遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに。

『冗談』

ミランクンデラ 『冗談』(岩波文庫)感想?

 


僕がこの本を手に取ったのは『リズと青い鳥』を友達(僕を含めて3人)と観に行った時だった。僕らは曲がりなりにも文芸サークルに所属しているから時間を潰す場所といえば本屋ぐらいしかないのだ(それに僕は頻尿だから上映前までコーヒーを飲むのは嫌だったし、待ち合わせまでタリーズでコーヒーを飲んでいたから余計に)。僕は本屋に行って何かを買う気は無かったけど、実際に手に持ってみると買おうと思ってしまうのは不思議だ。この話はここまでにしとこう。

 


ネタバレあり〼

一章、二章を読むと、この小説が僕が感じているような虚しさを言葉にしてくれている気がしてならなかった。事実それは僕に密な読書体験を与えてくれた。七章で構成されている小説が初めてだった。伊坂幸太郎とかは別々な視点から伏線を敷いて最後にパズルを合わせるみたいに回収するけど、この小説は7つのピースからできる1つの小説っていうのが適当だと思う(小説が1つの物語なんだから、ピースが合わないものは小説じゃないと言う声が聞こえそうだけど、パズルの完成形、いわゆる1つの絵が『冗談』は緻密だ、ということを言いたい)。

 


三日間に起こった出来事を登場人物の過去から現在に至る思考様式(独自性?)を描きつつ最終章で大きな渦を作っていた。

あらすじを引用する。

絵葉書に冗談で書いた文章が、前途有望な青年の人生を狂わせる。十数年後、苦しみに耐え抜いたすえ、男は復讐をもくろむが……。政治によって歪められた1人の男の流転の人生と愛の悲喜劇を軸にして、4人の男女の独白が重層的に綾をなす、ミラン・クンデラ(1929―)の最高傑作。作家自らが全面的に改訂した決定版からの新訳。

というらしい。

 


ここから話の内容に入っていく。

 


あらすじだけ読んだら冗談っていうのは、そういう意味でタイトルにされているのか…みたいに思うけど、最終章を読めば、より大きな冗談を感じるだろう。最終章ではそれまで独白をしていた人物たちが同じように冗談をくらう。信じられないことが起こった時、立ち直れないことが起こった時、「これは何か悪い冗談じゃないか?」と思うことがあるだろう。そういうこと。

 


四人の男女(最終章は三人)の独白によって読者に与える当人たちのイメージ、それぞれ過去の経験によって構築された行動/思考様式、あるいはハビトゥス、心(この用語を使っていいのか少し不安だ)が、存在するために起こる他者の存在しない裏切りを終着点としていると思う。他者の存在しない裏切りとは?それこそ過去の自分による裏切りなのだ。あまりにも過去に執着(そうせざるを得ない三人)するために、裏切られてしまう。伝統や性、文化だとかは僕らのうちに内面化され意識せずとも、それに則って行動していると仮定しよう(僕はそうは思えないし、多分みんなそれを知っているけど、不確実性は例外が起こってからじゃないと分からないから。リルケは約束は、それが破られたために語られると『マルテの手記』で書いていたと記憶している)。すると個人の中に入り込みすぎると時の流れによって変化する状況に対応できない。有名な祭りは伝統行事だが観光事業でもあるように、伝統を見ずに消費だけをしていく人間が多くなっているから(僕も含めて)、何かに執着する人間は、置き去りにされてしまう。そしてその裏切りの原因(もっと語彙があれば適切な言葉が見つかるのに!)が過去にあるから、なのに時間は進むから、そしてそれは個人的な意味を持つからこそ、虚しさを感じるのだと思う。共有できない復讐という行為。何を言っているかわからないと思うが、『冗談』を読めば僕の考えに納得できるかどうかはさておき、分かると思う。

 


余談

ジグムントバウマンという学者はリキッドモダニティという言葉で現代社会を表している。固定されたものが液状に変わった。つまり掴まるところがなくなっている、ということだ(あくまで1つの見解だ。そして僕もよく理解はしていないから書くことは躊躇われるけど遊びなので許してちょんまげ)。伝統が失われつつあるというのは『冗談』の中でも同じように触れられている、ここでいう固有なものとは誇りだとか象徴だとかそういったものが集団内で共有されているかで決まる。例えば商店街はその地に根付いている、名前も銀座とか場所によってそれぞれだし、運営している人間もそれぞれだ、これを固有性。イオンモールとかはどこに行っても同じであるからここでいう独自性からは遠ざかるため液状なものとする(『怒りの葡萄』でいう銀行みたいなもんだとも思う。いろんなもんが個人から企業とかいう大きな組織に変わっちまったから、複雑すぎるから、何がいけないのかさえ分からなくなる)。差異による自己表現(小さなナルシズム)と生活のための消費は離れてしまったのかもしれない。言っておきたいのはこの考えが適応されるのは現にそうなっている場合のみで、それ以外には適応できない(つまり社会全般に適応できないことだけど、その中にいる人間には自分を囲んでいる社会に対する考えを与えることが精一杯なのだ、しかしそんなの当たり前じゃないか?根っこの部分は知らんが僕たちと老人では着たいと思う服とか音楽の趣味なんかが違うだろう?)。

 

 

 

僕が言いたいのは結局、『冗談』は、とても面白い小説だということぐらいだ。