ちょっとした言葉遊び(五千文字)
《恋知らず》が生えてきた。少し違和感がある。英語の授業中になんとなく口の中を舌でチロチロしていたら、左の上の歯茎にはない歯が、右上にはあった。授業が終わり、友香に話してみると、早く病院に行ったほうがいい、とこれまた当たり障りのないことを言われて、いや向かうべきは歯医者でしょ、と内心では思っていが曖昧に「だよねー」と返しておいた。だけど、歯医者にはあまり良いイメージが持てないし、歯医者は嫌なのだ。激しい痛みがあるわけでもないので、どうしても行く気にならない。もし激しい痛みがあったのならば私としても、耐え切れずに病院に駆け込むだろう。けど、そう急いで抜くものではないのではないかと思う。いま抱いている違和感も季節が二回りほどすれば慣れるだろうし。
帰宅し夕食を終えたところで、お母さんに「恋知らず」が生えてきたと報告すると、鳩が豆鉄砲を食ったように驚愕の表情で固まった後、私の両頬を掌で覆った。
「お母さんに見せてごらんなさい」
いくらなんでも真剣になりすぎだと思ったが、言われたとおりに口を開ける。スマホのライトを使って《恋知らず》の存在を認めた母は、保健室に居る阿部先生みたいに力の入った、しかし怒号ではない声で、叫んだ。
「早く治療してもらわないといけない!」
「え~別によくなーい。痛みとかはないんだし」と私は柔らかく反発したが、「あのね、お母さんも恋知らずが生えて来たことがあったけど、今じゃ抜いてよかったなぁって思ってるのよ」
それはお母さんのことでしょ、という言葉は飲み込んだ。しかし母の反応を見て、これは重大な事件なのかもしれないと思ったのも確かだった。けれど、おばあちゃんは「私たちの頃には恋知らずなんてなかったから、あんまり分からないけど、夫婦っているのはずっと恋していなきゃいけないわけじゃないと思うよ」とのこと。途中から話がずれてきていたけど、それを指摘したとしても、また同じ話をされるだろうから一応、全部聞いておいた。そうして、まぁ今すぐ決めなくてもいいだろうと思った。
翌日目が覚めると痛みが引いていて、やっぱり焦る必要も、抜歯する必要もないのだと確認した。洗面所から聞こえる、父が電動シェーバーで髭を剃る音を不快に思いながらベーコンエッグを食べた後、制服に着替えて家を出た。
野本君が歩いているのが見えた。彼が音楽の時間に頬に音符を付けていたことを思い出して笑ってしまった。配られたプリントが、印刷されたばかりだったのだ。机の上に頬を乗せて窓の外を見ている彼は少しバカっぽい印象があったし、まぁバカなんだけど、それを指摘した時の赤面が可愛くもあった。まぁバスケ部の朝練は結構厳しいので、そういったところで疲れがあるのだろうと思う。野本君を視界に入れた時から歯の痛みがあったけど、友香が話しかけてきたら、すぐ収まった。一体何なんだろうと疑ったが、考えても何にもならないだろう。
教室に着き、ドフトなんちゃらとかいう小説家は歯の痛みについて、なんかの作品でくどくどと描写していたらしいと、隣の席のパムルくんに教えてもらってから、歯の痛みについて少し考えてみた。要するに歯の痛みというのは、きっとこの世で最も危険な痛みだと思う。骨折とかはその時は痛いけど、病院でギプスとかで固定してもらえば、あまり痛みを感じることはないだろうし、私も靭帯を何本か切った時も固定してもらって松葉杖を使えば痛みを感じなくなった体験をしたし。けど、歯の痛みは固定したりとか、松葉杖とか道具を使ったりとか、動かさないように気を遣ったら痛みを感じないとかそんな次元ではないのだと思う。
「歯医者に向かって、治療したとしても、抜歯後には、それまでの痛みがやってくるだろうし、そもそも歯の痛みは人間を痛みの中に引きずり込みそう。痛み以外考えられない! みたいな?」とパムルくんに言ったら、「ポールオースターのムーンパレスでもそういうの言っていた気がする」と全く興味が湧かない返答を寄越してきたので「本にしか興味ないんだね」と嫌味を言っておいた。
「パムルくんは《恋知らず》が生えてきたことある?」
「僕はそういった経験はないね。無垢だから」
「無垢は自分のこと無垢とは言わないでしょ」
パムルくんは軽薄な笑みを浮かべて、黙って教室から出て行った。隣のクラスに居るホンケンのところに行ったのだろう。まぁそれはどうでもいいこと。意外と《恋知らず》が生えてくる人は少ないのかもしれない、ということが大切だ。いや、生えたとしても大抵みんな抜いているのかもしれない。痛いなら抜くだろうし、抜いた後の数日はものすごく痛いが、しばらく経てば《恋知らず》が生えてきたことも懐かしい思い出になっているのかもしれない。駄目だ、自分がどうしたいのか分からなくなってきた。
足が速い男子を好きになる子は小学生で終わり、中学生になればヤンキーはヤンキーと付き合うし、カーストの高い人は同じような人と付き合いがちだ。きっと自分と同質的な人間のことを好きになるという法則的な何かが働いているのかもしれないが、何事にも例外があるように野本君はほとんどの女子からモテた。イケメンで毒っけがなくて、バカだったので誰しもが彼のことを好ましく思っていた。クラスのマドンナよろしく、いやクラスのジャスティンビーバー? それはちょっと違うか。まぁ上級生にも告白されていたといううわさも聞いたし、かなりモテていたのは確かだった。けど、彼の通学用鞄には、誰の名札も付いていなかったから、現在誰かと付き合っているということではなかった。この地区の学校には何故かわからないが、付き合っている人の名札を自分の鞄に留めておくという暗黙の了解があるのだ。
そういった色恋沙汰について、私自身も参加したかったが相手が野本君であるなら負け戦であることは火を見るよりも明らかだ。しかし、野本君のことは気にはなっていたのも確かだった。
家庭科の時間は決まって野本君は触れ合える動物、つまり兎のように女子に囲まれていて、同じ班でいながらも輪から外れいる私は、ははぁこれはとんでもないことだなぁと思うのだけれど、やはり私もそこに居たかった。先生から注意を受けて散らばっていくけど、何分後にはまた誰かしら野本君を狙うジャガーがやってくる。したたかな獣たち。
「毎回ごめんね。いつも手伝えなくて」
「えっ、全然いいよ。気にしないで」
今日は煮物を作る授業だったのでニンジンを乱切りにしながら、そう言った。歯が痛い。
「どうしたの?」
痛みが顔に出ていたのか野本君は心配してくれた。
「いや、なんでもないよ」
ズキズキとした痛みがどんどん増していくと同時に、右上の一番奥の歯に意識が引っ張られていく。
「本当に大丈夫?」
「野本君〜進んでる? ウチら全然分からないから、教えてほしいんだ〜」
土屋さんの猫なで声が聞こえた。「ごめん、今ちょっと立て込んでるからまた今度にしてくれない?」と野本君は断ったけど、土屋さんは「どうしたの?」と食い下がった。
「多和田さんがなんか辛そうで」
「えー大変! 大丈夫?」
私は、土屋さんのようになれないとハッキリと解った。そして朝っぱらから選挙カーがバカ騒ぎしているかのように不快だった。実際のところ、私のことを心配するような人間じゃないし、土屋さんとは仲が良くないのだ。痛みを我慢しながら人参を切り落としつづける。
「痛ッ……」
驚くことに、土屋さんを不快だと思った瞬間に歯の痛みは消え去っていて、その波のように寄せては引いていくような痛みに若干の阿保らしさを感じたら、自分の指を切ってしまっていた。これは不幸なのだろうか、と自分に問いかけてみたが、もしかしたら野本君が保健室まで連れて行ってくれるかもしれないと希望的観測が湧き出た。また痛みも。
「ちょ! 絆創膏もらってくるね」と野本君が先生に報告しに行き、私は土屋さんの冷ややかな目に晒されながら、自分の指から流れる赤い血を眺めていた。血は下に向かい掌の中で溜まっていった。血痕は国で言ったらチリみたいな形をしていた。
「あんた、本当にずるい」
土屋さんは舌打ちをして自分たちの班に帰って行った。野本君が戻ってきて「保健室に行って絆創膏をもらってきてだってさ」と言いながら自分のジャージのポケットから黒いハンカチを取り出し、私の指をそれで包みこんだ。
「とりあえず、これ使って」
「あ、ありがと」
保健室に行く間、指の痛みよりも歯の痛みが強かった。野本君がトイレを出るたびに使っているハンカチ、誰もいない廊下で思いっきり匂いを嗅いだ。本当は匂いを嗅ぎたかったのではなく、彼の使っているモノを通じて私たちが繋がっているという実感を得たかったのかもしれない。〝私の血が混じった彼のハンカチ〟そう思うと象徴じみてきた。
この時に、私は激しい痛みはある種の快楽をもたらすのだと分かった。もこもことした柔らかい肌触りのハンカチーフを防災訓練の時のように口に強く押し付けながら、他の教室から漏れる教師の声を聞き、水色の廊下を進んでいると、さながら空を歩いているような気分になった。ハンカチを通して呼吸する度に、歯の痛みは増し、それが罰のように感じられ、くつくつとした笑みが止まらなかった。 彼がトイレから出て必ず使うハンカチーフを私は手にしている。ひたひたと鳴る自分の足音が幽霊のものではないかとも疑ったが、授業中なのに廊下を歩いている時点で幽霊のようなものなのだろうと一人で納得した。絶えず襲い掛かる痛みをもっと感じていたかった。
「すいませーん」
「あっ、どうしたの?」
先生が奥から出てきた。
「ちょっと絆創膏が欲しくて……」
「包丁で指切ったの?」
「あ、そうです」
「やっぱり? エプロンつけてるもんねぇ。洗った?」
「あ、まだです」
「それはいけない!」
阿部先生が消毒液とガーゼを持って来て、治療してくれた。歯の痛みは弱くなっていたが、まだ違和感はあった。
「先生、やっぱり《恋知らず》ってぬいたほうがいいのかな」
「えっと……恋知らずっていうのはね、好きな人がいるとすごく痛いの。だから出来るだけ早く抜いて恋を自覚しないといけいのよっていうのが常識よね。だから多和田さんもはいしゃに行った方が良いわ。だけど、《恋知らず》を抜かずにいたら、もっと違うことに興味が持てるというのも本当よ。それは、個人の生活設計次第ではあるから、あなたがどうしたいかをちゃんと考えることね」
「たまに凄く痛いんだよね」
「そう、なら抜いたほうが良いわよ。痛みに慣れすぎるのはあまりいいことじゃないから」
「先生は抜いたの?」
「私は抜いたわ。いつだったかはよく覚えていないけど、あなたと同じぐらいの年齢の時からしら……はい! 終わり。次からは手を切らないようにね」
先生の指輪は輝いていた。
痛む歯を誤魔化しながら給食を食べ終え、友香と図書室に向かっていると、野本君の下駄箱に手紙を入れている女子を見つけた。川上さんだった。その時落雷に見舞われたような強い衝撃と鋭い痛みが駆け抜けた。川上さんはエラが張っているのを髪の毛で隠してはいたのものの男子たちからは人気があり、付き合うことがステータスのように受け止められているほどに人気のある可愛い女の子だ。その女の子が野本君のことを好きになり、かつ告白しようとしていることは、私に自己嫌悪をもたらした。もし私が野本君の隣を歩くよりも、川上さんが隣を歩いたほうが絵になるのではないか、と。そして私も抜歯をした方が良いのかもしれないと不意に思ってしまったのだ。川上さんも《恋知らず》に苦しんでいたのだろうか。
「多和田? どったん?」
「ちょっと、いや、なんでもない」
「そう? ならいいけど」
午後の授業から下校までの間に歯の痛みが増してきた。家に着き、お母さんに言うべきか迷った挙句、痛みを忘れようとしたが、何をしていても痛みは忘れることができなかった。痛みは常に私をむしばんだ。ただ、それほどまでに私は野本君を好きであることが分かって、幸福であるような気分でもあったのだ。うるさいほどの歯の痛みが、これが本当の恋であることを知らせた。
私は歯を抜くべきだと思った。しかし、
「敗者は嫌だ!」