遊具のない遊び場

年をとってから見返して笑えるようなに。

練習

 

 

 

 

食事は大切だ。どんなに嫌なことがあっても食べ続けなければならない。食べると、多少は元気が復活する。食べたものは糞になって外に出て、また新しい食べ物を食べる。循環する。あまり食事が喉を通らない時でも、食べ続ける事は大切だ。自分の身体に栄養を与え続けるのは、日々を生きるには大切。

朝目を覚ましてから、そういうことを考えた。実際、ここ最近は暑さのせいで食事を摂る気にはならなかったから。とりあえず沸かしたコーヒーを飲みながらテレビをぼんやり眺めていると、黒い枠の中で高田純次が適当な言葉を言いながら商店街を散歩していた。あれぐらい適当に生きていけるのは鈍感なのか、それとも高度に感情を意識しているからなのかは分からないが、いずれにせよ多少は生きるのが楽しそうだと思う。

手元を探りiPhoneを手に取った。そこには高見からの今日の待ち合わせ場所の連絡があった。そのメッセージが僕を急かした。あと三十分で家を出なければならないじゃん。 シャワーを浴びていなかったし、朝食もまだ。ヤバい遅れる。寝汗で湿ったパジャマを洗濯籠に放り投げて、浴室に入った。シャワーと着替えを十分以内に終わらせて、それ以降はゆっくりご飯を食べよう。シャワーの蛇口を回すと、背中に冷水がかかって、さながら動物のように後ろに飛び上がった。その時に滑っておしりを強く打った。自分で自分のどんくささに呆れた。けれど、もし同じようにどんくさい人が居たら、少しは優しくなれるだろう。きっと。気を取り直して、シャワーをざっと浴びた。けど、着替えとタオルを用意するのを忘れて、びしゃびしゃなまま床を歩きたくないが、そうする以外に選択肢がないので、諦めて歩いた。掃除する時間が増えてしまった。

身体を拭いて、着替えた。そして、いらなくなったTシャツで床を拭いていると呼び鈴が鳴った。今はほかのことにかまけている暇はないので居留守を使おうとしたが、ドアが叩かれた。数十秒間、乱暴にドアを叩く音と(まるで今を逃すともう二度と訪れない幸福を懇切丁寧に教えてくれるみたいに)「すみません」という耳をつんざく甲高い声が響き続けて、うんざりした。けれど、やっぱり扉を開けた。

 ドア越しに僕は「なんですか?」と言った。

「ああ、助かった。隣の石田ですけどちょっと開けてもらえませんか?」と妙に早口で言われた。女性の声だった。僕は面倒に思ったが、後々嫌がらせを受けたらたまったもんじゃないので、少しだけドアを開いて半分だけ顔を出した。

 そこには血色の悪い女性が居た。彼女は僕と目が合うと安堵したように微笑んで―しかし、しっかりとドアを掴んで―こう言った。

「ちょっとこの子の面倒見てくれませんか?」

 女性が立っている位置からずれると下を向いた女の子が居た。くたくたになった白菜のようなシャツ来ている少女は、顔を上げて僕の方を見たが、その目は髪の毛で隠れていて、嫌な感じがした。僕はチェーンを掛けたまま顔を出せば良かった後悔した。

「嫌ですよ。この後、用事があるんです」

 女性は張り付いたままの笑顔で(それはきっと僕の都合を受け入れないという意思表示)濡れた犬が身体をゆすらせて飛沫を飛び散らせるみたいに、首を横に忙しなく振った。大げさだ。

「でも、そこをなんとか、お願いします。そうだ。お金を払います。そうすればいいじゃないですか。ほら」

 女性は、そう捲し立てて財布から津田梅子を出した。それを僕に無理やり握らせて、女性は立ち去ってしまった。酷く熱い手だった。女性の背中が視界から消えて、老朽化した階段の音が軽快に響いた。僕は正面に向き直り、女の子の後ろにある陰影のある入道雲を見た。「ねぇ、僕ってどうしたらいいですか?」

 ちょうど女の子のお腹が鳴ったので、そういうことなんだろうなと納得した。とりあえず朝ご飯はまだだったから、まあいいかと思うことにして、女の子を家に通した。実際、一人で食べる食事より、二人で食べる食事の方が安心する。一人で食事をとると、自分の咀嚼音が嫌に聞こえて、あんまり食べ進めることができないし、二人だったら会話でもしながら食べれるし、咀嚼音は気にならなくなるのだ。

ほとんど新品に見える(真っ白)スニーカーを脱いだ女の子は素足でフローリングを歩いた。僕は、彼女の湿った足跡を見て、眉間に力が入った。僕の家は砂浜でもなんでもないから素足で歩くのは止めて欲しい。折角、きれいに掃除したばかりなのに。

床にはゴミが落ちてはいるので、スリッパを薦めた。けど多分、砂浜も素足で歩いたらケガするぐらいにゴミが落ちているかも。綺麗な海を見てゴミを落として帰っていく人もたくさんいそうだ。

「パンでいい?」

 僕はパンをグリルに入れてから聞いた。

「大丈夫です」

 それは遠慮なのか、パンでも構わないという意味なのか分からなかったけど、お腹が空いているようだったので、パンを焼いた。美味しいパン屋の美味しいパンだ。焼いて食べた時の匂いが違う。

 

ご飯を食べ終わったら、女の子を家に帰すと決めていたが、ぽつぽつと会話をするうちに(女の子は綾という名前だった)、彼女の家はもう鍵が掛かっていて、しかも彼女は家の鍵を持っていないことが分かったので、結局遊びに行く約束を断るはめになった。その連絡を入れると、遊びに行かないなら代わりに学籍番号を教えろとメッセージが来たので、LINEで送っておいた。

そのまま手持無沙汰なまま、ぼんやりしているのも居心地が悪かったので僕は彼女に小説を渡した。それに、なにか地雷があるかもしれないので迂闊に女の子の事を聞けないのだ。けれど、活字だけだとつまらないからと言って断られた。次に漫画を渡した。これは好感触だった。なにはともあれテレビを点けなくて済んだ。昼過ぎのテレビはあまり見たくない。

「それで、いつまで居座るつもりなの? お母さんはいつ帰ってくるの?」

「さぁ?」綾の視線は、僕の顔の上を彷徨っていた。「わかんない」

「そうなんだ」寂しい家族なんだろうな。食事の席で誰も言葉を発しないような。いや、そもそも家に人が居なさそうだ。「面倒なことになったなあ。面倒だなあ」

 綾は口角を上げていたが、それはひきつった笑みだった。

「なんか、ごめんね。新しい漫画、借りてこようか?」

「いらない。ねえ、スマホ貸してよ」

「嫌だよ。なんで」

youtubeみたいから」

「やだよ。我慢してよ」

「えー、つまんない。Youtubeの代わりに、あなたが面白い話してよ」

 僕は嫌な気分になった。サークルの先輩に同じことを言われたのを思い出したのだ。

「そんなの知らないよ。僕は君のことをあんまり知らないし」

「じゃあ、私がお手本を見せてあげる。まずね、時代は江戸。飢饉に襲われた村人たちが食料を求めて移動しているの。これは隠された歴史の話。米騒動によって隠された歴史」

 隠された歴史と聞くと、どうも胡散臭く感じる。やっぱりそういうのを読みがちな年頃なのだろうか。都市伝説とか、成り上がり物語みたいに、そういう俯瞰している気分が味わえるだとか、信じることで救われる物語だとか、そういうのが欲しいのだろうか。それ以外のものを求める事すら知らないで、ただ満たされないという理由だけで、それを求めるのだろうか。だけど、そういう物語に霊性があるのは認めざるを得ないけれど。

米騒動はヒーローの物語なんだけど、日の当たらない歴史もあるのよ。そう、続きはこう。お腹が空いている人間はお役所にカチコミをしようとも思わないわけね。そりゃあ大塩平八郎が起こした後はそのビックウェーブに乗る連中もいただろうけど、その頃は誰も役所を襲おうなんて発想がないわけ。ここからが面白い所、ちゃんと聞いてね。この食事に飢えた人たちはどうしたと思う? ふふふ、もちろん農家の家を襲ったのよ」

「それって本当?」

「さあね。でも、これは嘘ではないわ。ご飯に対する欲望が、あんまりに大きいもんだから、農家を潰すのよ。農家も農家よ、本当はご飯があるのに、ないなんて嘘ついたから。それに気が付いた飢えた人々は嘘をつかれた、という事実から裏切られたと勝手に物事をふくらませて、正当化して襲うの。裏切られて自分は可哀想だからって正当化して。ね、ちょっとおもしろいと思わない?」

「うん、ちょっとだけね」結局、面白い話じゃなくて、ちょっとだけ面白い話だった。

「でね、この話には続きがあって、農家には一人娘が居てね、その娘は周りから嘘つきだって言われたのよ。嘘つき人間の子供は、嘘つきだってね。けど、その子を生かしたのは農家じゃなくて、襲った人たちなの。こんな幼い子は殺せないって。そんな中途半端に人間性を大切にしようと思わなくてもいいのにね。それで、その娘はいじめられ続けて、死んだって話」

「でも、その話はフィクションなんでしょ?」

「信じるも、信じないもあなた次第って感じ。けど、私はそれを知っているし、もしかしたら本当かもしれない」

 どんな感じか全然わからなかったけれど、なんとなく「綾ちゃんはコラムニストにでもなれそうだね。ほら、新聞の隅っこの方の」と言った。彼女はちょっとだけ嫌そうな顔をした。

「じゃあ次、面白い話をしてよ」

「いいよ。面白いかどうかは分からないけどね。昔いじめられていた子が居た」

「それ私のパクリじゃん」

「いや、最後まで聞いてよ」綾は一応頷いた。「その子はラノベを読んでいて、ああモンスターハンターね。それでクラスのサッカー部に聞かれたんだよ。何読んでるのって。けど中々答えられないわけ。挿絵がおっぱいだからね。全然応えないもんだからサッカー部の奴は痺れを切らして無理やり取り上げた。それでパラパラ捲るとおっぱいがあるわけじゃん。あっ、そうこれは中学生の話ね。それも一年生の七月とかそれぐらいの」

「ねえ、その話って本当に面白い? 絶対面白くないと思うんだけど。しかもセクハラ」

「え、セクハラになるの?」

「いや、分んないけど」

「で、おっぱいに興奮したサッカー部の輩は教室中にエロ本持って来てる~って伝えるわけね。周りも、えっ! エロ本? 猛者やん! キモッ、とかそりゃあもうバズったわけ。一年五組のトレンド一位を獲得した子は、恥ずかしさのあまり泣いた。歯を食いしばって声を噛み殺してね。ああ、顔が赤かった。それが羞恥なのか怒りなのか分からないけど。しばらくして先生が来ると、話し合いが行われた。先生は最初、またサッカー部の奴が変なことしたんだと思っていた。でもその小説をパラパラ捲るとおっぱい。これには教師としてどう振る舞っていいのか分からなくなったみたいで、そう、つまりここでおっぱいを容認するのは教師としてどうなんだろうっていう葛藤があった。サッカー部の輩が、あんなに騒ぎ立てなければ、もっと穏便に済んだっていうのは先生も分かっていたはずだ。そして、モンハンのノベライズを読んでさえいなければ、こうならなかったことも知っていた。で結局、警告で終わり。イエローカードさえも出されなかった」

「ねぇ」綾が何か言いたそうにこっちを見た。その苛立ちを隠さずに睨み付けられていたが、僕は「大丈夫」と言った。

「ここからの展開は綾も気に入ると思うよ。辱めを受けた子は、それでも学校に登校し続けていた。筆箱を隠されたり、教科書に油性ペンで落書きされたり、上履きを身体にぶつけられたりしてもね。神様がそれを見ていたのかもしれないね。そして、体育の授業でサッカーをすることになった時、自分が、あの輩よりもサッカーが上手いことに気が付いた。さあマウントが取れるぞ、ノコッタ、ノコッタ。まさかあいつがっていう感じでクラス中が色めき立った。授業が終わると、あの輩は一緒にサッカーをやろうと誘ってきた。自分がやったことをすべて忘れたように。それを受け入れて、断れない性格の彼は、頷いた。そして、彼が活躍するようになると、彼を虐めていた子は、逆に虐められるようになった。取り巻たちにね。そして、その子は自殺した。それを知った時、涙が流れなかった。そして」

「結局何が言いたいの?」

 話を遮って、綾がそう言った。

「やさしくなりたいって話」

「本当に、つまらない話。どうせフィクションでしょ」綾はそう言いつつニヤニヤしている。

「それを言ったら、君のもフィクションさ」

 綾はそれから、ほとんど毎日、家に来た。母親から金を預かって。僕は綾の話し相手になるというアルバイトを始めたのだ。一週間五千円。他のアルバイトもしていたけど、あまりお金に余裕がある訳でもなかった。けど、人と話すのにお金はいらないし、夏休み中の暇つぶしで金が貰えるのはありがたかった。

 その日の夜、眠れなくなって布団の中でiPhoneをいじっているとメールが来た。

 

Title 眠れないのか?

Text 最近、まさにこのメールの件名のような、章名の文章を読んだ。そこでは、モノグラフとして最初に「夢は第二の人生である」と書かれている。これは何を意味しているのだろうかと考えなくとも、そのあとの文章によって、その意味が明らかにされる。夢、つまり眠る、そうすることで全てを忘れる、そう、自分ではない何者かになることができるんだ。言い換えると自分から解放される。ちょっと考えてみてよ、よく言うじゃない。この人生の主人公は貴方だって。けど、物語の主人公になることはさ、本当に耐えられるのかなって。僕は耐えられないね。他にも、例えば低賃金で働いている人とかブラック企業で働いている人、やりたくないことをやっている人、前科者、そういった人たちは、人生の主人公になることは、ひどく苦しいものだと思ってしまうんだ。つまりは、自分の人生の先行きの見通しがつかない、あるいはどんな人生を歩みたいか(つまりは向上心だね)、っていうのが既に苦しみで溢れていると思うんだよ。あとは消したい過去とかね。そういうのを引き連れて生きるには、忘れたいって欲望はあると思うんだ。それに、未来が明るいものになるだろうかと考える時、あんまり良いイメージが浮かばないんだ。だからといって暗いままでいいとは思わないよ。それにきっと明るくなろうだろうしって思う。けど、とても楽観しすぎている気がするんだよね。僕自身、このネガティブなところは直したいなあと思ってる。ああ、ちょっと話が脱線したね。ごめん。まあ、なんにせよ、自己責任から逃げ出したいね。もう書くこともなくなったから、眠れない夜にピッタリな曲を見つけたからリンクを貼っておくね。今、ねれなくて困っているんだ。もし、君も眠れないようなら、返信をくれ、仲間がいると思うと、すこし安心できるから。

https://www.youtube.com/watch?v=mb2sX76tZwU

この曲はさ、子供の頃に戻りたいって感じだね。面白いのは自分の人生が嫌なのに子供の頃には戻りたくて仕方がないってこと。少し考えてしまわないか? スマホとかLINEがあるのに仲の良かった同級生に連絡を入れようとも思わないのは、どうなんだろうって。今が楽しいってわけでもないなら、昔の友達と連絡を取ってもいいはずなのに、行動しないんだ。

 

テキストを流し読みしてからLINEで「なんでわざわざメールを送って来たのか」と尋ねると、操作方法とかの確認ということだった。絶対嘘だと思ったが、PSGの『寝れない』のリンクを送っておいた。ベランダで煙草を吸った。どうせ寝れないからコンビニでも行こうと思った、酒でも買ってこよう。眠くならなかったら眠らないで飲み続けて、眠くなったら眠ろう。

 

 

八時過ぎに目が覚めてからパンを買いに行こうと、サンダルに素足を滑り込ませてから、パン屋がつぶれたのを思い出した。それでもなんとなく外に出た。パン屋がないならコーヒー豆を買いに行こう、と思ったのだ。身体に染みついた習慣は、それが重要でないからこそ、なかなかなくならない。だから外がうだるような暑さであっても、Tシャツを肌に張り付けながら、財布と小説を持って、途中自販機で買った缶コーラを飲みながら商店街を真っすぐ突き進むことができる。そこではできない理由を探すことはない。だって、簡単にできるから。

 帽子を被った主婦と仮面ライダーのTシャツを着た子供が手をつなぎながら、微笑みあっている。その親子は僕とすれ違いかけそうになったら、コンビニに入った。音もなく開かれたドアは涼しい風を僕の足元に届けた。アーケードを子供が駆け回っている。夏休み、良い響き。僕は中学生の頃いじめられていて、あんまり外に出るっていうのをしてこなかった。そういう時は夏休み中が一番、外に出れないのだ。彼ら彼女らといつどこで遭遇するかと足が全くつかないから。けど、もしかしたら生きるっていうのも大抵そういうものなのかもしれない。競争原理の下で、いつ誰から、何から襲われるか分からないまま、ただビクビクおびえながら、自分の身を守ることに集中しなければならないし。まあ、だから、僕の横を風みたいに走り抜ける子供たちが、どことなく羨ましく映った。

 前進しようとするたび、疲れを訴えるように背中が丸まっていき、ゾンビのように足を引きずった。もう耐えられないと思った時、ちょうどパン屋があったところに着いた。テナント募集の張り紙がガラスに張られていた。青い塗装と「ロックストーンベーカリー」という店名は、もう全て白く上塗りされていて、本当にパン屋がつぶれたのだと教えてくれる。あのパン屋で働いていた人はどこにいったのだろう、サクサクメロンパンがもう食べられないのかあ、だとか考えていたら、自分が勝手に物語を探して、勝手に感傷に浸ろうとしているように思えたので、あまり気にしないように歩き直した。そこに悲しさはないはずで、ただパン屋がつぶれただけ。けれど、あのパン屋は美味しいと評判だったし(確かに美味しかった)、それを聞いた店主も悪ノリで「美味しいパン屋です」と書いたポスターを店内に張っていた。テレビに取材されたこともあった。

「パン屋がなくなるのは寂しいね」と背後から帰を掛けられた。振り返ると男が居た。夏の暑さにやられたのか酷くやせ細っていた。

「そうですよね。美味しかったのに」

「けど、パン屋なんて今時、どこにでもあるし。けど、やっぱり、ねえ」

「なんで閉店したんですかね」

「ああ、これは噂なんだけど」

話を聞くと、誰かは知らないけど、「全然美味しくない。これは詐欺、店主は嘘つき」というクレームが入ったらしい。ついでに訴えられたらしい。掲示表違反。「ごたごたして、いろんなことが嫌になったんじゃないかな? なんでも娘さんもいじめられて不登校になったとか」

見慣れたコーヒー豆屋の前まで来たら、やっと涼めるとと思い涙が出そうなほど嬉しかった。正直、外出したのは失敗だった。そもそもドルチェ・シマノフスキは商店街を抜けたところにある豆屋で、こんな暑い中、歩いていこうと思った自分は本物の馬鹿だと思った。

 店頭には空の樽とシルバーのビアンキが置いており、一目でコーヒー屋だと分かるように、濃い茶色の外壁だった(いや、そういう理由じゃないとは思うけれど)。この辺まで来ると人も少ない。トラックの走る道路の高架下をぬけるとオフィスビルが立ち並んでいる。芝生と点在するいくつかの木々。ドルチェ・シマノフスキの少し向こう(高架下の手前)にはコンビニがあり、そこで夏休みの子供が自動ドアのすぐ傍で遊戯王デッキを開封している。「公園行こうぜ!」と言っているのが聞こえて、なぜ家で遊戯王しないのか理解できなかった。外で遊戯王? 絶対蚊に刺されるし暑いのに。

考えても何もならないので(正直、熱さに耐えられなかったの方が動機として強い)ほんの少し重たい扉を押して中に入った。店内では、かの名盤であるケルンコンサートが流れていて、やっぱり今日は豆を買いに来てよかったと思った。この名盤はキースジャレットの唸り声が入っているのに旋律は氷みたいに透明で固くて好きだ。初めて聴いた時に耳からつららが突き刺さるような衝撃があった。この店主と、やっぱり波長が合うと思った。大学に入学してから、自宅周辺をぶらぶらりしていた時、初めてドルチェ・シマノフスキに入ったらザ・デイブ・ブルーベック・カルテットのロンドが掛かっていて妙に親密に感じた。それ以来、この店は僕のお気に入りだ。

店主が焙煎をしている間、僕は持って来ていた小説を読んだ。正直、全く集中できなかったが、店内でぼーっとしているのも、間抜けなので文字の上を滑っていた。ページを捲ると、内容が繋がらなくて、またページを戻すといったようなことを何回か繰り返していると、店主がコーヒーと三粒のナッツを僕の前に置いた。焙煎が終わるまでの間のちょっとしたサービスだ。

僕は出されたコーヒーとにらめっこをして(それはホットコーヒーだった)、おそるおそる口を付けた。やっぱりおいしい。一度、ちゃんとしたコーヒーを飲むと、中々インスタントコーヒーには戻れない。大してコーヒーが好きでもないのに、そうなってしまうのだ。こだわりがある訳でもないが、どうもインスタントがまずく感じられるようになる。僕はナッツを手に取った。もしかしたらナッツと夏を掛けているのだろうかと考えたが、さすがに深読みしすぎだと思い、口に放った。それを噛みながら、また文字の上をつるつる滑った。

「そういえば、どうしてパン屋なくなっちゃったんですかね」

 クレジットカードで会計をしている間、僕は店主に尋ねた。

「ああ、なんでも石田さん、いや、店主のお父さんの介護で首が回らなくなったらしいよ」

「え。けど、あの人、四十代ぐらいなんじゃないんですか? 見た感じだとそうだと思ったんですけど」

「違う違う。痴呆になったんだよ。それに一人っ子だし、嫁さんは子供連れて逃げちゃったらしいし。ほんとこれからどうするんだろうね」

 店主は同情したようにため息交じりにそう言った。ビニール袋を手首にかけて、クレジットカードを受け取り、「じゃあ、また今度」と言って家に帰った。iPhoneで時刻を確認すると、もう九時時になっていた。僕は歩を速めた。

所々、錆びて塗装がはがれた階段をわざと音を立てて登った。サンダルだといい音が鳴らないのに気が付いた。

 404号室(それは104号室。誰かが落書きして4になっている)をノックしてから隣の自分の家の鍵を開けた。夏の日差しを受けたドアノブは刃物のように鋭く光っていた。その熱を我慢して回した。中に入り、むんとした空気を追い出そうと、窓を開けて扇風機を点けた。僕は買って来たばかりのモカブレンドをコーヒーミルで挽いた。コーヒーメーカーにフィルターと豆をセットし、水を入れる。焙煎したばかりの豆のせいで部屋の匂いが変わった。換気扇を回す。

 僕はスーパーで安売りされていたパン一斤をオーブンの上から引っ張り出し、刃がギザギザのフルーツナイフで適当な厚さに切り、(本来は魚を焼くための)グリルに入れた。片面二分、もう片面一分。その間にグレープフルーツを切ろうとしたけれど、生憎切らしていたので代わりに檸檬を切ることにした。きっと目が覚めるだろう。あの流行の音楽に則って二つに切り分けた檸檬の断面図は太陽みたい、と呟いた。そういえば、なぜ子供の中には黄色い太陽を書く子が居るのだろうかと思っていると、ピーっと音がした。パンを裏返して、もう一分だけ焼く。赤色とかオレンジ色とか、いろんな太陽があるのだなあ。きっと多様性なんだろうなあ。

 ふと思い立って冷蔵庫から檸檬をもう一つ取りだして、居間に戻る。本棚から適当な小説を取りだして積み重ねた。その上に檸檬を置いた。色とりどりの背表紙の一番上に檸檬がある。全く微動だにせず、彫刻みたいに見えた。現代アートか? 意味が捕まえられない。ここは丸善ではないから爆弾にはならない。またグリルが僕を呼んだので、台所に戻った。パンを取りだしてミッフィーの小皿の上に置いて机の上に並べた。ちょうどいいタイミングでコーヒーメーカーが僕を呼んだ。そうして、アイスコーヒーにしておけばよかったと後悔した。けど、もうどうしようもないのでマグカップに注いだ。本棚から適当な小説を取りだしてコースターの代わりにする。今日は新潮の怒りの葡萄(上)(下)だ。何度も使ったせいで茶色い輪が濃い。どうせ売らないからどれだけ汚しても構いやしないのだ。

さぁこれで準備は終わりという感じで玄関を見た。けど、ブルーベリージャムを出すのを忘れていたと思って、冷蔵庫から取りだして必要な分だけ小鉢にあけて、それをテーブルに並べた。転がった檸檬、パンでミッフィーが隠れた皿、それとジャムの浸った小鉢が綺麗な三角形になった。ぼーっとしていると「大丈夫?」と声が聞こえた。

綾が来るまで扇風機は僕の方へまなざしを向けていたけれど、彼女が来ると首を回した始めた。僕と彼女を交互に眺めて、間違い探しをしているみたいに。

テーブルの真ん中に経っている小説の塔は僕と彼女の視線を遮っている。だから僕は綾の顔を見なくて済んだ。

「もうそっちは夏休みが終わるんだね」

 焦げが目立つ方のパンを齧りながら僕はそう言った。

「うん。けどずっと夏休みみたいなもんだったし」

「僕もずっと夏休みが続けばいいなと思っていた時期があったよ。高校性の時は」

「そうなの?」

 ちょっと上擦った声が聞こえた。

「中学生の時は最悪だったけどね」

「知ってる」

 今度は落ち着いた声。

「ああ、そう? ごめんね」

 本当に知っているかどうかは、曖昧だけど、とりあえず僕は謝った。

「ところで、この小説塔は何?」と向こうから声がしたので「なんか物語が嫌になって積み上げてみた。馬鹿みたいでしょ? こうやって集めて積んでみたら全く意味が見当たらないんだもの。どう? なにか意味だとか可能性を掴むことができる?」と身体を右に傾けて言った。けど綾の顏は見えなかった。きっと反対側から、こちらを伺っているのだろう。

「ぜんぜん。まあ想像力が働かないっていうのは素敵かもね」

 その時、揺れた。なんてことのない、ただの地震だった。檸檬は僕の方へ落ちてきた。綾は立ち上がって小説塔を上から押さえつけていた。揺れが収まってから彼女を見ると、目が潤んでいるのに気が付いた。何かが崩れたと思った。

「髪、切ったんだね」

黒い眼鏡の縁の上で綺麗に揃えられた眉毛があった。蝶の羽休みのようにゆっくりと瞼が閉じられた。

「うん」

彼女はピースサインを作って人差し指と中指で前髪を挟んだり、挟まなかったりを繰り返した。僕は「大丈夫だよ。きっと。それに人生は嫌になるぐらい長いんだ。だから想像して不安になっても、別になんともないんだ。それにたまに良い事が起こる」と声を掛けた。綾は僕を見て笑っていたものの、いつものチックが起こっていた。

「余命でもついたら、もうすこし頑張ろうって思えるのかな」

 消え入りそうな声が蝉の声に混じって聞こえた。

「さ、食事を再開しよう。僕が中学生の頃、初めて親に打ち明けた時、たくさんご飯を作ってくれたんだ。そこから分かったのは、食事がとても大切だってこと。お腹が膨れれば少しは満たされた気分になるんだよ」

「けど、だったらもっとちゃんとした昼食を作ってほしいな。こんなささやかなものじゃなくて」 綾は独り言ちた。「せめて今日ぐらいは」

 その先の言葉は発せられなかった。

翌日の昼もなんとなく家に居た。一応404号室にノックをしたけど、綾が居ない代わりに母親が居た。赤い目だった。その後スーパーでたくさん食料を買い、今までで一番のごちそうを作った。僕は親がなんでご飯を、ごちそうを作ってくれたのか分かった気がする。僕が辛いのを励まそうとして、ごちそうをたくさん作ってくれたのもあるが、本当は両親も同じように勝手に傷ついていたのだと。

 

 

反省点 食事・物語を基軸にしようとしたが、結局、なんにも可能性を生み出せなかった。ただ、死んだだけになってしまったし、もっと突き抜けるのがいいなあ。あと、描写で同じ言葉を使いすぎ。上手くなりて~。リアリティもないし。一万千文字くらい。二万文字ぐらいかけるようになりてぇ~

アタイたち二人は tofubeats の LONELY NIGHTS がすき。

M THE BEATS「二人でもロンリーナイツ」

  A

 上には上がいるように、きっと好きな人には好きな人がいるのだと思う。僕は唐田さんと遊ぶための理由を考えるのが好きだった。その時間は楽しくもあったし、もどかしくもあった。つまり何か理由がなければ、唐田さんと会えないぐらいに僕は臆病だったのだ。唐田さんとは、何度もご飯を食べに行ったり、映画に行ったり、ライブに行ったり、それなりに時間を共有してきたつもりだった。
 しかし、彼女にはクリスマスの予定があった。それを知った時のことを思い出す度に、無意識に顔が熱くなるし、息が詰まって変な顔をしてしまう。以前は顔が熱くなることなんてなかったのに、あの時の羞恥を思い出して赤くなるようになってしまった。
 ハラハラと落葉の舞う景色が見える窓際の席で、唐田さんと昼食をとった際に、それとなくクリスマスイブの予定を聞いてみたら、うっとりと何かを想像しているような表情で伏し目がちに「あるよ」と言われたので察した。そして僕は自分の顔を見られずに済んで良かったと安堵した。その時は顔が熱くてたまらず俯いてしまったが、耳まで真っ赤にしていたと思う。とにかくこれほど惨めな男はいないなと自虐することで、現実を受け入れようとして、実際にそれは上手くいった。虚しい限りだが。
 同僚の佑亮に「唐田さん、クリスマスイブに予定あるんだって」と報告したら「あれや、女心と秋の空やからなあ」と言われた。だが彼もクリスマスイブに予定があることを僕は知っていた。つまるところ僕にだけクリスマスの楽しみがないということだった。余計に寂しかった。

 タイムカードを押してから会社を出た。対面のビルはまだ人影が見えて、少し羨ましかった。きっと彼らは富士通のデスクトップパソコンと格闘し、目頭をつねりながら苛立っているのだろう。一方で僕の勤める会社は、定期的に行われるノー残業デーだったため、これからお一人様飲み会なる催しが開かれる。僕はどうしてもそういった気分にはなれず、一人帰路につくことにしていた。参加していれば孤独感は薄れるのだろうと思うが、そのぶん一人になった時に虚しくなるに違いなかったからだ。しばらく出口でぼんやりしていると、楽しそうな笑い声が後ろから聞こえてきたので、押し出されるようにして、そそくさと駅へ向かった。
 大崎駅まで歩いているとなんとなく消えてしまいたいと思った。横目で見たフットサルコートには、赤と緑のスポーツウェアでフットサルに励む男女がいて、しきりに上がる声は自分たちが幸せであると大きく主張しているように感じられた。コートの端っこでパーティ用の鼻眼鏡を付けた男が見たことのない動きで踊っていた。何人かはそれを見て笑っていた。唐田さんのマフラーもクリスマス色だったことを思い出した。土屋さんが「唐ちゃん、そのマフラー伊勢丹の紙袋……じゃなくて、クリスマス色だね」と言っていたのが、記憶に残っている。
 街路樹に巻かれたイルミネーションは昨日や一昨日よりも一層輝いていて、その綺麗さが僕の虚しさを加速させる。それをぼんやり眺めていると悲しくなった。辛くはなかったが、少しずつ急になる坂を登っているような気分だ。コートのポケットに突っ込んだ手は、おそらく冬の間外に出ることはないだろう。白い息は、ため息によって生まれて、すぐ消えることはなかった。まるで冷凍都市だ。フットサルコートの上にあるデジタルサイネージからは、tofubeatsのLONELY NIGHTSが聴こえてくる。今日はもう一人で炬燵に入りながら、酒を飲んで、小説でも読もうと思った。きっとそれが僕にはお似合いだ。
 やってられないと思い、二か月も禁煙できていた煙草を吸った。それもイルミネーションの中にある喫煙所で。きっと僕は愛を希求しているのだと思う。ため息に混じって白い煙が吐き出される。腕を組んだり、手を繋いだりしている男女が嫌に目に入ってきた。やっぱり、みんな笑顔だった。僕は下を向いて生きた方がいいのかもしれないと思った。灰皿に煙草を落とし歩きはじめると少しクラクラしたが、それが良かった。なるべく意識がそっちに向かわないように誘導できそうな気がした。
 後ろからカッカッと足音がした。かなりテンポが速く、振り返ってどんな靴を履いているのかを見ようとした。しかし本当は靴の種類なんてどうでも良かった。何かに意識を向けていないと、ついクリスマスイブについて考えてしまいそうだった。その靴はヒールの低いパンプスだった。唐田さんはフラットシューズと、パンプスの二足持ちだったのを思い出す。ヒールがある靴で歩くのは疲れるのだろうかと考えていると、心がズタボロになった。
「あれ、裕太じゃん?」
 聞き覚えのある懐かしい声にハッとして、顔を上げる。彼女は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。きっと僕に声を掛けたことを後悔しているのだろう。クレジットカードを使うと月末に引き落とされることが決まっているように、これは運命なのかもしれない。友人の結婚式の時に、どんな顔をして会えばいいのか分からなかったから、受付だけを済ませてすぐ帰ったが、今回はそうもいかないようだった。僕は彼女から目を逸らしながら一番会いたくない人に会ってしまったと思った。
「……高校卒業以来ですね。お久しぶりです」
「そうだね」
 あまり会話は弾みそうになかった。彼女のスーツ姿は新鮮だったし、しっかりと化粧をしているのもあって、高校時代のもっさりとした印象はかなり薄らいでいた。あまりに久しぶりだったから、ちゃんと話せるかどうかという不安と、一方的に連絡を取らなくなった自分への嫌悪と、彼女に対する申し訳なさが、入り混じる。視線をどこに向けていいのか分からなくて彷徨わせていると、コートのポケットからイヤホンのコードがはみ出ているのに気が付いた。けれども、それを指摘する気にはなれなかった。
「裕太はこの近くに職場があるの?」
 駅へと向かいながら会話を続けていた。タクシーのテールランプに照らされて緑色のイルミネーションが赤く染まっている。
「うん。就職してからずっとここで働いてます」
「じゃあ、庭なんだね」
「庭って……」
 横断歩道の白線は所々掠れていた。赤茶色の路面にラメが散らばり、晴れた日の川の水面のように見える。僕は五年で庭になるなら、十年後には家にでもなっているのかと思った。そして、ここは人の出入りが頻繁なため、庭にしても家にしても居心地が悪いだろうと思った。
「……まあ、多少は詳しいぐらいですよ」
「それじゃあさ、ご飯でも食べに行く?」
「あー、いいですね。なにか食べたいものはありますか?」
 僕は彼女の気分に合わせることにした。自分がワンルームのアパートで一人っきり、丸まりながらご飯を食べている間に何を考えてしまうのか想像できてしまったことが一番大きな要因だった。彼女の意図が何処にあるのか探ろうとしても分かるわけがないし、今の僕は自炊できるほど心に余裕がない。そもそも一人でいるのが怖かった。
「このシーズンだと混んでるから、なるべく空いてるお店にしたいけど。うーん、あんまり派手じゃなくて、美味しいところとか知らないの?」
 組んだ腕と頬に手を当てて言葉を選ぶ癖が彼女にはあった。その仕草は失われていなかった。約九年越しの再会でも彼女はあまり変わっていないのかもしれない。もしかしたら、そう思う自分も変わっていないのかもしれない。
 横断歩道に差し掛かると、信号が赤く光っていた。止まれの合図。
「ラーメンぐらいしか思いつかないですね」
「え、いいじゃんラーメン。寒いし」
 彼女の背が瞬間的に伸びた。それまで寒さで猫背になっていたのだろう。
「じゃあ、それでもいいですか?」
「いいけど、なんで敬語なの?」
「いや、それは……」
 信号が青に変わり、僕は歩き出した。すると彼女がコートのポケットから手を出し僕の腕を掴んだ。
「ちょちょちょ、どこに行くの?」
 急に腕を掴まれたことに驚いて、振り返ると、彼女の足元にショートホープが落ちていた。
「あ、いや、すみません。五反田の方にあるんですよ」
 そう言いつつショートホープに視線を送っていると、彼女は不思議そうにそれを見て、拾った。僕は彼女が煙草を吸っているということに驚いたが、別に意外なことではないのかもしれない。僕たちはもう二十七歳なわけで、生きていればストレスが溜まってしまうのだから仕方ないだろう。彼女は僕の方を見て、バツの悪そうな顔をした。とはいえ、すぐに気を取り直したようで「煙草でも吸ってないとやってらんないよ」と言った。僕は曖昧に頷いた。そして掴まれたままの腕に対して、どのように対処すればいいか考えていたが、解決策は何もなかった。

  B

 外回りを終えた時には定時を少し過ぎていた。ちょっとだけ遅くなったけどこのまま直帰だ。別に気分は浮かれていない。誠と遊びに行くのは明日だし、彼はクリスマスイブである今日、私とは別の女の子と遊んでいるに違いないのだ。
 一週間ほど前、夕食を配膳している間に偶然LINEのトーク画面を見てしまっていた。すでに証拠は掴んでいるようなものだ。けど、誠のことだから私が家に着いた時には、イケアで買ったソファに座ってテレビを見ているのだろう。それを思うと怒りが湧きかけた。
 十五メートルぐらい先の信号は青だった。横断歩道を渡って早く家に帰りたかった。彼が知らない女を連れ込んでいたら、その女に説教してやろうと、さっき湧きかけた怒りの対象を無理やりすげ替えた。誠は優しくて言い寄って来る女を邪険にできないから、私が代わりにしっかりと言ってあげようと無理に意気込んで、歩く速度を上げた。
 私が急いでいるとふらふらしているサラリーマンが前を歩いていた。猫背で覇気が全く感じられないから疲れた中年に見えた。その男は急に振り返った。
「あれ? 裕太じゃん」
 驚いて話しかけてしまったことをすぐに後悔した。けど、裕太に久しぶりに会えたのがうれしいのも確かだった。私が高校生の頃に一番好きだった裕太、今では少し嫌いな裕太、けどやっぱり嫌いになれない裕太。一番会いたくない人に再会してしまったと思った。奇跡というのは悪い出来事にも使える言葉なのだろうか。
「高校卒業以来ですね。お久しぶりです」
 久しぶりに会った彼は少し他人行儀だった。彼なりにあの別れ方に罪悪感を抱いているのかもしれない。
「そうだね」
 それきり彼は黙ってしまった。なんとなく彼が一人でいるのが可哀想に思えた。あんなに大人のことをインチキだって言っていたのに、やっぱり就職していて、彼も平凡なのだと初めは思った。そう、あの頃は危険な年齢だったのだと。けど、スーツ姿の彼をまじまじと見てみれば、どこか現実に馴染めていない気がした。それどころか、大人になる過程で捨てるはずの世の中への不満や純粋なものへの憧れを今でも大事に抱えていて、自分の不器用さもそのままに大人になっている気がした。彼は今でも崖の近くを彷徨っているのだろうか。
「裕太はこの近くに職場があるの?」
「うん。就職してからずっとここで働いてます」
 冷静になって考えてみると、彼とはあまり接点がなくて、付き合っていたのがもの凄く遠い昔のように感じた。だから凄く安心した。
「じゃあ、庭なんだね」
「庭って……まあ、多少は詳しいぐらいですよ」
 彼は私の冗談を真面目に受け取った。昔から思っていたけど、裕太はもっと笑えばいいのに。というよりかは笑っていてほしい。
「それじゃあさ、ご飯でも食べに行く?」
「あー、いいですね。なにか食べたいものはありますか?」
 今度の冗談も真面目に受け取られてしまった。小腹が空いてるからいいけど。
「このシーズンだと混んでるから、なるべく空いてるお店にしたいけど、うーん、あんまり派手じゃなくて美味しいところとか知らないの?」
「ラーメンぐらいしか思いつかないですね」
 彼が足を止めたので、私も足を止める。
「え、いいじゃんラーメン。寒いし」
 裕太とラーメンを食べるのは久しぶりだ。彼は胃が強い方ではなかったし、昔と同じように、あっさりめのラーメンを食べるのだろう。もしニンニクが売りのラーメン屋だったら用事を思い出したと言って抜け出そう。匂いが残るのは嫌だし。
「じゃあ、それでもいいですか?」
「いいけど、なんで敬語なの?」
 本当は、「というか、なんで私と目が合わないの?」と言って困らせてやりたかったけど、手加減してあげた。
「いや、それは……」
 隣を歩きたくないぐらいに落ち着きがなくなった彼は、それを誤魔化すかのように横断歩道を早足で渡った。私も誤魔化しているから似た者同士なのかもしれない。あれ? ラーメン食べに行くんだよね。
「ちょちょちょ、どこに行くの?」
「あ、いえ、すみません。五反田の方にあるんですよ」
 てっきり近場だと思っていたけど、ラーメン屋ならどこにでもあるのを失念していた。五反田は遠いのか近いのか土地勘のない私には分からなかったけど、まあ、付いて行ってもいいかな。山手線で隣の駅なら多分近いはずだ。誠が女の子と遊んでいるなら、私がこうして昔付き合っていた人とご飯を食べに行くぐらい許されるだろう。
 彼が私の足元を見ていたので、つられて足元を見ると、煙草が落ちていた。しかも私のだ。別に彼に知られても気にならないけど、なんとなく「煙草でも吸ってないとやってらんないよ」と言い訳をした。

  A

 店内の音楽は露骨にクリスマスソングというわけではなかったが、シャンシャンと鈴の音がしていて絶妙にクリスマスを感じさせた。ここのラーメンは味が濃いけれど、ゆずが入っていてさっぱり感があるから好きだ。特製ラーメンの食券を買い、彼女を待っていると「先に座っておいて」と言われたので、奥のテーブル席に座った。もうどうしようもないが、本当にラーメンで良かったのだろうか、と不安になりかけていると彼女が僕の右前に座った。
 店内は暖かくて、少し眠くなってきた。それでさっきまで肩に力が入っていたのを自覚する。ここ最近、疲れがたまっていたのかもしれない。唐田さんは今、どうしているだろうか。きっと楽しく過ごしているのかな。それなら別に、それで僕は満足だ。
 店員が水を持ってきた。食券を渡して「中盛で」と頼むと彼女は目をぱちくりさせていた。そして「私は並盛で」と言った。
「並も中も同じ値段なんだね」
「そうなんだよね。だからいつも中盛りを頼むことにしてます」
「ここにはよく来るの?」
「月に二回も来ればいい方かもしれません」
「ふーん。意外と歩いたもんね」
 そこで会話が止まった。僕は何を話したらいいんだろう。最近起こったこと? 告白する前に振られたこと以外、目立ったことはなかった。じゃあ、お互いに何の仕事をしているか? 今の僕には楽しい話ができそうにない。
「最近、寒いですね」
 やっと出てきた言葉がそれで、僕は自分に失望した。一体どこで間違えたんだろう。いや、間違えてもいなかったし、正解もしていなかったのだ。そもそも、今は最初に謝るべきだった。
「うん、寒いね。最近はどうなの?」
 彼女の困惑した表情を見て、世界中どこを探しても、こんなに気が利かない会話は見つからないだろうと思った。なんて返したらいいのか分からずに、テーブルの木目が視界に入った。ちょうどその時、店内の音楽が切り替わって有名なバンドの曲が流れた。僕はスピーカーを見つめて何故今! と驚いた。顔が少しずつ熱くなっていくのを感じる。耳まで熱い。止めてほしい、この曲は高校の文化祭でコピーした曲だから止めてくれ、思い出させないでくれ!
「……えっと、特に何もないです。就職してから最初の一年は頑張って、それでだんだん慣れてきたので。これからもきっとそうなんだろうなあ。変化のない、平凡な日々が続いていくんだ」
「え、どうしたの? ドラマみたいなこと言うね」
 彼女は笑っていた。僕があんまりにもネガティブだからだろうか?
「あっ、ごめんなさい、全然なんでもないです」
「あんまり変わってないよね」
 自分が変わったことを証明しようと楽しく会話できそうな話題を探したが、一向に見つからなかった。ラーメンが運ばれてきて救われたと思った。僕は急いで食べ始めた。そうすれば会話しなくても不自然ではないからだ。あまり良い方法ではないと分かっている。それでもそうせずにはいられなかった。
 食べ終わってから僕は店内を見回して、後悔した。別に急いで食べなくても食事中には喋りたくない人間を装えば良かったと思った。
 食べている最中に話しかけるのは躊躇われたが、元々、彼女とは気を遣い合わなくても良かったじゃないか、と思い当たった。お腹が満たされて気が大きくなっているのかもしれない。
「そっちはどう? 最近なんかあった?」
 僕がそう聞くと、彼女は少し迷う素ぶりを見せてから口を開いた。
「彼氏が浮気しててさ。別に他意はないけど、男って本当に最低だなって思っちゃうんだよね。まあ、それを本人に言えない私も駄目なんだけど。というか、この話を聞いてほしかったみたいなところはあるんだよね。裕太も一人だし、ちょうどいいかなって。裕太もそういうところあるんでしょ、敬語だって取れてるし」
 確かにその通りだが、別に愚痴を言い合いたいわけではなかった。彼女は彼氏をけなすために男という単語を使ったわけで、というよりは彼氏と限定して否定したくないのかもしれない。それは僕には分からない。だが、おそらく僕も彼女も同じように悲しみを抱いているのだと思う。それは星座が同じだとか血液型が同じだとか誕生日が同じだとか、そういった運命なんて便利なものでぼんやりとさせることのできない共通点だ。
「元々そういう関係じゃなかったし」
 彼女が麺を啜ってから「今もそうでしょ」と言うのを聞いて、何かを確かめ合ったという感触が湧き出た。
「それでさ、彼って以前からそういう節があって、まあ、女の友達がたくさんいるんだよね。それって謎じゃない? 都市伝説レベルだよ。……たまに思っちゃうよ、なんでこんな男を好きになってしまったんだろうって。もう二十七歳なんだから不安にさせないでほしいよ。正月に実家に帰りたくないなあ。……そういえば、一応聞くけど、裕太って付き合ってる人いるの?」
「……いない」
 また顔が熱くなっている。恥ずかしかった。そして恥ずかしいと思えば思うほど顔が熱くなっていく。
「あははっ。何その顔」
 変な顔をしてしまったのかもしれない。けど、そうやって笑ってくれるのは悪くなかった。
「そういえば、桜井はどうして大崎にいたの?」
 無理やり話題を変えた。もうすぐラーメンを食べ終わりそうな彼女が僕を見ているのを感じる。今は味わえないが、高校生の頃だったら、蛇に睨まれた蛙のように緊張していたのだろうなと思った。二十七歳にもなると、むしろそれが居心地の良さに繋がるのかもしれない。
「ん、……営業で来たの」
「そっか、イブなのに大変だね」
 それ以上何も言えなかった。やっぱり、と僕は思った。やっぱり九年前も今も変わらなかった。九年経っても、環境が変わっても、会話が上手になるわけでもないし、気の効いたことが言えるわけでもなかったのだ。そうしたことができるなら、こうしてラーメンなんて食べていない。グラスを手に取ったが、空だった。もう水に流せないし、飲み込めるわけもないのを理解した。

  B

「ごちそうさまでした」
 本当にごちそうだったかは疑問に思うけど、死ぬほどつまらない映画でもエンドロールが終わるまで見てしまうように、そう言わなければ食事が終わった気がしない。そもそもクリスマスイブにラーメンを選ぶ感性を疑う。神社で参拝を終えた後に、何を願ったの? と訊くのと同じくらい野暮ったい。
 裕太は私が食べ終わったのを確認すると「ちょっと煙草吸わない?」と私の手を見つめながら声を掛けてきた。
 ラーメンを食べると煙草を吸いたくなるから、頷いて外に出た。年末年始が近くなると温度のない光が街を埋め尽くし始めて、クリスマスにはその雰囲気に浮かれた人たちが蟻みたいに愛の巣から出てくる。私もそのうちの一人になるわけだけど。
 時間差で色が変わるイルミネーションを開発した人は称えられるべきなのかもしれない。子供の歓喜の叫びを聞いてそう思った。朝に見た天気予報によれば、今日は冬型の気圧配置が強まっているらしい。大寒波を耐えしのぐためにも裕太に身体を寄せたかったけど、彼は私の彼氏ではないので、それはそれで残酷なのかもしれないと思った。それでも、残酷になるのも悪くないのかもと頭をよぎったりもする。
「ねえ、明日も仕事?」
「うん」
「そしたらさ、また会わない?」
 それは嘘だった。明日は誠と過ごすから。
「……分からない」
「分からないって何? イエスかノーしかないじゃん」と言いながらも心のどこかで良かったと思っている自分がいた。
「確かにそうなんだけど、どうしても分からないんだ。桜井さんには僕の考えていることが分からないから、そう言えるんだよきっと。別にそれが悪いって言っているわけじゃなくて」
「いや、どうやっても、そういう風に聞こえるよ」
 誠だったら、そんな当たり前のことを盾にすることはないのに。裕太と付き合っていた頃の私は、この無駄に優しくあろうとする姿に魅力を感じていたのかもしれない。けど、それは昔の自分が今とは違っていたからだろう。きっと時は色々と流してしまうんだなあ。
「私の彼氏だったら、こんな時は……」言葉に詰まった。誠だったら、なんて言うんだろう。イエスって言ってしまうのだろうか。「ごめん。やっぱりなんでもない」
「全然大丈夫です。なんか違う話しない?」
「そうだね。……あっ、そうだ。裕太は林平くんの結婚式に来てた?」
 困らせてしまったことを反省して、慌ててもっと明るい話を振った。
「えっと、うん、行ったよ。桜井は行った?」
「当たり前でしょ。林平くんがなんか違う人になっちゃったみたいでビックリしたよね。ステンドグラス越しの光を受けた二人と牧師がいて、そこだけスポットライトが当たっているみたいだったなあ。あと、二人がどんな人生を歩んできたかの映像が流れて本当に結婚式だ! って妙に興奮したのも覚えてる。んんっ? その時に会わなかったの不思議だね」
「……うん」
 それきり会話は止まってしまって、昔みたいにもっと話せたらいいのになあと思った。林平くんの結婚式で裕太が笑っている写真を何枚か見つけた時は、彼はお喋りなのに会話が下手なのを思い出して懐かしい気持ちになった。年を重ねるごとに彼は段々暗くなっていって、最終的には連絡がつかなくなった。付き合っていた頃は会話が上手く続かなくても意思疎通をしようと何回も話しかけてくれた。そうしたことが全部懐かしく思えた。今の裕太はあまり会話をしようとしない。それでも今も苦しそうだから、やっぱり昔みたいな関係に戻れたらいいのにと思ってしまう。……なんで今更、あの頃に戻りたいなんて思えるかなあ。
 喫煙所が見えてくると、彼が「あっ」とスタッカートの効いた声を上げた。不審に思い彼の顏を覗き込むと、キツく目を瞑っていて、顔がしわくちゃだった。そして赤かった。変な顔だ。赤ちゃんみたいだと思った。
「ごめん、やっぱり大崎まで歩かない?」
 両親がネグレクトで死んでしまった赤ちゃんのニュースが頭をよぎった。うちのお母さんも言っていたけど、赤ちゃんは一人では生きていけないから周りの人がちゃんと面倒見ないといけないよなあと感じたのを思い出した。
「いいけど、なんで」顔が赤いの?
「その、別に理由はないです」
 彼が目黒川沿いを歩き出したのを後ろから追う。喫煙所から大きな笑い声が聞こえてきた。たぶん、裕太の知り合いが煙草を吸っていたのかもしれない。いや、それだけじゃないと思う。けどやっぱり、彼はまだ現実と折り合いがついていないんだろうか。その点では子供みたいだけど、彼の歩く姿はむしろ老人のように見える。いや、古い価値観だと現実には対応できないだろうし、むしろ、あの皺だらけの顔は老人そのものだったのかもしれない。
 目黒川沿いにはただ光っているだけの、気持ちを盛り上げない情けないイルミネーションがあった。それは歯のない木が上手く喋れないのを隠すために巻きつけられているように感じた。
「ねえ、どうしてこの道を選んだの?」
 しばらく歩いてからそう尋ねると、彼は急に立ち止まって「ちょっと待って」と言った。「いや、イルミネーションが見たかったんだ。ただそれだけ。本当だよ」
 私は彼に身を寄せた。彼はビクッと身体を震わせた。彼は嘘をつくことが苦手だから、私はその言葉を本心でないと分かっていながら、額面通り受け取ることにした。クリスマス色のマフラーを二人で巻いているカップルが前を歩いていた。けど、彼が立ち止まったからどんどん離れていった。裕太は前のカップルのことを穴が開くほど見つめていて、私の方には顔を向けなかった。誠だったら、話をする時には目を見てくれるし、腕を組んでいても顔は私の方に向けてくれるから、ちゃんと私を見れない裕太の態度が新鮮だった。晴れた日の昼下がりに洗濯物が揺れているのを見ている気分、それかお酒を飲んだ後みたいに、なんとなく幸せだった。

  A

 喫煙所に着いてから、唐田さんの後ろ姿を今までしっかりと見たことがないのに気が付いた。気付くのが遅すぎた。どこかに遊びに行っても別れる時には僕が送られてばっかりだった。ポケットからライターを取りだして火を点ける。僕は自分が嫌になってきて煙草を強く吸い込んだ。胸に違和感があったし喉は痛んだけれど、それで良かった。これまでしてこなかったが、それをしようとするのは間違いではないし、今ならそうするのが正しいことなのだと僕は思うようにした。

  B

 ショートホープに火を点けようとしたけど、ライターのガスが切れていた。裕太は気が狂ったように煙草を吸っていた。ちょっと引いた。
「ねえ、ちょっと」
 彼は振り返らなかった。「ねえ、裕太!」
 彼が振り返った。眼が合った。裕太はまじまじと私の目を見つめた。まるで私の顔を初めて見るみたいに。それか私の顔を忘れてしまって、それを思い出そうとしているみたいに。諦めと決意の混じった眼だった。
「ちょっとライター貸してよ」
 手が触れた。冷たかった。彼の耳が赤くなっていた。赤いハンチングでも買えばいいのにと思った。多分、私の耳も赤くなっているだろうけど。
 煙草に火を点けてライターを返すと、裕太は寂しそうに笑った。つられて私も笑った。確かめ合ったという気がした。
「ねえ、やっと私のことをちゃんと見たね」
「うん」
「耳、赤いよ」
「いや、有希子も耳が赤いよ」
 鼻を赤くした中年がおぼつかない足取りで私たちの間を横切った。耳も真っ赤だった。他の喫煙者も耳が赤かった。ただそれだけだった。

  A

 落下速度の遅い雪が降り始めて、煙草を灰皿に落とした。辺りにはイルミネーションに照らされた紫の煙が漂っていた。腕時計を見やると八時を指していた。あまり遅くなると同僚たちに会いそうだし、明日も仕事があるから帰ろう。
「ねえ、連絡先交換しない?」
「あ、そうだね。そういえば、まだ実家に住んでるの?」
「ううん、高円寺。同棲してるの」
「そうなんだ。……もしよければ、ケーキでも買っていかない? まだやっているはずだから」
 甘いものは好きではなかったが、今日は食べたかった。駅の改札前で連絡先を交換してからゲートシティにあるケーキ屋に向かった。連絡先については断るべきだったかもしれないが、やっぱり交換したかった。別に過去にこだわっているわけではなくて、単に忘れたくない記憶がありすぎるだけだ。
 吹き抜けに面しているケーキ屋さんでは、ちらほらとカップルの姿が見えた。僕はいちごのタルトを一つ買った。タルトってこんなに高いのかと驚いたが、むしろそれが特別感を生んでいた。これで家に帰る理由が見つかったと安心した。彼女も同じものを三つ買っていた。その様子を眺めているともう会わない気がした。うんざりしていた日々も今はなんだか愛おしかった。
「さよなら」と有希子が言った。
「今度呑もうね」と僕は嘘を言った。
 改札を抜けて有希子は僕と違う方へ歩き出した。僕は彼女のいない電車に乗った。高校生の頃、有希子と一緒に帰っていると、何を話したかは覚えていないが、ただ楽しかったという思い出を見つけて、あたたかい気持ちになった。乗換駅に着いて降りた。いつもの人身事故があった。塾帰りの学生が迷惑そうな顔をしていた。電車はなかなかやってこなかったので、懐かしい気分のまま、高校生の時に良く飲んでいたジンジャーエールを買った。サラリーマンは片足でリズムを取っていた。ジンジャーエールってこんな味だったっけな? あんまり辛くない。
 一口だけ飲んだジンジャーエールを片手に駅のホームでぼんやりと考えていた。唐田さんは明日出社するのかな、唐田さんと会った時には上手く話せるかな、まあ、いいか。でも凄く辛くなるんだろうな、と。



Praylist
tofubeats「LONELY NIGHTS」
the pillows「Ladybird girl」
オカダダ+嫁入りランド「W.A.K.A.R.E.H.E.N feat. kaZya」
BUMP OF CHICKEN「星のアルペジオ
tofubeats「way to yamate」
ZAZEN BOYS「自問自答」
tofubeats「夢の中までfeat.ERA」
ASIAN KUNG-FU GENERATIONソラニン
フジファブリック若者のすべて
チャットモンチー「橙」
The Jimi Hendrix Experience「Purple Haze」
シャルロ「ハロー、グッバイ」
andymori「16」
くるり「ばらの花」
くるり「東京」

ちょっとした言葉遊び(五千文字)


宇多田ヒカル 『初恋』(Short Version)

 

 《恋知らず》が生えてきた。少し違和感がある。英語の授業中になんとなく口の中を舌でチロチロしていたら、左の上の歯茎にはない歯が、右上にはあった。授業が終わり、友香に話してみると、早く病院に行ったほうがいい、とこれまた当たり障りのないことを言われて、いや向かうべきは歯医者でしょ、と内心では思っていが曖昧に「だよねー」と返しておいた。だけど、歯医者にはあまり良いイメージが持てないし、歯医者は嫌なのだ。激しい痛みがあるわけでもないので、どうしても行く気にならない。もし激しい痛みがあったのならば私としても、耐え切れずに病院に駆け込むだろう。けど、そう急いで抜くものではないのではないかと思う。いま抱いている違和感も季節が二回りほどすれば慣れるだろうし。

帰宅し夕食を終えたところで、お母さんに「恋知らず」が生えてきたと報告すると、鳩が豆鉄砲を食ったように驚愕の表情で固まった後、私の両頬を掌で覆った。

「お母さんに見せてごらんなさい」

 いくらなんでも真剣になりすぎだと思ったが、言われたとおりに口を開ける。スマホのライトを使って《恋知らず》の存在を認めた母は、保健室に居る阿部先生みたいに力の入った、しかし怒号ではない声で、叫んだ。

「早く治療してもらわないといけない!」

「え~別によくなーい。痛みとかはないんだし」と私は柔らかく反発したが、「あのね、お母さんも恋知らずが生えて来たことがあったけど、今じゃ抜いてよかったなぁって思ってるのよ」

 それはお母さんのことでしょ、という言葉は飲み込んだ。しかし母の反応を見て、これは重大な事件なのかもしれないと思ったのも確かだった。けれど、おばあちゃんは「私たちの頃には恋知らずなんてなかったから、あんまり分からないけど、夫婦っているのはずっと恋していなきゃいけないわけじゃないと思うよ」とのこと。途中から話がずれてきていたけど、それを指摘したとしても、また同じ話をされるだろうから一応、全部聞いておいた。そうして、まぁ今すぐ決めなくてもいいだろうと思った。

 

 翌日目が覚めると痛みが引いていて、やっぱり焦る必要も、抜歯する必要もないのだと確認した。洗面所から聞こえる、父が電動シェーバーで髭を剃る音を不快に思いながらベーコンエッグを食べた後、制服に着替えて家を出た。

 野本君が歩いているのが見えた。彼が音楽の時間に頬に音符を付けていたことを思い出して笑ってしまった。配られたプリントが、印刷されたばかりだったのだ。机の上に頬を乗せて窓の外を見ている彼は少しバカっぽい印象があったし、まぁバカなんだけど、それを指摘した時の赤面が可愛くもあった。まぁバスケ部の朝練は結構厳しいので、そういったところで疲れがあるのだろうと思う。野本君を視界に入れた時から歯の痛みがあったけど、友香が話しかけてきたら、すぐ収まった。一体何なんだろうと疑ったが、考えても何にもならないだろう。

 教室に着き、ドフトなんちゃらとかいう小説家は歯の痛みについて、なんかの作品でくどくどと描写していたらしいと、隣の席のパムルくんに教えてもらってから、歯の痛みについて少し考えてみた。要するに歯の痛みというのは、きっとこの世で最も危険な痛みだと思う。骨折とかはその時は痛いけど、病院でギプスとかで固定してもらえば、あまり痛みを感じることはないだろうし、私も靭帯を何本か切った時も固定してもらって松葉杖を使えば痛みを感じなくなった体験をしたし。けど、歯の痛みは固定したりとか、松葉杖とか道具を使ったりとか、動かさないように気を遣ったら痛みを感じないとかそんな次元ではないのだと思う。

歯医者に向かって、治療したとしても、抜歯後には、それまでの痛みがやってくるだろうし、そもそも歯の痛みは人間を痛みの中に引きずり込みそう。痛み以外考えられない! みたいな?」とパムルくんに言ったら、「ポールオースターのムーンパレスでもそういうの言っていた気がする」と全く興味が湧かない返答を寄越してきたので「本にしか興味ないんだね」と嫌味を言っておいた。

「パムルくんは《恋知らず》が生えてきたことある?」

「僕はそういった経験はないね。無垢だから」

「無垢は自分のこと無垢とは言わないでしょ」

 パムルくんは軽薄な笑みを浮かべて、黙って教室から出て行った。隣のクラスに居るホンケンのところに行ったのだろう。まぁそれはどうでもいいこと。意外と《恋知らず》が生えてくる人は少ないのかもしれない、ということが大切だ。いや、生えたとしても大抵みんな抜いているのかもしれない。痛いなら抜くだろうし、抜いた後の数日はものすごく痛いが、しばらく経てば《恋知らず》が生えてきたことも懐かしい思い出になっているのかもしれない。駄目だ、自分がどうしたいのか分からなくなってきた。

 

 足が速い男子を好きになる子は小学生で終わり、中学生になればヤンキーはヤンキーと付き合うし、カーストの高い人は同じような人と付き合いがちだ。きっと自分と同質的な人間のことを好きになるという法則的な何かが働いているのかもしれないが、何事にも例外があるように野本君はほとんどの女子からモテた。イケメンで毒っけがなくて、バカだったので誰しもが彼のことを好ましく思っていた。クラスのマドンナよろしく、いやクラスのジャスティンビーバー? それはちょっと違うか。まぁ上級生にも告白されていたといううわさも聞いたし、かなりモテていたのは確かだった。けど、彼の通学用鞄には、誰の名札も付いていなかったから、現在誰かと付き合っているということではなかった。この地区の学校には何故かわからないが、付き合っている人の名札を自分の鞄に留めておくという暗黙の了解があるのだ。

 そういった色恋沙汰について、私自身も参加したかったが相手が野本君であるなら負け戦であることは火を見るよりも明らかだ。しかし、野本君のことは気にはなっていたのも確かだった。

 家庭科の時間は決まって野本君は触れ合える動物、つまり兎のように女子に囲まれていて、同じ班でいながらも輪から外れいる私は、ははぁこれはとんでもないことだなぁと思うのだけれど、やはり私もそこに居たかった。先生から注意を受けて散らばっていくけど、何分後にはまた誰かしら野本君を狙うジャガーがやってくる。したたかな獣たち。

「毎回ごめんね。いつも手伝えなくて」

「えっ、全然いいよ。気にしないで」

 今日は煮物を作る授業だったのでニンジンを乱切りにしながら、そう言った。歯が痛い。

「どうしたの?」

 痛みが顔に出ていたのか野本君は心配してくれた。

「いや、なんでもないよ」

 ズキズキとした痛みがどんどん増していくと同時に、右上の一番奥の歯に意識が引っ張られていく。

「本当に大丈夫?」

「斎藤~進んでる? ウチら全然分からないから、教えてくれない?」

 土屋さんの猫なで声が聞こえた。「ごめん、今ちょっと立て込んでるからまた今度にしてくれない?」と野本君は断ったけど、土屋さんは「どうしたの?」と食い下がった。

「多和田さんがなんか辛そうで」

「えー大変! 大丈夫?」

私は、土屋さんのようになれないとハッキリと解った。そして朝っぱらから選挙カーがバカ騒ぎしているかのように不快だった。実際のところ、私のことを心配するような人間じゃないし、土屋さんとは仲が良くないのだ。

「痛ッ……」

 驚くことに、土屋さんを不快だと思った瞬間に歯の痛みは消え去っていて、その波のように寄せては引いていくような痛みに若干の阿保らしさを感じたら、自分の指を切ってしまっていた。これは不幸なのだろうか、と自分に問いかけてみたが、もしかしたら野本君が保健室まで連れて行ってくれるかもしれないと希望的観測が湧き出た。また痛みも。

「ちょ! 絆創膏もらってくるね」と野本君が先生に報告しに行き、私は土屋さんの冷ややかな目に晒されながら、自分の指から流れる赤い血を眺めていた。血は下に向かい掌の中で溜まっていった。血痕は国で言ったらチリみたいな形をしていた。

「あんた、本当にずるい」

 土屋さんは舌打ちをして自分たちの班に帰って行った。野本君が戻ってきて「保健室に行って絆創膏をもらってきてだってさ」と言いながら自分のジャージのポケットから黒いハンカチを取り出し、私の指をそれで包みこんだ。

「とりあえず、これ使って」

「あ、ありがと」

 

 保健室に行く間、指の痛みよりも歯の痛みが強かった。野本君がトイレを出るたびに使っているハンカチ、誰もいない廊下で思いっきり匂いを嗅いだ。本当は匂いを嗅ぎたかったのではなく、彼の使っているモノを通じて私たちが繋がっているという実感を得たかったのかもしれない。〝私の血が混じった彼のハンカチ〟そう思うと象徴じみてきた。

 この時に、私は激しい痛みはある種の快楽をもたらすのだと分かった。もこもことした柔らかい肌触りのハンカチーフを防災訓練の時のように口に強く押し付けながら、他の教室から漏れる教師の声を聞き、水色の廊下を進んでいると、さながら空を歩いているような気分になった。ハンカチを通して呼吸する度に、歯の痛みは増し、それが罰のように感じられ、くつくつとした笑みが止まらなかった。 彼がトイレから出て必ず使うハンカチーフを私は手にしている。ひたひたと鳴る自分の足音が幽霊のものではないかとも疑ったが、授業中なのに廊下を歩いている時点で幽霊のようなものなのだろうと一人で納得した。絶えず襲い掛かる痛みをもっと感じていたかった。

「すいませーん」

「あっ、どうしたの?」

 先生が奥から出てきた。

「ちょっと絆創膏が欲しくて……」

「包丁で指切ったの?」

「あ、そうです」

「やっぱり? エプロンつけてるもんねぇ。洗った?」

「あ、まだです」

「それはいけない!」

 阿部先生が消毒液とガーゼを持って来て、治療してくれた。歯の痛みは弱くなっていたが、まだ違和感はあった。

「先生、やっぱり《恋知らず》ってぬいたほうがいいのかな」

「えっと……恋知らずっていうのはね、好きな人がいるとすごく痛いの。だから出来るだけ早く抜いて恋を自覚しないといけいのよっていうのが常識よね。だから多和田さんもはいしゃに行った方が良いわ。だけど、《恋知らず》を抜かずにいたら、もっと違うことに興味が持てるというのも本当よ。それは、個人の生活設計次第ではあるから、あなたがどうしたいかをちゃんと考えることね」

「たまに凄く痛いんだよね」

「そう、なら抜いたほうが良いわよ。痛みに慣れすぎるのはあまりいいことじゃないから」

「先生は抜いたの?」

「私は抜いたわ。いつだったかはよく覚えていないけど、あなたと同じぐらいの年齢の時からしら……はい! 終わり。次からは手を切らないようにね」

 先生の指輪は輝いていた。

 

 痛む歯を誤魔化しながら給食を食べ終え、友香と図書室に向かっていると、野本君の下駄箱に手紙を入れている女子を見つけた。川上さんだった。その時落雷に見舞われたような強い衝撃と鋭い痛みが駆け抜けた。川上さんはエラが張っているのを髪の毛で隠してはいたのものの男子たちからは人気があり、付き合うことがステータスのように受け止められているほどに人気のある可愛い女の子だ。その女の子が野本君のことを好きになり、かつ告白しようとしていることは、私に自己嫌悪をもたらした。もし私が野本君の隣を歩くよりも、川上さんが隣を歩いたほうが絵になるのではないか、と。そして私も抜歯をした方が良いのかもしれないと不意に思ってしまったのだ。川上さんも《恋知らず》に苦しんでいたのだろうか。

「多和田? どったん?」

「ちょっと、いや、なんでもない」

「そう? ならいいけど」

 午後の授業から下校までの間に歯の痛みが増してきた。家に着き、お母さんに言うべきか迷った挙句、痛みを忘れようとしたが、何をしていても痛みは忘れることができなかった。痛みは常に私をむしばんだ。ただ、それほどまでに私は野本君を好きであることが分かって、幸福であるような気分でもあったのだ。うるさいほどの歯の痛みが、これが本当の恋であることを知らせた。

 私は歯を抜くべきだと思った。しかし、

敗者は嫌だ!」

 

 

 

 

2人でもLONELY NIGHTS(仮)(第1稿)


田我流 - やべ~勢いですげー盛り上がる feat. stillichimiya @ 〜東日本大震災チャリティライブ〜


映画『ソラニン』予告編


tofubeats - LONELY NIGHTS
くるり - 東京

 

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 

 

 

 

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

服従 (河出文庫 ウ 6-3)

 

 

↑書くにあたって参照したやつ。ロンリーナイツがきっかけ。

誤字脱字あるけど許してちょんまげ。

 

 

 上には上がいるように、きっと好きな人には好きな人がいるのだと持った。唐田さんとは何度もご飯を食べに行ったり、映画に行ったり、ライブにも行ったり、それなりの時間を共有してきたつもりだったけど、彼女にはクリスマスの予定があったのだ。

 その時の事を思い出すたびに息が詰まって無意識に変な顔をしてしまう。唐田さんと昼食をしていた時に、それとなくクリスマスイブの予定を聞いてみたところ、伏目で何かを想像しているような顔をしながら「あるよ」と言われたので察した。そして僕は自分の顔を見られなくてよかったと安堵していた。顔が熱くて周りの人に見られたらいやだなぁと思って俯いてしまったけど、耳は真っ赤だったと思う。これほど惨めな男はいないなと自虐する事で現実を受け入れようとして、実際にそれは上手くいった。虚しい限りだが。

 同僚の雄介に「唐田さん、クリスマスイブの予定あるんだって」と報告すると「まぁどんまいだ」と言ってくれたが、彼もクリスマスイブの予定がある事を僕は知っていた。つまるところ僕はクリスマスの楽しみがないという事だった。余計に寂しかった。

 

 タイムカードを押してからビルを出た。対面にあるビルはまだ明かりが点いていて少し羨ましかった。きっと彼らは富士通のデスクトップパソコンと格闘し目頭をつねりながら苛立っているだろう。今日は社内で定期的に行われるノー残業デーだったのでお一人様飲み会なる催しに誘われたが、僕はどうしてもそういった気分にはなれず、一人で帰路につくことにしていた。しばらく出口でぼんやりしていると、楽しそうな笑い声が聞こえたので、そそくさと駅へと向かった。

大崎駅まで歩いているとなんとなく消えてしまいたいと思った。フットサルコートでは赤と緑のスポーツウェアでサッカーをしている男女がいて、その笑い声は幸せであることを大きな声で主張しているように思われた。唐田さんのマフラーもクリスマス色だったのを思い返した。街路樹に巻かれたイルミネーションは確かに綺麗だったが、その綺麗さが僕の虚しさを加速させている。コートのポケットに突っ込んだ手は、おそらく冬の間外に出ることはないだろう。白い息は、ため息によって生まれて、すぐ消える事はない。フットサルコートの上らへん、つまり僕から見て左側に液晶モニターがあって、そこからtofubeatsのLONELY NIGHTSが聴こえてきた。今日は一人で炬燵に入りながら、酒を飲んで、小説でも読もうと思った。きっとそれが自分にはお似合いだ。

やってられないと思い、折角二か月も禁煙できていたのに煙草を吸った。それもイルミネーションの中にある喫煙所で。きっと僕は愛の希求の行為をしていたのだと思う。腕を組んだり、手を繋いだりしている男女が嫌に目に入ってきた。そしてみんな笑顔だった。僕は下を向いて生きた方が良いのかもしれないと思った。灰皿に煙草を落とし歩きはじめるとすこしクラクラしたが、それが良かった。なるべく意識がそっちに向かわないほうに誘導できそうな気がした。後ろからカッカッと音がした、かなりテンポが速く、振り返ってどんな靴を履いているのか確かめようと思った。しかし本当は靴の種類なんてのはどうでもよかった。ただ何かに意識を向けていないと、ついクリスマスイブについて考えてしまうからだ。

「あれ、裕太じゃん?」

聞き覚えのある懐かしい声が聞こえて、顔をあげた。彼女は何故が苦虫を潰したような顔をしていた。きっと僕に声を掛けた事を後悔しているのだろう。知らないふりをすることはもう出来そうもなかった。僕は彼女から目を逸らしながら一番会いたくない人に会ってしまったと思った。

「高校卒業以来ですか? お久しぶりです」

「そうだね」

 あまり会話は弾みそうもなかった。彼女のスーツ姿は新鮮だったし、しっかりと化粧をしていたから高校時代のもっさりした印象がかなり薄らいでいた。あまりに久しぶりだったのと申し訳なさが入り混じって、僕は視線をどこに向ければいいのか迷いながら彷徨わせていたらコートのポケットからイヤホンのコードがはみ出ているのに気が付いた。けれど、それを指摘する気にもならなかった。

「裕太はこの近くに職場があるの?」

 自然と駅へと向かいながら会話を続けていた。車のテールランプに照らされて緑色のイルミネーションがしばらく赤く染まった。

「うん。就職してからずっとここで働いています」

「じゃあ、庭なんだね」

 横断歩道の白線は所々掠れていた。赤茶色の路面にラメが散らばっていて晴れた日の川の水面みたいだった。僕は五年で庭になるなら、十年後には家にでもなっているのかと思ったが、ここは人の出入りが多いのであまり落ち着けなさそうで、改めてこの地に愛着も何も持っていないことに気付かされた。

「庭って……まぁ多少は詳しいぐらいですよ」

「それじゃあさ、ご飯でも食べに行く?」

「あー、いいですね。……なんか食べたいモノとかありますか?」

 僕は彼女のノリに合わせることにした。彼女の意図は何処にあるのか探ろうとしても無駄だと思ったし、それだけではなく、自分がワンルームのアパートで一人っきり、丸まりながらご飯を食べている時に何を考えてしまうのかが想像できてしまったことが、一番大きな要因だ。今の僕に自炊するほどの余裕もないし、そもそも一人でいるのが怖かった。

「このシーズンだと色んなお店が混んでるから、空いてるお店がいいけど、うーん、あまり派手じゃなくて美味しいお店とか知らないの?」

 組んだ腕と頬に手を当てて言葉を選ぶ癖が彼女にはあった。その仕草は失われていなかった。約九年越しに再会しても彼女はあまり変わっていないのかもしれない。あるいは僕が変わっていないだけかもしれない。

 横断歩道に差し掛かり、信号が赤く光っていた。トマレの合図 。

「ラーメンぐらいしか思いつかないや」

「え、いいじゃんラーメン。寒いし」

 彼女の背が瞬間的に伸びた。それまで寒さで猫背になっていたのだろう。

「じゃあ、それでもいいですか?」

「てか、なんで敬語なの?」

「いや、それは……」

 信号が青に変わり、歩き出した。彼女はコートのポケットから手を出し僕の腕を掴んだ。

「ちょちょちょ。ここ渡ったら駅に入っちゃうじゃん」

「あ、いや、すいません。五反田の方にあるんですよ」

 ショートホープが落ちていた 。僕がそれに視線を送っていると、彼女は不思議そうにそれを見て、拾った。僕は彼女がタバコを吸っているのに驚いてしまったが、別に不思議なことはないのかもしれない。僕たちはもう二七歳なのだから、生きていればストレスが溜まってしまうのだから、仕方がないだろう。彼女は僕のほうを見てバツの悪そうな顔をした。が、すぐに気を取り直したようで「タバコ吸ってないとやってらんないよ」と言った。僕は曖昧にうなずいた。握られたままの腕に対してどのように対処すればいいのか考えていたが、解決策は何もなかった。

 

 #

 

 外回りを終えたころには定時を過ぎていた。このまま直帰だ。別に気分は浮かれていない。誠に合うのは明日だし、彼はクリスマスイブである今日、私とは別の女の子と遊んでいるに違いないのだ。友達と遊ぶなんて言っていたが、私は彼のiPhoneを見てLINEのトーク履歴に女の子と遊ぶ約束をしているのを見てしまっていたのだから、すでに証拠は掴んでいた。 

 十五メートルぐらい先の信号は青だった。横断歩道を渡って早く家に帰りたかった。彼が知らない女を連れ込んでいたらトッチメテやろうと意気込んでいた。誠は優しくて言い寄って来る女を邪険にできないから、私が代わりにしっかりと言ってあげようと妄想しながら歩く速度を上げた。 

 私が急いでいるとふらふらしているサラリーマンが前方にいた。猫背で覇気が全く感じられないから四十歳ぐらいに見えた。その男は急に振り返った。

「あれ? 裕太じゃん」

 驚いて話しかけてしまったことを後悔した。けど、裕太に久しぶりに会えたのがうれしかったのも確かだった。私が高校生の頃に一番好きだった裕太、今では少し嫌いな裕太、けどやっぱり嫌いになれない裕太。会いたくない人と再会してしまったと思った。奇跡というのは悪い出来事にも使える言葉なのか考えてしまった。 

「……高校卒業以来ですか? お久しぶりです」

 久しぶりに会った彼は少し他人行儀だった。彼なりにあの別れ方に罪悪感を抱いているのかもしれないな。

「そうだね」

 それきり彼は黙ってしまった。なんとなく彼が一人なのが凄く可哀想に思えた。あんなに大人の事をインチキだって言っていたのに、やっぱり就職していて彼も平凡なのだと思った。 いや、あの頃は危険な年齢だったのだ。

「裕太はこの近くに職場があるの?」

「うん。就職してからずっとここで働いています」

 こうしてみると、彼とはあまり接点がなくて、付き合っていたのがもの凄い昔のように感じた。そして凄く安心した 。

「じゃあ、庭なんだね」

「庭って……まぁ多少は詳しいぐらいですよ」

 彼は私の冗談を真面目に受け取った。昔から思っていたけど裕太はもっと笑えばいいのに。というよりかは笑っていてほしい。

「それじゃさ、ご飯でも行く?」

「あー、いいですね。……なんか食べたいモノとかありますか?」

 今度の冗談も真面目に受け取られてしまった。小腹が空いてるからいいけど。

「このシーズンだと色んなお店が混んじゃっているから、空いているお店がいいけど、う~ん、あまり派手じゃなくて美味しいお店知らない?」

「ラーメンぐらいしか思いつかないですね」

 彼がピタッと足を止めたので、私も足を止める。

「え、いいじゃんラーメン。寒いし」

 ラーメンを食べるのは大学生以来だ。彼は胃が強い方ではなかったし、あっさりめのラーメンだろう。もしニンニクが売りのラーメン屋だったら用事を思い出したと言って抜け出そう。匂いが残るのは嫌だし。

「じゃあ、それでいいですか?」

「てか、なんで敬語なの?」

 本当は、「てかなんで私と一度も目が合わないの?」と言って困らせたかったけれど、手加減してあげた。

「いや、それは……」

 隣を歩きたくないぐらいに落ち着きがなくなった彼は、それを誤魔化すように信号を渡った。私も誤魔化 しているから似た者同士なのかもしれない。あれ? ラーメン食べに行くんだよね。

「ちょちょちょ。ここ渡ったら駅に入っちゃうじゃん」

「あ、いえ、五反田の方にあるんですよ」

 五反田は遠いのか近いのか土地勘の無い私には分らなかったけど、まぁ暇だし行ってみようと思った 。しばらく彼が黙って私の足元を見ていたので、つい足元を見ると、煙草が落ちていた。しかも私のだ。別に彼に知られても何にもならないけど、なんとなく「タバコ吸ってないとやってらんないよ」と言い訳をした。

 

 #

 

 店内のBGMが露骨にクリスマスという音楽ではなく、シャンシャンシャンという鈴の音がする絶妙にクリスマスを感じさせる音楽だった。ここのラーメンは味が濃いけどゆずが入っていて食べるのが楽しい。特性ラーメンの食券を買い、彼女を待っていると「先に座っていて」と言われたので奥のテーブル席に座った。僕と彼女以外の客は家族連れが一組とお一人様のサラリーマンがいた。僕の将来はどっちだろう……このままだときっとサラリーマンだろうな、と少しネガティブになりかけていたら彼女が僕の右前に座った。

 店内は暖かくて、少し眠くなってきた。それでさっきまで肩の力が入っていたのを自覚する。ここ最近で疲れがたまっていたのかもしれない。唐田さんは今、どうしているだろうか。きっと楽しく過ごしているだろう。別にそれで僕は満足だ。 

 店員が水を持ってやってきた、食券を渡して「中盛で」と頼むと彼女は目をぱちくりさせた。そして「私は並盛で」といった。

「並も中も同じ値段なんだね」

「そうなんだよね。だからいつも中盛りを頼むんですよね」

「ここにはよく来るの?」

「月に二回くればいい方かもしれません」

「ふーん。意外と歩いたもんね」

 そこで会話が止まった。僕は何を話したらいいんだろう。最近起こった事? 告白する前に振られたこと以外に目立ったことはなかった。じゃあ、互いに何の仕事をしているか? 今の僕には楽しい話ができなさそうだ。

「最近、寒いですね」

 出てきた言葉がそれで、僕は自分に失望した。一体どこで間違えたんだろう。いや、間違えていないだけで正解もしてなかったのかもしれない。けど、今は最初に謝るべきだった。

「うん、寒いね。最近どう?」

 世界中どこを探しても、こんなに気が利かない会話は見つからないだろうと思った。店内のBGMが切り替わって有名なバンドの曲が流れた。僕は何故! と驚いた。止めて欲しい、この曲は初めてコピーした曲だから止めてくれ、思い出させないでくれ! という気分になった。僕にも黒歴史があるのだ。 

「あまり変わらないです。最初に一年は頑張ったけど、だんだん慣れてきたので。これからもきっとそうなんだろうなぁ。変化のない、平凡な日々が続いていくんだ」

「え、どうしたの?」

 彼女は笑っていた。僕があんまりにもネガティブだからだろうか?

「あっ、ごめん、全然なんでもないよ」

「あんまり変わっていないよね」

 ラーメンが運ばれてきて僕は救われた。凄くお腹が空いた体で僕は急いで食べた。そうすれば会話しなくても良いからだ。あまり良い方法ではないと分かっているが……。食べ終わってから僕は店内を見回して、後悔した。 別に急いで食べなくても食事中には喋りたくない人間を装えばよかったと思った。

食べている途中に話しかけるのは躊躇われたが、元々、彼女とは気を使い合わなくても良かったじゃないか、と思い当たった。ご飯を食べて気が大きくなっているのかもしれない。

「そっちはどう? 最近なんかあった?」

「彼氏が浮気しててさ、別に他意はないけど男って本当に糞だなぁって思っちゃうんだよね。まぁ、それを本人に言えない私も駄目だけど。というか、この話を聞いてほしかったみたいなところはあるんだよね。だって裕太も一人だし、ちょうどいいかなって。裕太もそういうところあるんでしょ、敬語が取れているし」

 確かにその通りだが、別に愚痴を言い合いたいわけではなかった。

彼女は彼氏をけなすために男という単語を使ったわけで、というよりか彼氏と限定して否定したくないのかもしれない。そこは僕には分らないが。

「元々そういう関係じゃなかったし」

彼女は麺を啜ってから「今もそうでしょ」と言った。

 何かを確かめ合ったという感触が湧き出た。

「それでさ、彼って元々そういう節があって、要するに女の友達がたくさんいるんだよね。謎じゃない? 都市伝説レベルだよ。 ……たまに思っちゃうよ、なんでこんな男好きになってしまったんだろうって。もう二十七歳なんだから不安にさせないでほしいよ。正月に実家に帰りたくないなぁ。一応聞くけど、裕太って付き合ってる人いる?」

「……いない」

「あははっ。何その顔」

 変な顔をしてしまった のかもしれない。けど、そうやってして笑ってくれるのは悪くなかった。 

「そういえば、桜井はどうして大崎にいたの?」 

 もうすぐラーメンを食べ終わりそうな彼女が僕を見た。上目遣いで三白眼になっていた。これが高校生の頃だったら蛇に睨まれた蛙のように緊張していたのだろうなと思った。今はもう味わえないが、二七歳になった今は、むしろそれが居心地の良さに繋がるのかもしれない。

「ん、……営業で来たの」

「そっか、イブなのに大変だね」

 それ以上何も言えなかった。やっぱり、と僕は思った。やっぱり九年前も今も変わらなかった。九年経っても、環境が変わっても、会話が上手になるわけでもないし、気の効いたことが言えるわけでもなかったのだ。そうしたことができるなら、こうしてラーメンなんて食べていない。グラスを手に取ったが、空だった 。もう水に流せないし、飲み込めるわけもないのを理解した。

 

 #

 

「ごちそうさまでした」

 本当にごちそうだったかは疑問に思うけど、死ぬほどつまらない映画でもエンドロールまで見てしまうように、そう言わなければ食事が終わった気がしない。そもそもクリスマスイブにラーメンを選ぶ感性を疑う。神社でお祈りを終えた後に、何を願ったの? と聞くのと同じくらい野暮ったい。

 裕太は私が食べ終わったのを確認すると「ちょっと煙草吸わない?」と私の手を見つめながら声を掛けてきた。「イルミネーションでも見ながらさ」

脂っこいものを食べると煙草を吸いたくなるから、私も頷いて外に出た。冬が近くなると温度のない光が街を埋め尽くし始めて、クリスマスにはその気分に浮かれた人間たちが蟻みたいに愛の巣から出てくる。私もそのうちの一人だけども。

 時間差で色が変わるイルミネーションを開発した人は称えられるべきなのかもしれないと、子供の歓喜の叫びを聞いて思った。今日は少しどころか、低気圧と高気圧がやべー勢いですげー盛り上がっているらしく、大寒波を耐えしのぐために裕太に身体を寄せたかったけど、彼は私の彼氏でもないので、それはそれで残酷なのかもしれないと思ったものの、残酷になるのも悪くないのかもとか頭をよぎったりもする。

「ねぇ、明日は何をするの? 仕事?」

「うん」

「そしたらさ、また会わない?」

 それは嘘だった。明日は誠と過ごすから。

「……分からない」

「分からないって何? YESかNOしかないじゃん」と言いながら心のどこかで良かったと思っている自分がいた。

「いや、YESもNOも時代遅れなんだよ。そんな二項対立。……モノクロの世界だったらどれだけ楽だったろうね、勝手に戦う相手を用意してくれるんだから。自分の中で敵を作れない善人は不安だろうね、きっと。僕はそう思ってしまうんだよね」 

「裕太の話は難しいね」

誠だったら、もっと明るい話とか具体的な話をするのに、と思った。裕太はいつまで経っても抽象的な、つまり彼の中でしか重要な意味を持たない語彙によって会話をしようとする癖があって、まぁ彼自身はそれに気づいていないのだけれど、それに自分がちゃんと対応できていないあたり、時は色々と流してしまうんだなぁと年寄り臭い事を考えていた。けど、それは自分が昔とは違っているからだろう。 

 喫煙所が見えてきたら、彼が「ア!」とスタッカートの効いた声を上げたので不審に思い彼の顏を覗き込んだが、彼は生まれたばかりの赤ちゃんのようにキツク目を瞑っていて、顔がしわくちゃだった。

「ごめん、やっぱ大崎まで歩かない?」

 両親がネグレクトで死んでしまった赤ちゃんのニュースを思い出した。うちのお母さんも言っていたけど、赤ちゃんは一人では生きていけないから周りの人がちゃんと面倒見ないといけないよなぁと思ったのを思い出した。

「いいけど。なんで?」電車でもいいじゃん。

「あ、別に理由はないです」

 彼がくるり と喫煙所に背を向け目黒川沿いを歩き出したのを後ろから追う。喫煙所からは酒に酔った人たちが大きな笑い声を上げていた。おそらく、裕太の知り合いが煙草を吸っていたのかもしれない。きっと、まだ彼は現実と折り合いがついていないんだろうな。その点では赤ちゃんだけど、彼の歩く姿はむしろ老人のようなんだけど、まぁ古い価値観の持ち主も現実には対応できないだろうし、むしろ、あの皺だらけの顔は老人のものだったのかもしれない。

 目黒川沿いは情けないイルミネーション があった。ただ光っているだけの、気持ちを盛り上げない情けないイルミネーション。しかしまぁ、歯の無い木は上手く喋れないし、それを隠すためにイルミネーションを巻きつけているのかもしれない。 

「ねぇ、どうしてこの道を選んだの?」

 そう尋ねると彼は急に立ち止まって「ちょっと待って」と言った。「いや、イルミネーションが見たかったんだ。ただそれだけ。本当だよ」

私は安心して彼に身を寄せた。彼は嘘をつくことが嫌いなので、私はその言葉を額縁通り受け取った 。前をクリスマス色のマフラーを二人で巻いているカップルが歩いていたけど、彼が立ち止まったからどんどん離れていった。 腕を組んだら、彼はビクッと身体を躍らせたが、前のカップルのことを穴が開くほど見つめていて私の方には目を向けなかった。誠だったら、話をする時には目を見てくれるし、腕を組んでも私を見てくれるから、まだ一度も、私の顔を見ない裕太の態度が新鮮だった。周回遅れの友達と肩を並べるみたいに新鮮だった。晴れた日の昼下がりに洗濯物が揺れているのを見ている気分、あるいは楽しくお酒を飲んだ後みたいに、なんとなく幸せだった。 

 

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 喫煙所に着いて唐田さんの後姿を今まで一度も見たことがないのに気が付いた 。気付くのが遅すぎたかもしれない。どこかに遊びに行っても僕が送られてばっかりだった。ポッケからPSGを取りだして火を点ける。僕は嫌になってきて煙草を強く吸い込んだ 。胸に違和感があったし喉は痛んだけれど、それで良かった。これまで避けてきたことだったが、それは間違いではないし、僕はそれを正しいことなのだと思った。

 

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 ショートホープに火を点けようとしたけど、ライターのガスが切れていた。裕太は気が狂ったように煙草を吸っていた。ちょっと引いた 。

「ねぇ、ちょっと」

 彼は振り返らなかった。「ねぇ、裕太!」

 彼が振り返った。その時初めて目があった。裕太は私の顔をまじまじと見つめた。まるで私の顔を初めて見るみたいに。「ちょっとライター貸してよ」

 手が触れた。冷たかった。彼の耳が赤くなっていた。耳当て でも買えばいいのにと思った。多分、私の耳も赤くなっているだろうけど。

煙草に火を点けてライターを返すと、裕太は寂しそうに笑った。つられて私も笑った。確かめ合ったという気がした。

「ねぇ、やっと私のことをちゃんと見たね」

「うん。見れた」

「耳、赤いよ」

「いや有希子も耳が赤いよ」

 鼻を赤くした中年がおぼつかない足取りで私たちの間を横切った。耳も真っ赤だった。他の喫煙者も耳が赤かった。ただそれだけだった。 

 

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 雪が降り始めて、煙草を灰皿に落とした。今日は案外充実していたように思えた。腕時計を見やると八時を指していた。もう少し一緒に居たかったが、明日も仕事だし帰ろう。あまり遅くなると同僚たちに会いそうだから。

「ねぇライン交換しない?」

「あ、そうだね。今どのへんに住んでいるの?」

「高円寺。同棲してるの」

「あ、じゃあ、ケーキでも買っていかない? まだやっているはずだから」甘いものは好きじゃなかったが、今日は食べたかった。

駅の改札前でラインを交換してゲートシティにあるケーキ屋に行った。ラインについては断るべきだったかもしれないが、やっぱり交換したかった。別に過去にこだわっている訳ではなくて、単に忘れたくない記憶がありすぎるだけだ。

 吹き抜けに面している店はカップルの姿が見えた。僕は、いちごのタルトを買った。タルトってこんなに高いのかと驚いたが、逆にそれが特別感を生んでいた。これで早く帰る口実が見つかったと安心した 。彼女も同じものを3つ買っていた。 

改札を抜けて別れた。電車に乗りながらぼんやりと考えていた。唐田さんは明日出社するのかな、唐田さんと会った時には上手く話せるかな、まぁいいか。でも凄く辛くなるんだろうな 、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

満潮・日常

今日はとても良い日だった。4限にSPIの無料講座を受けるつもりでいた。本当は3限に受けて、さっさと家に帰ってまったりしたかったが諸事情で4限に受けることにしていた。ただ家で1人、大学に行くまでだらだらすることが最近では難しい(ゼミでやらなきゃいけないことがどうにも難しく、それに対する無理やんこんなんという気持ちとやらなきゃダメという意識があるし、やりたいこともないから1人でいるとうじうじしてしまう)。どうしようかと思って朝ごはんを食べていると、友達からラインが来ていてからが3限暇なら一緒に何か話そうかなと思い、実際それは実現した。10時に家を出て、新宿のブックファーストオーケンの全小説1を買ってから部室に向かった。改札を出たところで友達に肩を叩かれた。

3限の間は部室で音楽をかけながら、音楽の話をして過ごした。何も話さない時間もあった。部室にあるノートに何かを書こうとしたけど、思いつくことが下ネタやパンチが効いてなさすぎて書いてすぐ消した。「8月38日 バグった」と何週間前の僕は書いたが、それに勝るようなことが書けなかったのだ。そうしていると講座に間に合うか間に合わないかという時間になっていて、タバコを吸わなければ間に合うけど、僕としては吸わないと辛いので、少し遅れて参加しようと思って部室を出た。

大学の喫煙所でタバコを吸っていると、行かなくても良い気がしはじめた。これは単にやりたくなかったからだったけど、友達は6限まで暇とのことで、もっと遊べるじゃんという思惑があったのかもしれない。どうせ家でもできるし(まぁ結局家ではやらないのがオチだとは思うけど)と正当化して、サボった。何するかは全く考えていなかった。そうして、「どうするんですか?」と尋ねられて「コーフクの◯学でも見にいく?」とふざけ半分で言ったら、「いいですよ」と言われたので、某新宗教のビルを見に行った(最近書いている小話があって、その中で女2人が散歩をするシーンを書こうと思っていたから、割合いい方向に転がったなと思った)。某大川がいる新宗教のビルを見た後は、適当に歩いた。そういえば商店街があったな、行きたいなと思ったので結構有名?な商店街を歩いた。そりゃあ有名なんだからシャッターが見えるわけがないよ。そこを今となっては思い出せない会話をしながら歩いていると、酒屋があって、ハイネケンが置いてあったので吸い込まれた。僕はイギリス🇬🇧に行ったこともあるし憧れているし曇り空が多いという特徴に少し落ち着きを覚えていたから、光に集まる蛾のように……。結論から言うとハイネケン3本とグラスの付いたセットを買った。謎のお得感やハイネケンのグラスでハイネケンを飲むという特別感があった(店を出るときに、「ありがとうございました」とスピーカーから聞こえた。割合に大きい音量だった。良い)。歩きながら飲もうと思ったが、小学生が目立ったので、悪い影響・悪い印象を与えたら嫌だったから飲まなかった、この時は。途中でミシン屋さん(ミシン屋なんて見たことがなかったので、本当に驚いたし、シャッターを閉めないぐらいには経営できていることが嬉しかった。この土地の人は裁縫をするのかと思った)、牛乳屋さん(最近は牛乳を飲んでいないと気づいた)とかがあった。友達は「たまこマーケット」について話していた。商店街の口から尻の穴へ出たわけではなくて、多分大腸ぐらいから入ったが、凄い長い商店街だとおもう。

商店街を抜けても、しばらく歩いた。多分来た道を戻るのがなんか嫌だったのかも。それに時間はたくさんあるし、目的もなく歩くのが良かった。服屋があったけどクセが強くて狭かった。入らなかった。珈琲屋さんがあったから、入りたくなった。けど、店内には誰もいなくて入るのが躊躇われたけど、最終的に入店。コーヒー豆を売っている店だった。もともとコーヒーについては興味があったので、おススメとか「苦くて酸っぱくないやつ」みたいなこと聞いた。店長のおすすめを買った。240で1200円。マンデリン ビートルという名前(今ある分だけらしい。今度行ったときにはなくなっているかもしれない)。店で焙煎してくれてその間にコーヒーを一杯頂いた(多分サービス)。ブルーマウンテンだった。正直驚いた。3000円とかするような高い豆だよ?それ。しかも自動のコーヒーミルが照明のせいかすごく綺麗だった。エンジ色と金の縁。コーヒーを入れてくれる時に、コーヒーの淹れ方を教えてもらった。100gに対して100ml、お湯は90度ぐらいが良いとか。お茶請けにクッキーまで頂いてしまった。コーヒーとの相性もちょうど良かった。パチパチという音が聞こえた、ラーメンの湯切りみたいなこともやっていた。面白かった。会計の時に、この辺に住んでるの?と聞かれた。大学がこの近くでと言った。ぶらぶら歩いて商店街を抜けて来たと付け加えた。(商店街の方はいろいろあるけど)このへんはなにもないんだよねぇと言われた。金を払い終わりレシートとスタンプカードをもらった。10回分集めると500円割引になるらしい。店内に人が少なくて、落ち着いた。コーヒーを飲んでいる時に小学生が走っていくのが見えた。若い夫婦がチラッとこっちを見て、また前を向いたのを見た。ここには人がたくさん住んでいるのだと思った。尊み秀吉だった。それに凄く久しぶりに人から物を買った。スーパーとかショップだと企業から物を買っているので会話とかは全くしないし、凄く久しぶりに人から物を買った。人が居た。店を出た後泣きそうになった。泣かなかったけどね。帰り道は商店街を通らないでなんとなく歩いて居たら帰れるという気がしてた。

途中で使わなくなった家電用品の回収トラックが通った。女性の声が車の頭にあるスピーカーから流れていた。ドライバーの口元が何かで隠れていたから、マイク使ってやってるのか〜すごいな〜と一瞬思ったが、ドカタの現場にいそうな若い男がスマホをいじりながら運転していただけだった。その人がヒップホップしてそうで凄い良いということを友達と共有した。興奮していた。

適当に歩くと普段は絶対に通らない道、駅から大学へ行くには逆の方向に出た。こんなところに通じているなら、またコーヒー豆屋さんに行こうと思った。駅の喫煙所でタバコを吸っていると土曜日に参加したイベントで縁があった企業からインターンの案内が来た。最初は非通知だったから出なかったけど、留守電を聞くと掛け直した。たまたま行ったイベントでレイソルとゆかりのある企業と出会ったので、何かの縁だと思って参加したい。今はそういうメンタル。自分の目先のことよりも、きっと縁とかを大切にした方がきっと不安は少ないし楽しくなると今は思う。折り返し電話を終えるとハイネケンを開けてふわり気分。大学に戻り普段は輩が使ってるような中庭のアルミで出来た椅子に座って話した。今日はいろんなことを話した。

友達がいなかったら僕はきっと商店街にも行かなかっただろうし、コーヒー豆屋さんにも入らなかっただろうし、何もしていないのに満たされた気にならなかったと思う。ほら、テレビのCMも一人で観てると流しちゃうけど、友達と一緒に観るとちゃんと意識がそっちに向くじゃん。そういうことかな。

三年になってから自分が大切にしたい時間や過ごし方が分かり始めている。一人暮らしは、きっと性格的に出来ないだろうけど、生活する町には人から物を買える店が欲しい。本当にそう思った。

座右の銘なんて持っていなかったけど、「一期一会」にしようかな…。それとドMさんありがと。

夏にクルサーに寄せた現行

西日の当たらない家

 

スマホのアラームを何個も重ねて自分を叩きおこしてから、二度寝をするのが生きがいの一つである木場は、それにうんざりした同居人である森下に頭を四発、腹に一蹴りされてから無事起床した。木場にしてみれば理不尽に思えるが、殴られて然るべき点があったのも確かだった。

木場は誰がこの部屋を貸してやっているか理解しているのかと、先にそこに住んでいた人間として怒るための理由を無理やり作り出して、怒りを保とうとしたが、森下は先に家を出て仕事に行ってしまったため、怒りをぶつける人間が居なくなり、最終的には怒っても何にもならないしなと自己完結し、パンを焼かずに食べ始めた。

木場はなにも働かずに生きている訳ではなく、日雇いバイトをしたりしなかったりして、一人で住むには大きすぎる死んだ祖父母の持ち家でのんべんだらりと暮らしていた。そして彼と同居している人物の名前は森下と言い、埼玉県の郊外の工場で働いていることになっている。木場と森下と知り合ったのは大学生の頃で、同じ四次元音楽研究会に所属していたのがきっかけである。

木場は日雇いバイトのある日は、必ず酒とつまみを二人分買って帰ってくる。果たしてそれが森下に気を使っているためかと問われると、おそらく充実感からくる気分の良さのせい、あるいは自分を肯定するための手段だろう。

森下は真面目という誰もが持っている属性に塗り固められていた。正確に言えば彼の性格上、適当に何かをやるのが極端に苦手だと言った方が良いのかもしれない。

木場はテレヴィを点け、飲みものを用意していないのに気付いた。台所に向かい森下が淹れたコーヒーをマグカップに注ぎ、席に戻った。

今日の最高気温は十三度、最低気温が六度という情報をぼんやりと眺め、魔法瓶によって熱さを保っていたコーヒーを啜るように飲んだ。木場は今日の気温を確認すると、こころなしか寒くなってきたので暖かい場所に行きたくなった。台所の冷たい床の上を裸足で歩き、日の当たる和室へと二三口齧ったパンとコーヒーを持って向かった。森下が暖房をかけていたリビングは暖かったが、湿気が籠っていて息苦しい。そのため木場は和室で日向ぼっこをしながら暇人イマージンよろしく外の景色を見て趣深い朝食を気取ろうとしたに違いない。

角度の浅い朝日が和室に染み込んでいた。木場は、誰かが畳の上に座っていれば絵になりそうな光景を見て、食べかけのパンをコーヒーで流し込んだ。そして暖かい窓に触れ息を吐き、吸って、窓を開けた。秋の空気は他の季節と比べると澄んでいる。

木場は自分の家に起こっている変化に慣れてきた。

それは祖父母の葬式以後、開くことのなかった書斎に入った際に初めて意識されたことだ。森下が木場の家に転がり込んできてから二か月ほど経った、今から一年ほど前のこと。二人が書斎に入り部屋の明かりをつけた時には、不思議と新鮮な感覚があったのだが、森下が名前もよく知らない作家の全集を手に取りパラパラと捲っていくうちに空気は古本屋のようにかび臭くなっていった。「おい、バーさん! 見てみろよ」と森下が開かれた本を指さしながら興奮気味に言い、木場が近くまで行き本を見る。見開きページの右側は白く張りがあった、捲ればパラパラと音を立てるような。左半分は全体的に薄茶色でそばかすのような斑点があった。

木場は少し怖くなって、誤魔化すように「こーりゃなんだ、こりあんだ?……パクチーパクパク……」と歌った。

パクチーの唄、いいよね。けど、これ何?」

「あっしにも解りませぬ」

「そっか」

適当な会話をしていると、ページの左半分も同じように薄茶色になり始めた。

「こんな目に見えるほど早く本って汚くなるもんなの? ならないよね」と木場。

「なる訳ないでしょ」と森下。

「おかしいなぁ。この部屋呪われているのかもしれんわ」

剥いたリンゴが段々と茶色くなっていくように、この部屋も皮を剥かれたのかもしれない。

それから現在、誰かが居て欲しい景色を見てしまったため、この出来事を想起せずにはいられなかった木場は、窓を開けなければならぬという気持ちになったのだろう。

窓から見えるのは灰色の外壁を持った高さ二十五メートルの物流倉庫だ。昔は田園が広がり風通しも見通しも良かったのだが、家を継ぐ人間が結婚せずに五十代に差し掛かったという農家が土地を売り払い、聞いたことのない企業が建設したものである。

木場は、もしここに倉庫がなければ心地よい秋風が吹くのに、と自身の少年時代に思いを馳せながら、遠くから聞こえる車の音に耳を傾けた。電車が線路の上を走るリズムも聞こえる。木場は窓を閉め、これから向かう市役所までの道中に自分の足跡が残っていることを願いながら靴下を履いた。

木場は大人になってから小学校だとか中学校だとか高校だとかの通学路を使う機会はほとんどないことに気付いた。ここは駅前しか栄えていない郊外の町なのだ。駅前に行けば生活に必要なもの(食料品は森下が仕事帰りに買ってくるのが当たり前になりつつあるが)だとか娯楽用品(木場はネットを使うことが多いが)は大抵揃う。ヤオコーとかビバホームだとか蔦屋とか百円ショップだとかセキ薬局だとか、歯医者、接骨院などもある。パチンコ屋だって自転車屋だってある(当たり前だがチェーンの飲食店はある)。駅前にないものと言えば総合病院なのだが、木場は風邪をひくこともないし、かかるとしてもインフルエンザぐらいで、その際には森下が病院に送ってくれていた。。

そのため、木場は自分の足で歩きながら色々なことを思い出した。高架下の薄暗い道でホームレスが死んでいたことや(小学生だった木場は寝ているだけだと思っていたが三日後には姿が見えず花束と透明な液体の入ったカップが置いてあったことから木場は死んだと思ったのだろう)、雨が降れば必ず水たまりになる場所(当時好きだった女の子が水たまりを飛び越えるのを見るのが好きだった)、前を通ると必ず犬が吠える家(犬は死んで、もうそれを聞くことはない)、夏になると赤いザリガニが端に湧く用水路(酒に酔った大人が落ちて頭をコンクリートにぶつけて死んでしまったという笑っちゃいけないような事件があった)があったことを思い出している。

目に移る景色を過去と比べて変化していないことを確かめながら、木場は歩いている。視点は確実に高くなっているために、小さい頃には見えない景色は確かに見えた。だが、それはどこかつまらなく感じられた。斜めから見ればデフォルメされた蛙のキャラクターが傘をさしている絵が見える柵を屈んで見てみたり、田植えの時期になると聞こえる牛の鳴き声に似た音を想像してみたりした。

今日はやけに空が高いと木場は思った。コーチジャケットのボタンを閉めて、冷たいが柔らかさの残る風を防ぎ、小学校の校門の横を通り抜ける。花壇の間から半袖で体育の授業を行っているのが見えた。虐待とかで問題にならないのだろうかとニュースからみた小学生の親という印象から木場はそう思った。自身の母親のことを考えれば、そんなことに口を出す親というのは想像できないが、ニュースを見る限りはそう思えた。

仲の良かった友達は元気にやっているのだろうかと、木場は気になった。どうせやることはないので市役所に足を運んだ後も、継続して歩き続けることにした(やっておいた方が良いことはたくさんあるだろう)。木場は居心地の良さを感じている。日差しが暖かいから、そういった気分になるのだろう。

木場は市役所で確定申告をした後、喉が渇き紙パックのカフェオレを買った。やや冷たかった。老人に混じり休憩スペースでぼんやりと外を眺めていた。母親と、その腰ほどの身長の子供が遊具のある広場で遊んでいる。母親は木漏れ日の下で手を叩いており、子供は母親の方を向いて肉まんみたいな頬を上げている。そこから十メートルほど手前に花の植わっていない花壇がある。木場は小学生の頃にそこに校外学習の一環として花を植えていたことを思い出した。鴉が禿げた花壇の上に舞い降りた。

口が寂しくなって、一気にカフェオレを吸いあげると、不甲斐ない音がした。それを専用のごみ箱に入れて、それなりに知名度のある龍Q館へと向かった。

田園を抜け土手を歩いているとロードバイクにベルを鳴らされた。すこしずれて道を譲ってから、茶色の外壁をした龍Q館を正面に据え、鼻歌を歌いながら向っている。青空は人間にのんきさを要求するのだろう。

木場は龍Q館に対して興味を持っている訳ではなく、自らの足跡を見出そうとしている。彼は小さい頃、龍Q館に対して興味を持っている子供ではなかった。そのため過去が想起される出来事もない。しかし、彼はすぐ近くにあるグラウンドによって思い出す機会を得た。雑草が生えて石が転がっていて満足にグラウンドと呼べないグラウンドで友達とサッカーをしたこと。その奥にある半円形のスケートパークがあり、そこで早朝一人で練習していたことを思い出し、また始めようかと迷った(そこで一人、練習している人間がいた)。朝早く起きる習慣を失くした木場には、それは簡単に諦められることである。それに再開することは木場の人生にとって重要な決断でないため、練習を始めなくてもよかったが、そのどうでもよいことを切り捨ててしまったら木場の楽しみがいよいよ見失われるだろうし、どうでもよいことを好きでいなければ定職に就かないことに対して恥のような感情がハッキリと現れるのだろう。木場は、その意思を結局保留した。

 

森下は木場に暴力をふるったことを少しだけ後悔していた。それが原因で家を追い出されたならば、しばらくどこに行けば良いのか分からなくなるためである。

森下は毎朝七時に家を出るが、それは職場に行くためではなく、定職を失ったことを木場に悟られないようにする演技のようなものだった。しかし、森下が働いていないかと言えば嘘になる。彼は七時半に家を出てからイオンのサンマルクカフェで気ままに過ごし、午前九時から午後五時までフードコートでアルバイトをしている。女子高校生とシフトがかち合った際には冗談として「いつ定職に就くんですか~?」と全く冗談じゃないことを言われているし、気さくであるかのように振る舞うが単に自己中心的でしかない店長に「ここに就職する?」と半ば本気の勧誘をされているのだが、本人にはその意思は全くない。要は某コマーシャルのように『条件、今より良い会社。以上』なのだろう。

彼は転職活動をしている。根底にあるのは、働かなければ人権が無くなるとまではいかないが、社会的立場が低くなってしまい生活水準を保てないという危機感だ。加えて、このままだと普通にすらなれないという焦りが森下にはあった。

自分のこれからの未来の計画を立てて、できる限りそれに近づくために、どのように生きるかを考えてみる必要があるし、自分の未来を管理しようとしなければならないのだ、と森下は考えていた。適当に生きて、いい感じに暮らせたら満足という木場のような人間ではなく、明確に目標を定めて自己実現をしたがる森下であるから、この考え方になるのも当然である。

森下は普段バイトをしているが、今日はシフトが入っていない。そのため、森下は木場の持っているスケボーを持って龍Q館のスケートパークで練習している。森下のほかには誰もいなかった。彼がスケボーを始めたのは物置にスケボーがあったからであり、運動をしたいが疲れるのは嫌だという動機と合致したためである。

彼は一人で練習するのが好きだった。他人がいると、どうしても見られているのではないかと妙に緊張してしまい気疲れしてしまうのだ。反復と内省を繰り返し徐々に身体に染みつかせていく感覚を楽しむためには、他人の目は邪魔なだけなのだろう。練習に没頭することは他のことを忘れさせるため、ストレス発散に適しているのかもしれない。

森下は今日の夜ご飯は何にするか考えながらクールダウンをし始めた。時刻は午前十一時半。

 

木場は龍Q館に来たついでに友達である住吉の家に向かい、呼び鈴を鳴らしてみた。木場は緊張している。住吉は知った顔なのだが、住吉の親となれば条件は大きく違うらしい。そう、木場は二十五にもなって未だに人見知りなのだ。

事前にラインで遊びに行くということを伝えておけば呼び鈴を押す必要はない。だが思いつきで遊びに行く場合にはラインの返信がない可能性もあるため、木場は『面倒』に『サプライズ』の皮を被せて呼び鈴を押したのである。住吉は就職して東京で一人暮らしをしているが、今日の夜に帰ってきて明日の昼にまた東京に戻ってしまうと母親から伝えられた。木場は、母親と対面した時に失敗という二文字が頭に浮かび、その後も彼の頭から離れなかった。そうして、たた頷き時々相槌を打ちながら最後に「あ、あ、ありがとうございます」と言い逃げるように、そこから離れた。

木場は昼飯を食べに家に帰ることにした。時刻は十二時ぴったり。

 

スケートパークを後にした森下は次にマクドナルドに行った。龍Q館から坂を下り庄和高校の横を通りすぎ市役所を横目に、横断歩道を渡った。市役所は総合公園の中にあり、公園は国道四号に面している。そこを車で通ると、この土地のシンボルである大凧のモニュメントがある。縦長の長方形の角から角まで一本の白線が通り上は赤色、下は緑色の配色であり、そこに大きく「春日部」と書かれている。森下はビックマックを食べながらそれを見ていた。ふと、木場が大凧について知りたいのなら大凧会館に行けと言っていたのを思い出した。

元々は『庄和町』という名前の土地だったが、合併し『春日部市』に変わったことにより、モニュメントに書かれる文字も変わった。そして『庄和』の名物は『春日部』の名物となったのだが、高校の名前は『庄和高校』のままである。『春日部高校』には変えることは出来ない。

森下は、さっさとこの土地から離れなければいけないと考えていた。木場は旧態依然とした生活に満足しているし、きっと歳を取ってから後悔するに違いない、と森下は思い、自分が家事全般をし、生活費やらを折半しているために、そうして暮らしていけるのであって、が居なくなれば能天気な木場も危機感を手に入れられるだろう、と考えていた。これが互いにとって最善であるように考えていた。

森下は木場との関係性を大きく膨らませすぎる節がある。普段は言動に付随される親密さがないのにも関わらず、森下の中では木場との関係性は肉親に近い関係性だと予め決まっているもののようだった。しかし森下にもここにずっといても成長できないだろうという予測が、ようやっと湧いて来ていた。だがそれは、森下は来週に最終面接があるため、就職先が決まった際には家を出るという意思を固めているにすぎず、また、このライフスタイルを捨てる覚悟のために体の良い言い訳を作っているにすぎない。

彼はポテトをつまみながら、この土地ともオサラバならば、記憶に残るような記録を見ておきたいと考え、彼は大凧会館に行くことにした。時刻は午後一時前。

 

木場は住吉に今夜飲み会しようという誘いを入れてから、カレーライスを作った。調味料には拘らずに市販のルーを入れただけのカレーライス、そこまで美味くない。完食するには食欲が足りない。木場はそれを流しに捨てた。茶色い油が銀色のシンクの上にこべりついている。もう一度、水を出して流そうとするが跡が残った。木場は、まぁ掃除するのは森下だから、と思って放置することにした。

そうしてから、インスタントコーヒーの缶のあったO・ヘンリーの短編集を読み始めた。が、この本を大学時代に森下に借りて読んでいた時の感覚が蘇ってきて直ぐに読むのを辞めた。

木場は、もしかして、窓の外に見える物流倉庫がなくなったら、自分もなくなるのだろうかと空想してみた。それか、物流倉庫を絵の中で消して、その絵を飾ろうかとも空想した。

物流倉庫を見ないように絵を飾ったとしても、その向こう側に本当は物流倉庫があることを知ってしまっているから、きっとそれは成功しないだろう。

木場は、そういえばと思ってカタログギフトを手に取りぺらぺらと頁を捲った。これは森下が誕生日プレゼントとしてくれたものだった。木場はそれを純粋に喜んでいたが、森下としてはプレゼントを選ぶのが難しいし面倒だから、という理由であげたものでもある。

木場は自分が欲しいものを選ぼうとしたが、商品の詳細を読めば読むほど全て欲しくなってくる。入用なものは特にない。そのため、余計にどれも良い品物のように見えてくる。品物の横には、それがどれほど素晴らしいかを三行ほどでまとめた説明書きがある。家具や料理器具や日用品の知識がほとんど持っていないため、木場がこの中から一つだけ選び取る場合、デザインだけが判断基準となる。

木場は洗濯機のページだけは見ずに読まずに飛ばした。この家の少し不思議な出来事の一つに、木場が洗濯すると衣服がいつまで経っても乾かない、というよりかはずっと生乾きになってしまうことがあった。森下曰く生乾きの衣服ほど着ていて落ち着かないものはないらしい。そのため、洗濯するのは森下の役割となっている。

木場は後で決めることにしてカタログを閉じた。結局の所、デザインだけでは選べないのだ。そうして、何かをやろうとしても、何もできなくなった木場は、外食をしに外へ出た。

 

森下は河川敷をスケボーで滑っていた。天端の方が眺めは良いのだが、道が舗装されていない。マックから大体五キロほど道沿いに行けば大凧会館に着く。滑りながらグーグルマップで大凧会館を調べて、案外遠くないことに森下は笑った。木場が「大凧会館って凄い遠いんだぜ?」と言っていたが、森下には全然遠くに感じられず、木場が軟弱であると思ったのだ。木場が大凧会館に行ったのが小学生の遠足時であったので、大人になってしまった今ならば木場も案外近いと思うだろう。

ススキが揺れ、垣間見る江戸川の水面がチカチカ光っているのを目を細めながらぼんやりと見ていた。ウィールが回る音と、草が森下を見て内緒話するみたいに静かに笑っているような音と、遠くから車に轢かれる道の音が聞こえる。秋の平日の昼間は素敵な時間をくれる。人通りの少ない道を過ごしやすい気候と暖かい日差しで眠たくなってくるほどに。空を見れば、ちぎった綿のような雲が漂っている。

緩やかな曲がり角に差し掛かった所で、土手から降りた。左側に寺が見えるの目印だ。森下は歩いて大凧会館に向い、右折左折することなく、道なりに歩き、バス停が見えた。

大凧会館はなかった。更地になっていた。

森下はグーグルマップを開いて自分がいる場所を見てみた。この更地の名前は大凧会館ではなく大凧公園になっていた。ついでに言えば大凧公園が目的地になっていた。スケボーで滑りながら検索したので、大凧会館とだけ打ったが、そこは優れたナビが代わりに大凧公園を目的地にしてくれたのだ。

とりあえず自動販売機でコーラを買い、近くの縁石に腰を下ろした。森下は時間を無駄に過ごした。これからどう時間を潰すかを考えて、図書館に本を読みに行くことにした。時刻は午後二時。

 

木場は外食しに駅前に行こうとしたが、面倒になったらしくコンビニに行くことにした。中学校の通学路をわざわざ選んで、遠回りしながら向かった。途中で葛飾中学校の隣を通ると、物流倉庫ができていた。木場は、そこに何があったかを思い出せなかった。多分田んぼだったと思ったが、確信をもって田んぼがあったとは言えずに、中学生だった頃の景色が塗り替えられていることが、自身の記憶が置き換えられているように思えてならなかった。

おにぎりとポカリとおやつを買い家に帰ると、またカタログを開いていっそ森下に日ごろの感謝としてプレゼントを贈ろうと思えば何かしら選べると思いついた。それなら洗濯機を買いかえればいいと思い、そのページを読み、数ある洗濯機から一つを選択することができた。とりあえず森下が帰ってきたら、それとなく森下ならこの中で何を選ぶのかを聞いて、それをプレゼントすることにした

餅は餅屋だというが、どの餅屋を選ぶかについては何も言われていない。それに今じゃ一つの餅屋も餅以外を売っているから、もっと複雑になっている気もするし、逆に一つの餅屋が好きなら、その餅屋を信頼しているなら、選ぶのは簡単に思える。

彼は昼飯をさっさと食い終え、昼寝をしに和室に向かった。木場の数少ない幸せの一つである。畳の匂いによって弛緩した木場は、知らぬ間に眠ってしまう。時刻は午後一時半。

 

午後四時、森下は駅前のスーパーマーケットで肉か魚にするかで迷っていた。チラシには肉が安いと書いてあったが、今日は魚の方が食べたい。じゃあどうするか? あえてのピザもある。色々と迷ったのちカレーライスにしようとしたが(みんな大好きカレーライス。老若男女問わず大好きカレーライス)オムライスが食べたくなったのでオムライスにした。そしたら、家にあるもので作れるので、蔦屋に行って次に読む本を買った。

木場は起きてから、今日の夜眠れるか不安に思ったが、眠れなかったら眠れないで深夜バラエティでも見て時間を潰せるし、彼は普段から眠れないので、その不安はあっさりと消え去った。

机の上にさっき買ってから口を付けていなかったコーラがあったので飲んだ。ぬるかった。木場の家には西日が入らないため、ぬるくなることはあるけども暖かくなることはないし、熱くなるなんてありえない。

木場が映画を見ていると、住吉から返信が来た。木場の気分は高揚して、今日の夜はよく眠れそうだと思った。彼は待ち合わせの時間を確認すると映画を巻き戻した。

森下はゆっくりと歩いていた。両耳にはイヤホンを付け最近気に入っている曲を再生している。森下は激しい音楽は好みじゃない。だから音楽を聴きながら歩くと自然とゆっくりになる。日が落ちるのが早くなっている。彼がスケボーを使わずに歩いているのは、あまり早く家に行ってしまうと木場に疑われてしまうという予想からだった。木場は疑っても口には出さない人間なのだが、森下は疑われることすら嫌らしい。部活帰りの中高生とすれ違うたびに、なんだか懐かしく感じ、自然と笑みがこぼれた。用水路に差し掛かり、なんとなく石を蹴って水面を波立たせた。その石は誰かが買ってきた石かもしれないけれども、森下にそれは関係ない。

「ただいマンモスゴリラ」

「おかえリトルモンキー」

森下は靴を脱ぎ、洗面所に向かい手洗いうがいをした後、台所でオムライスを作り始めた。彼の平日はストレートチップで家を出て、帰ってくる。バイトがない時はバッグにスニーカーを忍び込ませている。バイトがある時は安全靴を入れている。

森下が夕食を作っている間に、木場は森下の靴を手入れする習慣ができている。それが失われるか、継続されるかは森下の面接にかかっている。

木場が靴を磨いていると、合成皮革の靴が牛皮のような柔らかさを持っているのに気付いた。木場がミンクオイルで手入れをしてやっているから靴も勘違いしたのだろうかと夢みたいなことを考えていると、夕食ができたと聞こえた。木場は風通しの良い場所に靴を置き台所に向かった。

「今日はオムライスか」

森下は何か言いたげに木場を見つめていたが、能天気な彼はケチャップで何の文字を書くかを考えていて、顔を見ることをしない。森下はシンクのカレーの跡が気に入らないようだった。これまでは気にしていなかったことが、どうしても気に入らなくなっている。それが当たり前だったから、余計に嫌になっている。

「あ、そういえば誕生日プレゼントにくれたカタログの中からさ、森下なら何を選ぶ? ……いや、黙ってないで教えてくれよ」

森下は、木場が反省することを望んでいるのだが、まったくその気配はなく、それならばと態度で示そうと口を利かないように、木場の言葉を無視する。

「おーい。聞こえてる? 聞こえてるよな?」

木場はなんで森下が自分の言葉を無視するのかが分からない。知らないうちに怒らせるようなことをしたのかと不安に思った。

「もしかしてストレスで耳が聞こえなくなった? え、何か悪いことした?」

森下は本当に何も言わない。ただオムライスを頬張るだけだ。

「え? もしかして俺って幽霊になったのか? それとも透明人間? いや、俺の分のオムライスあるしな……。わかった、俺の言葉がシャボン玉みたいになったのかな? なんてな。え、マジでなんなん?」

しまいに木場は、怒ることもせず、黙ってオムライスを食べ始めた。森下が食器を片づけ風呂に入りに行った。木場はよくわからないまま、食器を片づけ、もうすぐ待ち合わせの時間なので、書置きを残して家を出た。

 

木場と住吉は、春日部駅西口の喫煙所で待ち合わせ。その後居酒屋に向かい、思い出話に花を咲かせ、酔いも回り、互いの近況について会話し始めた。

「お前は高等遊民だなぁ。時代に置いて行かれるなよ~」

「とびきり上等なレッテルをありがとね」

住吉は顔を歪めたが、気を取り直して木場を持ち上げた。

「まぁ、なんだ、お前は属性のおかげで生活できているようなもんだから、俺からしてみれば羨ましいよ。俺は望んでもそうやって生きていけないから」

「住吉もウチに住む?」

同居人が増えれば、楽しくなるだろうという、まさしく木場らしい能天気さが出ている。

「んや、遠慮しておく、今の生活はつまんないものだけど、愛着が湧いちゃったから、そう簡単に手放せないよ。知っているか? うちは嫁さんも働いているんだ。そんでな、子供が保育所に預けられる年になったから、預けたんよ。それがとても嬉しいことなんだ。家の近くに神社があって、そこが保育園を作ってくれたんだよ。今は保育所不足だ~って言われているし、そうやって神社さんがやってくれると、一気に地域に馴染めるような気がするんだよ」

「へぇ、うるさいとか苦情がこないのかな?」

実は木場は住吉が結婚しているのさえ知らなかった。心の中でなんで呼んでくれなかったのかと異議申し立てをしたが、実際に口に出ることはない。

「多分ね、森に囲まれていて近くに家がないから苦情も来ないんじゃないかな。神主さんと話した時に、苦情を言うのは後から住み始めた人、住んだ所に保育所があった人達なんだって言ってたよ、昔から住んでいる人は、そういうもんだって理解しているらしいんだけどね」

「やっぱり、そこに根付きたいって思う?」

「そりゃあそうさ。もう知り合いも仲のいい人もできたからね。中々地域に馴染もうとしても、仕事が忙しいし、自分達のことで右往左往しているからさ、そういうシステムがとても嬉しく思えるんだよねぇ」

木場は地元に根付いているのに仲の良い友達や、会話をするような知り合いがほとんどいないし、地域活動に参加することもない。その彼にとって住吉は羨ましく思えた。同居している森下だって親友とまでは言えない。木場は森下を親友と呼べるほどの態度で接していないから、これからも森下と親友にはなれないだろう。

「今度はバーさんの話を聞かせておくれよ。最近どう?」

「最近がよくわからないんだよね。これといった区切りのイベントがないから。あっでも誕生日プレゼント貰ったんだよ」

「誰に?」

「森下っていう大学時代に知り合ったやつに」

「いいじゃん、何貰ったの?」

「カタログギフト。けど中々選べないんだよねぇ。いっそ森下の欲しいものを選んで、あげちゃおうかなぁと考えているんだけど……」

「あ、それは止めた方が良くない? だって誕生日プレゼントで祝うためのものなのに、自分に返って来たら、それはそれで嫌だと思うよ?」

「そうかなぁ。やっぱそうかなぁ。けど、日頃からお世話になっているし……。あっ、そうだ。さっき喧嘩? じゃないけど、口きいてくれなくてさ」

「なんで?」

「それが分かれば苦労しないよ」

「それもそうか。けど、なんか安心した。木場って人見知りだから一人で暮らしているって聞いた時、少し心配してたんだ」

「な……」

「そんな状況なら早く家帰って仲直りした方がいいよ。俺は明日早いから遅くまで飲む気はないし、今日はこれでお開きにしよう」

まるで帰ろうと言い出すタイミングを見計らっていたかのように住吉は言った。木場はもう少しだけと粘ってみたが、結局午後九時前に解散した。

 

木場は解散してから真っすぐ家に帰った。もう眠たかったのだ。さっさと仲直りして代り映えしない明日を迎えようと投げやりに考えていた。家までの道のりが知らぬ間に明るくなっていた。朝が来た訳ではなく、物流倉庫ができたおかげで外灯がLEDに変わり明るくなりすぎているだけだ。

家のドアノブを握り手前に引くと鍵が掛かっていて、木場は少し笑ってしまった。家の鍵は持ってきていなかったので、呼び鈴を押し森下に開けてもらった。

木場は森下と顔を合わせるなり「怒っているなら謝る。けど、俺のどこに怒っているのか教えてくれないと分からないんだ。教えてくれよ」

森下は、聞こえるように舌打ちをして、「バーさんのその態度が気に入らないんだよ」と言った。続けて「俺、もしかしたら。いや、この家から出ていくから。それじゃ、おやすみ」と言って二階にある自分の部屋に帰っていった。まだ眠るには早い時間なのだが、森下はもう木場の顏は見たくないのだ。木場は、まぁ仕方ないかと納得したふりをして、風呂に入り眠った。

木場は午前五時に目が覚めて、トイレに向かった。バイクの音がして新聞が郵便受けに入れられる音を聞いた。木場は、なんとなくそれを取りに玄関に向かった。玄関に着くと、どうせならと外に出た。どうせ外に出たならスケボーをしようかという気持ちになって物置を開いたが、スケボーはどこにも見当たらなかった。回れ右をして玄関に向かうと物流倉庫に家の影が張り付いていた。木場はぼんやりと、この、影の家に住めたらどれだけ楽かと思った。

木場はなんだか影になりたい気分だった。

彼の中には、今がこのまま続けばいいのになという能天気さと、このままでいいのかなという不安があった。今の地続きの未来は楽しくないだろう。ただ、木場が現在を額縁に入れてしまっているのは確かだろう。

 

 

 

木場は今と未来から逃げるために過去に行こうとするけど、絶対無理って知っているし、しかも無理なことも知らんぷりしている。まぁ思考停止(本来の意味とは違うけど)している。

 

森下は木場と仲が良かったんだけど、今はもう同質的でなくなったわけで、だけど関係性を維持しようとする。けど、色々あっていで出ていく。森下にとって木場は、友達だから好き→好きでない友達はあり得ない、なのね。同居しているのに友達じゃないことはあり得ないってこと。だから膨らませすぎちゃう。

 

最後の額縁に入れてしまっている、は鑑賞する現在という立場の木場(選択しない)、ということです? しまっているは、仕舞う、とかけてみた。影になりたいは、選択しないことに何も感じなくなりたい、ということ。

 

 

四月ごろにクルサーに寄せた現行(少し変えた)

 題名は任せるわ。あるけど言わないわ

 

 

 

その日、移住手続きをするために市役所に向かった。

 私が訪れたのは合併元の市役所ではなく、それなりに愛着のある地元の図書館兼市役所だ。中学、高校の時によく勉強しに来ていた記憶がチラついた。私の住む市は元々一つの町だったが、数年前に隣の市と合併した(厳密にいえば吸収された)。そのため、人口の流出を防いでいるように見える。

 現在この国から隣国へと移住する家族や労働者、学生は後を絶たない。国が人口流出にはどめをかけるために規制をかけはじめたのは今から十五年ほど前からだった。それまでは、各々が望む形で移住をしていた。船に乗ってスパンコールが光を反射しているような水面の上を船を使い向こう側まで渡ったり、刃物を使ったり、薬を使ったりして、隣国へと移住を図った。私のような能天気は、その社会的な流れの中で暮らしていても、その流れを意識できず、もっと後からでも移住できるだろうし、その方が安全だと考えていた。

 密出国者が増えていると夕方の報道番組で取り上げられていた頃、本当にそういった事があるのか疑問に思う事も多かった。電車は訳知り顔でレールの上を走り(しかも、車内は満員なのである!)、都会は波のように人が歩いていたし(波は永遠のように打ち寄せ離れていくから)、ごくたまに見るゴールデンタイムのテレビ番組には馴染みのタレントが出演していたから、自分には関係のないし、大したことじゃないと思っていた。

 だが、私が大学に入学した年に、規制が緩和され移住が法的に、公的に認められた事によって明確になった。大学の次年度からの入学者は減り始め、まざまざと流れを見た。大学に入学してしまった以上、それなりに友達が出来てしまった以上は移住することは、それなりの勇気が必要だった。そうして、その事も気にしなくなり、四年になった。私が就活している時には売り手市場とニュースで言っていたし、そのころには地方の私立大学の大半は無くなっていた。

 それなりの危機感を覚え手続きの申請をしたのが一年前の事で、五日ほど前にやっと自分の番がやってきた。暮らしを変わるという妙な期待に感電し、ここ数日の仕事は身が入らなかった。未然に防ぐことのできる失敗を重ね、年配の上司に嫌味を言われていたが、もう少しで移住するのだと思うと気にすることは無駄だと感じた。

 時刻は午後一時半、移住ガイダンスは二時からだ。少し早くついてしまったので煙草を吸っていると見慣れた面影の男が現れた。

 彼は八月のうだるような暑さの中で、わざわざ日陰に入らずギラギラ輝くタイルの上で恨めしそうに眼をすがめて空を見ていた。しかし太陽子が眩しすぎたのかすぐに視線を真っすぐに目に向け、それから、私の方を見た。彼の視線には温度がなかった。

「お、お前、あれだろ」

 どもりながら問いかけると、彼は手を眉に添え私を見た。

「あ、ダッモじゃん。おひさ」

 彼は目を見開き驚いた様子で、私の肩に触れた。この暑さでどうして人に触れようと思ったのか不思議でならない。彼の着ているシャツは大きすぎて見ているだけでも気怠さを感じた。

「ひさしぶり、須野」

私が彼の名前を言う事が出来たのは、そのシャツが彼に好きなバンドをモチーフとしたものだったことも関係ある。まだ、そのバンドが好きな理由を聞けていない。

須野とは高校の頃、遊びの延長線上に位置する部活が終わってからも遊ぶような仲だった。だけど、卒業してしばらく会わないと、何を離せばいいのかわからなくなってしまう。須野は煙草に火を点けた。

「今日は暑いよね。一等と」

「そりゃ夏だからなぁ……」

この距離感が懐かしかった。私は過去を生きているような気分になって、中途半端に言葉を発しようとしたが、あーだとか、うーだとか意味のない音を出していた。何か他に言う事がないのか探して、思いついた瞬間に口から出てしまった。

「これだけ暑いと雨でも降れば涼しくなるのかな」

 雨は嫌いだった。夏に来る雨は大抵雷も一緒にやってきて自分の部屋に籠りがちになる。そうなると、部屋で繰り返される空虚さの苦痛が襲い掛かってきて何もしていないのに疲れてしまい息苦しくなるから。

「そうだな」

 私は須野に話す事がなくなってしまったと思った。もう会話は終わり、セミの声ばかりが聞こえてしまう。それはそれで乙なものかもしれないが、吸う息は誰かが顔面に向けてため息を吐いたような気怠さと、それに呼応して得体のしれない熱っぽさが含まれていた。

 じっとりと額に浮かび始めた汗を黒いシャツの袖で拭うと、その様子を見ていた須野が、金属が擦れるときに発する音のような引き笑いをした。私は笑う理由が解らなかったが、その音を聞いて心地よさを感じた。たとえ笑われていたとしても。

「え? 笑う要素あった?」

「うーん、まあ、そうだなぁ。今度はハンカチ持って来いよ」

 彼はくしゃくしゃな笑顔を見せながら、そう言った。私は煙草を灰皿に落とした。ジュ。

「ハンカチは持ってきているんだが?」

「え、なんで?」

「こっちが、聞きたいよ」

 私は彼の意図が分からなくなり、それと同時に彼は私の行動が不可解だと思っているようだった。了解が取れない以上、そして了解を得るためには疑問点を指摘しなければならないが、それによってノロマな感覚を得るのだと思うと、彼との会話を継続するには面倒に思えてきた。私は彼との会話に対して、何らかの利益を欲していた。過去のわだかまりを解決、あるいは吹き飛ばしてしまうような大きな衝撃を求めていた。からまっている過去を失くして新しく交友できるようにと。

 彼の中指と薬指の間に挟まれていた煙草には、火はもう点いていなかった。フィルターの焼ける甘ったるい匂いがした。

 私は彼に移住手続きガイダンスのために、ここに来たのかを聞くべきだったが、それをするわけでもなく、室内に誘った。

 「まぁ、いっか。中入ろうよ」

 彼は「おー」と間の抜けた返事をした。

 

 私たちが同じ目的で市役所に来ていたことが判明し、人で敷き詰められた教室ほどの狭さの会議室の最前席から二番目に座ったのは、ガイダンスが始まる十分前だった。須野が隣に座っていると高校生の頃を思い出す。しかし、パイプ椅子がぎゅうぎゅうに敷き詰められているため、人との距離があまりにも近く、居心地は最悪だった。窓に近い事以外に良い所なんて何もなかった。ここで私が嘔吐したら皆一様に背中を丸めてゲロを吐くのだろうと思い自分を慰めた。それはそれは多様なゲロが、電灯が反射している地面に散らばるだろう。私はそのころには胃の中にある物を吐き出し切り、他人の喉が震える音を聞きながら、不適切な笑みを浮かべ、その光景をうるんだ瞳で見つめているだろう。ピントのぼやけた視界によって現実感が喪失し、それに対して超越的な感覚を呼び覚まし、知らぬ間に自分の中に入り込み、やがて自身を客体化しては二重人格を気取っては、その光景を見ている自分が笑っている事に、感心してしまうだろう。前席に座っている女は日焼け防止のつもりか長袖を着ている。萌え袖だった。おそらくニンジンやコーンなどの健康に気を使っているようなゲロを吐きだす。必死に口を押えても萌え袖で隠しても繊維を抜けて具材のないゲロが現れ、それから息が出来ないため手を顔から離すと袖に形を残したコーンやニンジンがちょこんとあるのだろう。左隣に座っている須野は昼飯を抜いているのか味噌っかすみたいのゲロを吐きだす。右隣に座っている緊張からか強張っている面持ちのじゃりっぱげの中年は、出来うる限り嘔吐感をこらえながら室外に出ようと経路を探すのだが周囲にはゲロを吐き動けない人間ばかりであることに気付き、混乱した頭で尊厳を保つためにはどれが最善かを必死に考え、何をトチ狂ったか窓を開け二階にあるこの会議室から、外に向けて吐き出すだろう。落下地点にある花壇にはゲロが降りかかり、蜜を取りに来ていた虫や蝉の死骸は全身にゲロを浴びる。

 私が妄想をして不快感を打ち消そうとしていると、須野がいかにも重要な事のように声のトーンを落として話しかけてきた。周囲のはしゃいだ子供のような会話が邪魔でほとんど耳に入って来なかった。須野の声は低く、加えてくぐもっているから余計に聞き取りにくい。中学の頃も同じようなことが何回もあった。

 私は「何言ってんのか分からないよ」と聞き返したが、それも須野に届いているか怪しかった。だからと言って大きな声を出すことは躊躇われる。

 私は仕方なしに、手に持っているプリントの束をパラパラとめくりながら読み流していたが、半分も行かないうちにガイダンスが始まってしまった。

 それはとても退屈だった。柔和な態度で語り掛けるように喋る男は、本当に移住したいのか自分自身で考えてくださいという話を、統計データと自国の現状を交えながら何度も言い換えながら繰り返す。マイクを握っていないほうの手は、せわしなく動き続けていた、数字を数えるように一本ずつ畳んだり、掌を見せたり、また握りこぶしをつくったり。その動作は、この説明を何度もやってきた人間だからこそできる事だった。既に彼は私たち移住希望者に興味や引き留めようとする意志さえなく、ただ一つの慣習として説明をしているに過ぎないのだ。

 十分ほど経った時、私は睡魔に襲われ、吐き気と混ざり合ったそれに耐えるように自身の舌を強く噛み、苛立ちで膨らんだ意識の中に押し込んだ。誰かが銀色に鋭く光る針で突いてくれたら楽になるのかもしれない。

 ついに睡魔が吐き気に競り勝ち、私は船を漕ぎ始め、そこに居ないマイケルという存在に漕げよと急かされながら、なんとか起きているつもりだった。マイケルが船を漕ぐ目的は川の向こう側に居る母親の下に行きたいといったもので、私はただ手を貸しただけなのになんでケチ付けられなきゃいけないんだと脳内劇場を繰り広げながら。

 睡魔の波を越え、まだぼんやりとしている意識で顔を上げると、私に対して多くの視線が注がれているのに気付いた。

「はい、みなさん。ここからは大切な話なので、しっかり集中して聞いてください。くれぐれも居眠りをしないようにお願いしますよ」

 スクリーンの前で喋る男がそう言うと、周囲から忍び笑いが起こり、急に喚きだして部屋を飛び出したいという衝動にかられたが、私は移住がしたくてここに居ると再確認し、輪郭が把握できるほど熱くなった顔と耳が平常に戻るのを、じっくり待った。

 もうすっかり目が覚めてしまった私を須野は励ますためか、それともからかうためか白目をむいた顔を見せた。それを気にせず、前に居る女の頭をなんとなく見た。首筋からつむじまで視線を彷徨わせてから、スクリーンに視線を戻し、清潔感の塊のような説明者を眺めた。ノリの効いたワイシャツと固められた髪の毛、どこか機会じみた説明が、退屈だと感じる理由なのだろうか。

 ガイダンスはきっかり二時間で終わった。大切な話だと言われた部分は書類の記入事項の事で、どこになにを記入するのかを、単に説明しているだけだった。終わってみれば、こんな簡単なガイダンスでいいのかと疑問に思ってしまう、物足りないな、と思いながら須野の背中を追いかける。

「お前、暇かい?」

「暇」

「なら、ちょうどいいね。この後ちょっと買い物に付き合ってくれないか」

「それは面倒だなぁ」

「そうか。じゃあ喫煙所行かないか?」

「それも嫌だなぁ。人が多いと気分が悪いし、どうせ喫煙所もそれなりに人がいるし外だから暑いし、なんだかなぁ」

「それなら、飲み物でも買って落ち着いてから喫煙所、行こうよ」

「いいね」

 私たちは一階に降り自販機でジュースを買った。そして昼過ぎには老人たちが談話しているスペースに向かい、小さなベンチに腰掛けた。日が伸びたにもかかわらず、明るい室内に老人の姿が見えないと違和感が残った。

「それで、どうなの最近」

 地域ボランティアの募集や、マラソン大会の出場者の募集、混沌こそ我が墓碑銘と書いてあるポスターなどが貼ってあった。

「特に何もないなぁ」

 多分、本当にいつも通りなんだろうけど、そのいつも通りが知りたいと思った。

「須野はなんの仕事してんの。ぷー太郎?」

「ぷーではないけど、まぁそれに近いフリーターってところかな」

「じゃあ、あれだ夢追い人だ。何かなりたいものとかあるの?」

「そりゃあ、あるさ。まずは水原キコ、次に石原さとりに新垣唯、次に田中マルクス闘莉王、木とか数えればきりがないくらいに」

田中マルクス闘莉王

「逆に、お前はなりたいものとかないの?」

「特にないなぁ」

 確かにガッキーにはなってみたいけども、あくまで憧れの存在だ。ガッキーの顔になってもやりたい事はない。

「というか、それは本当になりたいものなのかい。WISHなんじゃないの? HOPEではなく。俺が聞きたいのはHOPEの方のなりたいもんだよ。何か目指しているものとかないの?」

「バンドマンになってヒモになる!(音楽で飯を食う!)」

須野が即答した言葉は、私からしてみれば現実離れしていて聞いた瞬間は違う言語かと思った。やっと脳が追いついた時に自然と口角が上がっている事に気付いた。これは納得から出てきた安心の笑みだ。

「なるほど、なるほど。確かに須野は音楽が好きだったし、ギターが家に会ったなぁ。今日もバンドTシャツ来ているし。楽器は何やってんの?」

「ギターボーカルやってんだ。俺はやってやる。こっちでは芽が出なかったけど、向こうはロックがヒットチャートを独占しているらしいからな。出来ない事じゃないと思う」

 私は彼が移住する理由を持っていることに驚き、心を動かされた。私は理由を持っていないが、持ちたいと思った。が、それは到底無理な話だ。自分自身がよく理解している。

 

 移住日の朝、起きると蚊に刺されていた。夜中に一度目が覚めて薬を塗った事は覚えているが、窓は開けっぱなしで占めるのを忘れていた。香取ベープのスイッチは入っていたのだが、駄目みたいだった。

 夏の朝は涼しい。日が昇り切らないうちに家を出ると嘘みたいに清々しい空気が肺の中に入ってきた。

 一度市役所に集まり、バスで国境近くにある検問所を経て、入国することになる。ガイダンスで説明された事なのだが、海外旅行と同じようでいて大きく違う点が二つある。入国できるのは移住を前提とした者のみである事と、もう一つは忘れてしまった。すぐ忘れる癖は直した方が良い。

 市役所まで歩いていると、同級生が住んでいた家が売りに出されていた。彼も移住したのだ。もしかしたら、向こうで会えるかもしれない。そう思うと気分が晴れた。犬の散歩をしている女とすれ違い、小さな公園を横切るとラジオ体操をしている小学生たちが見えた。

 坂道を登っていると、小学生が自転車のペダルから脚を放し、涼しい風を思う存分感じながら下って行った。

 冬には剥き出しの枝を見せていた木々も、緑色の葉に太陽の光を反射していた。横断歩道を渡っていると、葬式の案内用看板が置いてあるのに気付いた。久しぶりに見た。

 途中で須野に会った。どうせなら一緒に行こうという事になった。彼は私が背負っている荷物を訝しげに見つめてから前を歩き始めた。散歩ほど歩いたところで的を射抜くように短く息を吐いた。

 市役所に集合時間ギリギリに到着した。職員に名前を告げると私と彼が最後らしかった。職員が号令をかけ、今日の予定を話し始めた。その時に、ようやく、誰も荷物を持ってきていない事に気付いた。隣にいる彼に尋ねると、荷物は持ち込めないから誰も持ってきていないという事だった。なんで教えてくれなかったのかと聞くと、聞かれなかったしガイダンスで言っていた、と返ってきた。そうなんだ、と理解した。

私は荷物をどうするか決めかね、職員に聞いて、そこに置いておいてくれれば処理します、と言われたので、自販機の横に荷物を置いた。自分の好きな小説、自分の好きな音楽、自分の好きな漫画、家族の写真、自分が気に入ったいる服、自分が気に入っている雑貨、それらを詰め込んだ登山用の大きなリュックを音を立てずに置いた。バスに乗り込んだ。

 

 

 

 

書くのって難しい。隣国は黄泉の国をイメージした。つまりこいつらは集団で黄泉の国に行こうとしている訳でな。

これを書こうと思ったのは、成人式に友達が来れなかった事と、座間の集団自殺事件(今調べたら自殺志望者を集めて殺人していた事件だった)があったからなんですよね。

しかもツイッターを使って連絡していたっているもんだから、SNSって怖い所もあるよなって思ったので。

それに自己責任だっていう意見もあって、それでもやっぱり僕はなんだかなぁと思うんですよねぇ。死んでいるのに責任も糞もないのに誰に向かって呟いているんでしょうか(ここらへん、僕もよく覚えていない。けど、そういう人だって不安を持っているんだろうと根拠もなく思っているのは俺がネガティブなせい?書いたの二月だもん、動機を覚えてられないし、この理由だってもしかしたら分かりやすいように曲げてしまったかもしれないもん。駄目だなぁ)。タイトルですけど、ないがいっていうんですよね。内外と無い外と無い害でないがいです。けど、この分け方は良く無いのかもしれない。2つに分けるのは理解とか考えやすくなるけど、どちらにも属さない何かが出てくるから。男と女と中性の方とかみたいに。知らないうちに排除してしまうのは嫌だから。

 

多分さ、最後の部分で握りこぶしを作ったとか書けば、ああこいつは何らかの感情を持ったんだと分かるけど、実際さ裏切られたわけじゃないし全部自分のせいだから、けど自分を否定したくないから書けなかったんだよ俺は