ。桜井は行った?」
「当たり前でしょ。林平くんがなんか違う人になっちゃったみたいでビックリしたよね。ステンドグラス越しの光を受けた二人と牧師がいて、そこだけスポットライトが当たっているみたいだったなあ。あと、二人がどんな人生を歩んできたかの映像が流れて本当に結婚式だ! って妙に興奮したのも覚えてる。んんっ? その時に会わなかったの不思議だね」
「……うん」
 それきり会話は止まってしまって、昔みたいにもっと話せたらいいのになあと思った。林平くんの結婚式で裕太が笑っている写真を何枚か見つけた時は、彼はお喋りなのに会話が下手なのを思い出して懐かしい気持ちになった。年を重ねるごとに彼は段々暗くなっていって、最終的には連絡がつかなくなった。付き合っていた頃は会話が上手く続かなくても意思疎通をしようと何回も話しかけてくれた。そうしたことが全部懐かしく思えた。今の裕太はあまり会話をしようとしない。それでも今も苦しそうだから、やっぱり昔みたいな関係に戻れたらいいのにと思ってしまう。……なんで今更、あの頃に戻りたいなんて思えるかなあ。
 喫煙所が見えてくると、彼が「あっ」とスタッカートの効いた声を上げた。不審に思い彼の顏を覗き込むと、キツく目を瞑っていて、顔がしわくちゃだった。そして赤かった。変な顔だ。赤ちゃんみたいだと思った。
「ごめん、やっぱり大崎まで歩かない?」
 両親がネグレクトで死んでしまった赤ちゃんのニュースが頭をよぎった。うちのお母さんも言っていたけど、赤ちゃんは一人では生きていけないから周りの人がちゃんと面倒見ないといけないよなあと感じたのを思い出した。
「いいけど、なんで」顔が赤いの?
「その、別に理由はないです」
 彼が目黒川沿いを歩き出したのを後ろから追う。喫煙所から大きな笑い声が聞こえてきた。たぶん、裕太の知り合いが煙草を吸っていたのかもしれない。いや、それだけじゃないと思う。けどやっぱり、彼はまだ現実と折り合いがついていないんだろうか。その点では子供みたいだけど、彼の歩く姿はむしろ老人のように見える。いや、古い価値観だと現実には対応できないだろうし、むしろ、あの皺だらけの顔は老人そのものだったのかもしれない。
 目黒川沿いにはただ光っているだけの、気持ちを盛り上げない情けないイルミネーションがあった。それは歯のない木が上手く喋れないのを隠すために巻きつけられているように感じた。
「ねえ、どうしてこの道を選んだの?」
 しばらく歩いてからそう尋ねると、彼は急に立ち止まって「ちょっと待って」と言った。「いや、イルミネーションが見たかったんだ。ただそれだけ。本当だよ」
 私は彼に身を寄せた。彼はビクッと身体を震わせた。彼は嘘をつくことが苦手だから、私はその言葉を本心でないと分かっていながら、額面通り受け取ることにした。クリスマス色のマフラーを二人で巻いているカップルが前を歩いていた。けど、彼が立ち止まったからどんどん離れていった。裕太は前のカップルのことを穴が開くほど見つめていて、私の方には顔を向けなかった。誠だったら、話をする時には目を見てくれるし、腕を組んでいても顔は私の方に向けてくれるから、ちゃんと私を見れない裕太の態度が新鮮だった。晴れた日の昼下がりに洗濯物が揺れているのを見ている気分、それかお酒を飲んだ後みたいに、なんとなく幸せだった。

  A

 喫煙所に着いてから、唐田さんの後ろ姿を今までしっかりと見たことがないのに気が付いた。気付くのが遅すぎた。どこかに遊びに行っても別れる時には僕が送られてばっかりだった。ポケットからライターを取りだして火を点ける。僕は自分が嫌になってきて煙草を強く吸い込んだ。胸に違和感があったし喉は痛んだけれど、それで良かった。これまでしてこなかったが、それをしようとするのは間違いではないし、今ならそうするのが正しいことなのだと僕は思うようにした。

  B

 ショートホープに火を点けようとしたけど、ライターのガスが切れていた。裕太は気が狂ったように煙草を吸っていた。ちょっと引いた。
「ねえ、ちょっと」
 彼は振り返らなかった。「ねえ、裕太!」
 彼が振り返った。眼が合った。裕太はまじまじと私の目を見つめた。まるで私の顔を初めて見るみたいに。それか私の顔を忘れてしまって、それを思い出そうとしているみたいに。諦めと決意の混じった眼だった。
「ちょっとライター貸してよ」
 手が触れた。冷たかった。彼の耳が赤くなっていた。赤いハンチングでも買えばいいのにと思った。多分、私の耳も赤くなっているだろうけど。
 煙草に火を点けてライターを返すと、裕太は寂しそうに笑った。つられて私も笑った。確かめ合ったという気がした。
「ねえ、やっと私のことをちゃんと見たね」
「うん」
「耳、赤いよ」
「いや、有希子も耳が赤いよ」
 鼻を赤くした中年がおぼつかない足取りで私たちの間を横切った。耳も真っ赤だった。他の喫煙者も耳が赤かった。ただそれだけだった。

  A

 落下速度の遅い雪が降り始めて、煙草を灰皿に落とした。辺りにはイルミネーションに照らされた紫の煙が漂っていた。腕時計を見やると八時を指していた。あまり遅くなると同僚たちに会いそうだし、明日も仕事があるから帰ろう。
「ねえ、連絡先交換しない?」
「あ、そうだね。そういえば、まだ実家に住んでるの?」
「ううん、高円寺。同棲してるの」
「そうなんだ。……もしよければ、ケーキでも買っていかない? まだやっているはずだから」
 甘いものは好きではなかったが、今日は食べたかった。駅の改札前で連絡先を交換してからゲートシティにあるケーキ屋に向かった。連絡先については断るべきだったかもしれないが、やっぱり交換したかった。別に過去にこだわっているわけではなくて、単に忘れたくない記憶がありすぎるだけだ。
 吹き抜けに面しているケーキ屋さんでは、ちらほらとカップルの姿が見えた。僕はいちごのタルトを一つ買った。タルトってこんなに高いのかと驚いたが、むしろそれが特別感を生んでいた。これで家に帰る理由が見つかったと安心した。彼女も同じものを三つ買っていた。その様子を眺めているともう会わない気がした。うんざりしていた日々も今はなんだか愛おしかった。
「さよなら」と有希子が言った。
「今度呑もうね」と僕は嘘を言った。
 改札を抜けて有希子は僕と違う方へ歩き出した。僕は彼女のいない電車に乗った。高校生の頃、有希子と一緒に帰っていると、何を話したかは覚えていないが、ただ楽しかったという思い出を見つけて、あたたかい気持ちになった。乗換駅に着いて降りた。いつもの人身事故があった。塾帰りの学生が迷惑そうな顔をしていた。電車はなかなかやってこなかったので、懐かしい気分のまま、高校生の時に良く飲んでいたジンジャーエールを買った。サラリーマンは片足でリズムを取っていた。ジンジャーエールってこんな味だったっけな? あんまり辛くない。
 一口だけ飲んだジンジャーエールを片手に駅のホームでぼんやりと考えていた。唐田さんは明日出社するのかな、唐田さんと会った時には上手く話せるかな、まあ、いいか。でも凄く辛くなるんだろうな、と。



Praylist
tofubeats「LONELY NIGHTS」
the pillows「Ladybird girl」
オカダダ+嫁入りランド「W.A.K.A.R.E.H.E.N feat. kaZya」
BUMP OF CHICKEN「星のアルペジオ
tofubeats「way to yamate」
ZAZEN BOYS「自問自答」
tofubeats「夢の中までfeat.ERA」
ASIAN KUNG-FU GENERATIONソラニン
フジファブリック若者のすべて
チャットモンチー「橙」
The Jimi Hendrix Experience「Purple Haze」
シャルロ「ハロー、グッバイ」
andymori「16」
くるり「ばらの花」
くるり「東京」

 

あらすじ

 


高校生の頃に付き合っていたが自然消滅したカップルがいました。現在、男は彼氏のいる女の子を好きになっています。女は女の友達が多い男と同棲しています。

男と女は割合に変わっていました。

男は赤面症になり、女はタバコを吸い始めていました。

一緒にラーメンを食べましたが男は自然消滅させた責任を勝手に感じているため上手く喋れず、あまり会話ができません。女はそんな彼を見て変わったのかなと思っています。

男が顔を赤くしながらイルミネーションに誘ってきたので、女はまだこいつ私のことを好きなんじゃないかと思いました。そうすれば自分の顔を中々見ない男の辻褄があうからです。その初々しさが嬉しいらしいです。

しかし男は唐田さんの姿を見てイルミネーションの方へ向かおうと思ったのです。彼女にどうしてこの道を選んだのかと問われた時に、自分のやっていることがストーカーまがいのことであると気づきました。だから、単にイルミネーションを見に行きたかったと、できればそれを本当の動機にしたいように言いました。彼女が身を寄せてきて男は本当に驚きましたが、唐田さんの後ろ姿をしっかりと見なきゃいけないと思いました。彼は喫煙所で思いっきりタバコを吸うことでそれを決意しました。

女の人は男が自分のことを好きなのに、自分には彼氏がいるのを知ってしまったので、諦めと決意の混じった目だと思いました。そして、あれは寒さのせいだと思うことにしました。

あとはなんとなく分かるっしょ

つまり、互いに相手が自分に未練があると誤解する話。2人なのにロンリーやね。