ふたにょうの遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに。

ねももももももももいいいいい

ムーンパレスの中に「人は一致ではなく差異に目がいく」みたいな事が書いてあったと記憶しているが、

それは自分と関係のない対象について考える時の傾向だと思う。

実際に(俺自身の経験として)自分の趣味嗜好が広がっていく過程には、やはり同類項を見つける(感じる)事が不可欠のように思える。おそらく趣味嗜好が好みであるから、入り口として感銘を受けた、あるいは心地の良い物から広がっていくのだから(ここでは便宜上ものとして表記する)。しかし、差異によって、感銘を受ける事もあるだろうし、その時の自分の状況によって、それを受け止める事もあるのを忘れてはいけない。

では、なぜ僕は自分と関係ないものを考える時に差異に目がいくのだろうか。(ここで自分と関係ないものとして挙げるのは自動的に生活世界において僕自身が考えていない事になるのは申し訳ないと思う)例えば、イェルサレムの問題は3つの宗教の聖地という事でニュースになっていたりしたら、僕は3つの宗教について、ほんの僅かな知識によって考える。それぞれの僕の中での特徴が問題を考える時に前提として現れているのだろう。たとえばユダヤ人は迫害されていて殺されていたが他国に亡命した学者が著名になる傾向がある。キリスト教は多くの信徒がいる上で宗派が枝分かれてしている。イスラム教は偶像崇拝はダメで食事にも制限がある。

おそらく、情報が不足していたり欠損していたり、感情的になっている場合に物事を判断する際には、類似ではなく相違の方が探しやすいということなのだろうか。

良い点より悪い点の方が目につくという

事も多い。自分にとって、不利益の方が真理なのでしょうか。信頼よりも危険が真理なのでしょうか。

もっと例を出してみよう。殺人事件はどうだろう。いや、思い浮かぶのは、それなりの数の人間を殺した事件だ。こうして括れている時点で合致しない。なぜくくれているか?それだけインパクトがあったからだろう、殺人事件は誰もが巻き込まれる可能性があるし、人間いつかは死ぬという考えがあるからだろう。

違う例は無いか?ニュースからピックアップした方がいい。意識的に進行形の計画(目的を持った行動)で、尚且つ自分がよく知らないニュースは何だろう。ビットコインと紙幣はどうだろうか。最初に浮かぶのは仮想と実体だ。

 

つまりは、知識が少ない人間(おそらく大衆)が、社会で起こっている動きを捉える時に、差異に目がいくと仮定する。そうすると類似から始まり、前提として自分の持っている知識、印象を経てから、差異に辿り着く、という解釈でいいのかな。

結論としては、自分に関係ない事ではなく、単に同化するだけの知識がなく、また理解できない価値観があるため、差異に目を向けるようになる。でいいかな。

 

追記 12:31

新しい知識なんかを得る時に類似を見つけなければならないだろうから、差異を見つけた後に、また類似を探すのか?